座標: 北緯34度32分45.81秒 東経135度50分24.71秒 / 北緯34.5460583度 東経135.8401972度 / 34.5460583; 135.8401972 (纒向遺跡)
纒向遺跡または纏向遺跡(まきむくいせき)は奈良県桜井市、御諸山(みもろやま)とも三室山(みむろやま)とも呼ばれる三輪山の北西麓一帯に広がる弥生時代末期から古墳時代前期にかけての大集落遺跡である。建設された主時期は3世紀で、前方後円墳発祥の地とされている。邪馬台国に比定する意見もあり、卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳などの6つの古墳を持つ。
立地と遺跡概要[編集]
遺跡の名称は、旧磯城郡纒向村に由来し、「纒向」の村名は垂仁天皇の「纒向珠城(たまき)宮」、景行天皇の「纒向日代(ひしろ)宮」より名づけられたものである。
2011年(平成23年)現在で把握されている纒向遺跡の範囲は、北は烏田川、南は五味原川、東は山辺の道に接する巻野内地区、西は東田地区およびその範囲は約3km²になる。遺跡地図上では遺跡範囲はJR巻向駅を中心に東西約2km・南北約1.5kmにおよび、およそ楕円形の平面形状となって、その面積は3,000m²に達する。
地勢は、東が高く西が低い。三輪山・巻向山・穴師山などの流れが巻向川に合流し、その扇状地上に遺跡が形成されている。
遺跡内出土遺物で最も古いものは、縄文時代後・晩期のものである。粗製土器片やサヌカイト片に混じって砂岩製の石棒破片、あるいは土偶や深鉢などが遺跡内より出土しており、この地に縄文時代の集落が営まれていたと考えられている。
遺跡からは弥生時代の集落は発見されておらず、環濠も検出されていない。銅鐸の破片や土坑が2基発見されているのみである。この遺跡より南に少し離れた所からは弥生時代中期・後期の多量の土器片が出土しており、方形周濠墓や竪穴住居なども検出している。また、南西側からも多くの弥生時代の遺物が出土している。ただし、纒向遺跡の北溝北部下層および灰粘土層からは畿内第V様式末の弥生土器が見つかっており、「纒向編年」では「纒向1類」とされている[1]。なお、発掘調査を担当した石野博信は、「纒向1類」の暦年代としては西暦180年から210年をあてている。
纒向遺跡は弥生時代から古墳時代への転換期の様相を示す重要な遺跡であり、また、現在では邪馬台国畿内説を立証する遺跡ではないかとして注目を浴びている。3世紀前半の遺構は必ずしも多くなく、遺跡の最盛期は3世紀終わり頃から4世紀初めにかけてである。しかし、2011年に、「卑弥呼の居館」とも指摘された大型建物跡(3世紀前半)の約5メートル東側から別の大型建物跡の一部が見つかり、建物跡は造営年代が3世紀後半以降と判明。今後、造営年代が遺跡が存続した4世紀前半までの間に特定されれば、初期大和政権の重要施設だった可能性が高まるという[2]。農業用の大型水路や無数の土坑の中には、三輪山祭祀に関する遺物のセットが多数投げ捨てられており、石塚古墳の周濠からは吉備系の祭祀遺物である弧文円板(こもんえんばん)が出土している。ピークの過ぎた4世紀末には埴輪が出土する。
飛鳥時代から奈良時代にかけては、この地域に市が発達し「大市」と呼ばれた。箸墓古墳のことを、宮内庁治定では「大市墓」というのはこのためである。奈良時代から平安時代にかけては、井戸遺構や土抗、旧河道などが検出されている。「大市」と墨守された土器も検出されている。
発掘調査[編集]
纒向遺跡は1937年(昭和12年)に土井実によって「太田遺跡」として『大和志』に紹介されたのが最初である[1]。現在の名称で呼ばれるまでは「太田遺跡」・「勝山遺跡」として学界に知られており、小規模な遺跡群の1つとして研究者には認識され、特に注目を集めていなかった[3]。しかし、炭鉱離職者の雇用促進のための県営住宅建設および小学校建設計画が持ち上がり、それを契機に1971年(昭和46年)より橿原考古学研究所によって事前調査が行われることとなった。その結果、幅5m、深さ1m、総延長200m以上の運河状の構造物が発見され、地元の万葉研究者である吉岡義信らが『万葉集』に登場する「巻向川」の跡ではないかと述べたことから、注目を集めることとなった[1]。川跡からは、吉備の楯築遺跡や都月坂遺跡で出土している特殊器台が出土した。その後も、橿原考古学研究所の石野博信と関川尚功を中心に発掘調査がなされ、様々な遺構や出土品が広範囲にわたり確認された。1977年(昭和52年)の第15次調査以降は、調査主体が橿原考古学研究所から桜井市教育委員会へと移り、現在も調査を継続しており、調査回数は100次を超えている。2008年(平成20年)12月段階でも、遺跡は全体の5%が発掘調査されたにすぎない[1]。
