千里竹の会たより
( 平 成 2 5 年 6 月 1 日 号 N O . 1 0 9 ) 写真は5月27日 月曜日 桃山公園
「6月度の活動予定」
日 (曜)開始時間 場 所 備 考
1(土)13:30①千里第7緑地竹林整備8:00 北千里高校竹炭焼き
3(月)13:30②桃山公園 竹林整備
6(木)13:30千里東町公園 ①竹林整備
7(金)13:00東丘CR夢志クラブ
8(土)13:30③千里第8緑地竹林整備13:30千里東町公園 ②竹林整備 (第2土曜日)ごみ収集
10(月)13:30④桃山公園 竹林整備
13(木)13:30千里東町公園 ③竹林整備
15(土)13:30⑤千里第7緑地 竹林整備10:00 北千里高校竹炭出し、竹材入れ
17(月)13:30⑥桃山公園 竹林整備19(水)13:00 北千里高校竹酢液ボトル詰め
20(木)13:30千里東町公園 ④竹林整備
21(金)13:00東丘CR夢志クラブ
22(土)13:30⑦千里第8緑地 竹林整備13:30千里東町公園 ⑤竹林整備 (第4土曜日)ごみ収集
16:00佐竹台サロン6月度幹事会
24(月)13:30⑧桃山公園竹林整備
27(木)13:30千里東町公園 ⑥竹林整備13:30こぼれび通り特別竹細工教室
29(土)13:30⑨千里第7緑地 竹林整備
「幹事会報告」
1) 「千里竹の会」設立10周年記念行事のご案内
先日の千里竹の会総会にてお知らせしましたように、設立10年の特別企画として、「越前竹人形の里」
日帰り研修旅行を行います。下記要領にて行いますので奮ってご参加いただききますようご案内します。
☆ 日 時 : 平成25年7月23日(火) ☆ 行 先 : 越前竹人形の里 と 永平寺参拝
☆ 集合場所 : クリスタルホテル南千里 北側 ☆ 集合時間 : 午前7時45分
☆ 参加費 :¥2,000円 /一人(千里竹の会より援助が有る為)参加定員45名(定員なり次第締切)
参加申し込みは、7月10日までに、木村代表幹事へ電話またはメールにて、直接ご連絡お願い致します。
尚、参加費は当日集金させていただきますが、申し込み締切以後のキャンセルは費用を申し受けます。
2)吹田ボランティアフェスティバルに於ける東日本大震災への義援金について
5月26日(日)に開催されたボランティアフェスティバルにおいて、千里竹の会ブースでの出展作品売上金
及び義援金募集金は、合わせて、総額¥12780円となりました。
この全額を東日本大震災義援金として寄付させていただきます。
3)千里東町公園の竹林整備の活動曜日について
6月度より、本来の活動日の「毎木曜日、第2及び第4土曜日」に戻します。
5月に行っていました、第1及び第3土曜日は整備活動を取り止めます。
発行元 : 千里竹の会
代表幹事 : 木村凡之 (06-6387-7037) [email protected]
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越前竹人形の里
http://www.takeningyo.com/annai.html越前竹人形の魅力をひとことで言いますと<人間の魂のふるさとへの郷愁をさそう>魅力があると言えます。
こどもの時代に美しい竹林をさまよった経験をお持ちの方は多いと思いますが、あの竹林の中の空間の静けさと、上の方から斜めに幾筋も注ぎ込んでくる光の帯の明るさは、地上の空間とはちがった別空間のたたずまいを感じさせてくれて、子供ごころにもなにか神秘的な思いに満たされたものであります。
竹林の中で耳を澄ましますと、風にそよぐ竹の葉の鳴るやわらかな音にまじって、目には見えませんが<竹の精>がやさしく語りかける言葉が聞こえてまいります。
越前竹人形には<竹の精>のいのちが吹き込まれているかのようであります。越前竹人形を見つめていますと、あの少年の日に体験した神秘的な思い出がよみがえって来るのであります。
竹林の空間の静けさ、明るさが肌に感じられ、風に鳴る音さえもはっきりと聞き取れます。ふるさとへの懐かしさがあふれてきて胸が熱くなります。これもまた越前竹人形の魅力のひとつだと言うべきでありましょう。
大胆に、そして細心に造形し、人間のいのちを吹き込まれた越前竹人形はまさに<竹の精>そのものだと言ってもよいかと思います。これも絶妙な匠の技だと言うべきでありましょう。
永平寺
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%B9%B3%E5%AF%BA
永平寺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
