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ウィンブルドン選手権
ウィンブルドン選手権 | |
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公式サイト | |
開催国 | イギリス マートン・ロンドン特別区ウィンブルドン |
開催会場 | オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブ |
サーフェス | 芝 / 屋外(センターコートは屋内および屋外) |
男子ドロー | 128S (128Q) / 64D (16Q) |
女子ドロー | 128S (96Q) / 64D (16Q) |
混合ドロー | 48D |
賞金総額 | £13,725,000 |
グランドスラム | |
ウィンブルドン選手権(ウィンブルドンせんしゅけん、英語:The Championships, Wimbledon)は、イギリス・ロンドンのウィンブルドン (Wimbledon) で開催されるテニスの四大国際大会の一つである。
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概要[編集]
本大会の名称は、以前は「The Lawn Tennis Championships on Grass」であった。この名称が短縮され、現在は「The Championships」と呼ばれる[1]。日本語では便宜上「全英オープン」と呼ばれる場合もある。
毎年オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブを会場とし、6月最終月曜日から2週の日程で開催される。開催期間中の第1週と第2週の中間に位置する日曜日をミドル・サンデーと呼び、この日を休養日として設ける伝統がある。雨天による日程の消化不良が深刻化した1991年まで、この伝統は一貫して遵守されて来たが、1997年と2004年も同様の理由からミドル・サンデーに試合が行われた。この時期のウィンブルドンは雨が降りやすく、試合が中断される事が多い。
試合や練習の際には白いウェアを着用する事が義務付けられている事も伝統となっており、これは1884年の同選手権女子シングルス部門の初代優勝者が白で揃えたウェアを着用していた事に由来する。[2]
開催国イギリスの優勝者は1977年の女子シングルス優勝者バージニア・ウェードを、男子シングルスでは1936年のフレッド・ペリーを最後に現れておらず、ウィンブルドン現象という言葉が生まれた。
優勝決定後の表彰式の準備の手際の良さも見どころの一つである。
2009年にはセンターコートに引き込み式屋根 (retractable roof[3]) が設置され、同年6月29日、ディナラ・サフィナ対アメリ・モレスモの試合において初めて使用された。屋根は午後4時39分より動き始め、4時46分までには完全に閉じられた。午後5時19分、屋根が閉じた後初めてのプレーがモレスモのサーブにより開始された[4]。
優勝者には、オールイングランド・ローンテニス・アンド・クローケー・クラブの会長であるケント公爵エドワード王子からトロフィーが授与される。
過去10年のシングルス優勝者[編集]
年 | 男子 | 女子 | 備考 |
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2003年 | ロジャー・フェデラー | セリーナ・ウィリアムズ | フェデラーは、男子のスイス出身者として初の4大大会優勝。 |
2004年 | ロジャー・フェデラー | マリア・シャラポワ | |
2005年 | ロジャー・フェデラー | ビーナス・ウィリアムズ | |
2006年 | ロジャー・フェデラー | アメリ・モレスモ | |
2007年 | ロジャー・フェデラー | ビーナス・ウィリアムズ | フェデラーが、オープン化以後ではボルグに並ぶシングルス連続優勝回数最多タイ記録の5連覇。 |
2008年 | ラファエル・ナダル | ビーナス・ウィリアムズ | 男子シングルス決勝戦としては、歴代最長の4時間48分。ナダルはボルグ以来の全仏、全英の連続優勝(同一年優勝)。 |
2009年 | ロジャー・フェデラー | セリーナ・ウィリアムズ | センターコートの屋根が完成。新しく2番コートが新設される。 フェデラーがサンプラスの記録を抜く4大大会男子シングルス最多優勝(15回)。男子シングルス決勝のゲーム数は77で、4大大会男子シングルス決勝では最多記録。 |
2010年 | ラファエル・ナダル | セリーナ・ウィリアムズ | |
