イギリス
「鉄の女」イギリスのサッチャー元首相死去 87歳、女性初の英首相
【ロンドン支局】英BBC放送は8日、米国と強固な連帯を組んで旧ソ連共産主義を崩壊に導き「鉄の女」の異名を取ったマーガレット・サッチャー元英首相が死去したと伝えた。87歳。総選挙に3度勝利し第二次世界大戦後の英政界では最長となる約11年半の間、首相を務めた。在任中に国有企業の民営化、規制緩和、金融改革を断行し、長期的な経済衰退から英国を復活させる礎を築いた。
リンカーンシャー州グランサム生まれ。1959年、フィンチリー選出の保守党下院議員になり、70年、エドワード・ヒース内閣の教育相。75年の同党党首選でヒース党首を破り、英国の政治史上初の女性党首になった。79年の総選挙で「英経済の復活」と「小さな政府」の実現を公約に掲げて勝利し、女性初の英首相に就任した。
新自由主義に基づき国営産業と国営企業を民営化するとともに、労働組合と激しい政治闘争を展開。「揺りかごから墓場まで」の福祉国家体制にも大なたを振るった。
82年、アルゼンチン軍が南大西洋の英領フォークランド諸島に侵攻した際、間髪を置かず艦隊を派遣、74日間の戦闘で英兵255人の死者を出したが、アルゼンチン軍を駆逐した。ロナルド・レーガン米大統領の戦略防衛構想(SDI)、いわゆる「スター・ウォーズ計画」を支持して、ソ連と共産主義を崩壊に追い込んだ。妥協を許さない政治哲学は「サッチャリズム」と呼ばれた。
同元首相の経済政策は二度の不況、失業率の上昇という苦しみを伴ったが、一部修正されて労働党のトニー・ブレア、ゴードン・ブラウン両政権に受け継がれ、現在の堅調な経済成長をもたらしている。
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... ). 【ロンドン=欧州総局】「鉄の女」と呼ばれ1979年から11年間、英国の首相を務めたマーガレット・サッチャー氏が8日、脳卒中のため死去した。87歳。強烈な指導力で国営企業の民営化や規制緩和を推進し、経済衰退に直面していた英国を復活させる基礎を築いた。その手法 ...
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マーガレット・サッチャー
イギリスの政治家
マーガレット・サッチャー
Margaret Thatcher
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生年月日 | 1925年10月13日(87歳) |
出生地 | リンカンシャー州グランサム |
没年月日 | 2013年4月8日(0歳) |
所属政党 | 保守党 |
配偶者 | デニス・サッチャー |
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任期 | 1992年 - |
第71代首相
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任期 | 1979年5月4日 - 1990年11月28日 |
女王 | エリザベス2世 |
第13代保守党党首
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任期 | 1975年 - 1990年 |
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選挙区 | フィンチリー選挙区 |
任期 | 1959年 - 1992年 |
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マーガレット・ヒルダ・サッチャー(Margaret Hilda Thatcher, Baroness Thatcher, LG, OM, PC, FRS、旧姓: ロバーツ(Roberts)、1925年10月13日 - 2013年4月8日)は、イギリスの政治家、貴族。爵位は男爵(女男爵)。
イギリス史上初の、女性保守党党首、英国首相(在任: 1979年 - 1990年)。1992年からは貴族院議員。保守的かつ強硬なその性格から鉄の女(Iron Lady)の異名を取った。
