ペルー南部、古都クスコ郊外の山の尾根。標高2000mに、13平方kmにわたって200戸の建物と40段の畑が建設された遺跡「マチュピチュ」。山すそから存在が確認できない「天空都市」は、標高2000mの尾根に、なぜ、どのように建設されたのか。インカ文明の建築技術についてCGで説明。王族の暮らしぶりや人々の営みを再現ドラマで紹介する。【Ancient Megastructure Machu Picch】
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座標: 南緯13度9分47秒 西経72度32分44秒 / 南緯13.16306度 西経72.54556度 / -13.16306; -72.54556
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マチュ・ピチュの歴史保護区 (ペルー)
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マチュ・ピチュ遺跡
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英名 |
Historic Sanctuary of Machu Picchu |
仏名 |
Sanctuaire historique de Machu Picchu |
面積 |
325.92km² |
登録区分 |
複合遺産 |
登録基準 |
文化遺産(1),(3) 自然遺産(7),(9) |
登録年 |
1983年 |
IUCN分類 |
VI |
公式サイト |
ユネスコ本部(英語) |
地図 |
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世界遺産テンプレートを使用しています |
表・話・編・歴 |
マチュ・ピチュ(Machu Picchu)は、ペルーのウルバンバ谷に沿う高い山の尾根(標高約6,750ft=2,057m)に位置する、よく保存されたインカの遺跡。「マチュ・ピチュ」はケチュア語で「老いた峰」を意味する。山裾からはその存在を確認できず、しばしば「空中都市」「空中の楼閣」「インカの失われた都市」などと呼ばれる。
この遺跡には3mずつ上がる段々畑が40段あり、3,000段の階段でつながっている。遺跡の面積は約13km2で、石の建物の総数は約200戸が数えられる。
熱帯山岳樹林帯の中央にあり、植物は多様性に富んでいる。行政上クスコと同じ地域に属している。現在ペルー国内では10ヶ所あるユネスコの世界遺産のうちでは最初にクスコと同時(1983年)に指定された。
未だに解明されていない多くの謎がある遺跡でもある。2007年7月、新・世界七不思議の一つに選ばれた。
ハイラム・ビンガムの遺跡発見 [編集]
イェール大学の歴史家であるハイラム・ビンガムは、1911年7月24日、この地域の古いインカの道路を探検していた時、山の上に遺跡を発見した。
ビンガムは1915年までに3回の発掘を行った。彼はマチュ・ピチュについて一連の書籍や論文を発表し、最も有名な解説「失われたインカの都市」がベスト・セラーになった。この本は、ナショナル・ジオグラフィック誌 が1913年4月号のすべてをマチュ・ピチュ特集にしたことで有名になった。また1930年の著書『マチュ・ピチュ:インカの要塞』は廃墟の写真と地図が記載され説得力のある決定的な論文となった。以後、太陽を崇める神官たちが統治したとか、あるいは太陽の処女たちが生贄にされたといった定説が形成された。
マチュピチュとは間違えて付けられたといわれている説がある。遺跡に名前は決まっておらず、ビンガムが地元民に遺跡の名前を尋ねたところ、地元民は今立っている山の名前を聞かれたと思ってマチュピチュと答えたことで遺跡の名前がマチュピチュであると間違って伝わった、という説である。
ビンガムはイェール大学の教職を辞してからコネチカット州の副知事、知事を経て上院議員になったが、彼のインカ調査への影響力は死後40年近くも残っていた。それは一つに彼の情熱的な文章のせいであった。
ただし最近になり、マチュ・ピチュはすでにペルー人が発見していたという説が浮上した。それによると、クスコの農場主アグスティン・リサラガが、ビンガムより9年早い1902年7月14日にマチュ・ピチュを発見していたという。真偽のほどは今後検証されるであろうが、ビンガムの息子がその事実を述べられているということ、またこの人物について複数の証言があることからも、事実である可能性は高い。
最近の研究成果 [編集]
一方、第一人者としてのビンガムのマチュ・ピチュに関する発表や仮説がその後の研究の妨げになっていたのも事実である。
イェール大学のピーボディ博物館の館長リチャード・L・バーガー(Dr.Richard L.Burger)、並びにルーシー・C・サラザール(Dr. Lucy C.Salazar)らによれば、マチュ・ピチュはスペイン人によって追い詰められた最後の砦ではないとの結論となった。16世紀のスペイン公文書によれば、わずかに抵抗していた最後のインカ族は、「1572年熱帯の盆地の隠れ家で降伏した」との記述があり、それはマチュ・ピチュのような高地ではなかった。
現在では要塞ではなく、東西が断崖のマチュ・ピチュは太陽の動きを知るのに絶好の場所であったことや、インカ帝国では太陽を崇拝し、皇帝は太陽神の子として崇められ、暦を司っていたことから、インカ人が崇めていた太陽を観測するための建物群と推測されている。実際に太陽の神殿は東側の壁が二つ作られていて、左の窓から日が差し込む時は冬至、右の窓から日が差し込む時は夏至と区別できるようになっている。また、処女たちを生贄にしたといわれてきた台座上の遺構もやはり太陽を観測するものであり、インティワタナ(太陽をつなぐもの)という意味の石の台の削りだされた柱は、一種の日時計だったと考えられている。
また、ビンガムがマチュ・ピチュから運搬してきた多数の人工遺物が、1920年代のニューヨーク・タイムズ紙の包装のまま箱に梱包され、イェール大学の地下倉庫で眠っていた。サラザール博士はブロンズの宝飾品、道具類、骸骨片、特に壺について再調査を行った。その結果、壷の様式は全て、15世紀のものであった。墓の埋蔵物については、質素なものが多く、王族ではなく召使のものと推定された。
