現在の三十三間堂での
通し矢成人を迎える射手が弓を引く
三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)は京都市東山区にある仏堂。建物の正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)。同じ京都市東山区にある天台宗妙法院の境外仏堂であり、同院が所有・管理している。元は後白河上皇が自身の離宮内に創建した仏堂。本尊は千手観音で、蓮華王院は千手観音の別称・蓮華王に由来する。
この地には、もともと後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿があった。その広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂、今に言う三十三間堂である。
上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて旧暦の長寛2年12月17日(西暦1165年1月30日)に完成したという。創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったが、建長元年(1249年)の火災で焼失した。文永3年(1266年)に本堂のみが再建されている。現在「三十三間堂」と称される堂がそれであり、当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたという。建築様式は和様に属する。
桃山時代には、豊臣秀吉の東山大仏(方広寺)造営により、三十三間堂もその境内に含まれ、周囲の土塀や門などが整備された(『伽藍』の項参照)。
「三十三間堂」の名称は、間面記法による表記「三十三間四面」(#構造)に由来する。「33」は観音に縁のある数字で、『法華経』等に観音菩薩が33種の姿に変じて衆生を救うと説かれることによる。俗に「三十三間堂の仏の数は三万三千三十三体」というのは、本尊と脇仏の一千一体がそれぞれ33に化身するからである。
江戸時代には各藩の弓術家により本堂西軒下(長さ約121m)で矢を射る「通し矢」の舞台となった。縁の北端に的を置き、縁の南端から軒天井に当たらぬよう矢を射抜くのである(右上浮世絵画像参照)。「通し矢」の名もこの「軒下を通す」ということからきている。強弓を強く射なければ到底軒下を射通すことができない。それゆえ弓術家の名誉となったのである。その伝統に因み、現在は「楊枝のお加持」大法要と同日(1月中旬)に、本堂西側の射程60mの特設射場で矢を射る「三十三間堂大的全国大会」が行われる。弓道をたしなむ新成人参加者が振袖袴姿で行射する場面は、しばしばニュース番組等で取り上げられる。一般的には「通し矢」と呼ばれているが、60mは弓道競技の「遠的」の射程であり、軒高による制限もないから、かつての通し矢とはまったく違うものである。
三十三間堂について次のような伝承がある。後白河上皇は長年頭痛に悩まされていた。熊野参詣の折にその旨を祈願すると、熊野権現から「洛陽因幡堂の薬師如来に祈れ」とお告げがあった。そこで因幡堂に参詣すると、上皇の夢に僧が現れ「上皇の前世は熊野の蓮華坊という僧侶で、仏道修行の功徳によって天皇に生まれ変わった。しかし、その蓮華坊の髑髏が岩田川の底に沈んでいて、その目穴から柳が生え、風が吹くと髑髏が動くので上皇の頭が痛むのである」と告げた。上皇が岩田川(現在の富田川)を調べさせるとお告げの通りであったので、三十三間堂の千手観音の中に髑髏を納め、柳の木を梁に使ったところ、上皇の頭痛は治ったという。「蓮華王院」という名前は前世の蓮華坊の名から取ったものであるという。この伝承により「頭痛封じの寺」として崇敬を受けるようになり、「頭痛山平癒寺」と俗称された。
