田中 絹代(たなか きぬよ、1909年11月29日 - 1977年3月21日)は、大正・昭和期の日本の女優・映画監督。12月29日生まれとする文献も多いが、その日以前に提出された出生届に11月29日生まれと記されている。身長152cm。
黎明期から日本映画界を支えた大スターであり、日本映画史を代表する大女優の一人。世界三大映画祭(カンヌ・ヴェネツィア・ベルリン)の全てにおいて出演作が受賞している。また、日本で二人目の女性映画監督でもある。
恋多き女性としても有名で、清水宏監督との同棲生活と破局、慶應義塾大学野球部の花形スターだった水原茂とのロマンスなどは大きな話題となった。溝口健二監督は、田中に惚れていて結婚を願望していたが、田中の側は溝口に魅力を感じておらず、新藤兼人や田中の証言によると溝口の片思いだったと言われる[1]。
神奈川県鎌倉市の鎌倉山にあった自宅敷地は「絹代御殿」と呼ばれるほどの風格ある建築物だった山椒洞。元は日本一の弁護士と言われた政治家の岩田宙造の別宅だった[2]。田中の没後は田中の又従弟で映画監督の小林正樹が人手に渡したくないとして購入[3]。料亭として建物を保存していたが、店舗閉店後にみのもんたが自宅新築のため敷地を購入し、建物は解体された。
出生地・下関から大阪へ[編集]
山口県下関市丸山町に父・田中久米吉、母・ヤスの四男四女(長男慶介・次男鼎・長女繁子・次女政子(早世)・三女・光代・三男晴男・四男祥平・四女絹代)の末娘として生まれる。母ヤスの実家小林家は下関で代々続く大地主の商家で、久米吉はそこの大番頭であった。二人は結婚して独立し、呉服商などを営む傍ら20軒ほども貸し家を持つ裕福な家であったが、絹代が3歳になって間もない1912年1月、久米吉が病死。その後母は藤表(とうおもて)製造業を営んでいたが、使用人に有り金を持ち逃げされるなどの災難に遭い、一家の生活は徐々に暗転していった。
1916年、下関市立王江尋常小学校に入学するが、経済的困窮のため充分な通学ができない状況だったという。この年20歳の長兄・慶介が兵役忌避をして失踪したことで一家は後ろ指を指されることになり、更に経済事情は悪化した。1917年、一家の生活はついに行き詰まり、母ヤスの実兄を頼って大阪天王寺に移る。1918年4月、天王寺尋常小学校の三年に編入する。
戦前・戦中 - アイドルスターとしての成功[編集]
幼少時より、琵琶を習い、1919年に、大阪楽天地の琵琶少女歌劇の舞台に立つ。兄が松竹大阪支社で給仕として働いていた関係で、1924年に松竹下加茂撮影所に入所し、野村芳亭監督の『元禄女』でデビューする。まもなく、当時新進監督だった清水宏に『村の牧場』の主役に抜擢された。
松竹蒲田撮影所に移った後の1927年、五所平之助監督の『恥しい夢』に出演。その後、牛原虚彦監督の演出と当時の人気スター鈴木傳明との作品でヒットを重ね、松竹のドル箱スターとなり、会社の幹部に昇進する。五所監督による日本初の全編トーキー映画、『マダムと女房』に主演した。当初、田中の下関なまりの是非が懸念されたが、公開後、その独特のエロキューションが逆に話題となり、トーキー時代においてもスターとなった[4]。
特に、上原謙とのコンビで1938年に公開された『愛染かつら』は空前の大ヒットとなり、シリーズ化された。1940年には、溝口健二監督の『浪花女』(共演:高田浩吉)に出演し、溝口監督の厳しい注文に応え、自らも演技に自信を深めた。
戦後 - 演技派スター・女性監督へ[編集]
第二次世界大戦終結後も、溝口監督の『女優須磨子の恋』や小津安二郎監督の『風の中の牝鶏』などに出演し、高い評価を得、1947年、1948年と連続して毎日映画コンクール女優演技賞を連続受賞する。
順調に見えた女優生活だったが、1950年、日米親善芸術使節として滞在していたアメリカから帰国した際、サングラスに派手な服装で投げキッスをしたり「ハロー」と言ったことなどから、渡米を後援した毎日新聞社を除くメディアから叩かれ、一部のメディアからは「アメション女優」(アメリカで小便をしてきただけで (短い滞在期間の意味) 、安易にアメリカ文化に感化された)などと形容された。戦前に数々の国威発揚映画に出演し、「軍国の母」[5]、「銃後を守る気丈な日本女性」[6]のイメージを確立していた国民的女優の突然の変身に、敗戦に打ちひしがれ貧困の状態にあった国民は戸惑い、同時に憤りをかきたてることになった。それ以降、自殺を考えるほどのスランプに陥いる[7][8]。帰国後に松竹で出演した『婚約指環』では「老醜」とまで酷評され[9]、1951年の映画雑誌『近代映画』のスター人気投票の女優の部の10位以内にも入らずトップスターの地位を失った[7]。ファンレターが1通も来なくなったと漏らしていたという[10]。この時期に松竹を退社する。
