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牧野 富太郎(まきの とみたろう、1862年5月22日(文久2年4月24日) - 1957年(昭和32年)1月18日)は、日本の植物学者。高知県高岡郡佐川町出身。
「日本の植物学の父」といわれ、多数の新種を発見し命名も行った近代植物分類学の権威である。その研究成果は50万点もの標本や観察記録、そして『牧野日本植物図鑑』に代表される多数の著作として残っている。小学校中退でありながら理学博士の学位も得て、生まれた日は「植物学の日」に制定された。
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生涯[編集]
1862年(文久2年)、土佐国佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)の裕福な商家に生まれ、幼少のころから植物に興味を示していた。
10歳より寺子屋、さらに塾で学び、その後12歳で小学校へも入学したものの2年で中退し、好きな植物採集にあけくれる生活を送るようになる。小学校を中退した理由として、酒屋だったので、小学校で学業を修め、それで身を立てることは全く考えていなかったからだと述べている[1]。
酒屋は祖母と番頭に任せ(両親は早くになくなった)、地元の学校の教師などから英語を学び、気ままな生活を送っていた[1]。植物の採集、写生、観察など研究を続けながら、欧米の植物学も勉強し、当時の著名な学者の知己も得るようになる。書籍や顕微鏡が欲しくなるなど研究心が固まった牧野は19歳の時、お供を2人連れて上京した[1]。
22歳の時には東京帝国大学(現東大)理学部植物学教室に出入りするようになり、やがて25歳で、共同で『植物学雑誌』[1]を創刊した。その後、26歳でかねてから構想していた『日本植物志図篇』の刊行を自費で始めた。今で言う植物図鑑のはしりである。それから牧野は東京と郷里を往復しながら研究者の地位を確立していくが、同時に家産も傾いて行った[1]。
27歳で新種のヤマトグサに学名をつけ、『植物学雑誌』に発表した。1890年(明治23年)、28歳のときに東京の小岩で、分類の困難なヤナギ科植物の花の標本採集中にみなれない水草を採集する機会を得た。これは世界的に点々と隔離分布するムジナモの日本での新発見であり、そのことを自ら正式な学術論文で世界に報告したことで、世界的に名を知られるようになる。
31歳で帝国大学理科大学の助手となったが、その時には生家は完全に没落していた[1]。その後も各地で採集しながら植物の研究を続け、多数の標本や著作を残していく。ただ、学歴の無いことと、大学所蔵文献の使用方法(研究に熱中するあまり、参照用に借り出したままなかなか返却しないなど)による研究室の人々との軋轢もあり厚遇はされず[1]、経済的にも苦しかった。
1926年(大正15年)には津村順天堂(現、ツムラ)の協力を得て、『植物研究雑誌』[2]を創刊した。
1912年(大正元年)から1939年(昭和14年)まで東京帝国大学理科大学講師。1927年4月(昭和2年) 東京帝国大学から理学博士。論文の題は 「日本植物考察(英文)」
65歳で東京大学から理学博士の学位を授与され、同年に発見した新種の笹に翌年亡くなった妻の名をとって「スエコザサ」と名付けた。78歳で研究の集大成である「牧野日本植物図鑑」を刊行、この本は改訂を重ねながら現在も販売されている。
1950年(昭和25年)、日本学士院会員。1951年(昭和26年)、89歳のとき、第1回の文化功労者となる。1953年(昭和28年)、東京都名誉都民。
1957年(昭和32年)、94歳で死去、没後従三位に叙され、勲二等旭日重光章と文化勲章を授与された。墓所は東京都台東区谷中の天王寺。
2009年(平成21年)の映画『黄金花』で富太郎をモデルにした”牧老人”を原田芳雄が演じた。
逸話[編集]
- 植物だけではなく鉱物にも興味をもち、音楽については自ら指揮をとり演奏会も開き、郷里の音楽教育の振興にも尽力した。
- 植物研究のため、造り酒屋であった実家の財産を使ったが[1]、東京に出る際に親戚に譲った。後に困窮し、やむなく妻が始めた料亭の収益も研究につぎ込んだという。その料亭の件や、当時の大学の権威を無視した出版などが元で大学を追われたこともある。しかし、学内には富太郎の植物に対する情熱とその業績を高く評価する者も多く、78歳まで実に47年のあいだ、東大植物学教室になくてはならない講師として日本の植物学に貢献した。
- 富太郎の金銭感覚の欠如や、周囲の人にたいする彼の振る舞いにまつわる逸話は多い。しかし富太郎を追い出した松村任三自身、若き日研究に邁進する余り、周囲に対する配慮を欠いていたことを認めている。後年、富太郎は松村が明治初頭の植物学の第一の功労者であり、東大植物学教室の基礎を築いた人であると賞讃した。
- 尾瀬で植物採集した際にあまりに植物を採ったため、尾瀬の保護運動の一人者であった平野長蔵が研究するだけでなく保護を考えろと叱ったというエピソードがある。
田中芳男と牧野富太郎[編集]
富太郎は1883年(明治16年)、第2回内国勧業博覧会見学のため上京し、その際、文部省博物局を訪ね、田中芳男と小野職愨に小石川植物園を案内してもらっている。まだ無名の富太郎が、3年後にコーネル大学に留学した東京大学理学部植物学教室の誇り高き教授、矢田部良吉の許しを得て、この教室に出入り出来るようになったのは、田中芳男と田中の師である伊藤圭介の力があった。
博物館行政や多くの勧業殖産に貢献し、後に貴族院議員になった田中と富太郎は本の貸し借りをするなど親しく交友があり、それは24歳年上の田中が亡くなるまで続いた。
発見、命名した植物[編集]
命名は2500種以上(新種1000、新変種1500)とされる。自らの新種発見も600種余りとされる。
- 発見、命名した植物の例
- ムジナモ、センダイヤザクラ、トサトラフタケ、ヨコグラツクバネ、アオテンナンショウ、コオロギラン、スエコザサ
和名については、ワルナスビやノボロギクのような、当該植物種の性質を短い言葉で巧く言い表しているものもある一方で、ハキダメギクなど発見場所をつけただけの命名もある。イヌノフグリのように意味を考えると(犬の陰嚢の意ゆえ)、少々破廉恥なものもあるが、この植物の場合、もとは和歌山県における同種の方言からとったものではある。
亡き妻の名を冠したスエコザサのエピソードはよく知られているが、富太郎からすればこうした学問の場以外の私情をはさんだ献名は例外的であった。
また、生き別れになった愛人・お滝を偲んでアジサイにHydorangea macrophylla Sieb. var. otakusaの学名を命名したシーボルトについて、otakusaの由来をシーボルトは日本での地方名だと著書にのべていたものが事実に反し、お滝に献名したものであることを突き止めたのも富太郎である。
近年の著書[編集]
- 『牧野富太郎植物記』(全8巻、中村浩編、あかね書房 1973-74)
- 『植物知識』講談社学術文庫、1981
- 『牧野新日本植物図鑑』(北隆館、1996年
- 『原色牧野日本植物図鑑』(全3巻、北隆館 2000)
- 『植物一家言 草と木は天の恵み』小山鐵夫監修 北隆館 2000
- 『牧野植物随筆』講談社学術文庫、2002
- 『牧野富太郎自叙伝』講談社学術文庫、2004
- 『牧野富太郎選集』全5巻 学術出版会 2008
- 『植物一日一題』2008 ちくま学芸文庫
- 『牧野富太郎植物のはなし』 1 中村浩編 草土文化 2010
- 『花物語 続植物記』(ちくま学芸文庫、2010年)
伝記など[編集]
- 上村登『牧野富太郎伝』六月社、1955 『花と恋して 牧野富太郎伝』高知新聞社
- 渋谷章『牧野富太郎 私は草木の精である』リブロポート シリーズ民間日本学者 1987 のち平凡社ライブラリー
- 武井近三郎『牧野富太郎博士からの手紙』高知新聞社 1992
- 俵浩三『牧野植物図鑑の謎』平凡社新書、1999
子供向け伝記[編集]
- 山本和夫『牧野富太郎 植物界の至宝』ポプラ社、1953 「牧野富太郎 花に恋して九十年」講談社火の鳥伝記文庫
- 中村浩『牧野富太郎』金子書房、1955
- 山本藤枝『牧野富太郎』偕成社 1959 児童伝記全集
- 高橋磌一『牧野富太郎』講談社 世界伝記全集 1960
- 佐藤七郎『牧野富太郎』国土社 少年伝記文庫 1962
- 神戸淳吉『牧野富太郎』潮出版社 1971 ポケット偉人伝
- 氷川瓏『牧野富太郎』子どもの伝記全集 ポプラ社 1977https://www.google.co.jp/search?q=%E6%B0%B7%E5%B7%9D%E7%93%8F&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=33PQUv2bH4r4lAX