永平寺(えいへいじ)は、福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗の寺院。總持寺と並ぶ日本曹洞宗の中心寺院(大本山)である。山号を吉祥山と称し、寺紋は久我竜胆車紋である。開山は道元、本尊は釈迦如来・弥勒仏・阿弥陀如来の三世仏である。
歴史 [編集]
道元の求法 [編集]
曹洞宗の宗祖道元は正治2年(1200年)に生まれた。父は村上源氏の流れをくむ名門久我家の久我通親であるとするのが通説だが、これには異説もある。
幼時に父母を亡くした道元は仏教への志が深く、14歳で当時の仏教の最高学府である比叡山延暦寺に上り、仏門に入った。道元には「天台の教えでは、人は皆生まれながらにして、本来悟っている(本覚思想)はずなのに、なぜ厳しい修行をしなければ悟りが得られないのか」という強い疑問があった。道元は日本臨済宗の宗祖である建仁寺の栄西に教えを請いたいと思ったが、栄西は道元が出家した2年後に、既に世を去っていた。
比叡山を下りた道元は、建保5年(1217年)建仁寺に入り、栄西の直弟子である明全に師事した。しかし、ここでも道元の疑問に対する答えは得られず、真の仏法を学ぶには中国(宋)で学ぶしかないと道元は考えた。師の明全も同じ考えであり、彼ら2人は師弟ともども貞応2年(1223年)に渡宋する。
道元は天童山景徳寺の如浄に入門し、修行した。如浄の禅風はひたすら坐禅に打ち込む「只管打坐(しかんたざ)」を強調したものであり、道元の思想もその影響を受けている。道元は如浄の法を嗣ぐことを許され、4年あまりの滞在を終えて帰国した。なお、一緒に渡宋した明全は渡航2年後に現地で病に倒れ、2度と日本の地を踏むことはできなかった。
日本へ戻った道元は初め建仁寺に住し、のちには深草(京都市伏見区)に興聖寺を建立して説法と著述に励んだが、旧仏教勢力の比叡山からの激しい迫害に遭う。
越前下向 [編集]
旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、道元は信徒の1人であった越前国(福井県)の土豪・波多野義重の請いにより、興聖寺を去って、義重の領地のある越前国志比庄に向かうことになる。寛元元年(1243年)のことであった。
当初、義重は道元を吉峰寺へ招いた。この寺は白山信仰に関連する天台寺院で、現在の永平寺より奥まった雪深い山中にあり、道元はここでひと冬を過ごすが、翌寛元2年(1244年)には吉峰寺よりも里に近い土地に傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立する。これが永平寺の開創であり、寛元4年(1246年)に山号寺号を吉祥山永平寺と改めている。
寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢明帝のときの元号「永平」からであり、意味は「永久の和平」である。
道元以降 [編集]
その後の永平寺は、2世孤雲懐奘、3世徹通義介のもとで整備が進められた。義介が三代相論で下山し4世義演の晋住後は外護者波多野氏の援助も弱まり寺勢は急激に衰えた。一時は廃寺同然まで衰微したが、5世義雲が再興し現在にいたる基礎を固めた。暦応3年(1340年)には兵火で伽藍が焼失、応仁の乱の最中の文明5年(1473年)でも焼失した。その後も火災に見舞われ、現存の諸堂は全て近世以降のものである。
伽藍 [編集]
- 勅使門 - 天保10年(1839年)の建築。
- 山門 - 寛延2年(1749年)の建築。重層の門で、階上には釈迦如来像、五百羅漢像などを安置する。
- 中雀門
- 通用門
- 円通門
- 仏殿 - 明治35年(1902年)の建築。本尊の釈迦・弥勒・阿弥陀の三世仏(現在・未来・過去を表す)の他、禅宗初祖の達磨像、道元の師である如浄禅師像などを安置する。
- 法堂 - 天保14年(1843年)の建築。
- 大庫院 - 昭和5年(1930年)の建築。地上3階地下1階の近代木造建築で、台所兼事務所の役を果たす。建築当時のエレベーターが現存しており、これは稼動中のものとしては日本最古といわれる。
- 承陽殿 - 明治14年(1881年)の建築。開山道元の廟で、道元以下第5世までの住職の像を安置する。
- 僧堂 - 明治35年(1902年)の建築。僧堂は坐禅修行のための建物である。
- 傘松閣(さんしょうかく) - 昭和5年(1930年)の建築。222畳敷きの大広間があり、天井画は川合玉堂、伊東深水など計144名の画家によって描かれた。
- 吉祥閣 - 昭和46年(1971年)の建築。地上5階地下1階の宿泊研修施設で、曹洞宗に限らず参禅研修を希望する人を広く受け入れている。
- 浴室 - 昭和55年(1980年)の改築
- 東司
- 真陽閣
- 光明蔵
- 不老閣
- 宝蔵
- 一華蔵
- 孤雲閣
- 瑠璃聖宝閣
- 五葉関
- 司堂殿