1952年に溝口監督が田中絹代のために温めてきた企画である『西鶴一代女』に主演する。この作品はヴェネツィア国際映画祭で国際賞を受賞し、女優として完全復活を果たす[9]。翌1953年には同じコンビで『雨月物語』を製作、ヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞を受賞する。
映画監督業への進出を志し、成瀬巳喜男監督の『あにいもうと』(1953年)には「監督見習い」として加わり、成瀬監督自身から手ほどきを受ける。同年『恋文』を監督。坂根田鶴子に次ぐ、日本で二人目の女性監督の誕生であったが、監督二作目の『月は上りぬ』の企画の際に、田中絹代が監督をすることに溝口監督が反対したことから[11]、長年の名コンビであった溝口監督との仲を疎遠なものにしたといわれる[12]。
その後も、木下惠介監督の『楢山節考』、小津監督の『彼岸花』への出演、京マチ子主演の『流転の王妃』の演出など、常に映画界をリードする活躍を続ける。その一方で、1970年の『樅ノ木は残った』に出演以降、テレビドラマにも活躍の場を広げ、『前略おふくろ様』の主人公の母親役やNHK朝の連続テレビ小説『雲のじゅうたん』のナレーションなどで親しまれた。1970年、紫綬褒章受章。
1974年に主演した、熊井啓監督の映画『サンダカン八番娼館 望郷』の円熟した演技は世界的に高く評価され、ベルリン国際映画祭銀熊賞、芸術選奨文部大臣賞を受賞した。
1977年3月21日、肺癌が転移した脳腫瘍のため67歳で死去。遺作はテレビドラマ『前略おふくろ様』。最晩年、借金を抱えて困窮していた田中の面倒は唯一の親戚である又従弟[13][14]小林正樹監督が看ていた。病床についた田中は「目が見えなくなっても、やれる役があるだろうか」と見舞いに来た小林正樹監督に尋ねたという。死後、勲三等瑞宝章が授与された。同年3月31日、映画放送人葬が行われ、5000人が参列した。法名は、迦陵院釋尼絹芳。
墓所は山口県下関市の下関中央霊園にある。三回忌となった1979年には小林正樹によって、神奈川県鎌倉市の円覚寺にも墓が建立されて分骨された。小林も同じ墓に納骨されている[15]。
1985年には、又従弟の小林正樹監督により、毎日映画コンクールに「田中絹代賞」が創設され、映画界の発展に貢献した女優に贈られることとなった。第1回受賞者は吉永小百合。
1987年に市川崑監督、吉永小百合主演でその波乱に富んだ一生が『映画女優』というタイトルで映画化された。
2010年2月13日、生誕の地で7歳まで過ごした下関市に「下関市立近代先人顕彰館 田中絹代ぶんか館」がオープン。セレモニーには女優の松坂慶子、俳優の奥田瑛二、安倍晋三元首相らが出席した。
生誕100周年の催し[編集]
生誕100周年となる2009年には、上映会をはじめとするさまざまな催しが行なわれた。
松竹は、絹代生誕100周年を記念する「絹100%プロジェクト」[16]として、作品の上映会・DVD発売・CS放送・インターネット配信など各種イベントなど催す。下関市、東京国立近代美術館フィルムセンター、東京フィルメックス実行委員会、芸游会、田中絹代メモリアル協会、毎日新聞社、トライメディアが協力、大和証券グループが特別協賛する。
東京国立近代美術館フィルムセンターでは、9月4日-12月20日の約4か月間わたって企画展「生誕百年 映画女優 田中絹代」で遺品や関連資料を展示。同館は10月6日-11月15日、11月17日-12月27日の約3か月にわたる大規模な特集上映「生誕百年 映画女優 田中絹代(1)、(2)」で出演作および監督作計97作品を上映する。
第10回東京フィルメックス映画祭では「ニッポン★モダン1930 〜もう一つの映画黄金期〜」として田中絹代出演作を中心に特集上映し、特に生誕100年に当たる11月29日には「絹代DAY」として代表作を上映する。このほかにも、各地で特集上映会が催される。
銀座立田野銀座本店では特製の「絹代あんみつ」を発売した。
代表作[編集]
主な出演映画作品[編集]
太字の題名はキネマ旬報ベストテンにランクインした作品(戦後のみ)
- 元禄女(1924年、野村方亭監督・吉野二郎助監督)
- 村の牧場(1924年、清水宏監督)
- 恥しい夢(1927年、五所平之助監督)
- 真珠夫人(1927年、池田義信監督)
- 新女性鑑(1929年、五所平之助監督)
- 大学は出たけれど(1929年、小津安二郎)
- マダムと女房(1931年、五所平之助監督)
- 伊豆の踊子(1933年、五所平之助監督)
- 悲しみは女だけに(1935年、新藤兼人監督)
- 愛染かつら前後篇(1938年、野村浩将監督)
