2011年以降、日本各地で行われた放射線測定。その過程で核実験由来の放射線が見つかった。浮かんだのは半世紀以上前の列強国による核実験。当時、その海域で日本の漁船が操業していたという事実を掴んだ取材班は、船を特定し乗組員の追跡を始めた。生存者の口から語られる目撃証言。さらに核実験に関わったイギリス軍の元兵士や遺族も重い口を開き始める。その海で何があったのか。16年間にわたる取材が謎を解き明かしていく。
■ ■ 午前中 TVは
■■ 大気 海水 地球を覆う
福島 - ■東日本大震災- このあたりは 9年7ヶ月と1日 いかに
◆ ◆ 令和2年10月16日(金) ■東日本大震災 東日本大震災(ひがしにほんだいしんさい、ひがしにっぽんだいしんさい)は、2011年 (平成23年)3月11日午後2時
キリバス共和国(キリバスきょうわこく)、通称キリバスは、太平洋上に位置するギルバート諸島、フェニックス諸島、そしてライン諸島の一部等を領土とする国家で、イギリス連邦加盟国である。
キリバスは33の環礁からなり、それらは赤道付近に350万km²にもわたって散らばっている。そのために世界第3位に相当する排他的経済水域を有している(ただし、陸地が少なく領海や接続水域も少ないため、これらを含めると15位にも入らない)。世界で最も早く日付が変わる国でもある[1]。
正式名称は、Republic of Kiribati。通称、Kiribati。キリバス語での発音は「キリバシ」または「キリバス」のように聞こえる。
日本語の表記はキリバス共和国。通称キリバス。
国名は1788年、クルーゼンシュテルンらが島を発見したイギリスの水夫、トマス・ギルバートにちなむ。キリバス語はg音やl音を欠くため、英語読みの「Gilbert」が転じてキリバスとなった。
19世紀以前[編集]
先住民は、約2000年前西方からカヌーに乗ってやってきたミクロネシア系の人々であった。最初の来航したヨーロッパ人はスペイン人航海家で、1537年にクリスマス島(現キリティマティ島)を望見した。1777年にはイギリス人のジェイムズ・クックが来島し、19世紀初めからヨーロッパ人による経済活動が始まった。
イギリス植民地[編集]
1892年から、ギルバート諸島は隣のエリス諸島と共にイギリスの保護領となった。1916年には植民地となった。第二次世界大戦中の1941年に、イギリスの植民地政府を放逐した大日本帝国に占領され、後に一部の島は要塞化された。1943年より、アメリカ軍との間に、ギルバート・マーシャル諸島の戦いといった激しい戦闘が行なわれた。
1956年から1962年に、ライン諸島のクリスマス島がイギリスとアメリカ両国の核実験場とされた。1971年に自治領となった後、1978年にエリス諸島はツバルとしてイギリスから独立した。
1979年にキリバスが独立した。独立の際、アメリカはほとんど無人のフェニックス諸島および3つの島を除くライン諸島すべての所有権を放棄し、それぞれキリバスの領土となった。
独立当初は領域内を日付変更線が通過し、キリバスの時間体系は島によって日付が異なるという行政上において不便な設定になっていた。このため、1995年に日付変更線の位置を領域の東端にずらして不便を解消した。また、これによって「世界一早く新しい一日を迎える」国家になった。
Maneaba ni Maungatabu と呼ばれるキリバスの議会は、4年に一度の選挙で選ばれ、46人(うち直接選出が44人)の議員で構成される[2]。大統領は、元首であると同時に行政府の長でもあり、Beretitentiと呼ばれる。
21の有人の島にはそれぞれ地方議会があり、日々の問題を処理している。
現在、議会に議席を有する主要政党にはトブワーン・キリバス党(英語版)(TKP)、TKPから離党し結成されたキリバス・ファースト党(英語版)(KMP)、それに真理の柱(英語版)(BTK)がある。
外交面では、1980年から中華人民共和国と国交があった。その後、2003年に中華民国(台湾)と外交関係を開いたが2019年に中華人民共和国と復交[3]。2020年1月には、タネスィ・マアマウ大統領が訪中。二国間関係を深めた[4]。
海面上昇問題[編集]