なお、これより前、後白河上皇の父・鳥羽上皇は平忠盛の寄進により、鴨東白河に聖観音をまつる得長寿院の千体堂を営んでいる。2人の上皇がいずれも平氏の棟梁の寄進によりこうした長堂を造営していることは、平氏隆盛の一因として留意する必要がある。
「三十三間」の由来と構造[編集]
三十三間堂の名称は、本堂が間面記法で「三十三間四面」となることに由来する。これは桁行三十三間[1]の周囲四面に一間の庇(廂)を巡らせたという意味である。つまり柱間が33あるのは本堂の内陣(母屋・身舎)で、建物外部から見る柱間は35ある。正面に7間の向拝を付けるが、これは慶安2〜4年頃の増築である。
ここで言う「間」(けん)は長さの単位ではなく、社寺建築の柱間の数を表す建築用語である。三十三間堂の柱間寸法は一定ではなく[2]その柱間も今日柱間として使われる京間・中京間・田舎間のどれにも該当しない[3]。「三十三間堂の1間(柱間)は今日の2間(12尺)に相当する」として堂の全長は33×2×1.818で約120m、と説明されることがあるが、これは柱間長についても、柱間数についても誤りである(ただし実際の外縁小口間の長さ約121mとほとんど一致する)。
国宝。現在の堂は文永3年(1266年)に完成したもので、洛中にある建物の中では大報恩寺本堂に次いで古く、洛中で鎌倉時代にまで遡る建物はこの2棟のみである。入母屋造、本瓦葺き、桁行35間、梁間5間とする。実長は桁行が118.2メートル、梁間が16.4メートルである。軒は二軒繁垂木(ふたのきしげだるき)、組物は出組(肘木を壁面から一手持ち出す)を用いる。柱間装置は正面はすべて板扉、側面は最前方の一間のみ板扉で他は連子窓、背面は5か所に板扉を設け、他を連子窓とする。正面中央に7間の向拝を設ける。現状の向拝は慶安3年(1650年)のものであるが、後白河上皇による創建当初から現状のような形式の向拝が取り付いていたとみられる。内部は板敷で、桁行33間、梁間3間の身舎(もや)の四方に1間幅の庇を設けた形になる。身舎が内陣すなわち仏像を安置する空間にあたる。内陣は中央の桁行3間分を内々陣とし、本尊千手観音坐像を安置する。その左右、各桁行15間分は10段の階段状の長大な仏壇とし、千手観音立像1,000躯を安置する(千手観音立像は他に本尊の背後にもう1躯ある)。天井は内々陣部分が折上げ組入天井、左右の部分は二重虹梁蟇股(にじゅうこうりょう かえるまた)に化粧屋根裏(天井板を張らず、垂木を見せる)とする。庇部分(背面を除く)は各側柱(建物外周に立つ柱)から身舎柱へ繋梁を上下二重に渡す。各身舎柱間を飛貫(ひぬき、頭貫の一段下に位置する水平貫通材)で繋ぐこと、繋梁のうち下段のものが身舎柱を貫いて突出し、その部分に大仏様(よう)の木鼻(装飾的な彫り)を設けることなどが特色である。これらの特色は鎌倉時代の新たな工法を示すものである。現状では堂の内外に彩色はみられないが、1930年の修理時に、虹梁下面に貼付された装飾鏡の座をはずした下から極彩色の文様が現れ、建立当初の堂は彩色でおおわれていたことが判明した。[4]
その他[編集]
- 築地塀(太閤塀)(重要文化財) - 桃山時代、本瓦葺。豊臣秀吉によって寄進された築地塀。方広寺大仏殿が創建された時、蓮華王院も方広寺の境内に含まれたためその工事に伴って築造された。修理の際に「天正十六年‥‥大ふつ殿瓦」と刻んだ瓦が発見されている。軒丸瓦には豊臣家の桐紋が見られる。かつては西にも存在したが、現在は南の塀のみ残っている。塀は高さ5.3m、長さ92mに及ぶ桃山期の豪壮さを示す建造物である。
- 南大門(重要文化財)- 桃山時代、 切妻造、本瓦葺、三間一戸の八脚門。虹梁の刻銘により豊臣秀頼が慶長5年に新築したものと推測されている。かつては西大門もあったが、明治期に東寺の南大門(現存・重文)として移築されている。
堂内の諸仏[編集]