- _64Bo&sqi=2&ved=0CFoQsAQ&biw=1366&bih=587
-
氷川瓏(ひかわ・ろう)
本名渡辺祐一。1913年(大2)、東京生まれ。渡辺剣次は実弟。ひかわ玲子は姪。東京商科大学卒。本名による著作もある。 1946年(昭21)、渡辺剣次編集の自筆同人誌に掲載されていた「乳母車」が江戸川乱歩の目にとまり、「宝石」に発表。 1950年(昭25)、「新青年」に掲載された木々高太郎主宰の文学派座談会「抜き打ち座談会」に参加するなど、文学派として活躍した。 1951年(昭26)に「宝石」に発表した「窓」が、探偵作家クラブの「探偵小説年鑑1952年版」に収録される。 1952年(昭27)、本名で「三田文学」に発表した「洞窟」は直木賞候補となる。 1953年(昭28)に「宝石」に発表した「睡蓮夫人」により、1954年(昭29)、第7回探偵作家クラブ賞の新人奨励賞受賞。同時に探偵作家クラブの「探偵小説年鑑1954年版」に収録される。 1956年(昭31)からは、大坪砂男とともに幹事となり、木々邸で文学派探偵作家を主として招いた新年会が催される。 1961年(昭36)、同人誌「文学造型」を主宰。 1963年(昭38)、木々高太郎を中心とし、白石潔、椿八郎、鷲尾三郎らとともに同人誌「詩と小説と評論」を創刊。 幻想的な探偵小説を得意としていたが、のちに純文学に転身。 昭和30年代には江戸川乱歩作品の子供向けリライトや「涙香死美人」など乱歩名義の翻案を手がけた。また、「野口英世」の伝記「帰国」を書いている。 1989年(平1)、心不全により死去。
- 谷真介『牧野富太郎 少年少女世界伝記全集』主婦の友社 1977
- 牧ひでを『牧野富太郎 母と子の世界の伝記』集英社 1978
- 林富士馬『牧野富太郎 植物を愛し研究しつづけた九十余年の生涯』新学社・全家研 1989 少年少女こころの伝記
小説[編集]
関連施設[編集]
- 高知県立牧野植物園
- 高知市五台山に、没後1年目の1958年(昭和33年)に富太郎の生前の希望も反映し開園した。敷地は6haに拡張され、1500種、13000株の植物がうえられている。開園当初は牧野の偉業を残し、観光植物園としての色彩が濃かったが、現在は有用植物に関する多くの研究者を擁し、世界的研究機関としての地位を築きつつある。
- 牧野富太郎資料展示室
- 高知県佐川町の佐川町総合文化センター内にある展示室で、富太郎の眼鏡や絵の具、所蔵本、手紙や墨書など遺品を多く収蔵している。
- 牧野富太郎記念館
- 上記、植物園内の付属施設で、本館と展示館の2つの建物にわかれる。本館には遺族から寄贈された蔵書約4万5000冊、直筆の原稿、写生画等、5万8000点が収められた牧野文庫を始め、植物に関する研究室などがある。展示館では博士の生涯に関する展示などがある。
- 建築設計は内藤廣による。
- 練馬区立牧野記念庭園
- 東京都練馬区東大泉の自宅跡地を一般公開したもの。340種あまりの植物が植えられ、記念館には遺族から寄託されている博士の遺品が展示されている。2010年(平成22年)8月に記念館と講習棟を改修し再オープンした。常設展示に加え企画展示室では関根雲停や服部雪斎の植物図展覧会や植物標本の展覧会が開催されている。
- 首都大学東京牧野標本館
- 没後、遺族から寄贈された40万点の標本が収蔵され、一部は画像データベース化され一般公開されている。富太郎が90年の生涯を掛けて採集した膨大な植物標本の整理には半世紀の時間を要した。
- 牧野富太郎句碑
- 広島県北広島町八幡(旧、芸北町内)の臥龍山麓八幡原公園に1999年、富太郎が詠んだ句碑が建立された。句碑に刻まれた句は、富太郎が1933年(昭和8年)にはじめて八幡を訪れた際、湿地一面に咲くカキツバタの自生地をみて感激し詠んだものとされる。
脚注[編集]
- ^ a b c d e f g 天野郁夫 『学歴の社会史…教育と日本の近代』 平凡社〈平凡社ライブラリー〉(原著2005年1月6日)、初版、pp. 85-88。ISBN 4582765262。2009年1月22日閲覧。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
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佐川町
さかわちょう 佐川町 | |
---|---|
国 | 日本 |
地方 | 四国地方 中国・四国地方 |
都道府県 | 高知県 |
郡 | 高岡郡 |
団体コード | 39402-5 |
面積 | 100.84 km² |
総人口 | 13,458人 (推計人口、2013年12月1日) |
人口密度 | 133人/km² |
隣接自治体 | 土佐市、須崎市、高岡郡越知町、日高村、津野町 |
町の木 | ワカキノサクラ |
町の花 | サカワサイシン |
町の鳥 | カワセミ |
佐川町役場 | |
所在地 | 〒789-1292 高知県高岡郡佐川町甲1650番地2 佐川町役場庁舎(2008年3月) |
外部リンク | 佐川町公式ホームページ |
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地理[編集]
高知県の中西部、仁淀川の支流である柳瀬川沿いに開けた盆地の町。国道33号が東西に、JR土讃線が東から南に抜けている。
- 山: 虚空蔵山、蟠蛇森
- 河川: 柳瀬川
隣接している自治体[編集]
歴史[編集]
沿革[編集]
- 1889年(明治22年) - 市町村制施行により、佐川村が成立。
- 1900年(明治33年) - 町制を施行。
- 1954年(昭和29年) - 斗賀野村、尾川村、黒岩村を合併。旧黒岩村の一部を越知町へ編入。
- 1955年(昭和30年) - 加茂村の一部を合併。
- 1958年(昭和33年) - 旧尾川村の一部を越知町へ編入。
行政[編集]
町長[編集]
経済[編集]
主な産業[編集]
- 農業
- 林業
- 製造業(酒造)
姉妹都市・提携都市[編集]
国内[編集]
地域[編集]
人口[編集]
佐川町と全国の年齢別人口分布(2005年) | 佐川町の年齢・男女別人口分布(2005年) | |||||||||||||||||||||||||||
■紫色 ― 佐川町 ■緑色 ― 日本全国
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■青色 ― 男性 ■赤色 ― 女性
|
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佐川町(に該当する地域)の人口の推移
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総務省統計局 国勢調査より |
教育[編集]
高等学校[編集]
中学校[編集]
- 日高村佐川町学校組合立加茂中学校
- 佐川町立佐川中学校
- 佐川町立尾川中学校
- 佐川町立黒岩中学校
小学校[編集]
- 日高村佐川町学校組合立加茂小学校
- 佐川町立佐川小学校
- 佐川町立斗賀野小学校
- 佐川町立尾川小学校
- 佐川町立黒岩小学校
交通[編集]
鉄道路線[編集]
路線バス[編集]
道路[編集]
一般国道[編集]
都道府県道[編集]
主要地方道[編集]
一般県道[編集]
- 高知県道296号西佐川停車場線
- 高知県道297号岩目地西佐川停車場線
- 高知県道298号下山越知線
- 高知県道299号庄田伊野線
- 高知県道300号柳瀬越知線
- 高知県道301号片岡庄田線
- 高知県道302号長者佐川線
- 高知県道307号佐川停車場線
- 高知県道308号本郷斗賀野停車場線
林道[編集]
- 虚空蔵林道(佐川わんぱく街道)
名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事[編集]
出身有名人[編集]
- 田中光顕(政治家)
- 尾崎清光(同和事件屋)
- 黒鉄ヒロシ(漫画家)
- 坂東眞砂子(作家)
- 広井勇(工学博士)
- 牧野富太郎(植物学者)
- 黒岩恒(博物学者)
- 森下雨村(編集者・作家)
- 森下一仁(SF作家)
- 渡辺智男(プロ野球選手)
- 吉村光示(プロサッカー選手)
- 山口智(プロサッカー選手)
- 小野大輔(声優)
- 谷本武士
- 楠木繁夫(流行歌手)
- 下八川圭祐(オペラ歌手)
外部リンク[編集]
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|
この「佐川町」は日本の市区町村に関連した書きかけ項目です。この記事を加筆・訂正などして下さる協力者を求めています(P:日本の都道府県/PJ:日本の市町村)。 |
土佐 佐川
確か、NHKテレビでこのブログにも
牧野富太郎記念館?
