1/19 朝日新聞 夕刊 3版 4
記事の2行目に「犬島」(岡山県)。
小学6年のイメージが突如に現れる。
海水で泳いだ後は、石切場の真水。
岩崎先生の言葉
海水浴から・・石と砂利が混ざり素足ではとても歩けない「デコぼごの山道」約1Km・・ 宿泊所に帰り道・・夕立。
三年ぬれても、一時間で乾くょ
現代美と共に、訪ねて見たくなりました。
左端には、「竹久夢二」
・・・
日本の文化は、西日本かな、なんて思ったり。
犬島
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
犬島(いぬじま、いぬしま)
- 岡山県岡山市東区の離島。この項で解説する。
- 平安時代に犬を追放したという場所。『枕草子』に一条天皇の可愛がる猫「命婦のおとど」に飛びかかった犬の翁丸に対して、天皇が「この翁丸うちてうじて、いぬしまへつかはせ」と命じたとの話が見える(うへにさぶらふ御猫)。北村季吟の枕草子の注釈以来、一説に本項で扱う犬島を指すとされてきたが、藤原秀能の『如願法師集』(13世紀)に「いぬしまや 中なる淀の渡し守」の句が見えることなどから、淀川のあたりにあった地名ともいう[1]。
犬島 | |
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犬島の夕景 | |
座標 | 北緯34度33分45秒 東経134度05分59秒 |
面積 | 0.6km² |
海岸線長 | 4km |
所在海域 | 瀬戸内海 |
所属国・地域 | 日本・岡山県 |
犬島(いぬじま)は、岡山県岡山市東区に属し、岡山水道南東部に浮かぶ島。犬島諸島中で最大の面積を有し、また諸島では唯一の有人島(人口約100人)である。瀬戸内海国立公園内に位置し、南東には小豆島が望まれる。
島名は犬に似た巨岩に由来するといわれるが、その名に似ず、島内には猫が非常に多い。(2009年に猫駆除が行われたため現在は激減)
花崗岩(犬島みかげ)の産出で知られ、大坂城築城のほか、明治以降の大阪港築港の際には礎石の切り出し場となるなど、大阪の建設と縁が深い。また1909年(明治42年)から1919年(大正8年)まで島の東南部で銅の精錬を行っていた。精錬所の遺構として、朽ち果てたレンガ積みの煙突が数本残り、島のシンボルとなっている。
1984年に放送されたテレビドラマ『さよなら西部警察』のロケ地としても使われた(私有地内のため立ち入りは出来ない)。いまでも爆破ロケの残骸や足場が放置されるなど、当時のロケの荒っぽさを感じさせ、地元に映画ロケーションへの拒否感を起こしてきた。近年は映画「鉄人28号」のロケ地になるなどふたたびロケが活発化している。また近年、精錬所を使った演劇祭が開かれたほか、香川県直島町でベネッセアートサイト直島を展開するベネッセコーポレーション(岡山市)が精錬所付近を使った恒久的なアートワークの設置を計画し、2008年(平成20年)4月に開館。現在は予約者のみ見学可。また、2004年より犬島時間というアートイベントも開催されており犬島の夏の恒例行事にもなりつつある。(アートプロジェクト犬島時間)
人口の減少に伴い小中学校は廃校になったが、郵便局は簡易郵便局として残っている。なお、犬島自然の家は、かつての小中学校舎を公営の宿泊施設として整備・増築したものである。
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観光 [編集]
島の南部に犬島海水浴場と犬島キャンプ場が、西部に犬島自然の家がある。
交通 [編集]
岡山駅から両備バス。西大寺バスセンターで東宝伝行きバスに乗り換え、西宝伝で下車、徒歩5分の朝日港から犬島港まで渡船で2.5km(約7分)。
- 2004年10月現在、1日に東宝伝行きバス6往復、渡船7往復(どちらも平日。休日は減便)
参考文献 [編集]
外部リンク [編集]
犬島(いぬじま)(岡山市) | |
|島の概要|島のデータ|島の見どころ|島へのアクセス|関連リンク| | |
島の概要 |
岡山市東部、宝伝の沖約3㎞にある、岡山市唯一の有人島。 元禄時代(1688年~1704年)に入植が始まる。 古くから花崗岩の山地として知られ、鎌倉八幡宮の大鳥居、岡山城、大阪城、江戸城などにも犬島産の石が使われている。 明治30年代の大阪港築港のための採石業と40年代の銅の精錬業などで隆盛を極めた時代があり、最盛期は5,000人から6,000人あまりが生活していた。大正7年には小学校、昭和22年には中学校が開校されている。 昭和44年には岡山市と合併、その後は、経済変化による企業撤退、住民の減少や高齢化により小・中学校ともに平成3年には廃校となった。 銅精錬所跡や採石場跡が当時をしのばせ、独特の雰囲気を持ったユニークな島であるため、各種イベントや映画・テレビのロケ地として利用されることも多い。 平成20年4月27日には、財団法人直島福武美術館財団による犬島アートプロジェクト「精錬所」が開館した。 |