2011年 | ノバク・ジョコビッチ | ペトラ・クビトバ | |
2012年 | ロジャー・フェデラー | セリーナ・ウィリアムズ | フェデラーが、レンショーとサンプラスに並ぶ男子シングルス最多優勝7回を達成。 |
記録[編集]
男子(1877年 - )[編集]
記録名 | 時代[5] | 選手名 | 記録値 | 年代 |
---|---|---|---|---|
シングルス 最多優勝回数 |
1968年以前 | ウィリアム・レンショー | 7回 | 1881年 - 1886年、1889年 |
1968年以後 | ピート・サンプラス | 7回 | 1993年 - 1995年、1997年 - 2000年 | |
ロジャー・フェデラー | 2003年 - 2007年、2009年、2012年 | |||
シングルス 最多連続優勝回数 |
1968年以前 | ウィリアム・レンショー[6] | 6回 | 1881年 - 1886年 |
1968年以後 | ビョルン・ボルグ | 5回 | 1976年 - 1980年 | |
ロジャー・フェデラー | 2003年 - 2007年 | |||
ダブルス 最多優勝回数 |
1968年以前 | レジナルド・ドハティー ローレンス・ドハティー |
8回 | 1897年 - 1901年、1903年 - 1905年 |
1968年以後 | トッド・ウッドブリッジ | 9回 | 1993年 - 1997年、2000年(いずれもマーク・ウッドフォード組)、2002年 - 2004年(ヨナス・ビョークマン組) | |
ダブルス 最多連続優勝回数 |
1968年以前 | レジナルド・ドハティー ローレンス・ドハティー |
5回 | 1897年 - 1901年 |
1968年以後 | トッド・ウッドブリッジ マーク・ウッドフォード |
5回 | 1993年 - 1997年 | |
混合ダブルス 最多優勝回数 |
1968年以前 | ケン・フレッチャー | 4回 | 1963年、1965年 - 1966年、1968年(マーガレット・スミス・コート組) |
ビック・セイシャス | 1953年 - 1956年(ドリス・ハート組で3回、シャーリー・フライ組で1回) | |||
1968年以後 | オーウェン・デビッドソン | 4回 | 1967年、1971年、1973年 - 1974年(いずれもビリー・ジーン・キング組) | |
最多優勝回数 (シングルス、ダブルス、混合の合計) |
1968年以前 | ウィリアム・レンショー | 14回 | 1880年 - 1889年(シングルス7回、ダブルス7回) |
1968年以後 | トッド・ウッドブリッジ | 9回 | 1993年 - 2004年(ダブルス9回) |
女子(1884年 - )[編集]
記録名 | 時代[5] | 選手名 | 記録値 | 年代 |
---|---|---|---|---|
シングルス 最多優勝回数 |
1968年以前 | ヘレン・ウィルス・ムーディ | 8回 | 1927年 - 1930年、1932年 - 1933年、1935年、1938年 |
1968年以後 | / マルチナ・ナブラチロワ | 9回 | 1978年 - 1979年、1982年 - 1987年、1990年 | |
シングルス 最多連続優勝回数 |
1968年以前 | スザンヌ・ランラン | 5回 | 1919年 - 1923年 |
1968年以後 | / マルチナ・ナブラチロワ | 6回 | 1982年 - 1987年 | |
ダブルス 最多優勝回数 |
1968年以前 | エリザベス・ライアン | 12回 | 1914年(アグネス・モートン組)、1919年 - 1923年、1925年(スザンヌ・ランラン組)、1926年(メアリー・ブラウン組)、1927年、1930年(ヘレン・ウィルス・ムーディ組)、1933年 - 1934年(シモーヌ・マチュー組) |
ビリー・ジーン・キング | 10回 | 1961年 - 1962年(カレン・サスマン組)、1965年(マリア・ブエノ組)、1967年 - 1968年、1970年 - 1971年、1973年(ロージー・カザルス組)、1972年(ベティ・ストーブ組)、1979年(マルチナ・ナブラチロワ組) | ||
1968年以後 | / マルチナ・ナブラチロワ | 7回 | 1976年(クリス・エバート組)、1979年(ビリー・ジーン・キング組)、1981年 - 1984年、1986年(パム・シュライバー組) | |
ダブルス 最多連続優勝回数 |
1968年以前 | スザンヌ・ランラン エリザベス・ライアン |
