今日・5/18・は、書くこと一杯
割愛の順・・3、は時間の都合でアップ?
1.浜屋敷 5周年 不参加 ネタが?
2.千里竹の会 総会 不参加
ネタ あるわけないしょ
●今後の予定
5/24 市庁舎 夕刻 第10回 吹田ボランティアフェスティバル
市役所 駐車場 17:00~
竹灯・・撮りまっせ
5/25 ミュージカル「おせっかいは罪?]14:30 メイ 小ホール
3.千里南公園の撮影・・「千里南公園の文化紹介 その10 「あじのこが/石碑」
新緑を満喫
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「すいはく」の「緑が笑う」から<写真2/3と間違い>、ジェロ「海雪」 良寛 すいはく 出雲崎(新潟<越後>)へと・・・・・
写真1は
http://www.town.izumozaki.niigata.jp/
お問合せ先:出雲崎町役場 総務課
〒949-4392 新潟県三島郡出雲崎町大字川西140
TEL/0258-78-3111(代)
FAX/0258-78-4483
より・・・・
■ ジェロさん「海雪」は、演歌・・NHKで・・今年の演歌は、雲崎町、上げて、「紅白」にの応援・・
■つい、3日くらい前?、昼 NHKのTV見ていて、ジェロさん・・そして、今日、「出雲崎」と・・渡に舟で・・江戸時代は、北国海道の港町・・平成19年7月18日 新潟中越沖地震発生・・・縁結びの神様・・「出雲」と頭が、ゴチャがより、スッキリ、訪ねてみたいね
、
■http://www.jvcmusic.co.jp/jero/
日本人である祖母の影響を受け、幼少より演歌を聴き始める。
そして、大好きな祖母を喜ばせる為に自分でも演歌を歌い始めるうちに、自分自身が演歌の虜となる。
その後、名門ピッツバーグ大学に進学し、情報科学を専攻。優秀な成績を収め、コンピュータエンジニアとして周囲から将来を嘱望される。だが、その一方で演歌の魅力にますますとりつかれ、ついに2003年、演歌歌手になる為に来日。来日して2ヵ月後にはNHKのど自慢に出場し、いきなり合格。
その後、コンピュータエンジニアとして仕事をする一方で、各地のカラオケ大会で数々の優勝・準優勝を獲得。アマチュア演歌歌手として精力的に活動を続けているところを、 ビクターエンタテインメントがスカウト。
2年に及ぶボーカルトレーニングを経て、2008年2月シングル「海雪」でビクターエンタテインメントよりデビュー。
一聴しただけでは日本人としか思えないその歌声は、初めて聴いた者すべてを驚愕さ せる。 日本人以上に日本人の心を持つジェロの登場は、2008年最大の衝撃である。
「すいはく」=吹田市立博物館
http://www.suita.ed.jp/hak/
博物館トーク
「良寛の書」
良寛は、江戸時代後期の越後の禅僧で、多くの和歌や漢詩を作りました。その書体は、柔らかくのびやかでありながら、芯の強さをそなえた独特のものです。良寛の書からみえてくる思想や人物像についてお話しします。
滝沢幸恵(当館学芸員) 5月18日(日)
14:00~15:00
聴講者 80名以上
・・・・・
「すいはく」のある、お山=「紫金山」
「良寛の書」を聴講し、2階~東を見れば・・緑=樹 笑う
緑=樹笑う、俳句の季語にあるょ・と、「万博展」の「万博テスト」のお方から、教わる
こんな光景は、初めて・・・またまた、「すいはく」で、お勉強・・
時に、お金に・・・禅 全然・・良寛さん
だから、日本のこどもに好かれたんかな・・一休さん(ひと休み、一休み)もでしたとさ
・・・
■今日の「すいはく」
駐車場 昼 40台・・何か会合か、「西村 公朝展」か・・
千里NT展・万博展には、及ばないが、とにかく この頃は多くなったとか
「西村 公朝 展」が、はじまって~10台/日は、増えたとか
・・・・・・・
もとに、帰ります