島のデータ |
面積:0.54km2 周囲:3.6km 標高:36m 人口:61人(平成20年3月31日現在) |
http://www.city.okayama.jp/saidaiji/inushima/top/inujima.htm
犬島は、岡山県南東部の宝伝から約2.5km、定期船で約8分ほどの瀬戸内海国立公園内にある周囲約4km(徒歩で約1時間)、面積約0.84平方kmの花崗岩の島です。本島の他、犬ノ島・地竹ノ子島・沖竹ノ子島・沖鼓島・白石島の6つの島々からなっていますが、現在人々が暮らしているのは、犬島だけです。 良質の花崗岩(犬島みかげ)を産出し、古くは岡山城・大阪城の石垣の他、明治になって大阪築港の造営にあたり、犬島の石が使われ、当時一番栄えていた頃、数千人が島で暮らしていました。しかし、銅の精錬所の閉鎖や島の代表的産業である採石業の衰退等により、島を離れる人々が多くなり現在では約48 世帯81人が生活しています。 島内にはかつて隆盛を誇った精錬所跡や採石場跡の他、定紋石・天満宮などの見どころがあり、また島独特の自然が多く残され、四季を通してたくさんの観光客が訪れています。 |
■犬石明神 ■天満宮 ■定紋石 ■山神社 ■精錬所跡 ■採石場 ■犬島海水浴場 ■犬島公園 犬島キャンプ場 ■犬島自然の家 ■犬島へのアクセス |
http://kuranet.net/magazine/keiko01/154.htm
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封建時代は道徳として忠誠と孝行が最も重んぜられました。忠孝は儒教の中心的訓え「修身斉家治国平天下」の基礎をなす徳目とされていたからです。 光政は、京都妙心寺護国院にあった先祖の墓を和意谷敦土山(あずちやま)に移転改葬したのですが、このとき仏式を儒式に変えました。寛文5年(1665)、 永忠26歳のときのことです(正式築造命令は2年後)。 このとき移転された墓は京都から祖父輝政と父利隆、岡山少林寺から叔父輝興の3基でした。和意谷への改葬は寛文7年に行われ、墓地周囲の石垣・玉垣・石門・参道などが出来上がったのは寛文10年です。3基のうち輝政の墓は一のお山、利隆のは二のお山、輝興のは六のお山です(ただし六のお山は、のち6基の集団墓地)。 ところで、この3基の墓石はむろん、付属施設にも犬島(岡山市)の石が使われました。犬島は良質の花崗岩を産する島として有名で、この石は大坂城築城などにも使われています。このたびの築造に際しての石の切り出し、その量、運送などについて、「和意谷御墓出来記」により、その概要を次に紹介します。 寛文7年1月17日から4月19日まで、犬島で石の荒切り作業が行われました。中村太郎右衛門、新谷孫七が奉行として犬島へ渡り監督しました。手代としては吉右衛門、仁左衛門の名が見え、石切り棟梁は仁左エ門、七兵衛となっています。4月19日晩までには、荒切りの石全部船着場に並べられました。 これらと並行して、和気郡の片上港から和意谷までの道普請、敦土山の墓地造成が行われました。総奉行津田永忠は現地の仮宿で寝起きし、毎日指揮督励をつづけたと言われます。 いよいよ石の積み出しの日がやって参りました。同年4月20日です。前日、輸送奉行中村久兵衛、小林孫七が、岡山から徴用人夫200人をつれて到着しました。石の積み込みは20日の朝六ツの下刻(午前7時20分)から始まり、四ツの下刻(午前11時20分)に終了しましたが、積み込んだ石は莫大で、その種類・容積等は「犬島での切り立て、荒取り御石」の表にあるとおりです。当時は、動力は人の力だけでしたので、わずか4時間で積み終えている点は驚きです。 石の積載船は「太口平太」といわれる大船三艘ですが、そのどれにも小船三艘が補助舟として付けられました。 和意谷墓地築造総奉行津田永忠は、積み出し日の20日の朝五ツ(午前8時)に、黒田甚七をつれて船にのり、犬島に直航しました。彼にとっては、最高の名誉の日であり、また責任の重い日でした。 積載船の出港は同日九ツ(正午)と決まりました。 犬島を出た船は、その日の夜なか邑久郡虫明村の瀬戸まで行って潮待ちをし、翌21日六ツの上刻(午前6時)に片上港に無事着岸しました。 荷上げは同日夜五ツの上刻(午後8時)に終わり、22日から輝政の棹(さお)石、同じく亀石、利隆の碑石を修羅(しゅら)三つにのせ、それを一つなぎにして6筋の縄をかけ、送り引きされたのです。このため岡山からの徴用人夫は400人にも上りました。 5月3日に和気郡大中山村(現和気町)につき、ここで2度目の荒切りが加えられ、6月8日和意谷の敦土山にめでたく収まりました。 犬島の港を出たときの光景、および永忠の指揮については、現在何も伝わっていませんが、28歳の彼にとっては「土木巧者誕生の日」ではなかったでしょうか。 |
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