第二次世界大戦終結以降から現在までの日本の国際関係は、サンフランシスコ講和条約(1951年9月8日署名、1952年4月28日効力発生)および、各国との賠償・補償条約を経て再構築されたものである[1]。外交政策は、アメリカ合衆国(以下、アメリカまたは米国)との日米同盟(日米安保体制)を基軸として西側諸国とも緊密な連携を図りながら、反共主義、経済中心主義外交という特徴を持って、国際連合を支えていくことにより、平和の安定と繁栄を果たすことを目的としている。
敗戦後、1951年まで主権を喪失して、外交自主権を持っておらず占領期間中に占領国である米国の政策を実現するラインで、対外政策が実施されてきた。その後、1951年のサンフランシスコ講和会議で、ソビエト連邦などの共産主義の国々の調印を拒否が行われた中で日米講和条約と旧安保条約が締結され、中華民国と日中条約が調印され、これらとの関係を回復するとともに、外交権を回復することになる。1955年にはGATTに加盟したことを始まりに、民主主義の経済政策をとる先進工業国の中で次第に重要な対外地位を占めるようになった。1956年、日ソ共同宣言によりソビエト連邦との国交を回復するとともに、 国際連合に加盟することで、国際社会に復帰するようになって、以降は、ほぼすべての独立国と国交を結んで外交をおこなっている。
世界が東西ドイツの分断(西ドイツ・東ドイツ)、朝鮮戦争、第一次インドシナ戦争、ベトナム戦争、中ソ対立等といった東西冷戦であった時期においては、戦後の復興を目的とした一元的な経済政策が中心であった。
1990年代初頭から、日本の経済は、バブル経済の崩壊によって長期に渡って経済成長の低迷を招くものの、依然として経済・文化において世界における重要な地位を維持している。
近年において、政治家は、経済政策だけではなく安全保障政策において自衛隊の活動の場を広げることにおおむね意欲を示している。こうした状況は、ジョージ・H・W・ブッシュ・アメリカ大統領(当時)からの湾岸戦争への派遣要請や1990年代前半の自衛隊カンボジア派遣の成功が契機となった。こうした安全保障政策の転換は、国際関係の不安定要因(中華人民共和国(以下、中国)の台頭や朝鮮民主主義人民共和国(以下、北朝鮮)との政治的対立など)への反応によるものも一因であるということである。
しかし、集団的自衛権の行使等といった自衛隊の活動を拡大することには、中国・大韓民国(以下、韓国)・北朝鮮などといった国々の反対だけではなく、国内的にも日本国憲法第9条といった多くの制約が課せられている。
こうした、アメリカと東アジア近隣諸国との外交関係を重要視することによって世界との関係を維持している。2011年に行われたBBCによる世論調査においては、メキシコと中国を除いたすべての国から、日本は、世界に対して良好な影響を与えていると評価されている[2]。
日中間においては、1978年に日中平和友好条約を締結して急速に関係を発展させて中国の近代化として経済援助・政府開発援助(ODA:Official Development Assistance)をしてきた。同時に、中華民国(台湾)においても強い経済・貿易関係を築いているが、外交関係においては日中国交正常化を機に断絶している。
新たな文化交流の試みの一つに、外国語青年招致事業(ジェット・プログラム)が挙げられる。これは、中曽根康弘・内閣総理大臣がロナルド・レーガン・アメリカ大統領に「プレゼント」とした事業である。戦後の日本は、閉鎖的な傾向であった島国のために、海外の人々と英語をはじめとする外国語によるコミュニケーションができるような、国際性を兼ね備えた若者の人材をより育成する必要があるという主張に応える形で事業が始動されたといわれている。