京都南郊の宇治の地は、『源氏物語』の「宇治十帖」の舞台であり、平安時代初期から貴族の別荘が営まれていた。現在の平等院の地は、9世紀末頃、光源氏のモデルともいわれる左大臣で嵯峨源氏の源融が営んだ別荘だったものが宇多天皇に渡り、天皇の孫である源重信を経て長徳4年(998年)、摂政藤原道長の別荘「宇治殿」となったものである。道長は万寿4年(1027年)に没し、その子の関白・藤原頼通は永承7年(1052年)、宇治殿を寺院に改めた。これが平等院の始まりである。開山(初代執印)は小野道風の孫にあたり、園城寺長吏を務めた明尊である。創建時の本堂は、鳳凰堂の北方、宇治川の岸辺近くにあり大日如来を本尊としていた。翌天喜元年(1053年)には、西方極楽浄土をこの世に出現させたような阿弥陀堂(現・鳳凰堂)が建立された。
鳳凰堂建立の思想的・信仰的背景[編集]
『観無量寿経』の一節に「若欲至心生西方者、先当観於一丈六像在池水上」(若し至心に西方に生まれんと欲する者は、先ず当(まさ)に一の丈六の像池水の上に在(いま)すを観るべし)とある。鳳凰堂とその周囲の浄土式庭園は、『観無量寿経』の所説に基づき、西方極楽浄土とその教主である阿弥陀如来を観想(特定の対象に心を集中させること)するために造られたとするのが定説である[1]。
飛鳥・奈良・平安前期に広まった仏教は、現世での救済を求めるものであった。平等院が創建された平安時代後期になると、日本では「末法思想」が広く信じられていた。末法思想とは、釈尊の入滅から2000年目以降は仏法が廃れるという思想である。しかし、天災人災が続いたため人々の不安は一層深まり、終末論的な思想として捉えられるようになり、この不安から逃れるための厭世的な思想として捉えられるようになる。仏教も現世での救済から来世での救済に変わっていった。平等院が創建された永承7年(1052年)は、当時の思想ではまさに「末法」の元年に当たっており、当時の貴族は極楽往生を願い、西方極楽浄土の教主とされる阿弥陀如来を本尊とする仏堂を盛んに造営した。
鳳凰堂とその堂内の阿弥陀仏、壁扉画や供養菩薩像、周囲の庭園などは『観無量寿経』の所説に基づき、西方極楽浄土を観想するため、現世の極楽浄土として造られたことは間違いない。しかしながら、そうした浄土教、末法思想という観点のみから平等院や鳳凰堂をみることは一面的な理解であるということが、複数の研究者により指摘されている[2][3]。平等院の境内が現在のような景観になったのは、南北朝時代の争乱以降、鳳凰堂(阿弥陀堂)のみが焼け残ったことによるものである[4]。鳳凰堂が主要な堂宇であることは間違いないが、平安時代の平等院では、本堂には密教の主尊である大日如来が安置され、他にも不動堂、五大堂、愛染堂、多宝塔など、密教系の仏像を安置する堂塔が建ち並んでいた。鳳凰堂の阿弥陀像の印相は定印(膝上で両手を組む)であるが、これは密教の両界曼荼羅の阿弥陀如来の結ぶ印である。阿弥陀像の普段見えない像内はベンガラで朱色に塗られている。これは、両界曼荼羅の金剛界五仏に五色を配当する際、西方阿弥陀を紅玻璃色(ぐはりじき、赤色)とすることに対応する。阿弥陀像の像内には阿弥陀の大呪・小呪を書いた月輪(がちりん、円板)が納入されていたが、これはこの阿弥陀像が密教の修法である阿弥陀法の本尊像でもあることを意味している。以上のことを踏まえ、建築史家の冨島義幸は、鳳凰堂の阿弥陀像には密教の阿弥陀如来としての一面があり、鳳凰堂全体が阿弥陀曼荼羅を表しているとする。[5][6]
平安時代後期の京都では、平等院以外にも皇族・貴族による大規模寺院の建設が相次いでいた。道長は寛仁4年(1020年)、無量寿院(のちの法成寺)を建立、また11世紀後半から12世紀にかけては白河天皇勅願の法勝寺を筆頭に、尊勝寺、最勝寺、円勝寺、成勝寺、延勝寺のいわゆる「六勝寺」が今の京都市左京区岡崎あたりに相次いで建立された。しかし、これらの大伽藍は現存せず、平安時代の貴族が建立した寺院が建物、仏像、壁画、庭園まで含めて残存するという点で、平等院は唯一の史跡である。ただ、平等院も建武3年(1336年)の楠木正成と足利氏の軍勢の戦いの兵火をはじめ、度重なる災害により堂塔は廃絶し、鳳凰堂のみが奇跡的に災害をまぬがれて存続している。
鳳凰堂以外の堂塔[編集]
平等院には、鳳凰堂以外に以下のような堂塔が建ち並んでいた。[7][8][9]
