14時~
@ 千里市民センター 大ホール (大阪府 吹田市 千里ニュータウンプラザ2階 ・ 阪急千里線南千里駅)
昨年 「みんぱ 北大阪ミュージアムメッセ<今年の開催は、昨年と同場 民博 特別展示館-万博記念公園内- 11/18・19(日)>」て゛、茨木市の案内に「富士 正晴」のことが・・・富士正晴は茨木市安威の古い家屋に酒杯片手に泰然と構えて、言いたい放題の憎まれ口を叩き、『竹林
の隠者』とか『藪のなかの酒仙』だとか天然記念物扱いされて・・・・好奇心がもっこり・・・・現地へ と 日を変え・・茨木市中央図書館併設 富士 正晴記念館 茨木市畑田町1-51 電話番号, 072-627-7937.にも それは、それとしてこの時(安威)、「 藤原鎌足」の小さい石碑があることを知った。
これ幸いの日がきたと思い / 謎が解けそう / 談山神社(奈良県桜井市の多武峰にある神社。祭神は中臣鎌足。桜と紅葉の名所である)
よかった!!
大川公一著の『竹林の隠者-富士正晴の生涯』を読んで改めて感動し、富士正晴の生涯を多. くの人に知らせることが肝要との思いに駆られ、特に印象深い箇所を纏めてみた。 富士正晴は茨木市安威の古い家屋に酒杯片手に泰然と構えて、
富士正晴(1913-1987)は、本名、冨士正明、 、、 、昭和を代表する小説家、詩人、画家である。茨木の『竹 林の隠者』と言えば、思いだす人がいるかも分からないが、一般的には知る人が少ない。しかしながら、
その生涯に遺した著作と書画、波瀾万丈の生涯(師事した竹内勝太郎への想い、後輩作家の育成、型破
りの愉快な変人奇人振り)を考慮すると、司馬遼太郎に匹敵する遺産を後世に残したように思う。筆者 は 1971 年、茨木市内の会社に就職、翌年、富士の長女が入社してきたことから富士正晴を知った。富 士の記念館が茨木市中央図書館に出来てからは何度も足を運び、その人間性に益々興味を持った一人で ある。最近、大川公一著の『竹林の隠者-富士正晴の生涯』を読んで改めて感動し、富士正晴の生涯を多 くの人に知らせることが肝要との思いに駆られ、特に印象深い箇所を纏めてみた。
富士正晴は茨木市安威の古い家屋に酒杯片手に泰然と構えて、言いたい放題の憎まれ口を叩き、『竹林
の隠者』とか『藪のなかの酒仙』だとか天然記念物扱いされていた。しかし、その書くものは酔っ払い
のクダとは言えず良書を快度で出した。まれにみる近代的知性の持ち主であった。富士の大きな字で
書かれた葉書は、ペンでも毛筆でも多くの人に評判が良く、見た瞬間、元気が出たようである。 ―松田道雄、藤沢恒夫、桑原武夫の富士正晴追悼文のまとめ。
阿武山古墳
阿武山古墳 | |
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墓室 |
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所在地 | 大阪府高槻市奈佐原・茨木市安威 |
位置 | 北緯34度51分48.04秒 東経135度34分9.82秒座標: 北緯34度51分48.04秒 東経135度34分9.82秒 |
築造年代 | 7世紀代 |
埋葬施設 | 不明 |
被葬者 | (一説)藤原鎌足(中臣鎌足) |
出土品 | 人骨・衣服 |
指定文化財 | 国の史跡「阿武山古墳」 |
地図 |
阿武山古墳(あぶやまこふん)は、大阪府高槻市奈佐原・茨木市安威にある古墳。国の史跡に指定されている。
阿武山(標高281.1メートル)の山腹に位置する。昭和初期に地下から古代の貴人の埋葬遺体が発掘され、被葬者を藤原鎌足(中臣鎌足)に比定する説が知られる。
発見[編集]
|1934年に京都大学の地震観測施設の建設中、土を掘り下げていて瓦や巨石につきあたったことから偶然に発見された。通常の古墳にあるような盛り土はなく、浅い溝で直径82メートルの円形の墓域が形成されていた。
墓室は墓域中心の地表のすぐ下にあり、切石で組まれて内側を漆喰で塗り固められており、上を瓦で覆われ地表と同じ高さになるように埋め戻されていた。内部には棺台があり、その上に、漆で布を何層にも固めて作られ外を黒漆・内部を赤漆で塗られた夾紵棺(きょうちょかん)が日本で初めて発見された。
棺の中には、60歳前後の男性の、肉や毛髪、衣装も残存した状態のミイラ化した遺骨がほぼ完全に残っていた。鏡や剣、玉などは副葬されていなかったが、ガラス玉を編んで作った玉枕のほか、遺体が錦を身にまとっていたこと、胸から顔面、頭にかけて金の糸がたくさん散らばっていたことが確かめられた。