5回 | 1919年 - 1923年 |
1968年以後 | / マルチナ・ナブラチロワ パム・シュライバー |
4回 | 1981年 - 1984年 | |
/ ナターシャ・ズベレワ | 1991年(ラリサ・ネーランド)、1992年 - 1994年(ジジ・フェルナンデス) | |||
混合ダブルス 最多優勝回数 |
1968年以前 | エリザベス・ライアン | 7回 | 1919年、1921年、1923年(ランドルフ・ライセット組)、1927年(フランシス・ハンター組)、1928年(パトリック・スペンス組)、 1930年(ジャック・クロフォード組)、1932年(エンリケ・マイヤー組) |
1968年以後 | / マルチナ・ナブラチロワ | 4回 | 1985年(ポール・マクナミー)、1993年(マーク・ウッドフォード)、1995年(ジョナサン・スターク)、2003年(リーンダー・パエス) | |
最多優勝回数 (シングルス、ダブルス、混合の合計) |
1968年以前 | ビリー・ジーン・キング | 20回 | 1961年 - 1979年(シングルス6回、ダブルス10回、混合4回) |
エリザベス・ライアン | 19回 | 1914年 - 1934年(ダブルス12回、混合7回) | ||
1968年以後 | / マルチナ・ナブラチロワ | 20回 | 1976年 - 2003年(シングルス9回、ダブルス7回、混合4回) |
その他[編集]
記録名 | 選手名 | 記録値 | 年代 |
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最多試合数(男子) | ジャン・ボロトラ | 223戦 | 1922年 – 1939年、1948年 – 1964年 |
最多試合数(女子) | / マルチナ・ナブラチロワ | 326戦 | |
シングルス最多準優勝回数(男子・女子) | ブランチ・ビングリー | 7回 | 1885年、1887年 - 1888年、1891年 - 1893年、1901年 |
クリス・エバート | 1973年、1978年 - 1980年、1982年、1984年 - 1985年 | ||
優勝者の最低世界ランキング(男子・女子) | ゴラン・イワニセビッチ | 125位 | 2001年 |
ワイルドカード(主催者推薦)の優勝者(男子・女子) | ゴラン・イワニセビッチ | 2001年 | |
優勝者の最低世界ランキング(女子) | ビーナス・ウィリアムズ | 31位 (第23シード) |
2007年 |
最年少優勝者(男子) | ボリス・ベッカー | 17歳 | 1985年 |
最年少優勝者(女子シングルス) | ロッティ・ドッド | 15歳 | 1887年 |
最年少優勝者(女子ダブルス) | マルチナ・ヒンギス | 15歳 | 1996年 |
最長試合時間決勝戦(男子) | ジョン・マッケンロー ミヒャエル・シュティヒ 対 ジム・グラブ リッチー・レネバーグ |
5時間1分 | 1992年、男子ダブルス |
最長試合時間(男子) | ジョン・イスナー 対 ニコラ・マユ |
11時間5分 | 2010年、男子シングルス ―最終第5セットがゲームカウント59-59で2日目の日没サスペンデッド(中断)となった。第5セットは最終的に70-68となりイスナーが勝利した。 |
最多ゲーム数決勝戦(男子) | ジョン・マッケンロー ミヒャエル・シュティヒ 対 ジム・グラブ リッチー・レネバーグ |
83ゲーム | 1992年、男子ダブルス |
最多ゲーム数(男子) | ジョン・イスナー 対 ニコラ・マユ |
183ゲーム | 2010年、男子シングルス |
最長試合時間決勝戦(女子) | リンゼイ・ダベンポート 対 ビーナス・ウィリアムズ |
2時間45分 | 2005年、女子シングルス |
テレビ放送[編集]
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BBCが1937年からウィンブルドン選手権の放送を担当しており、2005年の実績では全チャンネルで約900時間を放送した。また法令により、決勝戦の模様は必ず生中継で最後まで放送しなければならない。
日本ではシングルスはテレビ朝日(?~1986年。当時の放送時間は準決勝までは深夜枠にて、女子のシングルス決勝は土曜日のニュース最終版終了後の深夜枠にて衛星中継、男子シングルス決勝は「日曜洋画劇場」を休止して衛星生中継で放送していた。途中ニュース最終版などの挿入による中断あり)→NHK(1987年以降~)、ダブルスはGAORAで長年放送されていた。シングルスはNHKデジタル衛星ハイビジョンで全日程生中継され2003年まではNHK衛星第1テレビ(年によっては衛星第2テレビ)でも大半の試合を生中継していたが、年々NHKがウィンブルドン放送を担当する時間は大幅に減少していき2008年からはNHKに替わってWOWOWがウインブルドンの衛星放送権を獲得している。