海抜の低い環礁が多いために、キリバスは近年の地球温暖化による海面上昇で、国土の半数以上は水没の危機にある。 アノテ・トン大統領は、2007年8月に日本の読売新聞のインタビューで、もはやキリバスの水没は免れないと明言、全国民の他国への移住計画を発表した。大統領は、熟練労働者としての移住のため、キリバスでの職業訓練支援を日本、アメリカ合衆国、オーストラリアなどに呼びかけている。
2014年2月11日、フィジー共和国のエペリ・ナイラティカウ大統領が、キリバスの国土が水没した場合にキリバスの全国民をフィジーに移住させる用意があることを公式に表明した。
キリバスは、基本的に3つの諸島(ギルバート諸島・ライン諸島・フェニックス諸島)と1つの島(バナバ島)からなっている。
諸島・島嶼[編集]
- ギルバート諸島
- フェニックス諸島
- ギルバート諸島の南東およそ1800kmにある8つの環礁・珊瑚島
- ライン諸島
- バナバ島
- ナウル共和国とギルバート諸島の間にある孤島。バナバは、隆起した珊瑚の島であり、かつてリン鉱石 (phosphate) を豊富に産出したが、現在では枯渇してしまっている。他のキリバスの島は、環礁の砂と岩の小島、または海面のせいぜい2,3m上まで隆起した珊瑚島である。土地は痩せていてカルシウムを含んでおり、コプラ(椰子の実)栽培以外の大規模農業を行うのは困難である。
地方行政区分[編集]
行政区画では、以下の6地区に区分されている。
タラワを含む4つの地区は、ギルバート諸島にあり、住民の多くはここに住んでいる。 ライン諸島には3つの島(キリスィマスィ島・タブアエラン島・テライナ島)だけに人が住んでおり、フェニックス諸島ではカントン島に住民がおり、ライン・フェニックス地区を代表している。 バナバの2001年の人口は約200人であるが、フィジー共和国のランビ島に移り住んだ人々を代表するランビ指導者評議会 (Rabi Council of Leaders) がフィジーのランビ島に設立されており、バナバ及びキリバス政府と緊密な関係を保っている。
ナウル共和国など周辺のいくつかの国と同様、キリバスはほとんど天然資源を持たない。商業的に成立しうるリン酸塩の鉱床は、1979年の独立とちょうど同時に枯渇してしまった。現在は、コプラ、観賞用魚や海草が生産および輸出の大半を占める。
経済は、近年大きく揺れ動いている。経済発展は、熟練労働者の不足、インフラの未整備、国際市場から遠く離れていることにより、制約を受けている。経済成長率、物価上昇率ともに2003年で1.4%である。
イギリス植民地時代にリン鉱石の売り上げの一部を積み立て歳入均等化準備基金 (Revenue Equalisation Reserved Fund) が 作られ、現在キリバス国外で運用・投資され国庫の赤字分を補填しており、残高は2005年末時点で6億豪ドル弱を記録した。
第一次産業[編集]
キリバスの土地利用においては、農地が最大の面積(50.7%、1994年)を占めている。農業従事者は人口の10%に相当する9000人である。タロイモ(2000トン)とバナナ(5000トン)よりも、加工して輸出に向けるためのココナッツ(9万6000トン)の生産が盛ん。畜産業ではブタ(1万2000頭)。
水産業[編集]
水産業も小規模ではあるが存在する(漁獲高3万1000トン)。また広大な経済海域を持つことから、日本や台湾、中国、大韓民国やオーストラリアなどの外国漁船による入漁収入が政府の総収入の3割を占める重要な収入となっている。
第二次産業[編集]
最大作物のココナッツを加工し、コプラ(1万2000トン)を生産している。養豚により、食肉加工業も成立している(1000トン)。重工業は存在しない。
第三次産業[編集]
2001年の輸出額は729万オーストラリア・ドル、輸入額は7501万オーストラリア・ドルであり、かなり大きな貿易赤字である。輸出品は農産物と食品工業を中心とした農産物であり、輸入品は食糧、機械類、燃料である。
主な輸出品は、コプラ (63.7%)、魚介類 (20.9%)、野菜 (7.7%) である。主な貿易相手国はバングラデシュ(約5割を占める)、アメリカ合衆国、マーシャル諸島、デンマーク、香港。
主な輸入品は、機械 (11%)、穀物 (10.7%)、石油製品 (10.2%)、電気機械 (6.8%)、肉類 (5.9%)。主な輸入相手国は、オーストラリア(約4割を占める)、フィジー、日本、アメリカ、中華人民共和国。
観光業は、GDPの5分の1以上を占めている。
外国政府支援[編集]
