検索すれば、するほど スゲ~
行ってみたい 大阪市東成区深江地域 菅笠の里
平野川分水路を越えると、すぐに大阪メトロ千日前線新深江駅に到着です。
令和元年10月19日(土) 吹田市立博物館 大塩平八郎展
お伊勢参りに 「ひしゃく」と「菅笠」の展示を ジート「竹」かな・・と思い見ていました 。
隣の人が 「スケ」 今里ですよ 気になり 何故 お伊勢参りとひしゃく /(これも竹の輪切り+柄)かな ワッパ+木枝
検索 してみましました : 「お伊勢参り」の話。 - 阿羅耶識院
平成二十五年は、伊勢神宮(神宮)外宮・内宮を始め伊勢神宮百二十五社の建て替えと、外宮、内宮を二十年毎に 遷宮せんぐう をする年です。遷宮とは外宮と内宮のそれぞれの敷地内を左右に移動することなのです。
伊勢神宮は 天照皇大御神あまてらすすめおおみかみ と 豊受大御神とようけのおおみかみ を始め百二十五社の 御社おやしろ には日本誕生の神々がお祀りされています。神様の呼び名は「 柱はしら 」と呼び、三人の神様をお祀りしている場合、 三柱さんはしら の神様と呼びます。
「お伊勢参り」は伊勢神宮にお参りする事で、江戸時代の最盛期には日本各地に「お伊勢講」と言うお伊勢参りの為の「 頼母子講たのもしこう 」が出来ました。
「 頼母子講たのもしこう 」とは、それぞれの辞書を要約しますと「仲間が集まり一定のお金を積み立て、入り用な人から落札する組織」のようです。その「お伊勢講」に加入した人達を始め、日本の人口の六人に一人がお伊勢参りに行ったそうで、最高の年には推定五百万人以上の人達が伊勢神宮に参拝に来たそうです。
お伊勢参りの中には「 抜ぬ け参り」と言うのがあって、それは無銭旅行の事で、 柄杓ひしゃく を一つ持って「お伊勢参りにまいります」と柄杓を出すとお金を恵んでもらえたそうです。
更に最盛期には「伊勢へ行きたい、伊勢路が見たい、せめて一生に一度でも」と言う歌になるほど、江戸時代の人達の憧れの聖地でした。その人達がお伊勢参りが出来ると「おかげ参り」と呼ばれ、伊勢神宮境内の商家の家では、おかげ参りの人達に様々な食べ物を提供しました。現在でもその「おかげ参り」の風習が残り、「おはらい町」と呼ばれ、伊勢神宮参拝の後には「おはらい町」には人々が 溢あふ れます。その「おはらい町」には一年間に約五百万人の人達が訪れます。
殊に今年は二十年に一度の遷宮の年なので更に参拝者が多く、平成五年から出来た「おかげ横丁」などは大賑わいで、「一生に一度はお伊勢参り」が再現しそうです。
人はだれでも心に悩みを持っています。その悩みを誰にも話せないで苦しんでいると思います。
是非、吉祥寺の阿羅耶識院にお尋ね下さい。
阿羅耶識院で御相談なさると、キット悩み解決のお役に立つと思います。
御相談なさりたい方は、
0422-48-0404までお電話下さい。
阿羅耶識院 貫主 九条北閑淳
菅笠 今里 ⇒ 検索:
深江の菅笠(ふかえのすげがさ)
2019年10月8日
ページ番号:307
昔、深江は良質の菅草が豊かに自生する浪速の一島でしたが、第11代垂仁天皇の御代に、大和国笠縫邑(やまとのくにかさぬいむら)より、笠を縫うことを仕事とした一族が移住し、代々菅笠を作ったことから、笠縫島といわれるようになりました。以後、歴代天皇御即位、大嘗祭(だいじょうさい)の時をはじめ、20年に一度の伊勢神宮式年遷宮に使用する菅笠はすべて深江で作り献納してきました。江戸時代には大阪玉造の二軒茶屋を起点として、伊勢音頭をうたいながら、集団で参宮したものですが、人々は道中安全を願って、(菅には浄めるはたらきがあると信じられていました)深江で菅笠を買い求め賑やかに旅をしました。
江戸時代の末期からは菅の釜敷きや、瓶敷き、皿敷き(今のコースターのようなもの)などの菅細工も作られ、皿敷きは明治や大正の頃には、イギリスやアメリカにも輸出されました。菅笠作りの技術は、深江南3丁目の幸田正子さんを中心に今日まで大切に受け継がれています。
https://www.city.osaka.lg.jp/higashinari/page/0000000307.html
暗越奈良街道 大阪~奈良を歩く その2 (今里~大阪外環状線 ..