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経歴 [編集]
生い立ち [編集]
1925年、リンカンシャーグランサムの食糧雑貨商の家に生まれる。父・アルフレッド・ロバーツは地元の名士であり、市長を務めた経験もあった。サッチャーの生家は代々メソジストの敬虔な信徒であり、生家の家訓であった「質素倹約」「自己責任・自助努力」の精神はサッチャーにも色濃く受け継がれた。父・アルフレッドを非常に尊敬し、サッチャーは「人間として必要なことは全て父から学んだ」と度々口にした。オックスフォード大学で化学を学び、1947年に卒業。その後、研究者の道に進み、ライオンズ社に就職した研究者時代にアイスクリームに空気を混ぜてかさ増しする方法を研究した事がある。コロイド化学が専門であり、Langmuir- Blodgett膜の研究を行っていた時期もある。一方、大学時代にはフリードリヒ・ハイエクの経済学にも傾倒していた。この頃に培われた経済学に対する思想が、後の新自由主義的な経済改革(所謂サッチャリズム)の源流になった。
下院議員 [編集]
1950年、保守党から下院議会議員選挙に立候補するが、落選。翌1951年には10歳年上のデニス・サッチャー(en:Denis Thatcher)と結婚し、法律の勉強を始める。1953年には弁護士資格を取得。なお、この当時は女権拡張について強く訴えていた。
1959年に下院議員に初当選を果たし、1970年からヒース内閣で教育科学相を務める。この時、教育関連予算を削減する必要に迫られたサッチャーは学校における牛乳の無償配給の廃止を決定し、「ミルク泥棒」と謗られるなど、猛烈な抗議の嵐を巻き起こした。
保守党党首 [編集]
1974年の選挙で保守党は敗北を喫し、翌1975年2月に保守党党首選挙が行われる。当初、サッチャーは党内右派のキース・ジョセフを支持していたが、ジョセフは数々の舌禍を巻き起こして党内外から反発を受け、立候補を断念してしまった。そのため、右派からはサッチャーが出馬する。教育科学相の経験しかないサッチャーの党首選への出馬を不安視する声も多かったが、エドワード・ヒースを破り保守党党首に就任する。同年、イギリスを含む全35ヶ国で調印、採択されたヘルシンキ宣言を痛烈に批判した。これに対し、ソビエト連邦の国防省機関紙「クラスナーヤ・ズヴェーズダ(赤い星Красная звезда:現在でもロシア連邦国防省機関紙として刊行)」は1976年1月24日号の記事の中で、サッチャーを鉄の女と呼び、非難した[1]。皮肉にも、この「鉄の女」の呼び名をサッチャー自身も気に入り、またその後あらゆるメディアで取り上げられたために、サッチャーの代名詞として定着した。
英国首相 [編集]
1979年の選挙ではイギリス経済の復活、小さな政府への転換を公約に掲げ、保守党を大勝に導く。なお、総選挙の際、2週間で体重を9kg減らすダイエットを実施していたことが、サッチャー財団の保管していた資料から明らかになっている。仮に首相に就任すれば報道への露出が増すことを想定し実施したと推測されている。ダイエットの中身は食事のコントロールが主で、卵を1日に4個から6個食べる、肉や穀類を減らす、好きなウイスキーなどのアルコール飲料は週4日までに制限、間食を絶つといった内容だった[2]。選挙後、女性初のイギリス首相に就任した。イギリス経済の建て直しを図り、政府の市場への介入を抑制する政策を実施。こうした経済に対する思想は新自由主義(ネオ・リベラリズム)あるいは新保守主義と呼ばれ、理論的にはエドマンド・バークやフリードリヒ・ハイエクの保守哲学、同じくハイエクやミルトン・フリードマンの経済学を背景にしていると言われる。