ぁつた
西尾邸の呼びかけの際、行っておればもっと、現実的な
P36から38
大阪 鳥羽屋 「重訂本草綱目啓蒙」全20巻 18歳の歳 佐川小学校
岸屋 辞令 授業生 月報三円
博物叢談 書いた論文
植物学の日
1862年のこの日、植物分類学者の牧野富太郎が、土佐国高岡郡佐川村西町組101番屋敷(現・佐川町)に生まれた。生家岸屋は名字帯刀を許された酒造業と雑貨商を営む裕福な商家である。幼少から父母を失い祖母浪子の手で養育された。明治7年、佐川町に小学校が開校されたので、下等一級に入学した。しかし授業に飽き足らず、明治8年退学。これが、彼が受けた正規の学校教育のすべてである。
この逸話は小学校を退学したころの話。その頃、近くに住む西村尚貞という医師が小野蘭山の「本草綱目啓蒙」の写本を数冊持っていた。富太郎はたのんでこれを借り、行燈の灯の下で、一心にこの端本を筆写した。この苦心して写した写本をたよりにして、採集してきた植物と照合し、名前を考定してみたが、それらの端本では、ないものが多くて用をなさなくなっていた。なんとかして、完本がほしいと祖母浪子に願ったところ、すでに富太郎の才能を見抜いていた浪子は、高価な「重訂本草綱目啓蒙」全20巻を、すぐに町の洋物屋の鳥羽屋へ命じて、大阪から取り寄せてもらった。牧野少年の喜びと感激は生涯忘れぬものとなった。祖母浪子は、牧野富太郎が26歳の明治20年5月6日、78歳で没した
内国勧業博覧会/p48
博覧会
博覧会(はくらんかい)は、物品や資料などを集めて一般公開する催しのこと。様々な物品を集めて展示する博覧会(国内博覧会)は、1798年、フランス革命の時期のパリで開催された。1849年までにパリで11回にわたり開催され、徐々に規模が大きくなっていった。同様の博覧会がベルギー、オランダなど各国でも開催されるようになると、1849年、フランスの首相が国際博覧会を提唱し、1851年に第1回国際博覧会がロンドンで開催されることになった。詳しくは『国際博覧会』を参照。以下において、日本における主な博覧会を歴史的に記述する。
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日本の博覧会の歴史[編集]
日本の博覧会前史[編集]
江戸時代の1757年(宝暦7年)、讃岐の平賀源内の提案、本草家田村藍水の主催で、江戸・湯島で薬品会が開催された。物産会は一般公開はされなかったが、全国から薬用になる動植物、鉱物を集めたもので、日本初の物産会であった。物産会はたびたび催され、1761年(宝暦11年)には湯島において源内主催の大規模な壬午の会が開かれた。
国際博覧会への参加[編集]
1867年(慶応3年)、第2回パリ万博に幕府および薩摩藩と佐賀藩から佐野常民らが参加し、出品した。また、水戸藩の徳川昭武、渋沢栄一らもパリに赴いた。1873年(明治6年)のウィーン万博には日本政府として初めて公式参加し、日本館を建設した。明治期の国際博覧会では日本の展示品が好評をもって迎えられ、日本ブーム(ジャポニスム)を広めた。
内国勧業博覧会など[編集]
近代日本では新しい文明の成果や他国の文化を人々に伝える啓蒙的な役割を果たすことになった。1871年(明治4年)、5月九段下の西洋医学所薬草園にて行われた大学南校主催の物産会(当初博覧会の名で企画されたが直前に物産会に名称変更)や10月京都の西本願寺で開催された京都博覧会(京都博覧会社主催)が国内の博覧会最初期のものである。同博覧会は以後も京都御苑などを会場に行われた。また廃仏毀釈によって荒廃した奈良でも1875年(明治8年)第一次奈良博覧会が東大寺大仏殿及び回廊を会場として県内寺社・個人所蔵の文化財を集めた異色の博覧会として開催されたが、こちらは正倉院御物などの複製を通じた伝統工芸に対する再評価の場となった。(奈良博覧会社により以後毎年第十五次まで開催) 東京では1877年(明治10年)に、上野公園で第1回内国勧業博覧会(政府主催)が開催された。内国勧業博覧会は以後、1881年(明治14年)上野、1890年(明治23年)上野、1895年(明治28年)京都、1903年(明治36年)大阪と5回が開催された。第5回の大阪での博覧会は初めて海外からの出品を許し、事実上、日本で初めての万国博覧会となった。[要出典][1]
上野公園では、その後も1907年(明治40年)に東京勧業博覧会、東京大正博覧会1914年(大正3年)、平和記念東京博覧会1922年(大正11年)と、東京府主催の大規模な博覧会が続いた。明治大正の博覧会場は、ほとんど東京か京都だったが、大阪・名古屋・仙台などでの開催例もある。
また、日本統治下に入った朝鮮と台湾でも、日本統治の成果を示すことを目的とした博覧会が開かれた。1915年(大正4年)に京城府(現在のソウル特別市)で開催された始政五年記念朝鮮物産共進会を始め、1929年(昭和4年)には同じく京城府で朝鮮博覧会、1935年(昭和10年)には台北で始政四十周年記念台湾博覧会が開催された。
紀元2600年万博と東京オリンピックの中止[編集]
昭和に入ると、日本で国際博覧会を開催しようとする機運が高まり、議会でも議論された。紀元2600年に当たる1940年(昭和15年)を期して日本で紀元2600年記念日本万国博覧会を開催することに決まった(1934年(昭和9年)に日本万国博覧協会創立)。また、東京オリンピックの同年開催も1936年(昭和11年)に決定し準備が進められた。しかし、日中戦争が激化したため、参加国の減少が見込まれたこと、及び軍部の反対により、1938年(昭和13年)に開催中止が決定した。
日本万国博覧会(大阪万博)[編集]
「人類の進歩と調和」をテーマに、1970年(昭和45年)、大阪府吹田市で開催された。77の国が参加したアジアで最初の国際博覧会であった。詳しくは『日本万国博覧会』を参照。
大阪万博以降の特別博覧会としては以下の3博覧会がある。『国際博覧会』も参照。
- 沖縄国際海洋博覧会(沖縄県国頭郡本部町、1975年(昭和50年)~1976年(昭和51年))
- 国際科学技術博覧会(つくば万博、筑波研究学園都市(茨城県つくば市)、1985年(昭和60年))
- 国際花と緑の博覧会(花の万博、大阪府大阪市、1990年(平成2年))
2005年日本国際博覧会(愛・地球博、愛知万博)[編集]
「自然の叡智」をメインテーマに、「地球大交流」をコンセプトに、2005年(平成17年)に愛知県長久手町(現:長久手市)、愛知県瀬戸市などで開催された。日本の万博史上最多の120を超える国々が参加した21世紀最初の国際博覧会であった。詳しくは『2005年日本国際博覧会』を参照。
地方博覧会ブーム[編集]
第二次世界大戦の以降も各地で博覧会が開催されていたが、中でも特に成功を収め、地方博覧会ブームの先駆けとなったのは、1981年(昭和56年)に神戸で開催されたポートピア'81である。埋立地にインフラ整備を行い、博覧会を契機に跡地開発を進めるという発想は大阪万博に倣ったものである。大きな成功を収めて株式会社神戸市の面目躍如となった。その後、バブル景気や市制100周年事業と重なる1989年(平成元年)の前後数年間に、横浜博覧会など各地で地方博ブームが起こったが、バブル崩壊とともに沈静化し、東京の臨海部(台場地区)で行われる予定だった世界都市博覧会は中止された。これ以降も様々な博覧会は行われているが、「博覧会は必要なのか」という疑問の声も大きくなっていった。地方博ブームだった1988年(昭和63年)に開催された博覧会はほとんどが黒字だったが、札幌市などで開催された世界・食の祭典は運営の杜撰さが祟って90億円という大赤字を出した。