NHKは地上波総合テレビのみでの放送となり、毎日24時台~4時15分の日付起点時間までの終夜体制で録画中継を行っている。生中継は一旦廃止されたものの2012年に男子シングルス決勝と女子シングルス決勝の生中継が復活した、また大会終了から1週間後に衛星第1でシングルスの決勝戦を2時間程度にまとめた録画版を放送している(2009年の男子は試合が長引いたので3時間程度のものになった)。2010年は他のスポーツ中継と重なり、教育テレビで放送を行っている。
優勝賞金(男女シングルス)[編集]
年 | 金額 | |
---|---|---|
男子 | 女子 | |
1989年 | 19万0000ポンド | 17万1000ポンド |
1990年 | 23万0000ポンド | 20万7000ポンド |
1991年 | 24万0000ポンド | 21万6000ポンド |
1992年 | 26万5000ポンド | 24万0000ポンド |
1993年 | 30万5000ポンド | 27万5000ポンド |
1994年 | 34万5000ポンド | 31万0000ポンド |
1995年 | 36万5000ポンド | 32万8000ポンド |
1996年 | 39万2500ポンド | 35万3000ポンド |
1997年 | 41万5000ポンド | 37万3500ポンド |
1998年 | 43万5000ポンド | 39万1500ポンド |
1999年 | 45万5000ポンド | 40万9500ポンド |
2000年 | 47万7500ポンド | 43万0000ポンド |
2001年 | 50万0000ポンド | 46万2500ポンド |
2002年 | 52万5000ポンド | 48万6000ポンド |
2003年 | 57万5000ポンド | 53万5000ポンド |
2004年 | 60万2500ポンド | 56万0500ポンド |
2005年 | 63万0000ポンド | 60万0000ポンド |
2006年 | 65万5000ポンド | 62万5000ポンド |
2007年 | 70万0000ポンド | |
2008年 | 75万0000ポンド | |
2009年 | 85万0000ポンド | |
2010年 | 100万0000ポンド | |
2011年 | 110万0000ポンド | |
2012年 | 115万0000ポンド |
脚注[編集]
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- ^ Barry Lorge「At its roots, Wimbledon is about the grass」『ESPN TENNIS』 ESPN Internet Ventures、2011年11月11日閲覧。
- ^ 但し、同じ会場を舞台に2012年に行われるロンドンオリンピックの期間だけは特殊例として、各国のナショナルチーム、あるいは国旗の色のテニスウェアの着用、並びにスタンド最前列のフェンスのカラー化(通常は緑色だが、この大会期間中は大会シンボルカラーの紫色と桃色をあしらった横断幕を使用)が認められた。テニスナビ「錦織圭などのオリンピック・テニス1回戦は29日(日)から」(2012年7月28日・同30日閲覧)
- ^ 「LONG TERM PLAN」『Wimbledon』 AELTC、2011年11月11日閲覧。
- ^ Alix Ramsay「THE ROOF IS CLOSED」『Wimbledon』 AELTC、2011年11月11日閲覧。
- ^ a b 1968年にオープン化制度が創設されてプロ選手の出場が解禁されたため、多くの記録はこの年の前後で分けられる。
- ^ レンショーの時代にはディフェンディング・チャンピオンは予選に参加せず、決勝戦のみ出場した。この規定は、1922年に廃止された。
関連項目[編集]
- ウィンブルドン現象
- ウィンブルドン選手権男子シングルス優勝者一覧
- ウィンブルドン選手権女子シングルス優勝者一覧
- ウィンブルドン選手権男子ダブルス優勝者一覧
- ウィンブルドン選手権女子ダブルス優勝者一覧
- ウィンブルドン選手権混合ダブルス優勝者一覧
- 全英オープン (車いすテニス)
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