1982年には、南大西洋のフォークランド諸島でフォークランド紛争が勃発。アルゼンチン軍のフォークランド諸島への侵略に対し、サッチャーは間髪入れず艦隊、爆撃機をフォークランドへ派遣し、多数の艦艇を失ったものの2ヶ月の戦闘の結果6月14日にイギリス軍はポート・スタンリーを陥落させ、アルゼンチン軍を放逐した。サッチャーの強硬な姿勢によるフォークランド奪還は、イギリス国民からの評価が極めて高い。この際、「人命に代えてでも我が英国領土を守らなければならない。なぜならば国際法が力の行使に打ち勝たねばならないからである」(領土とは国家そのものであり、その国家なくしては国民の生命・財産の存在する根拠が失われるという意)と述べた。イギリス経済の低迷から支持率の低下に悩まされていたサッチャーは、戦争終結後「我々は決して後戻りしないのです」と力強く宣言し、支持率は73%を記録する。フォークランド紛争をきっかけに保守党はサッチャー政権誕生後2度目の総選挙で勝利し、これをきっかけにサッチャーはより保守的かつ急進的な経済改革の断行に向かう。
1984年10月12日保守党党大会開催中のブライトンで、投宿していたホテルでIRAによる爆弾テロに遭っている。議員やその家族など5人が死亡、30人余りが負傷した。
1986年のコモンウェルスゲームズ大会ではサッチャー政権の南アフリカのアパルトヘイト政策に抗議した32ヶ国が大会をボイコットした。イギリス連邦に属する国や地域がアパルトヘイト廃止のために経済制裁を支持していたが、サッチャー政権はイギリスの貿易と経済への影響を考え経済制裁には反対していた。
保守的かつ急進的な改革を断行する強い姿勢から、3度の総選挙を乗り切ったサッチャーだったが、任期の終盤には人頭税(community charge)の導入を提唱してイギリス国民の強い反発を受け、また欧州統合に懐疑的な姿勢を示したために財界からもイギリスが欧州統合に乗り遅れる懸念を表明する声が上がり、1990年の党首選では1回目の投票で過半数を獲得したものの、2位との得票数の差が15%以上に達せず、規定により第2回投票が行われることとなったために求心力がさらに低下し、結局11月22日に英国首相、保守党党首を辞職する意向を表明した。1992年からは貴族院議員を務める。
首相退任後 [編集]
2008年に長女のキャロルが、サッチャーの認知症が進み、夫が死亡したことも忘れるほど記憶力が減退していることを明かし、2008年8月24日付の英紙メール・オン・サンデーが詳報を掲載した。それによると、8年前から発症し、最近は首相時代の出来事でさえも「詳細を思い出せなくなってきた」としている[3]。 2012年12月21日、膀胱にできた腫瘍を取るため、入院、手術を受けた[4]。
2013年04月08日死亡が発表された。
サッチャリズム [編集]
政治カテゴリからの派生 |
サッチャリズム |
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詳細は「サッチャリズム」を参照
- サッチャーは新自由主義に基づき、電話・ガス・空港・航空・水道等の国有企業の民営化や規制緩和、金融システム改革を掲げ、それらを強いリーダーシップで断行。さらに改革の障害になっていた労働組合の影響力を削ぎ、所得税[5]・法人税[6]の大幅な税率の引き下げを実施。一方、付加価値税(消費税)は1979年に従来の8%から15%に引き上げられた。
- インフレーションを抑制するためにイングランド銀行が大幅な利上げを行ったため、サッチャーの公約であったインフレの抑制には成功した。しかしながら、首相就任から間もなくイギリスの失業者数は倍増し、1982年には300万人を上回る。失業率はその後も1986年半ばまで減少せず(1986年以降は1990年まで減少)、これによりサッチャーの支持率は低下。そのため小さな政府の柱の一つであった完全マネタリズムを放棄し、リフレーション政策に転じる。その結果、イギリス経済は回復した。フリードマンら新自由主義を唱える経済学者はサッチャーの変節を非難したものの、総じてイギリス国民からはこの転換が受け入れられ、支持率も回復の兆しを見せた。