騒動[編集]
この発見は大阪朝日新聞のスクープで知られるところとなり、「貴人の墓」として反響を呼び延べ2万人に達する大勢の見物人が押し寄せた。
当初からこの地にゆかりの深い藤原鎌足が被葬者だとする見方もあったが、これは平安時代中ごろから「多武峯略記」などに、「鎌足は最初は摂津国安威(現在の大阪府茨木市)に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」との説が紹介されていたからでもある。(実際に、江戸時代には阿武山の近くの安威集落にある将軍塚古墳が鎌足公の古廟とされて祀られていた。)
しかし発掘にはトラブルがあった。京都大学理学部・地震観測所が、観測所敷地内の「貴人の墓」発掘の主導権を握っていたが、考古学の知識に乏しく遺跡に対する扱いが手荒とされていた。 これに対し、最初に相談されただけで以後立ち入り調査をさせてもらえない京都大学考古学研究室と、遺跡を管轄する立場であり見物人の増加や遺物の急速な劣化を憂慮する大阪府は、遺跡の発掘の今後の方向に対し地震観測所と対立を深めつつあった。
大阪府庁で文部省や宮内省なども出席して行われた関係者会議で、被葬者がきわめて高位の人物であることは間違いなく、皇室につながる可能性もあるため、これ以上の調査は冒涜であるとの意見が出た。こうしてついに「貴人の墓」は埋め戻されることになった。
その前に地震観測所が遺骨などをエックス線撮影したが、内務省の派遣した憲兵隊が見物人から被葬者の尊厳を守るため派遣されており、遺跡に対する学術調査にまで圧力をかけたため、府などによる調査は不十分なまま埋め戻された。
X線写真分析[編集]
1982年、埋め戻す前のエックス線写真の原板が地震観測所から見つかった。1987年分析の結果、被葬者は腰椎などを骨折する大けがをし、治療されてしばらくは生きていたものの、寝たきり状態のまま二次的な合併症で死亡したこと、金の糸の分布状態からこれが冠の刺繍糸だったことが判明した。しかも漆の棺に葬られていたことや玉枕を敷いていたことなども考えると、被葬者は最上位クラスの人物であったとされる。
これらの分析結果が鎌足の死因(落馬後に死去)と一致すること、この冠がおそらく当時の最高冠位である織冠であり[1]、それを授けられた人物は、史上では百済王子の余豊璋を除けば大織冠の鎌足しかいないことから、被葬者はほぼ藤原鎌足に違いないと報道された。
一方、被葬者には鎌足の同時期の蘇我倉山田石川麻呂や阿倍倉梯麻呂(内麻呂)に比定する説もあり、未だ明らかでない。
文化財[編集]
国の史跡[編集]
- 阿武山古墳 - 昭和58年8月30日指定[2]。
史跡阿武山古墳
名称 | 史跡阿武山古墳(しせき あぶやま こふん) |
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所在地 | 高槻市大字奈佐原 |
時代・概要 | 古墳時代終末期 |
備考 | 昭和58年8月、国の史跡に指定 |
アクセス: JR摂津富田駅から、高槻市営バス<公団阿武山・日赤病院><大阪薬科大学>行きで、「消防署前」下車。徒歩約30分(約2キロメートル、坂道)。
※駐車場はありません。公共交通機関をご利用ください。
市バス時刻表(JR富田駅 北のりば)
阿武山古墳は、阿武山の中腹・標高約210メートルの尾根上にあります。昭和9年、京都大学の地震観測施設建設のさいに偶然発見されました。
この古墳は盛土がなく、尾根の小高いところを幅2.5メートルの浅い溝を円形にめぐらせ、直径82メートルの墓域を区画しています。
中央に花崗岩の切石と部厚い素焼きのタイルを組み上げ、内側をしっくいで仕上げた墓室があり、漆で麻布を何枚も貼り固めた夾紵棺(きょうちょかん)が安置されていました。
阿武山古墳全景 中央の木立の下に墓室がある
棺内には、銀線で青と緑のガラス玉をつづった玉枕(たままくら)を用い、きらびやかな錦をまとった60才ほどの男性の遺体がありました。
これらは元どおり埋め戻されましたが、当時撮影されたX線写真などの分析から、男性は亡くなる数ヵ月前に肋骨などを折る事故に遭っていたことや、金糸で刺繍した冠帽(かんぼう)をそえてあったことがわかっています。
葬られた人物は、『多武峰略記』が安威山に埋葬したと伝える大織冠・中臣(藤原)鎌足とする説が有力です。