特に、日本国・オーストラリア連邦・ニュージーランド王国・中華民国(台湾)からの政府支援が、GDPに対しての大きな補助となっている。その額は、近年ではGDPの25%から50%を占めている。 2017年のキリバス金融経済省の発表によると、国家予算の約50%が海外からの支援によって賄われている。海外で働いている労働者からの送金は、毎年500万ドル以上である。
情報通信・生活基盤[編集]
マスメディア[編集]
放送局[編集]
キリバスには国営放送のBPAがあり、インターネットにおいてはTelecom Services Kiribati Limitedというプロバイダが主流である。
新聞は売店などでの販売が主流で、週に一回キリバス語における新聞が発行される。
タラワにあるボンリキ国際空港にブリスベン、ホニアラ、ナンディ、ナウルとの間の飛行機が飛ぶ。いずれも、週1~2便の運行である。日本から行く場合は直行便が無いため、グアムやブリスベン、フィジーのナンディまで行き、タラワに戻る格好になる。空港から中心地バイリキまでは車で1時間である。 また、国内のキリスィマスィ島にカシディー国際空港もあるがタラワとの距離が3,000km以上あり同国内で運航可能な機体がなく、フィジーを経由する国際線で乗り継ぎが最短ルートとなっていたが2018年にエア・キリバチがE190-E2を2機購入契約したことで同機が納入される2019年以降直行便可能な機体を保有することになる[5]。
幹線道路の総延長は1996年推計で670kmである。舗装率は不明であるが、2001年時点で首都・南タラワは、27kmの舗装路が整備されている。
ライン諸島に小さな運河が5kmある。主要港湾はバナバ、ベティオ(Betio)、イングリッシュ・ハーバー(タブアエラン島)、カントンの4つで、キリバス船籍の大型商船は1隻在籍する(2002年現在)。この商船は客船兼貨物船で、無積載で1,295tある。
- 主な港湾
住民は、98.9%(1990年)がミクロネシア人で、他には少数のポリネシア人やヨーロッパ系人種や韓国系等の混成者もいる。
言語は、キリバス語と英語が公用語である。英語よりはキリバス語の方が広く話されている。
キリスト教が主要な宗教だが、固有の宗教の習慣などが混ざったものになっている。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
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マーシャル諸島
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- マーシャル諸島共和国
- Aolepān Aorōkin M̧ajeļ(マーシャル語)
Republic of the Marshall Islands(英語)
-
- 国の標語:Jepilpilin Ke Ejukaan
(マーシャル語: 共同の努力による達成)
- 国歌:マーシャル諸島よ永久に
- きリバス
-
マーシャル諸島共和国(マーシャルしょとうきょうわこく)、通称マーシャル諸島は、太平洋上に浮かぶ島国。ミニ国家の一つであり、「真珠の首飾り」とも呼ばれるマーシャル諸島全域を領土とする。ミクロネシア連邦の東、キリバスの北に位置する。
正式名称はマーシャル語で、Aolepān Aorōkin M̧ajeļ、英語で、Republic of the Marshall Islands。略称は、Marshall Islands 日本語の表記は、マーシャル諸島共和国。通称マーシャル諸島。日本の委任統治領時代は、マーシャル群島と呼称していたが、現在では歴史的な用語となった。
国名のマーシャルは、この辺りの海域を調査したジョン・マーシャルの名に由来する。1788年、イギリス東インド会社は、オーストラリアのニューサウスウェールズに寄港していたスカーボロー号(船長:マーシャル)とシャーロット号(船長:トーマス・ギルバート)に、茶の輸送のために広東への回航を指示すると共に、その航路周辺海域の調査を依頼した。この時に両船が調査したのが、現在のマーシャル諸島とその南に位置するギルバート諸島であった。
国家元首は、行政府の長でもある大統領。議会において、議員の中から選出される。任期は4年。大統領は、議会の議員の中から、閣僚を指名する。