- 1988年、教育法を改定。イギリスの教育機関は独自性が強く、カリキュラムも学校別の独自性が強いものだった。サッチャーは、使用されていた教科書の一つ「人種差別はどのようにイギリスにやってきたのか」(イギリスの人種差別や、植民地支配の歴史を批判的に扱う内容)が自虐的な内容であるとして使用を止めさせようとしたが、政府に教科書の使用を制限する法的権限が存在しなかった。そのためサッチャーは教育界の反対を押し切り、「(1)全国共通のカリキュラムを作り、非キリスト教徒に対してもキリスト教の授業を必修とするなど「自虐的」内容の是正」「(2)全国共通学力テストの実施」「(3)学校当局に、地方教育委員会からの離脱を認め、その場合は政府直轄とする(政府と共に、親の発言力を強める)」という内容の法改正案を成立させた。
授爵・叙勲 [編集]
1992年、一代貴族として男爵位を授爵し、女男爵(Baroness)として貴族院議員になる。1995年、ガーター勲章を受ける。
また、2007年2月21日、在世中の元首相では初めて、英国国会議事堂内に銅像が建立された。なお、建立に際しサッチャーは、「鉄の像(「鉄の女」にかけている)になるかと思ったが、銅像ですね。……銅もいいですよね、錆びないから。」と述べ、人々の笑いを誘った。
家族 [編集]
夫のデニス・サッチャーとの間に娘キャロル、息子マークの双子の子供がいる。
デニス・サッチャーは、1991年に準男爵(Baronet)になり、サーと呼ばれる。マーガレット・サッチャーの政治活動についても助言を行い、妻は夫の助言に素直に従っていたが、あくまで家庭内での夫婦関係に留め、これを公にせず、賢い妻に対して愚かな夫であるように演じていたと言われる。
1982年、長男のマークはダカール・ラリーに出場中に一時行方不明となり、世界を巻き込んだ大騒動になる。この際、サッチャーは「息子が見つからなかったら、レースを中止にさせる」と発言したと言われる。最終的にマークは無事に発見・保護され、ラリーは世界的に認知された。2004年8月には当時居住していた南アフリカ共和国で、「赤道ギニアのクーデターを企んでいた傭兵へ資金援助を行った」容疑で逮捕されたが、すぐに200万ランド(約4千万円)の保釈金により保釈され、イギリスへの帰国を認められた。2005年1月に南アフリカ政府と司法取引をし、「資金提供は認めるが、クーデターの意図は知らなかった」ということで、懲役4年(執行猶予付き)と300万ランド(約6千万円)の罰金を支払った。また、娘のキャロルも、コンゴ系フランス人テニス選手のジョー=ウィルフリード・ツォンガに対して差別発言を行い問題となった。
評価 [編集]
イギリスでの評価 [編集]
- その非常に強硬な政治方針と信念から、在任中も、またその後も英国内では非常に毀誉褒貶の激しい二分された評価がある。財政赤字を克服しイギリス経済を立て直した救世主として国内外の新保守主義・新自由主義の政治家・経済論者からは未だに高い評価を受けているが、一方で失業者を増大させ、地方経済を不振に追いやった血も涙もない人間としての評価もある。医療制度を機能不全に陥らせたり金持ち優遇政策を採ったことから左派からの評価は低い。また、旧来の保守勢力からも古き良き英国の伝統を破壊した政治家として批判されることがある。
- その後、保守党から政権を奪取した労働党のトニー・ブレア政権が成立すると、サッチャーによって廃止された地方公共団体や公企業が復活し、民営化によるサービス低下への対策がはかられた。医療予算は大幅に増額され、サッチャー政権のもとで機能不全に陥ったNHS(国民医療サービス)の立て直しがはかられた。また教育政策においてもサッチャー政権が導入した競争型の中等学校が事実上廃止され、公立学校の地位向上がはかられるなど、サッチャリズムの弊害除去が国の重要な政策になった(第三の道)。しかし、その福祉政策もまたイギリス暴動の遠因となる結果になっている。[7]
日本での評価 [編集]
- サッチャーの首相就任から間もなく、1980年に選出されたアメリカ合衆国大統領のロナルド・レーガンも新自由主義的な政策を数多く打ち出した。さらにニュージーランドでもデビッド・ロンギが新自由主義を主導し、80年代はアングロサクソン各国において新自由主義が台頭する時代となる。また、この時期、日本においても、1982年に首相に就任した中曽根康弘により、行政改革や国鉄分割民営化(1987年)などが行われた。