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この節には、JIS X 0213:2004 で規定されている文字(足枘台座等ニ建長の2文字目、鈸子の1文字目、摩睺羅(「ご」は目偏に「侯」)の2文字目)が含まれています(詳細)。 |
堂内中央に本尊千手観音坐像を安置。その左右には長大な階段状の仏壇があり、1,000体の千手観音立像が各10段50列に並ぶ。千手観音立像は本尊の背後にも1体あり、計1,001体である。内陣の左右両端には向かって左(南端)に風神像、右(北端)に雷神像を安置。千体仏の手前には二十八部衆像が横一列に並ぶ。ただし、二十八部衆像のうち四天王像4体は本尊の周囲に配置されている。昭和12年から20年計画で責任者の新納忠之介を中心に全1001体の修理が行われた[5]。昭和48年から美術院国宝修理所によって全1001体の修理が行われている[6]。
- 木造千手観音坐像(附 木造天蓋)
- 国宝。寄木造、漆箔、玉眼。十一面四十二臂に表す通有の千手観音像である。像本体の高さは334.8センチ、台座や光背を含めた全体の高さは7メートルを超える。台座心棒の墨書から、作者は大仏師法印湛慶、小仏師法眼康円および小仏師法眼康清であり、建長3年(1251年)に造り始め、同6年(1254年)に完成したことがわかる。湛慶の名の後に「生年八十二」とあり、湛慶がこの時82歳であったこと、生年が逆算して承安3年(1173年)であったことがわかる。この銘記は慶安4年(1651年)の修理時に書かれたものであるが、像内の腰のあたりにある仕切り板に朱書された造像当初の銘記(現状では剥落が多く全文は不明)を忠実に写したものと考えられている。本像は保存状態がよく、後世に補作されることの多い台座、光背、天蓋も、本像の場合は当初のものが残っている。光背は宝相華文透彫の上に、観音三十三応現身を表したものである。三十三応現身とは、法華経観世音菩薩普門品に説くもので、観音が衆生救済のために33種の姿に変じて現れる姿をいう。[7]
- 木造千手観音立像(1,001躯)
- 重要文化財。寄木造または割矧ぎ造、漆箔。玉眼を用いた像は5躯のみ。像高は166 - 167cm前後[8]。1,001躯のうち876躯は鎌倉復興期の作で、建長元年 (1249) の火災の際、救い出された平安期の像は124躯である(他に室町時代に追加された像が1躯(32号像)だけある)。平安時代の像は作者不明だが、鎌倉復興像は二百数十躯に作者銘があり、湛慶をはじめ慶派、院派、円派など、当時の主要な仏師たちが総出で造像にあたったことがわかる。重要文化財指定名称のト書きには「足枘台座等ニ建長、弘長、文永等ノ年記並ニ湛慶、康円、隆円、院恵、院賀、院永、昌円、栄円、院豪、勢円、院祚、院海、院有、院玄、院遍等の銘記アリ」とある。各像の内部には像内納入品がある。主要な納入品は千手観音種子月輪牌(檜材製)、千手観音および二十八部衆摺仏、千手観音陀羅尼などで、摺仏や陀羅尼の紙片を多数折りたたみ、これに木牌を添えていた。他に阿弥陀如来の摺仏、願文、毛髪などの納入品も確認されている。昭和の修理時にこれら納入品の一部は取り出されたが、納入状況の確認のみを行って、取り出されなかったものも多く、全容は未詳である。[9][10][11]
- 1,001躯のうちの5躯は東京・京都・奈良の国立博物館に寄託されている[12]。
- 兵庫県・朝光寺本尊である2躯の千手観音菩薩立像のうち1躯は三十三間堂の観音像と様式が一致し、当堂から移されたものと推定されている。
- 木造風神・雷神像
