朝日新聞 33 社会14版 8/28
道路も走るよ
「団子っ鼻」 0系
鉄道博物館へ
64年 東京-大阪間 開通
新幹線0系電車
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新幹線0系電車
1990年頃撮影 小田原駅にて
編成 4・6・8・12・16両(オールM)
起動加速度 1.0 (-1992)
1.2 (1992-)km/h/s
営業最高速度 220km/h
減速度 2.84km/h/s (ATC)
3.4km/h/s(常用最大)
編成定員 1,285名(16両編成時)
全長 25,150(25,000)mm
全幅 3,380mm
全高 3,975mm
編成重量 967t(16両編成時)
軌間 1,435mm
電気方式 交流25000V 60Hz
編成出力 185kW×64=11,840kW(16両編成時)
歯車比 2.17
駆動装置 WN平行カルダン駆動方式
制御装置 低圧タップ制御
ブレーキ方式 発電、電磁直通ブレーキ
保安装置 ATC-1型
備考 第8回(1965年)
ブルーリボン賞受賞車両
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新幹線0系電車(しんかんせん0けいでんしゃ)は、1964年の東海道新幹線開業時に開発された初代の新幹線電車である。
目次 [非表示]
1 概要
2 車両構造
2.1 車体外観
2.1.1 塗装について
2.2 設備
2.2.1 座席構造
2.2.2 ビュフェ車・食堂車
2.3 走行機器
2.3.1 駆動方式・モーター
2.3.2 台車
2.3.3 電源・制御方式
3 推移
3.1 運用
3.2 長期増備の原因
4 各車の概要
4.1 H編成、NH編成
4.2 Y編成、YK編成
4.3 R・WR編成、Q編成
4.4 試作車両
4.5 特殊編成
5 運用状況
6 今後
7 保存車両
8 備考
9 脚注
10 外部リンク
[編集] 概要
1964年から1986年までの38次にわたり、東海道・山陽新幹線用車両として改良を重ねつつ、合計3,216両(16両編成に単純換算して201本分)が製造された(先頭車は224両ずつ製造)。ただし途中で老朽化した0系を0系新製車で置き換える方針に変わったため(後述)、3,216両が同時に揃ったことはなく、在籍両数の最大値は1976年の2,338両(うち2両は保留車)である。
航空機に範をとった丸みのある先頭形状と、青・白塗り分けのスマートかつ愛嬌のある外観を備える。初期の新幹線のイメージを確立した車両であり、戦後日本の高度成長時代を象徴する存在として、人々から長く親しまれた。1980年(昭和55年)頃までの書籍などでは「旅客機を思わせる先頭部……」という書き出しで紹介されることが多かった。
第8回(1965年)鉄道友の会ブルーリボン賞受賞車でもあり、日本の鉄道における史上最高の名車と評する鉄道ファンも少なくない。
2007年8月にはYS-11などとともに機械遺産として認定された。
2000年代に入った時点で既に大半が廃車されており、2008年時点では山陽新幹線区間のみの運転であり2008年11月までに全車廃車処分が決まっている[1]。しかし歴史的価値が高く、映画・ドラマ撮影等で多く使われる人気車両である。
2001年にはイギリス・ヨークの国立鉄道博物館に先頭車1両 (22-141) が西日本旅客鉄道(JR西日本)によって寄贈されている。これ以外には、建築限界測定車として改造を受けた車両 (21-5035) が台湾(中華民国)へ渡った。
なお、「0系」と呼ばれるようになったのは東北・上越新幹線用の200系が落成した1980年頃からのことで、それ以前は単に「新幹線電車」(しんかんせんでんしゃ)と呼ばれていた。文献によっては「000系」と呼称していたこともある。
[編集] 車両構造
未経験の新技術は使わず、それまでに日本の鉄道が蓄積した、実証済みの技術(プローブン・テクニック)の集積によって開発された。きわめて堅実な設計である。
大方の基本設計は変わらなかったものの、製造期間が長期(約23年・38次)にわたったことから、マイナーチェンジは何度も行われている。
[編集] 車体外観
先頭車(21形)全長25m、全幅約3.4m(在来線車両より5m長く、50cm以上〈151系に対しても約43cm〉広い)と大型の流線型車体である。客室床面高さも1,300mmと高い。材質は普通鋼を使用し、1両あたりの総重量は64tに達した。
そのデザインは、空力特性を考慮して形状を決定された。設計に携わった国鉄技術者で、かつて旧・日本海軍の技術将校でもあった三木忠直は、日本海軍の双発爆撃機「銀河」をデザインモチーフにしたと証言している。