2009年(平成21年)にはいくつかの建物を検出し、纒向遺跡は柵や砦で囲まれた都市の一部らしいことが明らかになってきた。
纒向遺跡発掘に携わった奈良県桜井市教育委員会は、遺跡の3世紀に掘られた穴「土坑」から桃のタネ約2,000個が見つかったと2010年(平成22年)に発表した。桃の実は古代祭祀においては供物として使われており、1ヶ所で出土したタネ数としては国内最多である。また2011年(平成23年)には、この遺跡からマダイ、アジ、サバ、コイなど6種類以上の魚の骨やウロコを確認した。動物もイノシシやシカ、カモの骨など千数百点が見つかったと発表した。これらは食料ではなく、供物であったと考えられている。
主な検出遺構[編集]
唐古・鍵遺跡の約10倍の規模を持ち、藤原宮に匹敵する巨大な遺跡で、多賀城跡よりも大規模である[4]。また、都市計画がなされていた痕跡と考えられる遺構が随所で確認されている。
- 矢板で護岸した幅5m、深さ1mの直線的な巨大水路が2本あり、「北溝」「南溝」と称される。
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- 南溝:箸墓古墳の突出部先端付近の巻向川から北西方向の現纒向小学校方向に延びる。水源は箸墓古墳周濠。濠の背後に国津神社があり、現在の巻向川に到達する。
- 北溝:北東の旧穴師川から南西方向に延びる。水源は旧巻向川である。
- 両溝の合流地点は纒向小学校グラウンドの中にあり、推定2,600mにおよぶ。これは大和川と通じており、遠く外海へと結ばれている。
- 底からは湧水がみられ、内部は大きく分けて3層に分かれている。径約3m・深さ約1.5mの一方が突出する不整形な円の土坑が約150基発見された。
- 掘立柱建物跡と、これに附随する建物跡(古墳時代前期前半の2×3間で床面積約23m²の建物、家屋倒壊遺構と黒漆塗りの弧文を持つ木製品、1×1間の小家屋と2×2間の総柱建物と弧文黒漆塗木製品、纏向玉城宮跡の石碑、宮殿居館の存在が疑われる。その他に掘立柱建物17棟検出)
- 竪穴式住居
- ただし、竪穴式住居は多くなく、高床式建物が建ち並んでいたものと考えられる[1]。
- 弧文板・土塁と柵列を伴ったV字形の区画溝
- 導水施設跡(宮殿の排水施設か)
- 祭祀遺跡(穴師ドヨド地区の景行天皇纏向日代宮の伝承地から碧玉製勾玉・石釧・管玉・ガラス小玉、4世紀後半の土器など出土)
- 製鉄跡 - 「ツクシ型送風管」を伴う鍛冶遺跡
- 集落をめぐる柵
- 遺跡内に点在する古墳(纏向古墳群)
また、地上では確認できない埋没古墳が地中に多数埋蔵されている可能性がある。
主な出土遺物[編集]
- 弥生時代終末期から古墳時代前期にかけての土器が出土しており、出土した弥生土器・土師器により纒向編年がなされている。それによれば、弥生土器第V様式(纒向1類)、庄内式土器(纒向2類・纒向3類・纒向4類)、布留I式(纒向5類)の5期に時代区分がなされている。
- 朱色に塗った鶏形木製品
- 吉備地方にルーツを持つとされる直線と曲線を組み合わせて文様を施した「弧文円板」と呼ばれる木製品。
- 絹製の巾着袋
- 瓦質土器(1996年(平成8年)に土器片の発見。胎土成分組成の分析により、2001年(平成13年)に国内で類例のないものであることが確認され、朝鮮半島の技術で作られたものと判明した)
- ミニチュアの舟
- 木製鏃
- 石見型楯形(いわみがたたてがた)木製品
- 多数の搬入土器(外来系土器)
搬入土器の出身地割合
伊勢・東海系 |
: | 49% |
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北陸・山陰系 |
: | 17% |
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河内系 |
: | 10% |
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吉備系 |
: | 7% |