- 本堂・懴法堂 - 本堂は宇治川の近く、現在の観音堂付近にあり、懴法堂はその南にあった。宇治川に突出して釣殿があって、宇治川から直接舟をつけることができ、釣殿と本堂は廊でむすばれていた。
- 小御所 - 鳳凰堂の東、池を挟んで対岸にあった。
- 法華堂 - 天喜4年(1056年)、頼通によって建立。正確な位置は未詳。
- 多宝塔 - 康平4年(1061年)、頼通の娘の四条宮寛子(後冷泉天皇皇后)によって建立。鳳凰堂の南東、現在は寺域外の公園地になっている場所から塔の遺構が検出されている。
- 五大堂 - 治暦2年(1066年)、右大臣・藤原師実(頼通三男)によって建立。正確な位置は未詳。
- 不動堂 - 延久5年(1073年)、右大臣・源師房(頼通養子)によって建立。記録によれば境内の西南隅にあった。
- 経蔵(宝蔵) - 文献上の初出は康平6年(1063年)。一切経のみならず、藤原氏代々の重宝が納められ、「宇治の経蔵」として摂関家の権威の象徴とされていた。正確な位置は未詳。[10][11]
平等院領[編集]
平等院には創建当初から藤原頼通によって寺領が施入されていたが、実質的には平等院の主である頼通の管理下にあった。治暦3年(1067年)10月、頼通は後冷泉天皇が平等院に対して封戸300戸を施入したのを機に、平等院の荘園に不輸の権を認めて欲しいと願い出て、その要望を認めて平等院領9か所に不輸の権を与える太政官符を得て、官使の検分のもと四至牓示を行われ、立券荘号が行われた。翌年3月、後冷泉天皇が病に倒れると、頼通は3月28日(5月2日)には先の9か所の平等院領荘園に対する不入の権の適用を求める申請を行った。頼通は翌29日(3日)に改めて9か所の不輸の権・不入の権を認める太政官牒の発給を受けた。そして、4月19日(22日)に後冷泉天皇が崩御し、頼通とは疎遠であった後三条天皇が即位して延久元年(1069年)には有名な延久の荘園整理令を出した。摂関家の荘園も整理令の対象とされたが、頼通が先帝・後冷泉天皇の崩御の直前に駆け込みで得た平等院領の太政官符・太政官牒が荘園の公験として有効とされて整理を免れた(延久の荘園整理令は有効な太政官符・太政官牒を持たない荘園を整理対象としていた)[12]。
その9か所の全てについては明らかではないが、山城国紀伊郡芹川荘、摂津国住吉郡杭全荘・島下郡平田荘、河内国河内郡玉櫛荘、近江国高島郡子田上荘・同郡河上荘の6か所を含んでいることが知られている。頼通の没後、平等院領は殿下渡領と並んで藤氏長者の支配する所領の中核として位置づけられ、代々の摂関が継承してきた。嘉元3年(1305年)に作成された『摂籙家渡荘目録』(「九条家文書」)によれば、平等院領は12か国に18か所あったという[13]。
近代以降の平等院[編集]
修理のため仮設素屋根に覆われている鳳凰堂(2012年11月)
現在の平等院は、天台宗系の最勝院、浄土宗の浄土院という2つの寺院(共に鳳凰堂の西側にある)が共同で管理している。浄土院は明応年間(1492年 - 1501年)、最勝院は承応3年(1654年)の創始であり、平等院が浄土・天台両宗の共同管理となったのは、天和元年(1681年)、寺社奉行の裁定によるものである。宗教法人平等院の設立は昭和28年(1953年)である[14]。
1990年代以降、庭園の発掘調査・復元、鳳凰堂堂内装飾のコンピュータグラフィックスによる再現などが行われている。平成13年(2001年)にはそれまでの「宝物館」に代わり、「平等院ミュージアム鳳翔館」がオープンした。建築家栗生明は、鳳翔館(新建築 平成13年(2001年)9月号)の設計で、日本芸術院賞を受賞している。
平成8年(1996年)から平成9年(1997年)にかけて、鳳凰堂の右後方に15階建てのマンション2棟が建ち、見る方向によっては鳳凰堂の背景になってしまっている。創建当初からの風致が大きく損なわれ、これが景観法施行前の平成14年(2002年)に宇治市都市景観条例が制定されるきっかけとなった。当面の対策として平等院境内にクスノキが植樹されており、この木が高さ10メートルまで成長すると、鳳凰堂背景の景観を阻害しているマンションを完全に隠すことが期待されている[15]。
平成24年(2012年)9月3日から平成26年(2014年)3月31日まで屋根の葺き替え・柱などの塗り直し修理が行われた[16][17][18][19][20]。この間、鳳凰堂内部の観覧は出来なくなっていた。平成26年10月1日、落成式が行われ修理工事が完了した[