コレラ・張り子の虎・神農さんには、ずいぶん興味を持った。
コレラ(Cholera、虎列剌)
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コレラの歴史 [編集]
コレラの感染力は非常に強く、これまでに7回の世界的流行(コレラ・パンデミック)が発生し、2006年現在も第7期流行が継続している。2009年1月29日現在、ジンバブエで流行中のコレラの死者が3000人に達し、なお増え続けている。
アジア型は古い時代から存在していたにもかかわらず、不思議なことに、世界的な流行(パンデミック)を示したのは19世紀に入ってからである。コレラの原発地はインドのガンジス川下流のベンガルからバングラデシュにかけての地方と考えられる。最も古いコレラの記録は紀元前300年頃のものである。その後は、7世紀の中国、17世紀のジャワにコレラと思われる悪疫の記録があるが、世界的大流行は1817年に始まる。この年カルカッタに起こった流行はアジア全域からアフリカに達し、1823年まで続いた。その一部は日本にも及んでいる。1826年から1837年までの大流行は、アジア・アフリカのみならずヨーロッパと南北アメリカにも広がり、全世界的規模となった。以降、1840年から1860年、1863年から1879年、1881年から1896年、1899年から1923年と、計6回にわたるアジア型の大流行があった。しかし1884年にはドイツの細菌学者ロベルト・コッホによってコレラ菌が発見され、医学の発展、防疫体制の強化などと共に、アジア型コレラの世界的流行は起こらなくなった。
だがアジア南部ではコレラが常在し、なお流行が繰り返され、中国では1909年、1919年、1932年と大流行があり、またインドでは1950年代まで持ち越し、いずれも万人単位の死者を出すほどであった。
一方、エルトール型コレラは1906年にシナイ半島のエルトールで発見された。この流行は1961年から始まり、インドネシアを発端に、発展途上国を中心に世界的な広がりを見せており、1991年にはペルーで大流行が発生したほか、先進諸国でも散発的な発生が見られる。1992年に発見されたO139菌はインドとバングラデシュで流行しているが、世界規模の拡大は阻止されている。
日本におけるコレラ [編集]
日本に初めてコレラが発生したのは、最初の世界的大流行が及んだ1822年(文政5年)のことで、それ以前にはコレラは見られない。朝鮮半島を経由したか、琉球からかは明らかでないが、九州から始まって東海道に及んだものの、箱根を越えて江戸に達することはなかった。2回目の世界的流行時には波及を免れたが、3回目は再び日本に達し、1858年(安政5年)から3年にわたり、大流行となった。この時も、九州から始まって東海道に及んだ箱根を越えて江戸に達することはなかったとする文献が多い一方、江戸だけで10万人が死亡したする文献も存在するが、この死者数については、過大で信憑性を欠くとの説もある。1862年には、残留していたコレラ菌により3回目の大流行が発生、56万人の患者が出て、この時も江戸には入らなかったという文献と、江戸でも数10万人~7万3千人が死亡したする文献がある。幕末の維新派の「伝染病恐怖宣伝」が倒幕に使われたとする見方が強い。コレラが空気感染しないことと江戸幕府は関所で人の動きを強権的に止めることができたのが、隔離・防疫を容易にしたと考えられている。1868年明治政府が成立し箱根の関所が廃止されるとその後は2~3年間隔で万人単位の患者を出す流行が続き、1879年、1886年には死者が10万人台を数え、日本各地に避病院の設置が進んだ。1890年には日本を訪問していたオスマン帝国(現トルコ)軍艦、エルトゥールル号の海軍乗員の多くがコレラに見舞われた。1895年には軍隊内で流行し、死者4万人を記録した。
このような状況が改善され、患者数も1万人を切ってコレラの脅威が収まるのは1920年代になってからである。その後は、第二次世界大戦敗戦の混乱期にアジア地域からの引揚者により持ち込まれて560人の死者を出した例や、1977年に和歌山県下で感染経路不明のエルトール型の集団発生があった[1] ほか、海外からの帰国者が発病する孤発例が時折見られる。1978年以降、神奈川県の鶴見川をはじめ、埼玉県や千葉県の河川水からコレラ菌が検出される事例はあったが、発病者は生じていないという説もある。しかし、実際には、海外渡航歴のない人の国内感染事例が年間:数~10事例報告されている。これらの中には、コレラ毒素(CT)産生Vibrio cholerae O1汚染食品からの感染とされた事例がある。[2] [3]
また、2001年6月~7月に、隅田川周辺に居住し、日常の煮炊きをはじめ生活用水として公園の身体障害者用トイレの水を利用し、隅田川で採れた亀を数人で調理して食用としていた路上生活者2名がコレラを発病し、2006年6月にも、路上生活者1名がコレラを発病した。いずれも、感染経路は明確でないが、国内で感染したと推測されている。[4]
2007年6月1日から施行された改正感染症法においてコレラは三類感染症に分類された(事実上の格下げ)。この変更に伴って、検疫法の対象病原体から除外され、空港・港湾検疫所では病原コレラの検出そのものが行われなくなった。コレラ菌の感染症の統計は医師(医療機関)のみに公開されている。
名称 [編集]
コレラという名前は、ヒポクラテスが唱えた四体液説の中の一要素である、黄色胆汁を意味するcholeに由来する。四体液説では人間の体液を四元素説に対応した四種類(血液、粘液、黄色胆汁、黒色胆汁)に分類したもので、黄色胆汁は四元素のうち「火」に対応した、熱く乾いた性状を持つものと考えられていた。コレラは当初、この性状に合致する熱帯地方の風土病だと考えられており、また米のとぎ汁様の下痢が胆汁の異常だと考えられたことから、この名がついた。
日本では、最初に発生した文政コレラのときには明確な名前がつけられておらず、他の疫病との区別は不明瞭であった。しかしこの流行の晩期にはオランダ商人から「コレラ」という病名であることが伝えられ、それが転訛した「コロリ」や、「虎列刺」、「虎狼狸」などの当て字が広まっていった。それまでの疫病とは違う高い死亡率、激しい症状から、「鉄砲」「見急」「三日コレラ」などとも呼ばれた。
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