昼神車塚古墳
大阪府北部、高槻市中央部の天神山丘陵南端に築造された古墳である[1][2]。古墳名の「昼神(または日神)」は地名に、「車塚」は菅原道真の車を埋めたとする伝承による[2]。天神山丘陵では弥生時代の集落や古墳の分布が見られるほか、後世には上宮天満宮が創建され、本古墳も古くから同天満宮の社地として推移している[2]。大阪府道67号線建設の際には、3次の発掘調査が実施されたのち前方部が削平されて道路が敷かれ、その後復元整備されている[2]。
墳形は前方後円形で、前方部を北方に向ける[1][3]。墳丘は3段築成(東側は見かけ上4段築成)で、前方部が発達して後円部よりも高くなった後出的様相を示す[1][3][2]。墳丘には慶長伏見地震(文禄5年(1596年))の際と見られる地滑りが認められる[4]。また墳丘表面では葺石・埴輪片(円筒埴輪・形象埴輪)が検出されているほか、墳丘西側では堀が認められている[3]。主体部の埋葬施設は、後円部に横穴式石室の存在が推測されるが、未調査のため不明[4]。出土品のうちでは、前方部中段における埴輪列2列の検出が注目され、特に猪1頭を犬2頭で追う形の具体的な形象埴輪列が復原可能となった点で重要視される[3]。また出土円筒埴輪のうちでは、今城塚古墳(高槻市郡家新町)出土品との類似個体も認められる[4]。
この昼神車塚古墳は、古墳時代後期の6世紀中葉頃[4](または6世紀前半頃[3])の築造と推定される。三島地域では最後の築造で、前時代の大王墓の今城塚古墳との比較においても重要視される古墳になる[4]。また、本古墳の下部では弥生時代中期頃の方形周溝墓が検出されるなど、弥生時代には墓域として利用されたことが知られる[4]。
なお、上宮天満宮境内社に式内社論社の野身神社があり、その社名は野見宿禰(土師氏祖)に由来すると見られることから、野身神社・昼神車塚古墳の背景として土師氏(古墳築造集団)の当地での集住を推測する説がある[5]。
前方部テラスを飾る狩猟埴輪群
・上宮天満宮創建1050年以上の古社。旧本殿は平成8年11月に焼失、現在の本殿は平成14年12月に日本で初めての竹で作られた珍しいもので、屋根は半割竹材、側壁や丸柱は竹の集層材と可能な限り竹材が使用されている。8000本の竹林と4万平方mにおよぶ緑に囲まれた境内には、竹のレストルームやふたつの古墳があり、授与品頒布所<天神>が開設されている。 を後に
「殿」→ 茶川 → 「やったか 西に西に 「いましろ」
もり[0] 【森・〈杜】
〔遠くから見ると濃い緑が盛り上がって見え、近づいて見ると日のさすことが ほとんど無い所の意〕
まわりに比べて際立って高く大きな木が茂っている所。
〔日本では、多く神社や旧家が有って、その一帯が四辺から顕著に区別される所を指す〕
「鎮守の森」
「森の都〔= 公園や家いえの緑が目立つ地方都市〕」