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この項目では、奈良県桜井市の大神神社について説明しています。
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大神神社(おおみわじんじゃ)は、奈良県桜井市にある神社。式内社(名神大社)、大和国一宮、二十二社(中七社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
別称として三輪明神、三輪神社とも呼ばれる。
概要 [編集]
日本で最古の神社の1つとされる。三輪山そのものを神体(神体山)としており、本殿をもたず、拝殿[1]から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。自然を崇拝するアニミズムの特色が認められるため、三輪山信仰は縄文か弥生にまで遡ると想像されている。拝殿奥にある三ツ鳥居は、明神鳥居3つを1つに組み合わせた特異な形式のものである[2]。例年11月14日に行われる醸造安全祈願祭(酒まつり)で拝殿に杉玉が吊るされる、これが各地の造り酒屋へと伝わった。
摂社の檜原神社は天照大神をはじめて宮中の外に祀った「倭笠縫邑」の地であると伝えられ、元伊勢の一つとなっている。また、作者不詳の能「三輪」ではキリ(終りの部分)の歌に「思えば伊勢と三輪の神。一体分身の御事。今更、なんと、いわくら(磐座・言わくら)や」との言葉があり、伊勢神宮との関係が示唆されている。
なお、全国各地に大神神社・神神社(美和神社)が分祀されていることについては、既に『延喜式神名帳』(『延喜式』巻9・10の神名式)にも記述がある。その分布は、山陽道に沿って播磨(美作)・備前・備中・周防に多い。吉備国を征服する時に大和王権によって分祀されたのではないかと推測されている[3]。
近年、大和七福八宝めぐり(三輪明神、長谷寺、信貴山朝護孫子寺、當麻寺中之坊、安倍文殊院、おふさ観音、談山神社、久米寺)の1つに数えられている。
祭神 [編集]
- 主祭神
- 大物主大神 (おおものぬしのおおかみ、倭大物主櫛甕玉命)
- 配神
大物主神は蛇神であり水神または雷神としての性格を持ち稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として篤い信仰を集めている。また国の守護神(軍神)、氏族神(太田田根子の祖神)である一方で祟りなす強力な神(霊異なる神)ともされている。
大物主神にまつわる伝承は多い[4]が、その中には、当社の付近にある箸墓古墳と関連するものもある[5]
歴史 [編集]
記紀には、次の記述がある。大国主神(大己貴神)は出雲国を拠点に国造りに励んでいたが、協力者である少彦名神が常世国に去ったため思い悩んでいると、突如、海原を照らして神が出現した[6]。その神は「吾はお前の奇魂幸魂である」といい、「吾は大和国、三輪山に住みたいと思う」といったという[6]。その神が大物主神であるが、大物主神は大国主神の子孫であるという説もある[6]。
崇神天皇7年に天皇が物部連の祖伊香色雄(いかがしこを)に命じ、三輪氏の祖である意富多多泥古(太田田根子)を祭祀主として大物主神を祀らせたのが始まりとされる。日本書紀では天皇が天変地異に加え疫病の流行に宸襟を悩まされているとき、夢枕に大物主神が立ち、「こは我が心ぞ。意富多多泥古(太田田根子)をもちて、我が御魂を祭らしむれば、神の気起こらず、国安らかに平らぎなむ」と告げたとされる[6]。天皇は早速、太田田根子を捜し出し、三輪山において祭祀を行わせたところ、天変地異も疫病も収まったという[6]。
国史には奉幣や神階の昇進など当社に関する記事が多数あり、朝廷から厚く信仰されていたことがわかる。貞観元年(859年)2月、神階は最高位の正一位に達した。
摂末社 [編集]
摂社 [編集]
- 狭井坐大神荒魂神社(狭井神社)
- 祭神:大神荒魂神
- 式内社。病気平癒の神社。御神体である三輪山への登拝口が境内にある。但し、三輪山は御神体であり山そのものが神域であるため、軽率な気持ちで入山することは出来ない。(明治に渡るまで「神域」として一般の入山禁止であった。)登拝料を払い受付より渡されるたすきを首にかけるなどの厳守すべき規則があり、それを了承した上で登拝することが義務づけられている。なお、入山中は撮影・飲食は禁止である。
- 檜原神社
- 綱越神社
- 大直禰子神社(若宮社)
- 祭神:大直禰子・少彦名命・活玉依姫命
- 明治の廃仏毀釈までは大神寺あるいは大御輪寺と呼ばれる神宮寺の1つであり、現在聖林寺にある十一面観音菩薩立像を本尊としていた。社殿は入母屋造本瓦葺きの仏堂形式で、数回にわたって大規模改修された末に室町時代に現在の形態になり、内陣の部材には奈良時代のものが含まれることが近年の解体修理に伴う部材調査で判明している[7]。
- 神坐日向神社
- 玉列神社