http://kimurakhs.hatenablog.com/entry/2018/12/18/224947
暗越奈良街道 大阪~奈良を歩く その2 (今里~大阪外環状線)
前回に引き続き、暗越奈良街道の道中を振り返ります。 なお、文中の距離は腕につけていたFitBitの表示を記録したもので、地図上の距離とは異なります。
上の写真は大阪市が平成に入って設置した比較的新しい道しるべです。大阪市内の暗越奈良街道に所々設置されています。
今里駅を過ぎて街道を少し歩くと、このように格子のある古民家が残されていて、昔の街道の雰囲気が味わえます。
10:50 熊野大神宮 6.2km
街道をちょっと外れたところに、熊野大神宮という神社があります。1400年以上の歴史があり、用明天皇2年の創建とも言われるとか。少し寄り道して、旅の安全をお祈りしておきました😌
10:57 新深江駅 6.8km
熊野大神宮を越えて少し行くと、国道308号線に合流して平野川分水路を渡ります。
平野川分水路を越えると、すぐに大阪メトロ千日前線新深江駅に到着です。
新深江駅出てすぐのところに、このような案内板があります。「菅笠の里」とありますが、恥ずかしながら「菅笠」が何かわからなかったので後日調べると、菅草(すげぐさ)で作られた「笠」(傘ではなく、頭にかぶるやつ)だそうですね。 深江は太古の昔から笠の職人が住んでおり、天皇家の大嘗祭や、伊勢神宮の式年遷宮の時などに使われる笠を献上していたそうです。
このように、歩いていると知らなかったことがいろいろ学べるので、散策は大好きです。
高麗橋から休まず歩いてきたので、新深江駅前のコンビニで10分ほど小休止🥤しつつ、再び歩き出すとすぐに国道479号線 大阪内環状線です。ここで国道308号線は内環状線に重複して北へ曲がってしまいます。暗越奈良街道は東へ直進し、大阪府道24号線となります。また、大阪府道702号線の重複区間でもあります。産業道路と呼ばれている道です。
これも帰って調べて知りましたが、大阪府道・奈良県道702号線は、国道308号線と合流して暗峠を越える路線になっているそうです。
大阪府道・奈良県道702号大阪枚岡奈良線 - Wikipedia
11:16 東大阪市へ突入 8.2km
大阪府のガイドマップでは、内環状線を越えた後、府道24号線から分かれた路地が暗越奈良街道になっているのですが見落としてしまい、そのまま府道24号線を進んでしまいました。 とはいえ、正規ルート?は路地に入ってすぐ府道24号線に合流してくるので、未踏破区間はごくわずかで済みました。
そうこうしていると、ついに大阪市を抜けて東大阪市へ突入です❗看板がかなり古くて見にくいですが…😅ちなみに、ここを南に曲がってアーケード商店街を通ると、近鉄奈良線・大阪線 布施駅まですぐです。
この交差点でしばし府道702号線(府道24号線)とお別れして、左斜め前の路地を進みます。
この交差点にも、このような暗越奈良街道の碑が建っています。
11:27 JRおおさか東線 高架をくぐる 8.8km
しばらく歩くと、JRおおさか東線の高架をくぐります。北に高井田中央駅、南にJR河内永和駅があり、その途中地点にあたります。
さらに歩くと、高井田地蔵という石仏や、
古そうな道しるべがあります。いずれも現役の街道だったころから残っているのでしょうね。石標は「大阪高麗橋元標2里廿丁」と書いてあるようで、高麗橋が起点になっているので明治時代のものと思います。
途中、大きなステンドグラスの素敵な雰囲気の建物が目に留まりました。何かと調べると、結婚式場 ベルクラシック大阪でした。
ここまで府道702号線の北側の路地を通っていたのですが、再び府道702号線に合流して、こんどは南側の路地を抜けて、再度北側の路地に抜ける形になります。 地図で見ても、府道702号線は直進的なのに対し、暗越奈良街道は若干くねくねしていることがわかります。暗越奈良街道の置き換えに区画整理で直進道路を通したのではないかと想像しますが、それでもその脇に昔の街道が残っているのはすごいですね。