「Category:地方博覧会」も参照
国内博覧会の一覧[編集]
第二次大戦前[編集]
- 物産会(東京府、1871年)
- 京都博覧会(京都府、1871年)
- 湯島聖堂博覧会(東京府、1872年)
- 名古屋博覧会(愛知県、1874年(明治7年))
- 奈良博覧会(奈良県、1875年(明治8年))
- 宮城博覧会(宮城県仙台、1876年(明治9年))
- 勧業博覧会(長崎県長崎、1877年(明治10年))
- 内国勧業博覧会(東京府、1877年(明治10年)、1881年(明治14年)、1890年(明治23年))、(京都府、1895年(明治28年))、(大阪府、1903年(明治36年))
- 水産博覧会(兵庫県神戸市和田岬「和楽園水族館」、1897年(明治30年))
- 東京勧業博覧会(東京府、1907年(明治40年))
- 関西府県連合共進会(各地、1883年(明治16年) - 1910年(明治43年))
- 一府八県連合共進会(富山県、1913年(大正2年))
- 東京大正博覧会(東京府、1914年(大正3年))
- 大典記念京都博覧会(京都府、1915年(大正4年))
- 開道五十年記念北海道博覧会(北海道札幌区・小樽区、1918年(大正7年))
- 電気博覧会(東京府、1918年(大正7年))
- 平和記念東京博覧会(東京府、1922年(大正11年))
- 東宮殿下御成婚奉祝万国博覧会参加50年記念博覧会(京都府、1924年(大正13年))
- 大大阪記念博覧会(大阪府、1925年(大正14年))
- 皇孫御誕生記念・こども博覧会(東京都、京都府、1926年)
- 大阪電気大博覧会(大阪府、1926年)
- 新潟築港記念博覧会(新潟県新潟市、1926年)
- 東亜勧業博覧会(福岡県、1927年(昭和2年))
- 東北産業博覧会(宮城県仙台市、1928年(昭和3年)4月15日 - 6月3日)
- 大日本勧業博覧会(岡山県、1928年)
- 全国産業博覧会(香川県、1928年)
- 大礼記念国産振興東京大博覧会(東京都、1928年)
- 山梨電気博覧会(山梨県、1928年)
- 御大典奉祝名古屋博覧会(愛知県、1928年)
- 大礼記念京都大博覧会(京都府、1928年)
- 大礼奉祝交通電気博覧会(大阪府、1928年)
- 国産振興北海道拓殖博覧会(北海道札幌市、1931年(昭和6年))
- 国産振興博覧会(鹿児島県、1931年)
- 上越線全通記念博覧会(新潟県長岡市寺泊港水族館、1931年)
- 小樽海港博覧会(北海道、1931年)
- 記念観光と産業博覧会(奈良県、1933年)
- 国際産業観光博覧会(長崎県、1934年)
- 振興横浜大博覧会(神奈川県、1935年)
- 振興熊本大博覧会(熊本県、1935年)
- 国産振興四日市大博覧会(三重県四日市市、1936年(昭和11年))
- 全国産業博覧会(静岡県浜松市、1936年)
- 博多築港記念大博覧会(福岡県福岡市、1936年)
- 躍進日本大博覧会(岐阜県、1936年)
- 日満産業大博覧会(富山県、1936年)
- 名古屋汎太平洋平和博覧会(愛知県名古屋市、1937年(昭和12年))
- 別府国際温泉観光大博覧会(大分県、1937年)
- 東北振興大博覧会(宮城県、1938年)
- 興亜博覧会(山形県、1939年)
第二次大戦後[編集]
- 日本貿易博覧会(神奈川県、1949年)
- 長野市平和博覧会(長野県、1949年)
- 日本貿易産業博覧会(神戸博)(兵庫県神戸市、1950年)
- 南国高知産業大博覧会(高知県、1950年)
- 東京産業文化平和博覧会(東京都、1950年)
- 小田原市こども文化博覧会(神奈川県、1950年)
- 浜松こども博覧会(静岡県浜松市、1950年)
- 高岡産業博覧会(富山県、1951年)
- 講和記念北海道平和博覧会(北海道岩見沢市・富良野町・帯広市、1952年(昭和27年))
- 四日市大博覧会(三重県、1952年)
- 新日本高崎こども博覧会(群馬県、1952年)
- 福井復興博覧会(福井県、1952年)
- 豊橋産業文化大博覧会(愛知県、1954年)
- 岡山産業観光大博覧会(岡山県、1954年)
- 富山産業大博覧会(富山県、1954年)
- 日本国際見本市(大阪府、1954年)
- 別府温泉観光産業大博覧会(大分県、1957年(昭和32年))
- 産業科学大博覧会(福岡県大牟田市、1957年)
- 門司トンネル博(福岡県、1958年(昭和33年))
- 徳島産業科学大博覧会(徳島県、1958年)
- 広島復興大博覧会(広島県、1958年)
- 北海道大博覧会(北海道札幌市、1958年(昭和33年))
- 小倉大博覧会(福岡県、1960年)
- 若戸博覧会(福岡県、1962年(昭和37年))
- 姫路大博覧会(兵庫県姫路市、1966年(昭和41年))
- 東北大博覧会(宮城県仙台市、1967年(昭和42年))
- 北海道百年記念・北海道大博覧会(北海道札幌市、1968年(昭和43年))
- びわ湖大博覧会(滋賀県大津市、1968年)
- 佐賀博覧会(佐賀県佐賀市、1969年(昭和44年))
- 山陽新幹線開通記念・岡山交通博覧会(岡山県岡山市、1972年)
- 北海道こども博覧会(北海道釧路市、1978年(昭和53年)7月1日~8月20日)
- 日本海博 (石川県金沢市、1978年(昭和53年)8月18日~10月14日)
- 宇宙科学博覧会(東京都、1978年(昭和53年)-1979年(昭和54年))
- 瀬戸内2001大博覧会 (2001博、岡山県岡山市、1979年(昭和54年)3月17日~6月17日)
- 神戸ポートアイランド博覧会(ポートピア'81、兵庫県神戸市、1981年(昭和56年))
- 太陽エネルギーが拓く新時代・仁尾太陽博(香川県仁尾町仁尾浜、1981年)
- 北海道博覧会(北海道札幌市、1982年(昭和57年))
- '83新潟博覧会(新潟県新潟市、1983年(昭和58年))
- 大阪城博覧会(大阪府大阪市、1983年)
- '84とちぎ博(栃木県宇都宮市・清原工業団地、1984年(昭和59年))
- '84小樽博覧会(北海道小樽市、1984年)
- 名古屋城博(愛知県名古屋市、1984年)
- 高知空港ジェット機就航記念・黒潮博覧会(高知県高知市、1984年)
- 国際伝統工芸博覧会・京都(京都府京都市、1984年)
- くにうみの祭典・淡路愛ランド博(兵庫県淡路島、1985年(昭和60年))
- 豊のくに中津大博覧会(豊のくにテクノピア、大分県中津市、1986年(昭和61年))
- 北海道21世紀博覧会(北海道岩見沢市、1986年)
- 秋田博'86(秋田県秋田市、1986年)
- 葵博・岡崎'87(愛知県岡崎市、1987年(昭和62年))
- '87世界古城博覧会(滋賀県彦根市、1987年)
- '87未来の東北博覧会(宮城県仙台市、1987年7月18日 - 9月28日)
- 天王寺博覧会(大阪府大阪市天王寺区、1987年8月1日 - 11月8日)
- 世界歴史都市博(京都府、1987年)
- 世界・食の祭典(北海道、1988年)
- 瀬戸大橋架橋記念博覧会(香川県坂出市、岡山県倉敷市、1988年(昭和63年))
- 北摂・丹波の祭典 ホロンピア'88(兵庫県三田市、兵庫県篠山町、兵庫県柏原町、1988年)
- 21世紀公園都市博覧会(兵庫県三田市、1988年)
- ひょうご'88食と緑の博覧会(兵庫県丹南町、1988年)
- なら・シルクロード博覧会(奈良県奈良市、1988年)
- 青函トンネル開通記念博覧会(青森県青森市、北海道函館市、1988年)