- 鎌倉復興期の作。堂内左右端に安置。風袋と太鼓をそれぞれ持った風神・雷神像の姿をユーモラスに表したこれらの像は、俵屋宗達の『風神雷神図屏風』のモデルになったともいわれる。寄木造、彩色、玉眼。像高は風神が111.5センチ、雷神が100.0センチ。風神は風袋を負い、右膝を突き、左膝を立てる。手指は4本、足指は2本である。雷神は連鼓を負い、両手にそれぞれ桴(ばち)を持ち、風神とは対称的に左膝を突き、右膝を立てる。手指は3本、足指は2本である。風神雷神の図像は中国由来のもので、敦煌莫高窟第249窟(西魏、6世紀前半)には阿修羅像と並んで風神雷神像がみえる。日本における風神雷神の彫像としては三十三間堂像が最古のものである。[13]
- 木造二十八部衆立像
- 寄木造、彩色、玉眼。像高は最大の大梵天が169.7センチ、最少の摩和羅女が153.6センチ。『一代要記』には、建長元年(1249年)の火災では二十八部衆像は救い出されたことになっているが、現存の像は技法・様式から鎌倉復興期の作とみなされている。二十八部衆は、千手観音の眷属であり、千手観音を信仰する者を守護するとされている。28体の中には四天王、金剛力士(仁王)のようになじみ深いものと、金大王、満仙王のように由来のはっきりしないものとが混在する。『千手観音造次第法儀軌』という経典に基づく造像とされるが、三十三間堂の各像の名称は必ずしも経典と一致していない。また、図像的にみて、寺伝による像名が必ずしも本来の像名でない例もみられる。これらの像は本来は本尊像の両脇を取り囲む群像として安置されていたものであるが、近代になって堂の西裏の廊下に一列に安置されるようになり、20世紀末に現在のように千体仏の前面に配置されるようになった。やせ衰えた老人の肉体をリアルに描写しつつ、崇高さを失わない婆藪仙人(ばすせんにん)像は28体の中でもよく知られている。
- 以下の表は、二十八部衆像の像容、特色等をまとめたもので、堂内北側から、安置されている順番に配列している。[14]
寺伝による名称 |
読み方 |
像容 |
特色 |
那羅延堅固 |
ならえんけんご |
上半身裸形の力士形、開口し、右手は掌を開いて下げ、左手は肩の辺に上げ拳をつくる |
金剛力士(仁王)の阿形に相当 |
大弁功徳天 |
だいべんくどくてん |
唐装の女神(じょしん)、両手を胸の辺に上げる、元は右手に剣、左手に宝珠を持つか |
吉祥天と同一視される、福徳を与える女神 |
緊那羅王 |
きんならおう |
腹前に羯鼓(かっこ、後補)を構え、両手で叩く動作をする |
八部衆の一、音楽神、毘沙門天の眷属ともいう |
金色孔雀王 |
こんじきくじゃくおう |
武装像、右手は体側に下げ、左手は胸辺で剣(後補)を縦に構える |
毒蛇を食う孔雀を神格化したもの |
大梵天 |
だいぼんてん |
唐装、右手は胸辺に上げ(持物欠)、左手は下げ掌に小壺を載せる |
一般には「梵天」といい、帝釈天と一対で安置されることが多い。古代インドのブラフマーに由来。 |
乾闥婆王 |
けんだつばおう |
上半身裸形、右手は肩の辺に上げ輪宝(後補)を捧げ持ち、左手は胸辺に上げる(持物欠) |
八部衆の一、音楽神、天空の神酒の番人 |
満善車王 |
まんぜんしゃおう |
武装像、両手を胸の辺に上げ、右手に小槌、左手に蛇を持つ |
夜叉の王 |
沙羯羅竜王 |
しゃがらりゅうおう |
武装像、頭上に5匹の蛇があり、右手に剣、左手に蛇(後補)を持つ |
水中に棲む竜王 |
金大王 |
こんだいおう |
武装像、右手は胸の辺に上げ独鈷杵(後補)を持ち、左手は腰にあてる |
由来不明 |
金毘羅王 |
こんぴらおう |
武装像、冑を被り、両手を腰の辺で構え、右手に矢、左手に弓を持つ |
魚神・海神、原語クンビーラは鰐の意。 |
五部浄居天 |
ごぶじょうごてん |
武装像、腹前で両腕を交叉させ、左手に短刀(柄のみ当初のもの)を持ち、右手は太刀(後補)を地面に突く |
詳細不明、色界の最上天に住するという、天竜八部衆の「天」に相当か |
神母天 |
じんもてん |
女神、両手を胸の辺に上げ、鈸子(ばっし、シンバルに似た楽器、後補)を持つ |
鬼子母神(訶梨帝母)と同体 |
東方天 |
とうほうてん |