ビンガムは、同行した骨学者に「出土した骨は女性の骨が大半だった」との誤った報告を受けていた。チュレーン大学の自然人類学者ジョン・W・ヴェラノ(Dr.John W.Verano)の新しい研究で、骨は男女同じ比率であったこと、多くの家族と幼児が生活していたこと、また処女たちの共同生活を示すようなものはなかったと報告している。骨の分析では、結核や寄生虫のケースが見られ、また、トウモロコシの食生活による歯の損傷も見られるものの、ほとんどは大人で50歳以上の年寄りが多くおり、その結果ここでの生活はかなり健康的であったと判断された。また、骨には戦いの形跡は見られず、平和な生活をしていたと考えられる。幼年期に頭部に巻きつけられたもので頭部の変形しているものがあり、ある者は海岸地域やあるいはチチカカ湖方面からと地域によって異なる文化があったことがわかっており、遠方からやって来た職人たちであろうと推定された。高度な石積みの技術が必要なため、職人たちが呼ばれたと考えられている。王族がマチュ・ピチュで死亡した場合は、そこで埋葬されるよりもクスコに運んで埋葬されたと考えるのが妥当と結論づけられた。
カリフォルニア大学バークレー校のジャン・ピエール・プロツェン(Dr.Jean-Pierre Protzen)建築学教授は、石垣をぴったりと重ねて積む方法は石で石を叩いたり、削ったりしたと考えている。この方法を敲製(ペッキング)という。あらかじめ大きく割った石を、小型の叩石(ハンマー)で連続してトントンと細かく叩いて表面をならしてゆく方法である。この方法は、すでにプレ・インカ(インカ期以前の古い時期)から行われていたことがわかっている。 当時巨石文明が世界各地で見られ、その運搬手段は解明されつつあったが、マチュ・ピチュの場合は傾斜路を造る余地がないため、どうやって5-10tもある巨石を運び上げたかはまだ謎[1]であるとしている。また、「ビンガムの発掘ノートは、何を発掘したかよりも何を食べたか、の記述が多かった」とも公表された。
最近の調査では、地下から焼けた跡が発見されたことなどから、スペイン人による侵略を恐れて住民が町を焼き払った、という説が研究者から指摘されている[2]。
人口は最大でも750名 [編集]
この都市は通常の都市ではなく、インカの王族や貴族のための避暑地としての冬の都(離宮)や、田舎の別荘といった種類のものであった。
遺跡には大きな宮殿や寺院が王宮の周囲にあり、そこでの生活を支える職員の住居もある。マチュ・ピチュには最大でも一時に約750名の住民しかいなかったと推定され、雨季や王族が不在の時の住民は、ほんの一握りであったと推定されている。
この都市はインカの王パチャクティ(Pachacuti)の時代の1440年頃に建設が着手され、1532年にスペイン人により征服されるまでの約80年間、人々の生活が続いていた。
ペルーの考古学者アルフレド・バレンシア・セガーラ (Dr.Alfredo Valencia Zegarra)とコロンビアの水利技術者ケネス・ライト(Kenneth Wright)による調査では、この都市の建設に要した努力の60%は急傾斜の城壁の見えない土台などの部分に傾注されており、降雨量の多いこの地で、積み上げられた石積みが500年もの間崩れないのは、農耕のためだけに斜面を整地したのではなかった。渓谷から細かい砂と表土を運び上げ、現在見える石積みの下に、うね状に盛り上げた表層を造ったとしている。
神をまつる神殿としての役割 [編集]
なぜこのような急峻な山の上に造ったかという質問に対して、ラファイエット単科大学のナイルズ(Dr.Niles of Lafayette College)は、「パチャクチがこの場所を選んだのは……圧倒する景色としか答えようがありません」と言う。
イェール大学の近年の研究成果では、高地であり、かつ両側が切り立った崖上になっているため、太陽観測に最も適し、かつ宗教的理念として、太陽に近いところである、という点が場所選定の理由として挙げられている。
急斜面に位置したマチュピチュの頂上には、太陽の神殿があり、頂上にはインティワタナ(Intihuatana…太陽をつなぎ止める石)が設置されている。夏至と冬至が正確に分かる窓があるなど、太陽を使った暦を観測、作成したとも言われている。
インカの神は日本やエジプトと同じく太陽神であるため、太陽により近い山の頂(いただき)は儀礼場として適当だった。 神殿の畑など耕作地で栽培された農作物は神への供物として栽培されていたか、神が人間に下賜されたものとして人々に食べられたか、いずれにしても宗教儀礼的意味が色濃く反映されている。そのようないきさつから、現在、マチュピチュは宗教都市として捉えられている。
なおインカの人々にとっての神は、太陽とともに月も挙げられ、多くの遺跡には太陽神殿と月の神殿が対で祭られている。マチュ・ピチュの太陽神殿に対しては、ワイナ・ピチュ(「若い峰」という意味で、マチュ・ピチュの背後にある尖った山)の裏手に、月の神殿が洞窟に作られている。
登録基準 [編集]
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。
- (1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
- (3) 現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠。
- (7) ひときわすぐれた自然美及び美的な重要性をもつ最高の自然現象または地域を含むもの。
- (9) 陸上、淡水、沿岸および海洋生態系と動植物群集の進化と発達において進行しつつある重要な生態学的、生物学的プロセスを示す顕著な見本であるもの。
脚注 [編集]
- ^ 遺跡のある標高より高い位置に、建設に使った石材(花崗岩)の切出し場所が確認された。2005年、ディスカバリーチャンネルによる映像と報道があった。切り出し場所には実際に、切り出された痕跡や、切出しに使ったと見られる非常に固い石でできた石器が存在している。
- ^ 『古代文明ミステリー 「たけしの新・世界七不思議」』、テレビ東京、2007年1月3日放送より