- ぎふ中部未来博(岐阜県岐阜市、1988年)
- 食と緑の博覧会いしかわ'88(石川県金沢市、1988年)
- '88飛騨・高山 食と緑の博覧会(岐阜県高山市、1988年)
- 食と緑の博覧会・イートピア栃木'88(栃木県宇都宮市、1988年)
- '88さいたま博覧会(埼玉県熊谷市、1988年)
- 十勝海洋博覧会 HIROO EXPO'88(北海道広尾町、1988年)
- アジア太平洋博覧会(よかトピア、福岡県福岡市、1989年)
- 横浜博覧会(YES'89、神奈川県横浜市、1989年)
- 松江菓子博(島根県松江市、1989年)
- オランダフェスティバル・ダッハらんど'89大阪(大阪府堺市、1989年)
- '89姫路シロトピア博(兵庫県姫路市、1989年)
- 海と島の博覧会(海島博、広島市広島市、広島県内沿岸、1989年)
- 世界デザイン博覧会(愛知県名古屋市、1989年)
- '89新潟食と緑の博覧会(新潟県、1989年)
- おみやげザ・ワールド(山形県、1989年)
- 鳥取・世界おもちゃ博覧会(鳥取県鳥取市、1989年)
- サザンピア21(鹿児島県鹿児島市、1989年)
- SUNPU博'89(静岡県静岡市、1989年)
- こうふ博'89(山梨県甲府市、1989年)
- おかやま食と緑の博覧会(岡山県笠岡市笠岡湾干拓地、1990年(平成2年))
- 鴨方めん博(岡山県鴨方町、1990年)
- '90長崎旅博覧会(長崎県長崎市、1990年)
- 食と緑の博覧会・みやざき'90(宮崎県、1990年)
- 食と緑の博覧会・ちば'90(千葉県千葉市、1990年)
- 国際花と緑の博覧会(大阪府大阪市、1990年)
- 世界陶芸祭(1991年(平成3年))
- グリーンウェーブ相模原(神奈川県相模原市、1992年(平成4年))
- 世界そば博覧会(富山県利賀村、1992年)
- '92世界民話博IN遠野(岩手県遠野市、1992年)
- コム博(北海道札幌市、1992年)
- ジェノヴァ国際船と海の博覧会(1992年)
- ジャパンエキスポ富山(富山県、1992年(平成4年))
- 三陸・海の博覧会(岩手県釜石市、宮古市、山田町、1992年(平成4年))
- アーバンリゾートフェア神戸'93(兵庫県神戸市、1993年(平成5年))
- ジャパンエキスポ信州博'93 / 信州博覧会(長野県松本市、1993年(平成5年))
- くらしの祭典 VOICE93 多摩博覧会(東京都、1993年)
- 倉吉農業博覧会(鳥取県倉吉市、1993年)
- 国宝松本城400年まつり(長野県松本市、1993年)
- 北近畿交流博(京都府福知山市、1993年)
- 火の国フェスタ・くまもと'93(熊本県熊本市、1993年)
- 祝祭・京都創生1200年(京都府、1994年(平成6年))
- けいはんな学研都市フェスティバル'94(京都府精華町、1994年)
- 但馬・理想の都の祭典(兵庫県但馬地域、1994年)
- 豊岡・世界のかばん博'94(兵庫県豊岡市、1994年)
- 世界リゾート博(和歌山県、1994年)
- まつり博三重 / 世界祝祭博覧会(三重県、1994年)
- 花フェスタ'95ぎふ(岐阜県可児市、1995年(平成7年))
- ロマントピア藤原京'95(奈良県橿原市、1995年)
- 世界・炎の博覧会(佐賀県、1996年(平成8年))
- 北近江秀吉博覧会(滋賀県長浜市、1996年)
- 世界昆虫博・十和田湖(青森県十和田湖町、1996年)
- 森と湖のフェスタ(青森県十和田湖町、1996年)
- 丸亀城築城400年祭(香川県丸亀市、1997年)
- 国際ゆめ交流博覧会(宮城県仙台市、1997年(平成9年))
- 毛利元就博(広島県広島市、1997年)
- 山陰・夢みなと博覧会(鳥取県境港市、1997年(平成9年))
- 南紀熊野体験博(和歌山県、1999年(平成11年))
- つるが・きらめき・みなと博21(福井県敦賀市、1999年(平成11年))
- 国際園芸・造園博のジャパンフローラ2000(淡路花博、淡路夢舞台(兵庫県淡路町)、2000年(平成12年))
- 決戦関ヶ原大垣博(岐阜県大垣市、2000年)
- 恐竜エキスポふくい2000(福井県勝山市、2000年)
- ワッショイ!2000(大阪府堺市、2000年)
- かなざわ・まち博(石川県、2000年)
- 静岡「葵」博(静岡県静岡市、2000年、2001年(平成13年))
- 2001年しずおか緑・花・祭(静岡県、2001年)
- 上杉鷹山生誕250年祭・YOZANフェスティバル(山形県米沢市、2001年)
- 21世紀☆みらい体験博〜ユメみたいなユメみたい。〜(兵庫県神戸市、2001年)
- 中山道ルネッサンス木曽街道400年祭(長野県、2001年)
- 北九州博覧祭2001(福岡県北九州市、2001年)
- うつくしま未来博(福島県須賀川市、2001年)
- 山口きらら博(山口県、2001年)
- 加賀百万石博(石川県金沢市、2002年(平成14年))
- 若狭路博2003(福井県小浜市、2003年(平成15年))
- 熱海花の博覧会(静岡県熱海市、2004年(平成16年))
- 浜名湖花博(静岡県浜松市、2004年)
- えひめ街並博2004(愛媛県、2004年)
- 花フェスタ2005ぎふ(岐阜県可児市、2005年(平成17年))
- 長崎さるく博(長崎県長崎市、2006年(平成18年))
- 北近江一豊・千代博覧会(滋賀県長浜市、2006年)
- 熊本城築城400年祭(熊本県、2006年~2008年)
- 土佐二十四万石博(高知県高知市、2006年、2007年(平成19年))
- 甲斐の国風林火山博(山梨県、2007年)
- 国宝・彦根城築城400年祭(滋賀県、2007年)
- 京都文化博覧会(京都市、2007年)
- 花・人・土佐であい博(高知県、2008年(平成20年)、2009年(平成21年))
- 2009鳥取・因幡の祭典(鳥取県、2009年(平成21年)、2010年(平成22年))
- 開国博Y150(神奈川県横浜市、2009年(平成21年))
- 浜松モザイカルチャー世界博2009(静岡県浜松市、2009年)
- 平城遷都1300年祭(奈良県奈良市、2010年)
- 庄原さとやま博(広島県庄原市、2010年(平成22年)、2011年(平成23年))
- えひめ南予いやし博2012(愛媛県、2012年(平成24年))
- 神話博しまね(島根県、2012年(平成24年))
ジャパンエキスポ制度[編集]
旧・通商産業省による特定博覧会制度による博覧会のことである。現在、この制度は終了している。計12回開催。和歌山県は2度開催。詳しくは『JAPAN EXPO』を参照。
インパク[編集]
2000年(平成12年) - 2001年(平成13年)にインターネット博覧会(通称:インパク)が開催された。過去の博覧会とは異なり、インターネット上の仮想空間での展覧会である。森喜朗元・首相が提唱したIT戦略(e-Japan)の具体化の1つだったが、成果については批判的な意見が多い。
開催の時期[編集]
上述のように、これまで日本で開催されてきた博覧会の多くは、春~秋の時期に開催された。冬中心の開催例は今のところ皆無に近い。
屋外の展示や屋外で入場を待つ観客にとって寒さを感じさせない時期としたこと、春休みやゴールデンウィークおよび夏休みの時期などの春~秋の行楽シーズンを良いとして、開催したと思われる。
特にこれまでの全ての国際博覧会(万国博覧会)と主要な地方博覧会(「ポートピア'81」が好例)の、「3月開幕・9月閉幕」のスケジュールが広く認知され、そのイメージで捉える人も多い。小規模な地方博覧会の場合、「7月開幕・9月閉幕」のケースも多い。
