五月女学芸員の説明を聞きつつ
頭の中は
竹久夢二と重なり始めていた /おそらく 大正という時代が・・・
カラーの写真がない時代 も そうさせたのかも知れない。
ちなみに、カラーの写真は 1970年前後だったのではないかな。
富士フィルムの歴史を見ると
1958年10月 フジカラーネガティブフィルム(35mm判,ロール),フジカラーペーパー発売
1960年04月 35mm判カラーネガティブフィルムに12枚撮を発売
1961年07月 フジカラーR100(35mm判,ロール)発売
1963年10月 フジカラーN64(35mm判・12枚撮および20枚撮))発売
1965年08月 フジカラーN100(35mm判)発売,カラーフィルムの販売価格から現像料を分離
http://www.fujifilm.co.jp/history/f1965.html
1965年頃になると、カラーフィルムを現像するフジカラー現像所(を略して「ラボ」という)も
順次増加し、全国的なカラーラボ網が整備されてきたので どこでもカラーネガフィルムの現像と
カラープリントの製作ができる体制が整って来ます。
・富士フィルムのあゆみ/ヒストリー(アマチュア写真市場の変化と販売体制の整備)より以下抜粋
http://www.fujifilm.co.jp/history/tokusyu01.html
1970年代に入ると、カラー写真は黒白写真に代わってアマチュア写真の主座を占めるようになり
写真といえばカラー写真を指すようになる。写真撮影の中でカラー写真の占める比率は、
1965年(昭和40年)には10%前後にすぎなかったものが 1970年(昭和45年)には40%を超え
1970年代の半ばには80%近くにまでに達する。
カメラの世帯普及率も 1965年(昭和40年)に約50%(すなわち2世帯に1台)であったのが
1968年(昭和43年)には60%に、1973年(昭和48年)には70%を超える。写真人口も増加し
1人で数台のカメラを保有するアマチュアカメラマンも多くなり、写真の撮影の機会も増加。
カラー写真の増加とカメラ普及率の上昇によって アマチュア写真市場は大きく拡大した。
ということで
1958年に産まれた お金持ちのボンボンやお嬢様は、今年50歳になる計算です。
もちろん海外のフィルムなど他の物を調達していた場合 更に上の年齢でも赤ちゃん時代を写した
当時のカラー写真を持っている可能性は充分にあります。
日本国内では「1965年には全国的にカラー現像所が整備された」という事ですから
ちょい裕福な家庭で育ったお子様だと、1965年生まれ→今年43歳。
1970年頃にはカラー写真の普及率が40%を超えているので ごくごく普通の一般家庭でしたら
この時期が白黒とカラー写真の境界線かも知れません。(1970年生まれ→今年38歳。)
後半で「吹田鳥瞰図」
図録もありで
パチリしたものを動画にしてみました。
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影響を受け 以前に借りようと手配した本
平成27年11月23日(月) 朝日新聞
http://www.pref.kyoto.jp/shiryokan/yoshida-t.htmlデジタル展覧会「京の鳥瞰図絵師 吉田初三郎」鳥瞰図
吉田 初三郎(よしだ はつさぶろう、1884年3月4日 - 1955年8月16日)は大正から昭和にかけて活躍した鳥瞰図絵師。元の姓は泉。生涯において3000点以上の鳥瞰図を作成し、「大正広重」と呼ばれた。
目次
来歴・人物
京都生まれ。元の姓は泉で、1歳の時に父親が亡くなったため母方の姓を名乗る。10歳で友禅図案師に丁稚奉公する。25歳のとき鹿子木孟郎に師事して洋画を学ぶが、鹿子木のすすめで商業美術に転向する。
1914年、最初の鳥瞰図である『京阪電車御案内』が、修学旅行で京阪電車に乗られた皇太子時代の昭和天皇の賞賛を受ける[1]。
大正から昭和にかけて日本の観光ブームによって初三郎の鳥瞰図の人気は高まり、大正名所図絵社(のち観光社と改称)を設立する。その顧客は国内の交通行政を所轄し、観光事業にも強い影響力を持っていた鉄道省を筆頭に、鉄道会社やバス会社、船会社といった各地の交通事業者、旅館やホテル、地方自治体、それに新聞社などであった。鉄道開業50周年を記念して『鉄道旅行案内』の刊行を決定した鉄道省は1921年に初三郎にその挿絵として全国各地の鳥瞰図の執筆を依頼、その後も国際観光局の国外向け「Beautiful Japan」キャンペーンポスター(1930年作成。鳥瞰図ではないが、その画題から「フジヤマ」、「サクラ」、「ゲイシャガール」という欧米でのその後の日本のパブリックイメージ形成に重要な役割を果たした)など、その関係は長く続いた。
この時代、全国(満州や台湾を含む)から鳥瞰図製作の依頼が殺到し、初三郎は犬山市や八戸市(種差海岸)など、拠点を移しながら、多くの弟子とともに製作に当たっている。珍しいものとしては、幻に終わった東京万博の会場図を描いている。
高松宮宣仁親王など皇族や松井石根など軍人との交友も広く、驚異的なペースで依頼を受け、鳥瞰図を製作し続けた。しかし、第二次世界大戦が進む中、初三郎式鳥瞰図は港湾等の軍事機密が見て取れ、地政学上好ましくないという軍部の判断の下、不遇の時代を送る。
戦後、初三郎が最初の大きな仕事として引き受けたのは、広島原爆の被害を鳥瞰図にする仕事だった。知遇を得た昭和天皇を敬愛し、日本を愛した初三郎は、渾身の図をまとめ、世を去ることとなる。
死後は忘れられていたが、1999年、堺市博物館で大規模な回顧展が開かれたのを契機として各地の博物館で展覧会が開かれ、再評価されるようになった。
作風
現在の鳥瞰図の手法は平行透視図法が主流であるが、初三郎は「初三郎式絵図」と呼ばれる独自の作風を確立していた。その特徴は、見えないはずの富士山やハワイが描かれているなど、大胆なデフォルメや遊び心にある。
創作手法
初三郎と同時代には彼の作品を模した鳥瞰図作家が多数いたが、初三郎作品との決定的な違いがあった。それは鳥瞰図製作の際に、該当地の風土や歴史を 事前に調査し、さらに現地に入って踏査写生および取材を行ったことである。全国各地で現在有名になっている観光名所、景勝地には彼が踏査取材中に見いだし 作品中で発表した所も少なくない。九州でいえば、菊池渓谷(1931年・作品発表時は菊池水源地、初三郎は「絵に添えて一筆」の中でこの渓谷美を観光地化することを提唱)、久住高原(1924年、飯田高原の朝日長者伝説にちなみ飯田高原を「長者が原」と命名)など枚挙にいとまがない。
また戦後の代表作「HIROSHIMA」では、原爆投下後まもない広島市へ入り、5ヶ月におよぶ取材で被爆者300余名からの証言を得て、原爆八連図とよばれる作品に仕上げた。原爆投下の瞬間を描いた作品は、被爆者の証言のリアルさが全面に出たものである。関東大震災の鳥瞰図と合わせて、初三郎と彼の鳥瞰図のジャーナリズム性がわかる。
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