11/1 金 朝刊
(政界変動)予算・税制で連携 自民・国民民主、幹事長が合意 自公国で「部分連合」
ドジャースが頂点 大谷、7年目で悲願 大リーグ
一力、初の名人位奪取 史上4人目の「名人棋聖」 囲碁
勝俣恒久さん死去 原発事故時の東電会長
折々のことば:3251 鷲田清一
「なぜか勝ててよかったです」 (伊藤あおい)
(天声人語)おしいれのぼうけん
「さくらほいくえんには、こわいものがふたつあります」。古田足日(ふるたたるひ)さんと田畑精一さんの絵本『おしいれのぼうけん』はこう始まる。二つのうち、一つは押し入れで、もう一つはねずみばあさん▼▼▼▼▼絵本の最後はこう終わる。「さくらほいくえんには、とてもたのしいものがふたつあります」。一つは押し入れで、もう一つはねずみばあさんだ。
★(しつもん!ドラえもん:5247)かいしゃ編
会社(かいしゃ)を作(つく)ってすぐに価値(かち)がものすごく高(たか)くなる企業(きぎょう)を、幻(まぼろし)の動物(どうぶつ)に例(たと)えているよ。何(なに)かな。
★ こたえ
ユニコーン企業(きぎょう)
設立(せつりつ)10年以内(ねんいない)で価値(かち)が10億(おく)ドル以上(いじょう)になった、上場(じょうじょう)していない会社(かいしゃ)を指(さ)すよ。めったに現(あらわ)れないため、伝説(でんせつ)の一角獣(いっかくじゅう)に例(たと)えられているんだ。
食料貯蔵
11/1 金 夕刊
一力新名人、異次元の数字愛 幼稚園児で√計算・記者の生まれた曜日即答 囲碁
「北朝鮮兵、数日以内に戦闘投入」 ブリンケン米国務長官
北朝鮮ICBMは最新型「火星19」
インテル、過去最大2.5兆円の赤字
素粒子
「いやいやえん」の中川李枝子さん。「いやだいやだ」のせなけいこさん。子どもの「いや」を大切にした絵本作家が逝く。
◇
不登校の小中学生、最多の34万人に。「もう無理」「行きたくない」は炭鉱のカナリアたちのうめき声。学校よ、変われ。
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1票に込めた「いや」が、たちまち「ゆ党」にのみ込まれそう。政権延命のための数合わせ、丸のみ? いやだいやだ!
◆(寄稿)「現在の歴史」を生きる 文化人類学者・今福龍太
私は一枚の古地図を見ている。「明治十五年測量図 相模国高座郡辻堂村」(1882年測量。現在の神奈川県藤沢市辻堂一帯)。南に相模灘の海。北へ広がる海岸砂丘の縁に幾本かの生活路が不規則に交差し、四つ辻のあたりにわずかな家々が。あとは畑地と松の疎林が点在するだけ。源頼朝の勧請により建てられたお堂の辻から生まれたとされるこの半農半漁の小村が、住宅や団地が密集する首都圏のベッドタウンとなって久しいことをこの地図から想像することはむずかしい。ここが、私が幼少から青年期を過ごし、成人してからメキシコやブラジルの都市や荒野をさまよった後、いままた日々を暮らす土地である。
首都圏郊外に流れた140年ほどの歳月。明治維新にはじまる社会制度や生活環境の急速な近代化、軍国主義下の統制と戦争、その後の「高度成長」。こうした日本の近現代の大きな歴史のなかで変化し、書き換えられていった地図がこの古地図の上に何層も存在するのであろう。ほとんど空白にみえる状態から、住宅やビルや商業施設や道路がひしめき合う現在まで。一つの土地に流れた「歴史」を表層的な景観の変容から考えれば、それはたしかに激烈な宅地化と都市化の奔流だったことになる。
だが、近代化と戦後の高度成長という通時的な歴史の語りからだけでは見えない何かを、ある土地に暮らすという経験は深いところで教えてくれる。出来事や人間のそのときどきの感情を、過去から現在、未来へとむすぶ「因果関係」の帰結として見るのではない。それはむしろ、土地に重層的に保持されている記憶を自己の内部にも呼び出しながら、「いま」という時を人間的経験の複雑な織物として感知するような生活感覚である。私はこれを、過去を語る歴史のあり方では捉えられない歴史意識として、「現在の歴史」と呼んでみたい。
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私の幼少期のはじまりの記憶。それはトタン屋根の軒低い家々のまわりに点々と存在した松林と、海へつづく広大な砂丘のゆるやかな起伏である。スイカ畑だった砂地の土地に建てられたわが家から海にむかって一直線に歩けば、建物にも舗装道路にもさえぎられることなく、砂丘を越えて子供の足でもものの15分ほどで砂浜に降り立つことができた。早朝の地引き網漁で捨てられたクラゲやウミヘビがあちこちに転がっている浜は、子供にとっては天国だった。雑木林にはチョウやクワガタがすみ、沼にはギンヤンマがキラキラと飛翔(ひしょう)していた。小さな社の縁の下では犬が子供を産んでおり、私や友達は一緒になって毎日食べ物を持っていった。個人のペットではなく、近隣全体で犬を大切に世話していたのである。