なお、この時期での博覧会の開催については、甚だしく暑熱となる季節が含まれ、さらに、多くの博覧会会場は、その時期、輻射熱で気温以上に暑くなっているので、熱射病などになる恐れが高まり良くないという見方もある。しかし、多くの観客は、真夏の暑さの中の博覧会を快く思うようである。
観客は、多くのケースの場合、尻上がりに増えるケースが多いようである。「3月開幕・9月閉幕」のスケジュールの場合、3月~4月中旬は様子見なのか観客は少なく、4月下旬~5月に第一次の観客数増大を招き(この中に5月に修学旅行を行う学校の修学旅行生も含まれる)、6月~7月上旬は梅雨のためか減少し、7月中旬~8月中旬が最も観客の多い時期で、最後に閉幕直前の9月に駆け込み的に観客が増えるケースが多いようである。
展示内容と観客が博覧会に期待するもの[編集]
展示内容は博覧会のテーマによるが、多くの場合、科学技術の成果を大衆に広く知らしめる内容や、出展企業、団体、国家政府のPRとなるような内容(例えば出展国の文化や風物を知らしめる)であることが多い。ただし、企業については、あからさまな宣伝は控えられる傾向にある。
しかし、多くの観客が博覧会に期待するものは、ある種の「お祭り」や「移動遊園地」的なものであることも多い。博覧会場に設置された遊具(観覧車や展望台など)に期待したり、科学技術の成果物ではロボット、宇宙開発、リニアモーターカーなど、特に(子供などにも)判り易くかつ派手なものに人気が集まる傾向がある。 また、観客で博覧会に多くを期待するのは、子供や中学生、高校生など10代の人が多く、20代以上の成人層で博覧会から何かを得ようという人は少ない傾向にある。
博覧会の意義[編集]
博覧会という形式は19世紀から20世紀において各国で大きな役割を果たしてきたが、情報化が進展し、様々なイベントや展覧会が日常的に開催されている現在、博覧会の意義が問われているといえる。
関連文献[編集]
- 書籍
- 平野繁臣『国際博覧会歴史事典』内山工房 1999年
- 吉見俊哉『博覧会の政治学 まなざしの近代』講談社学術文庫 2010年
- 論考
- 伊藤真実子「博覧会研究の動向について : 博覧会研究の現在とその意義」史学雑誌117-11、2008年11月
脚注[編集]
- ^ ドイツ、アメリカ、イギリス、清国、オーストリア、フランス、カナダ(英領)、インド(蘭領)、韓国、ポルトガル、ブラジル、ロシア、ハワイ、インド(英領)、イタリア、オーストラリア(英領)、オランダ、トルコの18カ国が出品。
関連項目[編集]
ウィキメディア・コモンズには、博覧会に関連するメディアがあります。 |
文部省博物局 /p48 日比谷公園 山下町 田中天 p50 土佐植物目録
田中芳男
田中 芳男(たなか よしお、天保9年8月9日(1838年9月27日) - 大正5年(1916年)6月22日)は、幕末から明治期に活躍した博物学者、物産学者、農学者、園芸学者、錦鶏間祗候、男爵。
明治期に動物園、植物園を構想し、上野で実現。「博物館」という名称を生み出し、殖産興業の指導に尽力、基礎博物学の啓蒙につとめる。パリで行われた第4回万国博覧会、ウィーン万国博覧会に責任者として派遣される。元老院議官、貴族院議員、大日本山林会会長、日本園芸会副会長を歴任。
経歴[編集]
- 1838年(天保9年)8月9日、飯田中荒町(長野県飯田市中央通り)に生まれる。漢方医だった兄の影響を受ける。
- 14歳のとき、尾張名古屋に出る。
- 1856年、17歳で博物学者の伊藤圭介の門に入り、医術本草学と洋学を学ぶ。
- 1862年(文久2年)、伊藤圭介に従って江戸に下り、翌年に幕府の蕃書調所に出仕する。しばらくして、蕃書調書物産所は洋書収集と人材育成の洋書調書に改組。この間圭介の伴をしてシーボルトを訪ねている。開成所付置の物産所で殖産興業の発展を探った。その後師は高齢により職を辞して故郷に帰り、その後任となる。
- 幕府は1861年(慶応2年)に行われるパリ万国博覧会に正式参加表明、万博に昆虫標本の出品を決定する。
- 1866年(慶応2年)、幕府よりパリ万国博覧会への出張と昆虫標本採集と製作を命じられ、関東一円に赴き博物学者の子阿部為任と採集を行う。
- 1867年(慶応3年)、パリ万国博覧会に出張。自ら採集した昆虫標本が現地で注目された。
- 1867年(慶応3年)帰国し、洋書調書は明治維新後開成所に改組。翌々年、維新新政府より、開成所御用掛に任じられ、大阪舎密局建設にもかかわる。
大阪の大阪城跡地に理化学専門の高等教育研究機関「舎密局」開設準備にとりかかるが、舎密(けみ)局と呼ばれたこの施設を、科学だけでなく物理学等その他の自然科学全般を研究対象にする組織機関として、博物館、という名称を提案する。さらにこのとき植物園や温室などを附設することを提言、この施設を「遊歩所」、「園囿」と名づけている。この施設の構想案では7つのゾーンに分割し、幾何学的洋風庭園など、今日のリサーチパーク的な植物施設を構想している。
- 1869年(明治2年)[年号要検証]東京に戻り、大学南校物産局に勤務。翌年、九段坂上招魂社境内で小規模博覧会(物産展)を実施。この年文部省が発足、湯島聖堂(旧幕府昌平坂学問所)が文部省所轄となり、文部省博物館として改組、物産展の展示物収用されると同時に同博物館に移籍する。
- 1870年(明治3年)[年号要検証]、物産局を創設。のち勧業寮, 農商務省, 農林省・商工省, 通産省を経て経済産業省に発展する。
また、物産会すなわち殖産興業を主な目的とした博覧会の開催にたびたびかかわる。
- 1872年4月(明治5年3月)、翌年開催のウィーン万国博覧会への公式参加に伴い、全国各地から取り寄せた出品予定品を公開するため、湯島聖堂大成殿で博覧会を実施する。
- 1873年、佐野常民らともにオーストリア・ウィーンで開催されたウィーン万国博覧会に派遣される。
- 1875年(明治8年)、博物館、動物園などをもつ公園の設立に尽力し、上野の博物館・動物園の建設のために町田久成らとともに力を注いだ。町田が初代博物館長をつとめ、後に田中が職につく。こうして上野公園設計に携わり、博物館と動物園を設置した。
- 農商務省博物局長をつとめた後、省を退職し、元老院議官、貴族院議員などの任につく。
- 1881年(明治14年)大日本農会結成に参画し、1882年に大日本水産会と大日本山林会の創設に尽して日本での農学と農林水産業の発展に貢献。
- 1893年(明治26年)、日本園芸会副会長として、小平義近らと日比谷公園設計案を提出したが採用されず。
- 1915年(大正4年)12月1日、男爵を叙爵[2]。
生涯、農林水産業や博物学の発展振興につとめた。
- 1916年(大正5年)6月22日、東京本郷金助町で永眠。
著書[編集]
参考文献[編集]
- 佐藤昌『日本公園緑地発達史』都市計画研究所 1977年
- 磯野直秀「動物分類学に関係する訳語の変遷」生物学史研究(48):1-5, 1986
外部リンク[編集]
- 磯野直秀 (1986), 揺藍期の動物学教室, http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1997Archaeology/03/30300.html 2013年6月16日閲覧。
脚注[編集]
小野蘭山の『本草綱目草稿』 - 国立国会図書館デジタル化資料
p120
池長植物研究所
牧野富太郎 植物研究所跡 in 神戸市兵庫区会下山公園 : 散策とグルメの ...