武装像、右手は振り上げ、剣または独鈷を持つ構え、左手は腰にあてる |
四天王の一で東方を守護。一般には「持国天」という。 |
毘楼勒叉天 |
びるろくしゃてん |
武装像、右手は肩辺に上げ独鈷杵(後補)を持ち、左手は体側に下げる |
四天王の一で南方を守護。一般には「増長天」という。 |
毘楼博叉天 |
びるばくしゃてん |
武装像、冑を被り、右手は腰前に構え独鈷杵(後補)を持ち、左手で戟(後補)を支える |
四天王の一で西方を守護。一般には「広目天」という。 |
毘沙門天 |
びしゃもんてん |
武装像、右手で戟(後補)を支え、左手に宝塔(後補)を捧げる |
四天王の一。北方を守護。 |
迦楼羅王 |
かるらおう |
半人半鳥の異形、横笛を吹き、右足のつま先を上げてリズムを取る姿で表す |
八部衆の一、金翅鳥の化身 |
摩和羅女 |
まわらにょ |
俗形の老女、合掌する姿に表す |
詳細不明。儀軌にみえる薩遮摩和羅か。千手観音信者を守護するという。 |
難陀竜王 |
なんだりゅうおう |
武装像、両手で竜の体部を支える |
海に住む竜王 |
婆藪仙人 |
ばす(う)せんにん |
上半身裸形の老人、右手で杖(後補)をつき、右腕の上に左腕を乗せ、経巻(後補)を持つ |
詳細不明。殺生の罪で地獄に墜ちたが、釈尊に救われたという。 |
摩醯首羅王 |
まけいしゅらおう |
上半身裸形、右手は肩の高さで掌を開き、左手は頂部に鳥の付いた杖(後補)を支える |
別名大自在天。シヴァ神に由来するという。 |
畢婆迦羅王 |
ひばからおう(びばから、ひっぱから) |
武装像、右手は腰辺に構え、左手は剣または独鈷を執る構えとする |
山の神ともいい、十二神将の毘羯羅大将と同じともいう。 |
阿修羅王 |
あしゅらおう |
三面六臂の異形 |
八部衆の一。戦闘神。 |
帝釈天 |
たいしゃくてん |
衣の下に甲を着する、右手に宝鏡(後補)を持ち、左手は腰辺に構える |
梵天と一対で安置されることが多い。インドのインドラ神に由来。 |
散脂大将 |
さんじたいしょう |
武装像、顔面が裂け、中から別の顔が現れる異相、右手は振り上げ剣(後補)を持ち、左手は腰辺に構える |
夜叉の王ともいい、鬼子母神の夫ともいう。 |
満仙王 |
まんせんおう |
武装像、右手は腰辺に構え独鈷杵(後補)を持ち、左手で戟(後補)を支える |
詳細不明、満善車王と重複とも |
摩睺羅王 |
まごらおう |
五眼をもつ異相、琵琶(後補)を弾く姿に表す、頭上に蛇が乗る |
八部衆の一、蛇神、摩睺羅伽王とも |
密迹金剛 |
みっしゃこんごう |
上半身裸形の力士形、閉口、右手は腹の高さに上げ掌を開き、左手は腰の辺で拳をつくる |
金剛力士(仁王)像のうちの吽形像に相当。 |
文化財一覧[編集]
本尊千手観音坐像のかつての安置状況。この写真では二十八部衆像が本尊の左右に安置されており、現在の安置状況とは異なる。
以下の指定文化財の所有者は妙法院(京都市東山区妙法院前側町)である。
- 本堂
- 木造千手観音坐像(附:木造天蓋)
- 木造風神・雷神像
- 木造二十八部衆立像
重要文化財[編集]
- 南大門
- 築地塀(太閤塀)
- 木造千手観音立像(1,001躯)
- 洛陽三十三所観音霊場
- 16 仲源寺 -- 17 三十三間堂 -- 18 善能寺
所在地[編集]
交通アクセス[編集]
その他[編集]
- 蓮華王院五重塔 - 1178年(治承2年)後白河上皇の発願で建立。1249年(建長元年)焼失した。
周辺情報[編集]
- ^ 間面記法で梁間は通常二間を前提とするため記載されないが、三十三間堂は三間である。
- ^ 柱心間は中央が一番広く3.95m、続いてその左右の柱間が3.65m、残りの32の柱間は3.30m。
- ^ 入江康平 (2007). “競技場としての堂射施設に関する研究”. 武道学研究 40 (2): 37-50.