議会は、一院制。33議席。国民の選挙によって選出。任期は4年。
大統領は、大酋長出身のアマタ・カブアが1979年の自治政府発足以来、長期に渡って務めたが、1996年に死去した。現在は2020年1月に就任したデービッド・カブア(英語版)。
熱帯雨林気候(Af)で、年中高温多雨。降水量・気温の年変化は少ない。
地域区分[編集]
マーシャル諸島共和国は24の地区に分かれる。
なお、クェゼリン島に限り、アメリカ軍管轄の駐留部隊の基地があるのみで一般人の入域は出来ない。
また、マーシャル諸島共和国はウェーク島の領有を主張しているが、100年以上もアメリカの実効支配下にあり、賛同する国は少ない。
- ラタック列島(Ratak Chain)
- ラリック列島(Ralik Chain)
IMFと世界銀行に加盟している。主要な輸出品目はコプラと魚介類だが赤字が続いている。
アメリカ合衆国からの援助に続き経済基盤の整備と外国資本の導入と漁業・観光業の振興を促進している。台湾と国交を樹立している。
便宜置籍船を誘致しているタックス・ヘイブンのひとつであり、世界有数の船籍国の一つである。
情報・通信[編集]
マーシャル諸島の主要放送局はCPNがあり、ほかに在マーシャル諸島米軍から放送されている米軍放送も受信できる。インターネットにおいてはCabinet Office of the Marshall Islandsというプロバイダが主流である。 新聞はマーシャル・ジャーナルなどがある。
首都マジュロにマジュロ・マーシャル国際空港があり、グアム、ホノルルなどと結ぶ。
住民はミクロネシア系のカロリニアンである。
アーカンソー州のスプリングデール (アーカンソー州)に5千人が移住した[1]。
言語はマーシャル語と英語が公用語であるが、日本の委任統治領であった関係から高齢者を中心に日本語を理解する者もいる。
宗教は長年の欧米統治の影響もあり、ほとんどがキリスト教のプロテスタントである。
祝祭日
日付 |
日本語表記 |
現地語表記 |
備考 |
1月1日 |
元日 |
New Years Day |
|
3月1日 |
核被害者追悼日 |
Nuclear Victims' Day |
キャッスル・ブラボー核実験で被曝した被害者を追悼する日 |
5月1日 |
憲法記念日 |
Constitution Day |
|
7月第1金曜日 |
フィッシャーズ・デイ |
Fisherman's Day |
スポーツフィッシングのトーナメント大会開催 |
9月第1金曜日 |
労働者の日 |
Rijerbal Day (Worker's Day) |
|
9月最終金曜日 |
文化の日 |
Manit Day (Customs Day) |
|
11月17日 |
大統領の日 |
President's Day |
|
11月第3木曜日 |
感謝祭 |
Kamolol Day (Thanksgiving Day) |
|
12月第1金曜日 |
ゴスペル・デイ |
Gospel Day |
|
12月25日 |
クリスマス |
Christmas Day |
第五福竜丸
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第五福竜丸(第五福龍丸、だいごふくりゅうまる)は1954年3月1日、ビキニ環礁でアメリカ軍の水素爆弾実験により発生した多量の放射性降下物(死の灰)を浴びた遠洋マグロ漁船である。無線長だった久保山愛吉(くぼやま あいきち、1914年6月21日生まれ)が約半年後の9月23日に死亡した。
1947年、和歌山県東牟婁郡古座町(現・串本町)でカツオ漁船第七事代丸(だいななことしろまる)として進水。その後、静岡県焼津市でマグロ漁船に改造され、第五福竜丸(第五福龍丸)となる。
1954年3月1日に、ビキニ環礁での米軍による水爆実験「キャッスル作戦」に巻き込まれて被爆。3月14日に焼津港に帰還し、静岡大学の塩川孝信と山崎文男によって検査を受けた。3月16日の検査では船体から30メートル離れた場所で放射線を検出したことから、塩川は人家から離れた場所へ係留するよう指示をし、鉄条網が張られた状態で係留された。その後、文部省(現・文部科学省)が船を買い上げ、8月に東京水産大学(現・東京海洋大学)品川岸壁に移される。
