愛国駅
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更新日時 2010年03月25日
広尾線(ひろおせん)は、日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線(地方交通線)。北海道十勝支庁管内の帯広市の帯広駅で根室本線から分岐し、十勝平野を南下して広尾郡広尾町の広尾駅に至る。国鉄再建法の制定にともない第2次特定地方交通線に指定され、国鉄民営化直前の1987年に廃止された。 国鉄広尾線時代に愛国駅 - 幸福駅間の切符が「愛の国から幸福へ」として人気となり、一連の縁起切符ブームの火付け役となった。現在は引き続き十勝バスが硬券乗車券を発売している。 |
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帯広駅 - 依田駅 - 北愛国駅 - 愛国駅 - 大正駅 - 幸福駅 - 中札内駅 - 更別駅 - 上更別駅 - 忠類駅 - 十勝東和駅 - 大樹駅 - 石坂駅 - 豊似駅 - 野塚駅 - 新生駅 - 広尾駅 | |
愛国駅(あいこくえき)は、北海道帯広市愛国町にあった、日本国有鉄道(国鉄)広尾線の駅(廃駅)である。広尾線の廃止に伴い1987年に廃止された。 同線には幸福駅があり、「愛の国から幸福へ」のキャッチフレーズとともにブームを巻き起こした。 1973年(昭和48年)3月、NHKの紀行番組で幸福駅と共に紹介され、一大ブームとなり、 愛国駅は、南へ2つ目の幸福駅とともに、縁起の良い地名として取り上げられ、「愛の国から幸福へ」のキャッチフレーズで全国的な人気を博した。1978年(昭和53年)7月、「愛国→幸福」の乗車券発売枚数が10,000,000枚を突破。釧路鉄道管理局により駅前に記念碑が設置される |
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廃止時点では、単式ホーム1面1線を有する無人駅であったが、当初は相対式ホーム2面2線を有する列車行き違い可能駅であった。 | |
愛国駅の駅舎は改修され、交通記念館となっている。館内では当時使用していた切符、パネル、蒸気機関車(19671号)を展示している。また記念館横には愛国駅から幸福駅までの片道乗車券を模したモニュメントが設置されている。 | |
駅前の商店では現在でも乗車券のレプリカが専用のケース(キーホルダー)と共に販売されている。 | |
愛国駅と国鉄広尾線のあゆみ:愛国町は、明治29年の入植が始まりです。この地名は、ここに愛国青年団という団体があったことに由来しています。 愛国駅は、広尾線の開通と同時に昭和4年に設置されました。広尾線の開通は、南十勝発展の原動力となり、多大な功績を残すと共に「愛国・幸福ブーム」など数々の思い出を残しました。 しかし、旧愛国駅は、ロマン溢れる広尾線を人々の心から消さないために、交通記念館として整備されました。 |
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廃止時点では、単式ホーム1面1線を有する無人駅であったが、当初は相対式ホーム2面2線を有する列車行き違い可能駅であった。 | |
日本国有鉄道 19671 号 蒸気機関車。 9600 貨物列車牽引用として国産の9580形での経験を基に国産で設計・製造されたテンダ型機関車。軸配置1D。運転整備重量59.83t,全長16186mm。775両が製造され,同時期に製造された8620形と共に国産機関車の製造技術を確立した。日本の蒸気機関車の末期まで使用された。 |
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駅名の由来となった地名は「愛国青年団」という名の団体(開拓団)があったことによる。 | |
愛の国から幸福へ:幸福駅は、昭和4年の広尾旋回通から27年後の昭和31年に設置されました。広尾線の開通は、十勝南部の開拓を急速に進め、多大な功績を残すと共に、テレビで全国に紹介されてからは、「幸福行き」の切符に人気が出始め、「愛国・幸福ブーム」を呼ぶなど数々の思い出を残してきました。 しかし、昭和62年、国鉄再建策の中で広尾線が廃止となり、幸福駅の歴史も閉じられましたが、夢とロマンに溢れるこの地を後世に伝えていく為この交通公園を造成したものであります。 |
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幸福駅は交通公園として整備されている。 | |
幸福駅(こうふくえき)は、北海道帯広市幸福町にあった、日本国有鉄道(国鉄)広尾線の駅(廃駅)である。広尾線の廃止に伴い1987年に廃止された。 駅名の縁起の良さから乗車券や入場券などで有名であり、廃止後も観光地として整備されている。 |