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近江系 |
: | 5% |
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関東系 |
: | 5% |
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播磨系 |
: | 3% |
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西部瀬戸内海系 |
: | 3% |
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紀伊系 |
: | 1% |
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日本全国で作られたと見なされる遺物が出土しているが、中でも大和国に隣接し、古代から交流が盛んで関係が深かった伊勢国で造られた物と、伊勢湾を挟んで東側に位置する尾張国で造られた物が多い。また、搬入品のほか、ヤマトで製作されたものの各地の特色を持つとされる土器が多く、祭祀関連遺構ではその比率が高くなる(多い地点では出土土器全体の3割を占める)。また、これら外来系の土器・遺物は九州から関東にかけて、および日本海側を含み、それ以前の外来系遺物に比べてきわめて広範囲であり、弥生時代以前にはみられない規模の広汎な地域交流があったことを物語っている[1][5]。
纒向遺跡の主な古墳[編集]
木製品の年輪年代測定などから、纒向石塚古墳は遅くとも225年頃までには築造されていたことが判明している。
特異な遺跡[編集]
- 纒向遺跡は大集落と言われながらも、人の住む集落跡が発見されていない。現在発見されているのは祭祀用と考えられる建物と土抗、そして弧文円板や鶏形木製品などの祭祀用具、物流のためのヒノキの矢板で護岸された大・小溝(運河)などである。遺跡の性格としては居住域というよりも、頻繁に人々や物資が集まったり箸墓古墳を中心とした三輪山などへの祭祀のための聖地と考える学者も多い。
- 辻・トリイ前地区でほぼ南北に2×3間の掘立柱建物とその南に東西に並ぶ柵列が、太田南飛塚地区で家屋倒壊遺構が、巻野内家ツラ地区で1×1間の小家屋と2×2間の総柱の建物が検出されている。このほか太田メグリ地区では、掘立柱建物が17棟が東田柿ノ木地区・太田飛塚地で竪穴住居跡が発見されている。
- 石野博信によれば、「2世紀末に突然現れ、4世紀中頃に突然消滅した大集落遺跡」である[1]。
発掘調査報告書[編集]
- 石野博信・関川尚功『纒向』桜井市教育委員会、1976年(昭和51年)9月。
- 関川尚功・松永博明『纒向遺跡発掘調査概報』橿原考古学研究所、1984年(昭和59年)。
- 関川尚功『纒向遺跡発掘調査概報』橿原考古学研究所、1985年(昭和60年)。
遺跡の特徴[編集]
邪馬台国畿内説の候補地[編集]
- 弥生時代末期から古墳時代前期にかけてであり、『魏志』倭人伝に記された邪馬台国の時期と重なる。
- 当時としては広大な面積を持つ最大級の集落跡であり、一種の都市遺跡である。
- 遺跡内に箸墓古墳があり、倭迹迹日百襲姫命(モモソヒメ)の墓との伝承を持つが、これは墳丘長280mにおよぶ巨大前方後円墳である。それに先駆けて築造された墳丘長90m前後の「纒向型前方後円墳」も3世紀においては日本列島最大の墳丘規模を持っており、ヤマト王権最初の大王墓である。纒向型前方後円墳は各地にも築造されており、政治的関係で結ばれていたとも考えられている。
- 倭迹迹日百襲姫命はまた、邪馬台国の女王・卑弥呼とする説がある。
- 肥後和男は大正時代の笠井新也の見解を紹介して自らの邪馬台国畿内説を補強している[6]。それによれば、笠井は卑弥呼をモモソヒメに、弟王を崇神天皇にあてた。その根拠は、
- 崇神天皇の崩年干支が戊寅年で卑弥呼没年に近い。
- モモソヒメは三輪山の神との神婚伝説や「日也人作、夜也神作」の説話などからも一種の巫女であることは明らかで、「鬼道」を能くしたという卑弥呼の姿によく似ている。
- モモソヒメは崇神天皇の叔母にあたるが、外国人(陳寿)から見れば甥と弟ほどの誤りは許されるであろうというものであった。