先頭車前面には「ひかり前頭装置」と呼ばれる丸いプラスチックカバーを装着している。この中には非常用の連結器が納められている。開発当初、このカバーは半透明のアクリル樹脂製で、前灯を光源にして光る構造となっていた。後に走行中の鳥との接触で破損することから、不透明の丈夫なFRPに変更され、光前頭としての機能は失われた。前灯と尾灯は同一のライトであり、尾灯として使用する場合は赤いスクリーン(前期車はバタフライ式スクリーン、後期車は半円形スクリーン)を通して点灯させる仕組みである。
先頭車床下には、障害物を跳ね除けることのできる排障器を設けている。鋼板を多重にしたこの「スカート」部分は、少々の岩なら軽く跳ね除ける。高速運転時の脱線を警戒したものである。
先頭車屋上には、今や新幹線のトレードマークともなった静電アンテナ(架線に電気が流れているかを検知する逆L字型の薄い板)が装備されている。新幹線開業前の試作車1000形のものとは大きく異なっている。この0系の静電アンテナのかたちは、現在のN700系に至るまでほとんど変わっていない(設置位置は変わっている)。
最初期の車両は行先票が取り付けられていたが、高速走行中の脱落の可能性や盗難が相次いだこともあり、後に現行の電動幕式へ変更された。
[編集] 塗装について
オリジナルの塗装は、車体がアイボリーホワイト、窓周りがブルーの塗り分けであった(この青色塗装は、新幹線ブルーともいわれる)。これは、航空機をライバルとして意識し、青空と白い雲のイメージから採用されたものである。1988年頃から後述の「ウエストひかり」は100系の地色と同じパールホワイトに変更となり、それ以外の車両も1995年頃からパールホワイトに変更された。オリジナルの塗装にも2バージョンあり、通常バージョンは上にある21形の塗装、ウエストひかりバージョンは100系の塗装のように太いラインの下に細いラインがあるという塗装である[1]。
その後の塗装の変遷については「R・WR編成、Q編成」および「今後」の節で詳述する。
[編集] 設備
グリーン車(1969年まで一等車)のうち15形は博多寄り車端の1か所に、食堂(ビュフェ)合造車のうち35形は車体中央部と東京寄り車端の2か所に、これ以外の形式(36形を除く)は各車両端の2か所に客用扉・デッキを設けた。なお全室食堂車として製造された36形には東京寄り車端にデッキがあり、海側には客用扉と同様な扉を持つが、業務用扉であり、乗客の乗降には供されない。
全車両にヒートポンプ式の空調装置を備えている。車内の気圧変動防止のため、固定式の窓はもとより、ドアまでが気密構造となっており、トンネル内では車外との換気を遮断して気圧変動に備えている。しかし山陽新幹線ではトンネルが多く、換気を遮断する回数が多くなることから、岡山駅以西では連続換気方式が採用されることとなった。1973年以降に製造された車両はこの新換気方式に対応しているが、それ以前の車両は当時の「ひかり」編成にのみこの対策がなされることとなった。後に編成組み換えでS編成やY編成が組成された際に、非対応車が入っている編成(岡山以西乗り入れ不可)は原編成番号+50で識別していた。
開通当初より製造された基本番台車両は側窓が座席2列で1個の広窓だったが、1976年以降増備された1000番台車より石跳ね等による窓ガラスの損傷を警戒し、300系以降の車両と同様に座席1列に1窓という狭窓となった。そして1981年より増備が開始された2000番台は、座席間隔(シートピッチ)の拡大(普通車:940mm→980mm)に伴い、僅かながら窓の横幅も広げられた。なお、2000番台車では製作の簡略化のため、車内の窓周辺部がFRPユニットとなり、窓下のかまちと呼ばれるスペースが廃止された。このかまちは小物(飲み物の容器等)を置いたり、窓の外を見るときにひじをつく場所等として利用されていたため、利用者には不評であった。
初期に落成した車両には車体の側面に非常口が設けられていたが、車体の腐食を防ぐ意味と、新幹線のシステム全体における高い安全性もあって、のちに埋められている。この埋め方は、JR東海所属車は蓋を除去して新たに板をハメ合わせて溶接、平滑にしたのに対し、JR西日本所属車は非常扉そのものを溶接しただけであった。
新幹線0系の座席
[編集] 座席構造
普通車(1969年まで二等車)の座席は、海側を3列とした合計横5列配置の輸送力重視型である。開業以前に二等車(現・普通車)はシルバークラス、一等車(現・グリーン車)はゴールドクラスとする案があったため、モケットはそれに合わせた配色となった。
当初普通車はその銀色のモケットと青色のモケットを張った転換式座席(W-12、W-70)だったが、1981年以降のタイプは東北新幹線200系とほぼ同様のオレンジ基調の簡易リクライニングシート(D-23、D-32)に変更、交換された。3列側は回転させるスペースがないため、一方向固定(集団見合型との比較アンケートの結果、集団離反型を採用)とされた。残存する在来車も順次同仕様に交換されたが、JR化後も廃車されるまで転換式のままだった車両もある。この転換式座席と同じ色のモケットが在来線車両の優先座席に使われたことが「シルバーシート」の名称の由来である。また、交換後の転換式座席は在来線車両で再利用される例も多かった。