- ^ 『週刊朝日百科 日本の国宝』69(朝日新聞社、1998)、p.7 - 259 - 7 - 260(筆者は平井俊行)
- ^ 美術院と歩んだ半世紀
- ^ 千の道、こつこつ 千体千手観音の修理、9割完了 京都
- ^ 『週刊朝日百科 日本の国宝』69(朝日新聞社、1998)、p.7 - 262 - 7 - 264(筆者は根立研介)
- ^ 像高は久野健編『図説仏像巡礼事典』によれば165.0 - 168.5センチ、『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記編 総目録』によれば163.7 - 168.5センチ
- ^ 1,001躯の観音像には整理番号が付されている。堂内向かって左端の最上段の像が1号像、左端の最下段の像が10号像、右端の最上段の像が991号像、右端の最下段の像が1,000号像である。唯一室町時代の補作とされているのは32号像である。
- ^ 『日本彫刻史基礎資料集成 鎌倉時代 造像銘記編 総目録』(参照:[1])
- ^ 倉田文作「像内納入品」『日本の美術』86、至文堂、1973、pp.76 - 77
- ^ 20号像(湛慶作)が奈良、30号像(湛慶作)が京都、40号像(湛慶作)、493号像(院承作)、504号像(隆円作)が東京の国立博物館に寄託されている。
- ^ 『週刊朝日百科 日本の国宝』69(朝日新聞社、1998)、p.7 - 274 - 7 - 275(筆者は川瀬由照)
- ^ 本表作成には以下の資料を参考にした。
- 『古寺巡礼 京都14 妙法院・三十三間堂』(淡交社)
- 『週刊朝日百科 日本の国宝69 妙法院 青蓮院』(朝日新聞社)
- 『三十三間堂の佛たち』(妙法院門跡)
- 伊東史朗「八部衆・二十八部衆」『日本の美術』379号、至文社、1997
各像の持物が造像当初のものか後補のものかは『日本の美術』379号による。
参考文献[編集]
- 井上靖、塚本善隆監修、宇佐見英治、三崎義泉著『古寺巡礼京都14 妙法院・三十三間堂』、淡交社、1977
- 竹村俊則『昭和京都名所図会 洛東上』駸々堂、1980
- 『三十三間堂の佛たち』 三十三間堂本堂 妙法院門跡、1997
- 『週刊朝日百科 日本の国宝』69号(妙法院・青蓮院)、朝日新聞社、1998
- 梅原猛監修、菅原信海・みうらじゅん著『新版古寺巡礼京都18 妙法院・三十三間堂』、淡交社、2008
- 辞典類
- 『日本歴史地名大系 京都市の地名』、平凡社
- 『角川日本地名大辞典 京都府』、角川書店
- 『国史大辞典』、吉川弘文館
関連項目[編集]
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ウィキメディア・コモンズには、三十三間堂に関連するカテゴリがあります。 |