- この説に対しては懐疑的な意見も多いが、考古学者のなかには最古の巨大前方後円墳が箸墓古墳であることから箸墓は卑弥呼の墓であっても不自然はないとの白石太一郎らの見解がある[7]。ちなみに箸墓古墳の後円部の大きさは直径約160mであり、『魏志』倭人伝の「卑彌呼死去 卑彌呼以死 大作冢 徑百余歩」の記述に一致している。
- 3世紀を通じて搬入土器の量・範囲ともに他に例がないほどの規模であり、出土土器全体の約15%が駿河・尾張・伊勢・近江・北陸・山陰・吉備などで生産された搬入土器で占められ、製作地域は南関東から九州北部までの広域に拡がっており、西日本の中心的位置を占める遺跡であったことは否定できない。また、祭祀関連遺構ではその割合は約30%に達し、人々の交流センター的な役割を果たしていたことがうかがえる。このことは当時の王権(首長連合、邪馬台国連合)の本拠地が、この纒向地域にあったと考えられる。
以上の点から邪馬台国畿内説の有力候補地と見なされている。
2013年になって、邪馬台国の時期の3世紀前半に建造されたと考えられる建物の柱穴が100箇所以上にわたり発見された。建物を何度も建てたり取り壊したりしたと考えられ、卑弥呼が年数会の祭祀に用いた建物の可能性が出ている[8]。
ヤマト王権の王都[編集]
寺沢薫は、「ヤマト王権の誕生-王都・纒向遺跡とその古墳」の中で、纒向遺跡の特徴と特異性を6点挙げている[5]。
- 3世紀初めに突然現れた。きわめて計画的集落で、規模も大きい。
- 搬入土器が多く、その搬出地は全国にまたがっている。遺跡規模は日本列島最大であり、市的機能を持っていた。
- 生活用具が少なく土木具が目立ち、巨大な運河が築かれ大規模な都市建設の土木工事が行われている。
- 導水施設と祭祀施設は王権祭祀。王権関連建物。吉備の王墓に起源する弧帯文、特殊器台・壺など。
- 居住空間縁辺に定型化した箸墓古墳、それに先行する纒向型前方後円墳。
- 鉄器生産。
また、平安時代初期の「大市」墨書土器があり、この地が『倭名類聚抄』記載の「於保以智(おほいち)」郷に相当するとみられ、『日本書紀』記載の海柘榴市も纒向遺跡南に比定されていることから、纒向が後世に至るまで市的機能を有していたことが知られており、さらに『記紀』では崇神天皇・垂仁天皇・景行天皇の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)、纏向珠城宮(まきむくのたまきのみや)、纏向日代宮(まきむくのひしろのみや)が存在したとの伝承が記載されている[5]。
寺沢はこのように述べた後、「このような考古学的・文献学的特徴をトータルに備えた巨大な集落は、3世紀の日本列島には他に存在しない」として、纒向遺跡こそ日本列島最初の王権「ヤマト王権」の都宮が置かれた都市(ヤマト王権の王都)であった可能性がきわめて高いと結論付けている。
石野博信もまた、大和川につながる護岸工事の施された大溝や祭祀場が検出されたこと、また、近畿以外の諸地域からもたらされた土器が異常に多いこと、そして、これらの土器の構成から纒向には少なく見積もっても5人に1人はヤマト以外のクニグニからやってきた人々であろうと推定されることを論拠として、決して自然発生的なムラではなく、人工的に造られた政治都市であるとしている[1]。
また、次のような指摘も、纒向遺跡がヤマト王権発祥の地あるいはヤマト王権の王都であるとの見解を補強している。
前方後円墳発祥の地[編集]
遺跡内に所在する箸墓古墳は、一般的に、定型化した前方後円墳の始まりとして理解されている。一方で寺沢薫は、纒向石塚古墳など箸墓古墳に先立つ纒向古墳群に属する墳丘墓を「纒向型前方後円墳」の概念を用いて捉え、これらを出現期古墳に位置づけている[9]。いずれにせよ、近年においては纒向遺跡一帯は前方後円墳発祥の地としてみなされることが多い。
参考文献[編集]
- 石野博信・関川尚功 『纒向』 桜井市教育委員会、1976年9月。
- 石野博信 『古墳文化出現期の研究』 學生社、1985年3月。ASIN B000J6UDBG
- 石野博信 『大和・纒向遺跡』 學生社、2005年5月。ISBN 4-311-30485-4
- 森浩一編 『日本の古代 5 前方後円墳の世紀』 中央公論社、1986年8月。ISBN 4-12-402538-6
- 寺沢薫 「纒向型前方後円墳の築造」 同志社大学考古学シリーズIV『考古学と技術』同志社大学考古学シリーズ刊行会、1988年。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]