東海旅客鉄道(JR東海)の「こだま」用Y編成とYK編成の指定席車(9 - 12号車)、西日本旅客鉄道(JR西日本)のSK編成「ウエストひかり」(現在は6両編成のR編成60番台)の普通車は左右2列ずつの4列となっていた。
グリーン車(1969年までは一等車)はゴールデンオリーブ色のモケットを張った4列配置のリクライニングシート (R-25) で、車両の大きさを最大限に活かしたゆとりを持っていた。しかし1981年以降の車両は200系と同等のシートの色がワインレッド (R-32) のものに変わっている。
朝日新聞 33 社会14版 8/28をHPで見ました・・okunさんからの案内で
■前写真の記事を・・ttp://www.asahi.com/kansai/travel/news/OSK200808270049.html
0系新幹線、道路を走る さいたまの鉄道博物館で展示へ
「団子っ鼻」の愛称で親しまれた東海道新幹線の初代車両「0系」がさいたま市の鉄道博物館に寄贈されることになり、28日未明、保管されていた大阪府吹田市のJR西日本社員研修センターを出発した。青と白に塗られた約59トンの車体がトレーラーに載せられ、神戸港まで深夜の道路を走った。
64年の東京―新大阪間開業時に登場した先頭車両。78年から検査・修繕を担当する社員の練習用に使われていた。0系が今年11月末ですべて現役を引退するのを機に、鉄道博物館を運営するJR東日本が譲り受けたいと申し入れていた。
さいたま市到着は31日早朝の予定。鉄道博物館での展示開始時期は未定という。(吉野太一郎)
●読売新聞の記事・・・okunさんからの案内でhttp://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080823-OYT1T00444.htm
初代「0系」新幹線、鉄道博物館入り…第三の“人生”歩む
旅立ちを待つ0系新幹線「H2」(大阪府吹田市で) 東海道新幹線が開業した1964年当時の装備をそのままに残す初代「0系」新幹線車両が、さいたま市の鉄道博物館に収蔵されることになった。
現在の所有者である、JR西日本の社員研修センター(大阪府吹田市)から28日未明、同博物館に向け旅立つ。
収蔵されるのは、開業の年、新幹線史上2番目に製造され「H2」編成と名付けられた16両編成の1号車。13年間走り、78年4月に同センターの前身、旧国鉄・関西鉄道学園に運転士・車掌養成用として、16号車とともに引き取られた。運転シミュレーターの登場後は「訓練指導役」としての出番はなく、余生を送る車体には傷も目立つ。
しかし、自動列車制御装置(ATC)の信号を、現在の電子信号ではなく機械の動きでブレーキに伝えた装置や洗面設備、乗客の脱出用に車体側面に設けた非常口など往時の面影をそのまま残し、この車両だけでも博物館の装いが漂う。
0系は現在、3編成18両が山陽新幹線の「こだま」として走るが、11月には全車両が引退する。JR西日本の担当者は「H2には、第三の人生の花道を作ってやれた。末永く、日本の新幹線技術の歴史を伝えてくれれば」と話している。
(2008年8月23日14時51分 読売新聞)
●●毎日新聞の記事・・・okunさんからの案内で
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080828k0000m040056000c.html
JR西:初代新幹線「0系」車両、鉄道博物館に寄贈
鉄道博物館に搬送するためトレーラーに積み込まれる0系新幹線=大阪府吹田市のJR西日本社員研修センターで2008年8月27日午前11時13分、小松雄介撮影 JR西日本が保管していた初代新幹線「0系」の先頭車両が28日未明、大阪府吹田市の同社社員研修センターから搬出された。車両はトレーラーに載せられて神戸港まで移動し、寄贈先の鉄道博物館(さいたま市)に運ばれる。0系の中でも2番目に製造された歴史的に貴重な車両。車庫の片隅でほこりをかぶってきた「2番機」が展示物として復活する。
1964年の東海道新幹線開業直前に完成し、77年ごろまで活躍した。現在、山陽新幹線を走る0系とは異なり、客室の窓が横長なのが特徴。台車や制御機器もそのままの形で残っており、当時の先端技術を知る上でも貴重な資料とされる。JR東日本が「(JR東が設立した)鉄道博物館で展示したい」とJR西に申し出て、無償譲渡が決まった。
トレーラーに後ろ向きで積まれた0系は、車の少ない未明の道路をゆっくりと神戸港に向かった。通行人や対向車のドライバーは、特徴あるだんご鼻が急に目の前に現れ、驚いたような表情を見せていた。0系は現在、3編成が山陽新幹線で活躍しているが、11月末での引退が決まっている。JR西社員は「0系に込められた鉄道技術者の夢や誇りを、博物館で次の世代にも伝えてほしい」と話した。【小林祥晃】