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もとはこの一帯はアイヌ語で「サチナイ(乾いた川の意)」と呼ばれていた。1897年(明治30年)、福井県大野から集団移住が行われ、入植者によって幸震の字があてられた。「ナイ」に震をあてたのは、地震のことを古語で「なゐ」といったことが理由である。これがのちに音読みされて「こうしん」となった。その後、幸震には福井からの移住者(「福井団体」という)が多かったことにちなみ、集落名が幸福と改められた。 | |
この駅は一部の旅人に注目されていたが、1973年3月、NHKの紀行番組『新日本紀行』において『幸福への旅 ~帯広~』として紹介されたことから知名度が上昇した。 周りの駅は相次いで幸福駅までの乗車券を増刷し、幸福駅付近の商店も入場券の販売をするようになる。特に幸福駅より二つ帯広駅寄りの愛国駅と併せて、「愛国から幸福ゆき」という切符が一大ブームとなる。1974年にはこれを元にした歌「愛の国から幸福へ」(歌:芹洋子)も登場した。前年には7枚しか売れなかった愛国-幸福間の切符が、この年は300万枚、4年間で1000万枚も売れた。観光客が多数訪れるようになり、待合室の内外に利用者が名刺や使用済みの定期券などを記念に残すようになったのもこのころからである。 |
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幸福駅に保存中のキハ22:国鉄キハ20系気動車(こくてつキハ20けいきどうしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が1957年に開発した一般形気動車である。 1965年までに系列合計で1,100両以上が製造され、日本各地で広く使用された。 |
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なお、「キハ20系」の呼称は国鉄の正式系列呼称ではなく、同一の設計思想によって製造されたキハ20形・キハ21形・キハ22形・キハ25形・キハユニ25形・キハユニ26形・キハ52形の各形式、およびこれらの改造による派生形式群を趣味的・便宜的に総称したものである。 | |
ラッセル車(形式不明) | |
単式ホーム1面1線の棒線駅の構造であった。 | |
開駅 昭和31年11月1日 | |
愛の国から幸福へ:幸福駅は、昭和4年の広尾旋回通から27年後の昭和31年に設置されました。広尾線の開通は、十勝南部の開拓を急速に進め、多大な功績を残すと共に、テレビで全国に紹介されてからは、「幸福行き」の切符に人気が出始め、「愛国・幸福ブーム」を呼ぶなど数々の思い出を残してきました。 しかし、昭和62年、国鉄再建策の中で広尾線が廃止となり、幸福駅の歴史も閉じられましたが、夢とロマンに溢れるこの地を後世に伝えていく為この交通公園を造成したものであります。 |
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鉄子さんが帽子と制服を着て撮影している。 | |
イタラタラキ駅逓所跡:更別村字勢雄454-1 十勝は明治29年(1896年)植民地解放となり、下帯広(現帯広市)が十勝の中心として位置づけられて来た。しかし、道路は大津から一本道のみで、十勝川流域は船便に頼るしかなかった。 明治30年帯広から十勝で最も古くて当時繁栄を誇っていた、帯広に至る仮定県道設けることになり、途中礼内川、日方川など川幅の広いところは、渡船とし、道路幅を十二間として側溝が掘られた。この仮定県道の中間地点にイタラタラキ(以平)駅逓が、滋賀県野洲郡中洲村出身の吉川茂氏が取扱人となり、人跡未踏の原野に明治31年4月1日開設された。大正3年(1914年)拓殖道路が仮定県道に編入され、大正5年・イタラタラキ駅逓はその歴史に任務を終えた。駅逓の制度:長旅のため宿泊や人馬継立などの便宜を与えるもので、開拓途上の北海道にあって、この駅逓の果たした役目は大きい。駅逓には駅舎と官馬牝2頭、牡1頭・採草地が貸与された。 | |
④国鉄広尾線の廃線跡。 | |
③国鉄広尾線の廃線跡。 | |
②駅舎裏手の構内は駐車場と鉄道記念公園になっており、パークゴルフ場も併設している。 | |
②鉄道記念公園。 | |
①広尾駅(ひろおえき)は、北海道広尾町西四条にあった日本国有鉄道広尾線の鉄道駅(廃駅)である。広尾線の廃線にともない、1987年に廃駅となった。 盲腸線の末端駅であり、一時期は最長片道切符の起終点だった。宮脇俊三の『最長片道切符の旅』では始発駅として登場した。 |
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