-
池長植物研究所 の画像検索結果
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牧野富太郎の足跡よみがえる
p122 いまむら 94年8ヶ月と25日の生涯---2007年没50年牧野富太郎 Tomitaro Makino 【日本の植物学の父】
(1862.04.24~1957.01.18) 循環系の虚脱---?座
- 植物学者。高知県高岡郡佐川町で酒造家の長男として生まれる。この日は「植物学の日」とされている。小学校を中退し、独学で植物学を研究。家の資産を食いつぶして植物の採集と分類に没頭、財産を使い果たしたあとも、貧困に苦しみながら研究を続けた。そのため、独学・苦学の研究者として有名。
- 1884年(22歳)に上京して東京帝国大学理学部植物学教室に出入りを許され、谷田部良吉や松村任三らと接した。その後、助手・嘱託を経て講師として籍を置いていた。 広く各地に植物を採集し、数多くの新種を発見。27歳のとき日本で初めて新種ヤマトグサに学名をつけたのを始めに、昭和32年(1957)に亡くなるまでの95年の生涯で、2500種以上の植物を命名した。
- しかし生活態度があまりにも奔放であり、他の研究室員から次第に孤立し冷遇されるようになった。このことが逆に、学歴がないゆえの差別であるとして世間の同情をひく要因になった。
- このエピソードは、日本の大学が講座制などの「近代的な」体制を強化していく過程で生じた犠牲を象徴的に示すものだともいえる。
- 牧野は植物の種類に通暁し鑑定の的確なことでは他人の追随を許さず、日本の本草学を植物分類学へと転換した第一人者である。その反面、近代生物学の理論的な面はほとんど理解しなかった。
- 主著『植物図鑑』(1908年)は何度か改訂改題を重ね、現在は『原色牧野植物大図鑑』として刊行されている。 《植物研究雑誌》を主宰、主著《牧野日本植物図鑑》(1940年)。1957年文化勲章追贈。
- 「牧野富太郎も認めるように、寿衛子の作ったこの料亭「いまむら」は彼女の才能と要領のよさとのために、そしておそらくもっと大きな原因は牧野富太郎自身が直接経営に関係しなかったために、一時非常に繁盛したこともあった。だが東京帝国大学理学部講師の夫人が料亭を経営するということは、大学に怒りと軽蔑を引き起こした。そしてこの料亭の繁盛ぶりは一層大きな怒りと軽蔑を引き起こした。寿衛子もこのことを十分わかっていたので、子供たちを絶対に「いまむら」には近付けなかった。理学部長の五島清太郎は牧野富太郎の事情をよく理解しながらも、料亭の経営から手を引くことを勧めた。だが生活費を得るために必要だという牧野富太郎の料亭に関する信念が、他人の意見などで変わる筈がなかった。しかも皮肉にも反対されればされるほど料亭は益々繁盛したのである。セザンヌは、自分の描く絵で生活出来るような画家は本物ではない、自分の絵で生活出来ず妻に養ってもらうようでなければならないと述べているが、この意味でも牧野富太郎は真の植物学者なのであった」(1)。
- 「植物学者の牧野富太郎は幼くして父母を亡くし、小学校を中退した。学歴はそこで終わっている。独学し、東京帝大の植物学教室に出入りを許されたが、助手になっても貧乏と縁が切れなかった。寿恵子(すえこ)夫人は借金取りが家に来ると窓から赤い旗を出し、帰宅しないよう夫に知らせたという逸話が残っている。77歳で退官したときの身分は講師、月給は大卒初任給並みの70円ほどであったという。研究者の金銭にまつわる醜聞を耳にするたび、収集分類した標本は50万点、発見した新種が2500種を数えるその人の自伝をひらき、草花を終生の友とした清らかな生涯に耳の消毒をしてもらっている---糟糠(そうこう)の妻を亡くした時、牧野は新種の笹(ささ)に「スエコ笹」(学名ササエラ・スエコヤナ)と命名し、追悼した。「草を褥(しとね)に木の根を枕、花を恋して五十年」と自作の都々逸にある」(2)。
- 「植物学者の牧野富太郎は小学校を中退したあと、学校と名のつく所では学んでない。49歳で東京帝大の講師となり、77歳で退職するまで肩書は講師だった。学識の世評は高くとも学歴のない老講師に、ひと恥かかせる魂胆だろう。野外観察の折、ひとりの学生が枯れ草の根を取り出し、牧野の前に黙って差し出した。名前を当てられるものなら当ててごらん。学生たちが好奇の目で見つめるなか、牧野は草の根をそっと口に含むと、関東地方では見られない南方種のヒルガオの名を静かに告げた。特徴として、その根にはサツマイモに似た甘味のあることを言い添えた。渋谷章著「牧野富太郎」に記された挿話である。生涯に50万点の標本を採集し、1000種の新種を発見した植物分類学の巨人が94歳で死去したのは1957年(昭和32年)の1月18日、きょうは没後50年の忌日にあたる。「学者には学問があれば何も要らない」。冷遇と貧窮の時代にも、そう語っていたという」(3)。
- 「世間は牧野富太郎の真の偉大さがなかなか分からないものだから、学歴がないことを強調して、学歴なしの学者として誉める。(小学校卒の総理として田中角栄を安易に崇めたのと似ている)そうではなくて、小生は牧野博士自身が語っていることから、何かを感じたい。たまさん、おすそ分けします。〈翠色滴る草木の葉のみを望んでも、だれもその美と爽快とに打たれないものはあるまい。これが一年中われらの周囲の景致である。またその上に植物には紅白紫黄、色とりどりの花が咲き、吾人の眼を楽しませることひととおりではない。だれもこの天から授かった花を愛せぬものはあるまい。そしてそれが人間の心境に影響すれば、悪人も善人になるであろう。荒んだ人も雅な人となるであろう。罪人もその過去を悔悟するであろう。そんなことなど思いめぐらしてみると、この微妙な植物は一の宗教である、と言えないことはあるまい。自然の宗教! その本尊は植物。なんら儒教、仏教と異なるところはない。今日私は飽くまでもこの自然宗教にひたりながら日々を愉快に過ごしていて、なんら不平の気持ちはなく、心はいつも平々坦々である〉 -「植物知識」のあとがきより-」(4)。
¶:出典・情報源・参考文献・参考サイト: 「牧野富太郎」 (1)「牧野富太郎」 (2)読売新聞2006.06.27朝刊「編集手帳」より抜粋。 (3)読売新聞2007.01.18朝刊「編集手帳」より抜粋。 (4)投稿者:ユリウスさん 2007/ 1/18 09:43:46(木) [867]
P129 竹の研究 スエコササ 大阪 吹田市 旧西尾家住宅 /昭和2年頃 66歳 理学博士「スエコザサの庭で」ひょんなことで吹田市に残っている国の重要文化財になっている「旧西尾家住宅」を訪ねることになった。正門の門柱右側にはそのことがでかでかと墨痕鮮やかな看板で示され、左側には「旧仙洞御料庄屋屋敷」とある。要するに、西尾家は仙洞御料庄屋を務めていたということなのだ。
「仙洞とは仙人のすみかを意味し、転じて譲位した天皇、すなわち太上天皇あるいは太上法皇(上皇・法皇)を神仙に擬して、その御所を仙洞・仙院、または仙洞御所と呼んだ。なお、天皇が在位中に譲位後の御所としてあらかじめ用意した御所を御院(ごいん)といい、譲位後、仙洞御所にあてられた」と『国史大辞典』の「仙洞御所」の項で説明されている。また、「御料」については、天皇、貴顕の人、あるいは寺社に付属する所領をいう」と、『日本国語大辞典』にあり、以上のことから、仙洞御料は上皇の所領ということになる。
わが国の歴史上、最後に太上天皇になったのは文化14年(1817)3月24日に光格天皇(1771-1840)が仁孝天皇(1800-1846)に譲位したときであり、以後、太上天皇(上皇・法皇)は存在していないので、西尾家の仙洞御料庄屋はそこまでの話であるのだが、敷地面積4542・37平方メートルの広大な土地の中にある、①主屋(玄関部、居住部、軽量部屋部)②積翆庵③離れ西棟④離れ東棟⑤戌亥土蔵⑥戌亥角土蔵⑦米蔵の七棟の重要文化財を築き、維持できた財力に驚きを覚えるのだが、その分けを案内人をしてくれた地元ボランティアの老人の口から訊き出すことは出来なかった。こと皇室に関する恐れ多かるべしという緘口令が今も此処にはあるのかも知れない。
