小保方さん・・・
昭和金融恐慌のため、1927年大東銀行は閉鎖される。帰国した市村は富国徴兵保険(現・富国生命保険)のセールスマンとして再出発し、赴任先の熊本で抜群の成績を上げる。
1929年、縁あって理化学研究所(理研)が開発した陽画感光紙の九州総代理店の権利を譲り受け、たちまち業績拡大に成功、朝鮮・満州の総代理店の権利も獲得する。1933年、理研所長大河内正敏より理化学興業(株)感光紙部長に招聘される。1936年理研感光紙(株)専務取締役に就任。同社は2年後に「理研光学工業」に改称され、これが後のリコーとなる。1942年には理研産業団より独立する。
STAP細胞 理研 ワカメ リコー やけに気になり引っかかり
1945年終戦を迎えると、「人を愛し、国を愛し、勤めを愛す」の三愛主義をモットーに三愛商事(現・三愛)を設立、銀座4丁目角の土地を取得し食料品店を開業する。後に婦人服専門店に転業し現在に至る。銀座の土地は買収に難航したが、ある地権者の老婦人が大雪の中断りに出向いた時、彼女の濡れた足元を見た女性事務員が自分のスリッパを履かせ、抱きかかえるように3階まで案内したことに感激し、交渉がまとまったというエピソードは有名である。
1952年には三愛石油を設立、外資の攻勢をはねのけて、羽田空港の給油権獲得に成功する。本拠の理研光学においても、1950年に二眼レフカメラ「リコーフレックスIII」を発表、従来のカメラの1/4ほどの価格低下を実現し、大衆カメラブームを巻き起こした。
市村清
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。