11:46 御厨会館 10.4km
そうしていると、御厨(みくりや)というところに来ます。案内板によると、御厨は明治時代は付近の中心的なエリアだったそうで、河内地方でいち早く八尾警察御厨分署や郵便局ができたそうです。この看板は八尾警察御厨分署があったところで、今は御厨会館という建物が建っているのですがちょっと様子がおかしい…まるで火事にあったようだと思って調べたら、1ヵ月ほど前に火事があったようでした。建物に焦げた跡が痛々しく残っており、痛ましい姿でした。お見舞いを申し上げます。
付近には、すごい風格のおうちもあります。とても立派なたたずまいを見せていました。
少し進むと、市指定文化財 植田家住宅があります。昔は大和郡山藩の大名行列がここで休憩していたそうです。いまもご家族で居住されながら保存されているそうで中は見られませんが、立派な建物です。
11:51 第二寝屋川 10.7km
第二寝屋川を越えてどんどん歩きます。しばらく歩くと、再び府道702号線に合流します。
12:00 近畿道・大阪中央環状線 11.4km
なんと12時ピッタリに、近畿道、大阪府道2号 大阪中央環状線まで到達しました。もう少し早くつけると思ったのですが、写真を撮ったり寄り道したりで時間がかかっています。果たして奈良に着くのは何時になるか心配になりますが、どんどん進みましょう。 しばらく府道702号線を歩いたのち、分岐して南側の路地が暗越奈良街道です。
12:12 八剱神社 12.2km
八剱神社という神社に到着しました。この辺りには古い道しるべがたくさん残されています。
神社の少し手前に、「右 八尾」「左 枚方」「すぐ 奈良 生駒」と書かれた道標があります。すぐに奈良に着くのかな?と思いますが、まっすぐという意味であり、あと少しで奈良に着くわけではありません。
同じような道しるべが近くにあります。これもすぐ奈良とありますが、奈良までは遠いです😡
八剱神社でも旅の安全を祈願して、先へ進むと府道702号線を横切って、北側の路地に入ります。
古い燈篭が現れました。案内板によると、1831年に建てられたおかげ燈籠と呼ばれている燈籠です。暗越奈良街道は伊勢参りの街道としても使われたので、おかげ参りが流行したときに建てられたのでしょう。
この先は府道702号線に合流して進みます。大きな道路なので、道沿いにイトーヨーカ堂やエディオンもありふらっと立ち寄りたくなりますが、寄り道せず直進します。花園ラグビー場のある花園中央公園まで進んだところで、そろそろお昼にしたいと思い、12:40 和食レストラン「かごの屋」で昼食🍴にしました。この時点で14.0km。
13:15 花園中央公園 14.0km
美味しい昼食を食べて休憩して、元気になったところで再びスタート。すぐに府道702号線を外れて北側の路地に入ります。
「右 なら いせ 道」という存在感のある道標があります。歩いて行くと、川に出合います。
この川は恩智川というようです。この先も路地を進みます。
13:29 大阪外環状線 15.4km
ついに国道170号線 大阪外環状線まで到達しました!ここを越えるといよいよ生駒山が近いですね。 これまでの道はほぼ住宅街という感じでしたが、この付近だけは町工場が立ち並ぶ地区になっており、また違った雰囲気が味わえます。
13:34 国道170号線(旧道) 15.9km
さらに路地を進むと、「箱殿」交差点で、西から府道702号線、北から国道170号線(旧道・国道308号線重複区間)に出合います。ここから東は国道308号線の単独区間(府道702号線との重複区間)になります。「酷道」としても有名な区間に入っていきます。
いよいよハイライトの暗峠!次回に続く。
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