- また日本では、安倍晋三、平沼赳夫、藤岡信勝など、現在の歴史教育は「自虐的」と考える論者から、「偏向自虐歴史教科書を克服した先例」とされた[8]。2006年に行われた教育基本法改正や教育バウチャー制度導入の動きは、サッチャーを模範としたものである。
語録 [編集]
ウィキクォートにマーガレット・サッチャーに関する引用句集があります。 |
- 「あなたの旗は赤旗でしょう? わたしの旗はユニオンジャックです」
- 「われわれは核兵器の無い世界ではなく、戦争の無い世界を目指すべきです」
- 「社会というものはありません。あるのは個人と家庭だけです」
- 「私はコンセンサスというものは、さほど重要なものであるとは思いません。あれは時間の浪費の原因のようなものですから」
- (議会で動物擁護法案が通過する際、野次を飛ばす野党議員に対して)「お黙りなさい! これはあなた方のためにもなる法律なんですからね!」
- (「長期政権は民主主義に反するのでは」と質問した記者に対して)「あなたはミッテランのことを批判するのですか?」
- (フォークランド紛争開戦に反対する閣僚たちにむかって)「この内閣に男は一人しかいないのですか?」
- 「言ってほしいことがあれば、男に頼みなさい。やってほしいことがあれば、女に頼みなさい」
脚注 [編集]
- ^ http://www.margaretthatcher.org/speeches/displaydocument.asp?docid=102939
- ^ “鉄の女・サッチャー元英首相、卵ダイエットしてた”. YOMIURI ONLINE (読売新聞社). (2010年1月31日). http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20100131-OYT1T00706.htm 2010年1月31日閲覧。
- ^ 認知症と戦う「鉄の女」 ニュース:@nifty 2008年8月25日閲覧
- ^ (日本語) “サッチャー元首相が手術”. ロシアの声 (2012年12月22日). 2012年12月23日閲覧。
- ^ 25%~80%の11段階から、25%と40%の2段階へ。
- ^ 50%から35%へ。
- ^ あの暴徒達は何者なのか
- ^ 新しい歴史教科書をつくる会 PR:『大人が知らない こどもの教科書』、古屋圭司 サッチャー改革に学べ!教育再興の任は国家にあり(産経新聞社「正論」1月号対談)(『正論』より。椛島有三司会、安倍晋三、古屋圭司、下村博文、山谷えり子による座談会)
関連項目 [編集]
ウィキメディア・コモンズには、マーガレット・サッチャーに関連するメディアがあります。 |
- 新自由主義
- ミルトン・フリードマン
- ロナルド・レーガン
- ジョセフ・マッカーシー
- アウグスト・ピノチェト
- フリードリヒ・ハイエク
- 赤狩り
- ミハイル・ゴルバチョフ
- リバタリアン
- マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙
官職 | ||
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先代: ジェームズ・キャラハン |
首相 第71代:1979 - 1990 |
次代: ジョン・メージャー |
先代: エドワード・ヒース |
野党第一党党首 1975 - 1979 |
次代: ジェームズ・キャラハン |
先代: エドワード・ショート (en) |
教育科学大臣 1970 - 1974 |
次代: レジナルド・プレンティス (en) |
議会 | ||
先代: アルフレッド・クラウダー |
フィンチリー選挙区選出下院議員 1959 - 1992 |
次代: ハートリー・ブース |
党職 | ||
先代: エドワード・ヒース |
イギリス保守党党首 第13代:1975 - 1990 |
次代: ジョン・メージャー |
受賞 | ||
先代: ボブ・ホープ |
ロナルド・レーガン自由賞 1998 |
次代: ビリー・グラハム |
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