この後、さらに検査と放射能除去が行われたあとに、三重県伊勢市大湊町の強力造船所(現・株式会社ゴーリキ)[2]で改造され、東京水産大学の練習船はやぶさ丸となる。この時代の母港は千葉県館山市の館山港。
1967年に老朽化により廃船となり、使用可能な部品が抜き取られたあと、東京都江東区夢の島の隣にある第十五号埋立地に打ち捨てられた。同年、東京都職員らによって再発見されると保存運動が起こり、現在は東京都立第五福竜丸展示館(夢の島公園)に永久展示されている。
心臓部であるエンジン部分は、廃船時に船体から切り離されて貨物船「第三千代川丸」に搭載されていたが、この貨物船は1968年に航海途上の三重県熊野灘沖で座礁、沈没した。その28年後の1996年12月、民間有志(『第五福竜丸エンジンを東京・夢の島へ』和歌山県民・東京都民運動)によって海底から引き揚げられ、第五福竜丸展示館の脇に展示された。
- 総トン数 - 140.86トン
- 全長 - 28.56メートル
- 幅 - 5.9メートル
- 馬力 - 250
- 速力 - 5ノット
1954年3月1日、第五福竜丸はマーシャル諸島近海において操業中にビキニ環礁でアメリカ軍により行われた水爆実験(キャッスル作戦・ブラボー〈BRAVO〉、1954年3月1日3時42分実施)に遭遇し、船体・船員・捕獲した魚類が放射性降下物に被曝[3]した。実験当時、第五福竜丸はアメリカ合衆国が設定した危険水域の外で操業していた。危険を察知して海域からの脱出を図ったが、延縄の収容に時間がかかり、数時間にわたって放射性降下物の降灰を受け続けることとなり、第五福竜丸の船員23名は全員被爆した。のちにアメリカは危険水域を拡大、第五福竜丸以外にも危険区域内で多くの漁船が操業していたことが明らかとなった。この水爆実験で放射性降下物を浴びた漁船は数百隻、被曝者は2万人を越えるとみられている。
予想以上に深刻な被害が発生した原因は、当初アメリカ軍がこの爆弾の威力を4 - 8Mtと見積もり、危険区域を狭く設定したことにある。爆弾の実際の威力はその予想を遥かに超える15Mtであったため、安全区域にいたはずの多くの人々が被曝することとなった。
乗組員は約4 - 5時間も放射性降下物を全身に被りながら作業を行い、船体や人体を十分洗浄もしないまま、強い放射能汚染のある状態で帰港までの2週間船上で生活をした。放射線による火傷、頭痛、嘔吐、眼の痛み、歯茎からの出血、脱毛など急性放射線症状を呈し、「急性放射線症」と診断された。23名の被爆線量は個人により異なるが、全身線量で最低1.7グレイ、最大6.9グレイと評価された。体の表面に付着した放射性降下物によるβ線皮膚照射で、皮膚に紅斑、炎症、水泡、びらん(ただれ)、潰瘍が認められたが、数か月で治癒し、がん化するようなことはなかった。造血器障害は初期にはリンパ球の減少が全員に見られたが、被爆第8週から回復し始め、白血球数は約8年後に正常に戻った。生殖細胞は2 - 3か月後にはほとんど消滅したが、数年後には完全に回復した。染色体検査では、現在も異常の増加が認められているが、臨床的症状に結びつくものではなかった。甲状腺については、1965年の検査で1例甲状腺腫が認められたが翌年の検査では消えていた。その後も甲状腺腫は認められていない。その他の症例は正常な甲状腺機能を示した[4]。
第五福竜丸がアメリカ軍による水爆実験に巻き込まれて被爆した出来事は、日本国内で反核運動が萌芽する動機になった(→#被爆の影響)。反核運動が反米運動へと転化することを恐れたアメリカ政府は、日本政府との間で被爆者補償の交渉を急いだ。一方の日本政府も、復興のためにアメリカ経済に依存せざるを得ない状況であり、かつ平和的利用のために原子力技術をアメリカから導入できる可能性も出てきた時期でもあったことから、アメリカを刺激したくないという思惑もあった[5]。結果、両者は「日本政府はアメリカ政府の責任を追及しない」確約のもと、事件の決着を図った。1955年に200万ドル(当時約7億2,000万円)が支払われた[6]が、連合国による占領からの主権回復後間もなかったこともあり、賠償金でなく「好意による (ex gratia)」見舞金として支払われた。また事件が一般に報道されると、焼津では「放射能マグロ」による風評被害が発生した。