良寛さん
短歌「世の中に」
世の中にまじらぬとにはあらねども
一人あそびぞはまされる
良寛さんの風貌が見えます・・写真 左
ところで・・良寛さんとは・・ご案内を受けた「良寛像」と・・客観性という言葉につられて・・失礼・・・
■良寛■
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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良寛
1758年11月2日 - 1831年2月18日
長岡市隆泉寺の良寛像
生地 越後国
宗派 曹洞宗
師 国仙和尚
良寛(りょうかん 宝暦8年10月2日〔1758年11月2日〕 - 天保2年1月6日〔1831年2月18日〕)は江戸時代の曹洞宗の僧侶、歌人、漢詩人、書家。俗名、山本栄蔵または文孝。号は大愚。
人物
良寛は越後国出雲崎(現・新潟県三島郡出雲崎町)に生まれた。父、山本左門泰雄はこの地区の名主であり、以南という俳人でもあった(異説では越後国新津(現・新潟県新潟市秋葉区)の大庄屋・桂誉章の子)。名主見習いだった良寛は18歳のとき出家したが、この時期には妻(山本家家譜によると死後法名は釋尼妙歓)が居たとする説が最近出ている(この妻は出家前に離縁)。 出家後、玉島(岡山県倉敷市)の円通寺の国仙和尚に師事し、諸国を廻る。その頃義提尼より和歌の影響を受ける。48歳のとき、越後国蒲原郡国上村(現燕市)国上山(くがみやま)国上寺(こくじょうじ)の五合庵、61歳のとき、乙子神社境内の草庵、70歳のとき島崎村(現長岡市)の木村元右衛門邸内にそれぞれ住んだ。無欲恬淡な性格で、生涯寺を持たず、諸民に信頼され、良く教化に努めた。良寛自身、難しい説法を民衆に対しては行わず、自らの質素な生活を示す事や、簡単な言葉(格言)によって一般庶民に解り易く仏法を説いた。その姿勢は一般民衆のみならず、様々な人々の共感や信頼を得ることになった。
最期を看取った弟子の貞心尼が『蓮の露』に良寛の和歌を集めた。良寛は和歌の他、狂歌、俳句、俗謡、漢詩に巧みで、書も能くした。新潟県長岡市(旧和島村)の隆泉寺に眠る。
良寛の名は、子供達を愛し積極的に遊んだという行動が人々の記憶に残っている。良寛は「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と解釈し、子供達と遊ぶことを好み、かくれんぼや、手毬をついたりしてよく遊んだという(懐には常に手毬を入れていたという)。名書家として知られた良寛であったが、高名な人物からの書の依頼は断る傾向があったが、子供達から凧に文字を書いて欲しいと頼まれた時には喜んで『天上大風』(てんじょうたいふう)の字を書いた(現在でもその凧は残っている)。ある日の夕暮れ時にも、良寛は隠れん坊をして子供達と遊んでいて、自分が隠れる番になり、田んぼにうまく隠れ得た。しかし、日が暮れて暗くなり、子供達は、良寛だけを探し出せないまま、家に帰ってしまった。翌朝早くに、ある農夫が田んぼに来ると、そこに良寛が居たので、驚いて問い質すと、良寛は、「静かに!そんな大声を出せば、子供達に見つかってしまうではないか」と言ったという。このような類いの話が伝えられ、子供向けの童話などとして紹介されることで、良寛に対する親しみ深い印象が、現在にまで伝えられている。
また戒律の厳しい禅宗の僧侶でありながら般若湯(酒)を好み、良寛を慕う民と頻繁に杯を交わした。また弟子の貞心尼に対してほのかな恋心を抱いていたといわれている。
■■滝沢さんの方が、わかり易く思います。
良寛さん 「遺偈」とききました?。
漢詩:「草庵雪夜作」
草庵雪夜作
回首七十有餘年、
人間是非飽看
破、往来跡幽深
夜雪、
一?線香
古匆下。
首を回らせば七十有余年、
人間の是非看破に飽きたり。
往来の跡は幽なり深夜の雪、
一の線香古窓の下。