邸内にある庭園の一隅に、「スエコザサ」と名付けられた笹竹の群れが目を惹いた。植物を愛した当時の当主と親交が深かった牧野富太郎(1862-1957)を支え続けた妻,寿衛子がなくなった年に,宮城県仙台市で発見した笹の新種に牧野が付けた学名だとある。牧野富太郎が亡妻に感謝して献名したものをこの西尾家の庭に植えたとされている。余程の愛着があったのか、その妻の墓碑に、「家守りし妻の恵みやわが学び」,「世の中のあらん限りやスエコザサ」と刻まれているよしと、案内人は教えてくれた。葉は軽く裏に巻き,白い毛が生えている「スエコザサ」は梅雨の雨に打たれて光っていた。
天王寺蕪、田辺大根、金時人参、大阪しろな、毛馬胡瓜、玉造黒門越瓜、勝間南瓜、源八もの芽しその計8種類が「大阪市なにわの伝統野菜」に認証されているらしい。府市統合がかまびすしい昨今のことである。序でに水茄子の原種とされる貝塚の馬場茄子、守口大根、吹田の慈姑(くわい)などを入れたら如何なものかと考えるのだが。庭には吹田慈姑が栽培されていた。地元農民との秘かな繋がりを忘れまいとする当時の当主の郷土への思いが感じられる。是非、また会いに来て下さいと茶人らしい風格が漂う案内人と別れを惜しむ。薮内流千家の茶道をもう少し研究してからですよと、また、この建造物を手掛けた建築家武田五一、西尾家の出である音楽家貴志康一、吹田滞在中、西尾家に逗留していた植物学者牧野富太郎のことなど興味が尽きるところがない文化程度の高さを味わいに来ますと約束して「旧西尾家住宅」をあとにする。
―今日のわが愛誦短歌 ・柿の枝の黒きをみれが神にすら 見せぬ素顔となりてゆくべし 山中智恵子
―今日のわが駄句 ・梅雨寒に人咳払う江戸屋敷
184投稿者: 芝居の植木トラックバック(0)旧西尾家住宅重要文化財 旧西尾家住宅は、仙洞御料庄屋を勤めた伝統と茶の湯の精神を感じさせる屋敷です。数寄屋風を意識した主屋、茶道藪内家の指導になる茶室、牧野富太郎の関与が伝えられる温室、著名建築家武田五一が和洋折衷の意匠を試みた離れなど多彩な建物からなり、文化性に富む優れた建築が伝えられています。当住宅は平成21年(2009年)12月8日、重要文化財に指定されました。 開館時間 午前9時~午後5時15分 ※見学するのに約1時間程度かかりますので、閉館時間に余裕を持ってお越しください。 休館日 12月29日~1月3日 入館料 無料 交通アクセス JR吹田駅または阪急吹田駅から徒歩約10分。 ※駐車場がありませんので、お車で来館はご遠慮ください。 問い合わせ先 〒564-0032 大阪府吹田市内本町2丁目15番11号 電話 06ー6381ー0001 ファックス 06ー6381ー0001 ■■■お知らせ■■■
旧西尾家住宅(吹田文化創造交流館)保存活用検討会議開催のお知らせ
議 題 1.重要文化財旧西尾家住宅の保存管理活用計画について 開催日時 平成25年(2013年)11月28日(木曜日)午前10時00分から 開催場所 旧西尾家住宅(吹田文化創造交流館)主屋座敷 公開・非公開の別 公 開 定 員 6人(定員を超えた場合は抽選) 申し込み 会議開催15分前から開催時刻まで受け付けます。 問い合わせ 地域教育部 生涯学習推進室 文化財保護課 電 話 06-6338-5500 旧西尾家住宅(吹田文化創造交流館)からの報告書販売のお知らせ
重要文化財旧西尾家住宅(吹田文化創造交流館)では「旧西尾家住宅総合調査報告書」を窓口で販売しています。 1冊 1,500円 (郵送での購入をご希望の方は、吹田市立博物館までお問い合わせ下さい。電話06-6338-5500)
旧西尾家住宅のボランティアを募集しています。
内容:平成17年(2005年)10月から一般公開している近代和風建築物である旧西尾家住宅(内本町2-15-11)で、館 内の説明をします。 条件:なし 保険:「吹田市市民活動災害補償保険」の適用あり 申込:当館まで電話かFAXで。FAXの場合は住所・名前・性別・年齢・電話番号を記入してください。
旧西尾家住宅(吹田文化創造交流館)の施設管理経費について
この施設は、市民の皆様の貴重な税金及び利用料金等で管理運営されています。 なお、平成24年度(2012年度)の施設管理経費は、下記のとおりとなっています。 利用者の皆様からのご要望等に応え、今後とも効率的な管理運営を行ってまいります。施設管理経費 計(a) 31,067千円内
訳
人件費 17,098千円その他(光熱水費等) 13,969千円収入額 計(b) 148千円内
訳
使用料収入 0千円(減額及び免除の額) △0千円(減額又は免除をしなかった場合の使用料の額) 0千円その他収入 148千円※数値は、平成24年度決算見込額をもとにしています。 ※施設管理経費には、減価償却費等は含まれていません。 ※人件費は、非常勤職員の給与額及び臨時雇用員の賃金を含みます。
利用者数 計(c) 8,011人 利用1人当たりコスト ((a-b)/c) 3,860 円
稼働率 94.9% これまで行った市民サービス向上の実績
旧西尾家住宅に関わりの深い茶道の教室、茶会の実施。 年中行事にちなんだ事業の実施。 旧西尾家住宅に関わりのある神戸雪汀、及び人形の特別展。今後予定の市民サービス向上策
重要文化財の建造物としての特色を活かした活用の実施。 茶道などを学べる伝統文化こども(親子)教室事業の継続。博士が大泉や東京郊外で採集した、植物の標本など約50点を展示
世界的な植物学者で、日本の植物学の父・牧野富太郎の住居跡を整備した区立牧野記念庭園で、企画展「武蔵野のおもかげ-牧野富太郎が昭和初期に採集した植物-」を11月23日(土・祝)から開催します。
植物学者の牧野富太郎が大泉村(現練馬区立牧野記念庭園の所在地)に移り住んだ1926(大正15)年、東京の郊外には雑木林が点在し、アカネ、オケラ、キキョウ、ススキといった植物も自生していました。 植物の観察や採集に好適なこの地を気に入った富太郎は、日本各地を訪ね植物を調査するかたわら、大泉の自宅を拠点に東京、神奈川、埼玉の各方面へ出かけては精力的に植物調査をおこないました。また、武蔵野の植物について講演をしたり、文章ものこしています。
本展では、昭和初期における富太郎の活動に焦点をあて、富太郎が大泉や東京郊外の「武蔵野」と呼ばれた地域で採集した植物を、押し葉標本、植物画、写真など約50点によって紹介します。
開催概要
2013年11月23日(土・祝)~2014年1月13日(月・祝) 午前9時30分~午後4時30分 休館日:火曜日、年末年始(12月29日~1月3日) 練馬区立牧野記念庭園記念館(東大泉6-34-4庭園内) 入場無料
企画展についてのお問い合わせ
練馬区立牧野記念庭園記念館 TEL03‐6904‐6403
チラシのダウンロードはこちらからできます
練馬区立 牧野記念庭園
世界的に有名な植物学者・牧野富太郎博士の住居跡を整備した庭園です。 建物の改修を行い、平成22年8月1日にリニューアルオープンしました。 新しくなった牧野記念庭園記念館では博士ゆかりの品々を展示し、庭園内ではセンダイヤ(サクラ)、スエコザサなどおよそ300種の植物を見ることができます。
施設概要
【所在地】 練馬区東大泉6-34-4 【面 積】 2,222.5平方メートル 【開 園】 昭和33年12月1日 【入園料】 無料 【駐車場】 なし 【開園時間】 午前9時~午後5時まで 【休園日】 毎週火曜日(火曜日が祝休日にあたる場合は開園、その直後の祝休日でない日は休園)・年末年始(12月29日~1月3日) 【電話番号】 03-3922-2920 【園芸相談】 午前9時30分~12時30分・午後1時30分~4時30分
交通案内
西武池袋線 大泉学園駅南口より徒歩5分 JR中央線または西武新宿線 下記の各駅よりバス「学芸大附属前」バス停下車 徒歩3分 (西武バス) JR中央線「荻窪駅」⇔西武新宿線「上井草駅」⇔「学芸大附属前」バス停⇔「長久保」 JR中央線「吉祥寺駅」⇔西武新宿線「武蔵関駅」⇔「学芸大附属前」バス停⇔「新座栄」または「都民農園セコニック」 (西武バスまたは関東バス) JR中央線「西荻窪駅」⇔西武新宿線「上石神井駅」⇔「学芸大附属前」バス停⇔西武池袋線「大泉学園駅南口」 駐車場はありませんので、公共交通機関をご利用ください。
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