これに対してアメリカ政府は、第五福竜丸の被爆を矮小化するために、4月22日の時点でアメリカ国家安全保障会議作戦調整委員会(OCB)は「水爆や関連する開発への日本人の好ましくない態度を相殺するためのアメリカ合衆国連邦政府の行動リスト」を起草し、科学的対策として「日本人患者の発病の原因は、放射能よりもむしろサンゴの塵の化学的影響とする」と嘘の内容を明記し、「放射線の影響を受けた日本の漁師が死んだ場合、日米合同の病理解剖や死因についての共同声明の発表の準備も含め、非常事態対策案を練る」と決めていた。実際、同年9月に久保山無線長がC型肝炎で死亡[7]した際に、日本人医師団は死因を「放射能症」と発表したが、アメリカ政府は現在まで「放射線が直接の原因ではない」との見解を取り続けており[8]、またこの件に対する明確な謝罪も行っていない。
米公文書が放射能が直接の原因ではないとの見解を出している理由は、そもそも、久保山無線長の死因の直接原因は重度の急性肝機能障害であること、日本医師団が診断した放射能症(放射線障害)のおもな症状は白血球や血小板と言った血球数の減少、小腸からの出血、脱毛などで、肝機能障害は放射線障害特有の特徴的症状ではないこと、被爆が原因で肝機能障害が起きたなら、同様に被爆したはずのマーシャルの被爆者にも多数の肝機能障害を起こした被爆患者がいるはずであるが、実際はマーシャルの被爆者に重度の肝機能障害の患者はまったく発生せず、第五福竜丸の被災者17名でのみ発生し、治療中の死亡にいたっては久保山無線長のみだからである。
重度の肝機能障害を起こす肝炎、肝癌、肝硬変の原因因子はそのほとんどが肝炎ウイルスの感染であり、アルコールやNASHは肝癌、肝硬変の原因としては全体から見れば少数派である。放射線被爆での発症率はアルコールよりも低く、放射線被爆が原因での肝炎肝癌発症の症例はほぼ皆無である。また、事件当時は医療器具、特に注射針に関してはディスポ(使い捨て)はほとんど行われず、消毒して使い回しされることもしばしばであり、各種法定予防ワクチンの集団接種で使い回しされた注射針が原因でB型肝炎ウイルス感染が引き起こされ集団訴訟になったのは周知の事実である。第五福竜丸乗組員17名が重度の肝機能障害を引き起こした原因は、ウイルス感染した売血による輸血であるという指摘も存在する[9]。1950年代当時、輸血用血液の多くは売血によって集められており、この事件の10年後である1964年に駐日アメリカ大使エドウィン・O・ライシャワーが襲撃を受け、日本国内で輸血を受けたところ肝炎に感染、これをきっかけに売血廃止に向かうまで輸血のリスクは高かった。
第五福竜丸被爆者22名の事故後の健康状態調査は、放射線医学総合研究所により長期継続的に行われている。また、2004年度の明石真言博士らの研究所報告によれば、2004年までに12名が死亡、その内訳は、肝癌6名、肝硬変2名、肝線維症1名、大腸癌1名、心不全1名、交通事故1名である。また、生存者の多くには肝機能障害があり、肝炎ウイルス検査では、A・B・C型とも陽性率が異常に高い。
第五福竜丸は被曝後、救難信号 (SOS) を発することなくほかの数百隻の漁船同様に自力で焼津漁港に帰港した。これは、船員が実験海域での被爆の事実を隠蔽しようとする米軍に撃沈されることを恐れていたためであるともいわれている[10]。
焼津の漁船・第五福竜丸の水爆実験による被爆は、長崎への原爆投下に次ぐ「日本を巻き込んだ第三の原子力災害」となり、日本は原子爆弾と水素爆弾の両方の兵器による原子力災害(被爆と被曝)を経験した国となった。
そして、第五福竜丸の被爆、特に久保山愛吉無線長(当時40歳)が「原水爆による犠牲者は、私で最後にして欲しい」と遺言して死んだ出来事(1954年9月23日)は、日本で反核運動が始まる動機になった。東京都杉並区の主婦による反核運動や、1955年に設立された原水禁に代表される反米色が強い反核兵器運動も、この第五福竜丸の被爆が動機である。
第五福竜丸の被爆により、焼津や東京では「汚染マグロ」が大量廃棄された。特に3月15日に築地市場にマグロやヨシキリザメが水揚げされた際にはセリは中断され、行政の指示により流通する前に場内の地中に埋められた。また、ほかの水産物も軒並み相場は値つかずとなった。埋めた地点には第五福竜丸の事件を後世に伝えるため「原爆マグロ」の塚が建立された(市場再整備の際東京都立第五福竜丸展示館(夢の島)に移設され、市場にはプレートが設置された)。
第五福竜丸が浴びた放射性物質とその被害は、映画「ゴジラ」が制作される動機にもなった。