- 暁に祈る(1940年、佐々木康監督)
- 簪(1941年、清水宏)
- 陸軍(1944年、木下惠介監督)
- 結婚(1947年、木下惠介監督)
- 女優須磨子の恋(1947年、溝口健二監督)
- 不死鳥(1947年、木下惠介監督)
- 夜の女たち(1948年、溝口健二監督)
- 風の中の牝雞(1948年、小津安二郎監督)
- 宗方姉妹(1950年、小津安二郎監督)
- お遊さま(1951年、溝口健二監督)
- 銀座化粧(1951年、成瀬巳喜男監督)
- 武蔵野夫人(1951年、溝口健二監督)
- 西鶴一代女(ヴェネツィア国際映画祭国際賞受賞作品。1952年、溝口健二監督)
- おかあさん(1952年、成瀬巳喜男監督)
- 安宅家の人々(1952年、久松静児監督)
- 雨月物語(ヴェネツィア国際映画祭サン・マルコ銀獅子賞、イタリア批評家賞受賞作品。第28回アカデミー賞衣裳デザイン賞白黒映画部門ノミネート作品。1953年、溝口健二監督)
- 煙突の見える場所(ベルリン国際映画祭国際平和賞受賞作品。1953年、五所平之助監督)
- 山椒大夫(ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞受賞作品。1954年、溝口健二監督)
- 噂の女(1954年、溝口健二監督)
- 流れる(1956年、成瀬巳喜男監督)
- 黄色いからす(第15回米国ゴールデングローブ賞 外国語映画賞受賞作品。1957年、川頭義郎監督)
- 異母兄弟(1957年、家城巳代治監督)
- 楢山節考(1958年、木下惠介監督)
- 彼岸花 EQUINOX FLOWER(1958年、小津安二郎監督)
- この天の虹(1958年、木下惠介監督)
- 浪花の恋の物語(1958年、内田吐夢監督)
- おとうと(カンヌ国際映画祭フランス映画高等技術委員会表彰受賞作品。1960年、市川崑監督)
- 放浪記(1962年、成瀬巳喜男監督)
- 太平洋ひとりぼっち(1963年、市川崑監督)
- 香華(1964年、木下惠介監督)
- 赤ひげ(ヴェネツィア国際映画祭男優賞(三船敏郎)、サン・ジョルジョ賞、ヴェネツィア市賞、国際カトリック映画事務局賞受賞作品。1965年、黒澤明監督)
- 男はつらいよ 寅次郎夢枕(1972年、山田洋次監督)
- 三婆(1974年、中村登監督)
- サンダカン八番娼館 望郷(ベルリン国際映画祭銀熊賞(女優賞)受賞作品。1974年、熊井啓監督)
- 北の岬(1976年、熊井啓監督)
- 大地の子守歌(1976年、増村保造監督)
出演テレビドラマ[編集]
監督映画作品[編集]
- 恋文(1953年)
- 月は上りぬ(1955年)
- 乳房よ永遠なれ(1955年)
- 流転の王妃(1960年)
- 女ばかりの夜(1961年)
- お吟さま(1962年)
ディスコグラフィー[編集]
田中絹代を演じた女優[編集]
参考図書[編集]
- ^ 長部日出雄『邦画の昭和史』新潮新書、2007年、p.105-108
- ^ 長部日出雄『邦画の昭和史』新潮新書、2007年、p.100
- ^ 増沢一彦「情熱と根性で芸域広げる 田中絹代」『映画百年 映画はこうして始まった』読売新聞文化部編集、キネマ旬報社、1997年、p.67
- ^ 佐藤忠男『日本映画史1 1896-1940』岩波書店、1995年、pp.329-330
- ^ 『陸軍』で息子を戦地に送り出す母親を演じた。
- ^ 『暁に祈る』
- ^ a b 岩見隆夫「岩見隆夫のサンデー時評第601回 60年前の『田中絹代バッシング』」『サンデー毎日』2010年3月7日号、pp.42-43
- ^ 児井英生『伝・日本映画の黄金時代』文藝春秋社、1989年、p.140
- ^ a b 児井英生『伝・日本映画の黄金時代』文藝春秋社、1989年、p.193
- ^ 川本三郎『君美わしく 戦後日本映画女優讃』文藝春秋社、1996年、p.388
- ^ 児井英生『伝・日本映画の黄金時代』文藝春秋社、1989年、p.221
- ^ 川本三郎「田中絹代」『映画監督ベスト101・日本篇』川本三郎編、新書館、1996年、p.125
- ^ NPO法人 田中絹代メモリアル協会とは NPO法人田中絹代メモリアル協会公式サイト内
- ^ 倉本聰『愚者の旅 わがドラマ放浪』理論社、2002年、p.137
- ^ 川本三郎『今日はお墓参り』平凡社、1999年、pp.39-40
- ^ 絹100%プロジェクト公式サイト
関連項目[編集]
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ウィキメディア・コモンズには、田中絹代に関連するメディアがあります。 |
外部リンク[編集]