-テーマ展 チラシより-
関西大学千里山キャンパスには、建築家・村野藤吾(1891~1984)が、昭和25(1950)年頃から役30年間設計に関わった建物が約40棟ありました。しかし老朽化のため、解体や改修が行われ、現存するする建物はほぼ半数となりました。
本展では、平成28年度に京都工芸繊維大学の学生が政策した昭和44年(1969)頃の「関西大学千里山キャンパス」建築模型店を展示します。それらの模型を通じて、改めて本学の歴史の一部を知ってもらえれば幸いです。
佐賀県東松浦郡満島村(現唐津市)で代々船問屋を営む家の一男第三子として生まれた。生後すぐから12歳頃まで乳母の元に預けられ、その後両親の住む福岡県遠賀郡八幡村(北九州市八幡東区 )で育った。1910年、福岡県小倉工業学校(現小倉工業高校)機械科を卒業後、八幡製鐵所に入社。1911年から2年間にわたる従軍中、学問に興味を持ち、1913年、早稲田大学理工学部電気工学科に入学。しかし、自分には向かないと考え、1915年、同大建築学科へ転学。27歳で卒業した。
1918年、渡辺節建築事務所に入所。日本興業銀行本店、ダイビル本館、綿業会館等の設計に携わった。渡辺からは、建築に費用を惜しまないことが客を呼び、ひいては施主の利益になることを叩き込まれる。1929年、渡辺節建築事務所を退所し、村野建築事務所開設。日中戦争・第二次世界大戦中は実作の機会は少なく、不遇の時期を過ごした。1949年、村野・森建築事務所に改称。1955年、日本芸術院会員。1967年、文化勲章受章。日本芸術院賞、日本建築学会賞など受賞多数。
代表作の一つ、日生劇場(1963年築)は花崗岩で仕上げた古典主義的な外観やアコヤ貝を使った幻想的な内部空間などが、当時の主流であったモダニズム建築の立場から「反動的」といった批判も受けた。1968年からは迎賓館本館(旧赤坂離宮)の改修も手がけた。また、村野は和風建築の設計にも手腕を発揮し、戦後の数寄屋建築の傑作として知られる佳水園なども設計した。
大阪を拠点に創作活動を行い、建築批評界では丹下健三とよく比較された。90歳を超えても創作意欲は落ちず、死の前日まで仕事をしていた。
2005年に宇部市渡辺翁記念会館(1937年築)が村野の作品として初めて国の重要文化財に指定された。翌2006年、世界平和記念聖堂(1953年築)が、丹下健三の広島平和記念資料館(1955年築)とともに、戦後建築としては初めて重要文化財(建造物)に指定された
誠之館 KUシンホニーホール
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