けれど小学校に入ってまもない1960年代のはじめごろから、そうした景観は急速に消えていった。砂丘は切り崩されて住宅団地が建ち、雑木林は道路や宅地に変わり、沼も埋め立てられ、神社の犬もいなくなる。この時期の私の記憶は、昨日まで豊かな遊びと学びの場だった自由空間が突然消えているという、驚きと深い失意の連続としてある。あの古い地図の空白とつながっていたかもしれない自由の空閑地は、成長をうたうブルドーザーによって物理的に消滅させられていったのである。だがこうした語り方は、居住空間の表層的な変容を嘆く後ろ向きのノスタルジーに聞こえなくもない。
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けれどさらにさかのぼって、ほとんど何もないように見えた昔の地図のなかで、実際にここに住み、日々生を営んでいた人々を想像してみる。生活者の内面の心象地図には、生業や生活感情に根ざした、陰影をもったさまざまな絵柄が存在したはずだ。日々の畑の世話。氏神様や路傍の道祖神に祈るときの無心。神社の大祭の華やかなみこしの渡御。先祖が帰ってくるお盆の前の、集落総出の掃除やどぶさらい。台風が去れば、煮炊きのための松葉かきも大切な仕事だった。浜での地引き網で沿岸の小魚をとっていた村人たちは、豊漁のイワシを子供たちにひとすくい持たせ、神社の前にこれをぶちまけた。自然から賜った漁獲は集落の共有財産だったことの証しである。近代の私有と金銭取引がはじまる背後で、いまだ市場経済に組み込まれない、古来の共同体的な分かち合いと相互扶助の慣習が明治以後戦前まではたしかに生きていたのである。そんな村人の心のあやは幼い私にも感じとれた。
昭和初期に辻堂に25歳で引っ越し、ここで戦争をはさんで半世紀余を一生活者として生きた在野の評論家・戸井田道三(1909~88)の評伝を私は昨年出版した。病弱だった戸井田は、海に近い松林のそばの小さな家でひっそりとものを書きながら、つつましく生きる土着民の心の内奥に深く寄り添って暮らした。戦争をはさんで大きな変容をみたムラのすがた、深いところで持続する人々の信仰心、土地に根ざす風俗習慣の移り行きを細やかな目で観察し、共感を込めて描写した。
時間の推移のなかでの日常を民衆の意識の内面からとらえようとした戸井田は、「歴史」を「進歩」や「衰退」といった外形的な時間の帰結として見ることを拒んだ。いま起こっている「現在の歴史」をこそ私たちは生きているのだ、と。「現在の歴史」とは主体的な歴史であり、「いま」に出現する歴史である。それは言語にならない生活領域で起こる長い波長の揺らぎや変化としてある現在のことであり、たえず呼び出され、意味づけ直されて人々の現在の思いや行動を律する、深く脈々と持続する集団的記憶のことである。
そうした記憶が人々の現在の感情や日常の所作を生み出す。歴史は瞬間瞬間に「生きられ」ているのである。
戸井田は「歴史」と呼ばれるものの客観性を外部の出来事に求めずに、人間の心の内部の心象に求めた。日々の生の営みのなかで意識と身体に刻まれてゆく「言葉以前の記憶」こそが、人々が内面に共有する、すぐれて客観的な歴史であると考えたのである。
辻堂の浜で温かい砂を手にすくい、人は啄木の砂山の歌を感傷的に反芻(はんすう)することもできる。だがこの砂浜に立って、戦後に到来したアメリカの艦隊が威嚇するように相模灘を埋め尽くした風景を、いま現在の沖縄に投影させて想像力を鍛え直すこともできる。
実際、59年までは米軍の演習場として「OFF LIMITS」(立ち入り禁止)の鉄柵が立てられていた辻堂海岸の重層化された風景を、私もまた人々に共有されてきた記憶として、すなわち「現在の歴史」として受け継いでいるのである。私の内部には、昔もいまも、この海岸でただ水泳に興ずることができない何かがつねにある。
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「現在の歴史」は日々の何げない風景のなかに潜み、ときに私たちの眼前に顔を出し、私たちに何かを求めてくる。表層的に見て生活景観がどれほど変容しようとも、この深層の歴史は身体の共同記憶のなかに維持され、それを基点として私たちの新たな一日はつねに始まる。だからこそ、それは過去の出来事に過度に縛られないことを私たちに促し、また予定調和的な未来を想定して夢を捨てたりしないよう、私たちを鼓舞する。海岸の美しい松林だった土地は単なる宅地開発のためにあったのか? 海は観光資源にすぎないのか? 合理主義に染まった経済や技術のさしだす平板な未来像をたえず問い直しながら、一つの土地の重層的な記憶を想像力とともに生きなおす自由に目覚めることができる。