汚染マグロは、第五福竜丸以外の太平洋上で漁をしている漁船でもあったが、アメリカ政府からの見舞金は第五福竜丸だけに支払われた。当時としては破格の金額(一人あたり200万円)だったためにほかの漁船からのやっかみがあり、また放射能が伝染すると間違った情報で、第五福竜丸乗組員は将来の病気の恐怖を抱えながら焼津と漁師の仕事を離れなければならなかった[11]。
室戸など遠洋漁業中心の港では、風評を恐れて被曝は公にならなかった。焼津港で「原爆マグロ」の放射線調査を行った放射線生物物理学が専門の西脇安(当時大阪市立大学教授)は、第二次世界大戦中に日本の原子爆弾開発に参加し、戦後は日本の原子力政策に関わった人物である[12]。
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「原子マグロ」を取り扱わない旨を看板に掲げた焼津の魚屋 魚きね
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1976年、東京都立第五福竜丸展示館が開館した。
「原爆マグロ塚」の石碑が「マグロ塚を作る会」によって全国の子どもたちの10円募金をもとに作成されたが、築地市場は整備中を理由に設置を認めず、石碑は東京都によって展示館敷地内の屋外に暫定的に設置された。作る会はその後も築地市場内への石碑の設置を検討したが、市場の通行の邪魔になるという理由で許可は下りなかった。その後1999年に、市場内の壁に金属製の記念プレートが新たに設置された。
1985年、焼津市歴史民俗資料館内に第五福竜丸コーナーが開設される。串本町古座には「第五福竜丸建造の地」の碑が立てられている。
高知県の高等学校教諭山下正寿は、アメリカが1946年 - 1958年にビキニ環礁やエニウェトク環礁で計67回行った一連の核実験で被爆したとみられる県内の船員への聞き取り調査、アメリカの公文書の分析、厚生労働省への情報公開請求に取り組み、被災の実態を明らかにしてきた。山下がビキニ核実験から34年後に第五福竜丸以外の漁船員204名を調べた結果は、癌などの病気で3割(61人)がすでに死亡。約13,000人に1人発症するとされる白血病で3人も亡くなっていた。
厚生労働省は、ほかの漁船では船体と漁獲物のみ放射能を測定し、乗組員を測った記録は存在しないとしてきた。しかし、外務省を通じてアメリカ国立公文書記録管理局に保管され国家機密が解除された文書からアメリカに提供したデータには乗組員の被爆の記録もあったことから、外務省に情報公開を求めたところ発見された[13]。2014年9月19日厚生労働省からもビキニ被爆のほかの船体や船員の文書が見つかっている[14]。
水産庁は他の日本漁船の被爆記録の存在を否定し続けていたが、2015年2月22日、約40点の行政文書の存在が明らかとなった。1954年11月30日付の水産庁文書の別紙には、被災漁船総数が1,423隻になると記載されていた。また、「毎分100カウント以上の放射能が検出された漁獲物は廃棄処分とした」として、汚染魚を廃棄した漁船は992隻と記録されていた[15]。
第五福竜丸を主題とした作品[ソースを編集]
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- 擬人化されたトビウオの子供と魚たちが主人公。結末では第五福竜丸の事故が語られ、死の灰により魚たちは皆死に、トビウオのぼうやも原爆症に苦しむ。アニメではトビウオが海上を飛ぶときに写実的な画風に変化する演出がある。教育映画として小学校での回覧上映もされた。
- 『わすれないで-第五福竜丸ものがたり』赤坂三好、金の星社(1989年):第五福竜丸事件を題材にした子ども向けの絵本。大人向けの解説と資料も詳しい。
- ベン・シャーンの連作絵画『ラッキードラゴン』などを用いた創作絵本『ここが家だ-ベン・シャーンの第五福竜丸』(2006年)
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- 絵=ベン・シャーン、構成・文=アーサー・ビナード(中原中也賞受賞の、米国生まれの日本語詩人)
- 映画『西から昇った太陽』(2018年) 監督・プロデューサー:キース・レイミンク
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