直線的な歴史の構成に組み込まれずに生きるには、わかりやすい表層の歴史、戦後の「成長」神話といった物語に包摂されない、生の主体的で冒険的な可能性の絵柄を、あの古い地図から透視しなければならないのだろう。今年生誕100年を迎えた作家・安部公房は、人間の精神とは内部にある古地図の修正器官だと示唆的に書いていた(『砂漠の思想』)。自分の思いが投影された生活の内部地図を、現実の変化に合わせて修正することで、人は精神の均衡を保つ。だが現実の物理的変化が激しいと修正作業が間に合わず、人間は精神的変調をきたしてしまう。だから安部は言う。古地図にしがみつくのでもなく、終わりのない修正に疲れ果てるのでもなく、地図は一枚きりではないと知ることだ、と。日常の別様の可能性に向けた小さな冒険への誘いである。
歴史とは終わってしまった過去ではない。現在を受けとめるために書き換えていかねばならないものでもない。それは「いま」の深層に流れつづけ、突如現在へと躍り出してくる、私たちが多様に生きることの拠点である。老人も、子供も、社会福祉や庇護(ひご)の対象ではなく、「いま」に浮上する歴史を縦横に生きるかけがえなき「行為者」(エージェント)なのである。
そんな主体化された「現在の歴史」をこそ、私たちは自らと集団の「いま」に呼びださねばならない。経済成長と呼ばれる戦後80年の大きな変容のなかで徹底的に「空間化された時間」を生かされてしまった一つの町に暮らしながら、いま考えることはそんなささやかな決意である。
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いまふくりゅうた 1955年、東京生まれ。生後3カ月から湘南・辻堂で育つ。クレオール文化研究の第一人者。奄美群島を舞台にした学舎「奄美自由大学」を主宰する。「クレオール主義」「群島―世界論」など著書多数。近著に「霧のコミューン」。
◆ 控えめハロウィーン、規制効果? 新宿・渋谷
ハロウィーンの10月31日、東京都内ではあちこちで、仮装を楽しむ人の姿がみられた。ただ、今年はトラブルを未然に防ごうと、対策を強めた自治体の職員や警察官の姿も目立った。ハロウィーンの東京の夜を歩いた。
午後6時、新宿・歌舞伎町にはアニメキャラクターなどに仮装した若者らが集まり始めた。仮装姿の若者にスマートフォンを向けるのは、外国人観光客とみられるグループ。仮装姿の若者の何人かは、飲みかけの缶チューハイを手にしていた。そんなグループに近づき、路上飲酒しないよう注意したのは新宿区の職員や警察官たちだ。
午後8時近く、歌舞伎町は人でごった返すように。スーパーマリオなどに扮した外国人の姿も目立った。午後9時過ぎには、路上に座り込む人もいた。
新宿のハロウィーンが一変したのは、昨年のこと。例年、多くの若者らが集まっていた渋谷区が「ハロウィーン目的で来ないで」と呼びかけたことで、歌舞伎町を中心に人が流れ込んだ。区は6月、ハロウィーン当日の路上飲酒禁止などを盛り込んだ条例を制定。10月上旬には渋谷区と共同で会見し、吉住健一区長が「新宿は路上飲酒をお断りする」と強調した。
効果はあったのか。午後9時ごろ、歌舞伎町を訪れた吉住区長は、記者団に「人は多いが、昨年より路上飲酒は少ないと感じた。治安面も含め規制の効果が出ているのでは」と語った。
渋谷区は、今年も厳戒態勢だった。区は10月中旬、渋谷駅前に「渋谷は、ハロウィーンをお休みします」との文字が書かれた巨大広告を設置し、事前に「牽制(けんせい)」。「忠犬ハチ公像」も昨年同様、布で隠した。
31日は警備員と警察官が大勢配備され、スクランブル交差点やセンター街で人が滞留しないよう呼びかけた。ただ、午後9時ごろになると人出が増え、スクランブル交差点付近はすれ違うのも困難なほどだった。
東京有数の繁華街で次々と対策が強まることにやきもきしたのが、新宿区の隣の豊島区だ。区は今年、路上飲酒禁止などの規制を見送り、31日も警備を通常配置とする予定だった。
だが、新宿で行き場を失った人が池袋に流入するのではとの懸念が強まり、直前に方針を転換。普段から24時間体制で警備する池袋駅西口の広場や公園などに警備員を手厚く配置した。
方針転換の意向を示した10月22日の会見で、高際みゆき区長は祈るような思いを明かした。「今後、規制を考える事態にならないことを願っている」。祈りが通じたのか、午後10時過ぎ、駅周辺や西口の広場では特にトラブルが起きている様子はなかった。(木佐貫将司、本多由佳、武田遼)
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