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田中秀征
日本の政治家
田中秀征
たなか しゅうせい
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生年月日 | (1940-09-30) 1940年9月30日(76歳) |
出生地 | 長野県更級郡篠ノ井町(現長野市) |
出身校 | 東京大学文学部 北海道大学法学部 |
現職 | 福山大学経済学部客員教授 |
所属政党 | (自由民主党→) (新自由クラブ→) (自由民主党→) (新党さきがけ→) (無所属→) みんなの党 |
称号 | 文学士(東京大学) 法学士(北海道大学) |
公式サイト | NPO法人 田中秀征の民権塾 |
第52代 経済企画庁長官
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内閣 | 第1次橋本内閣 |
在任期間 | 1996年1月11日 - 1996年11月7日 |
内閣 | 細川内閣 |
在任期間 | 1993年8月11日 - 1994年1月31日 |
選挙区 | 旧長野1区 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1983年12月19日 - 1986年6月2日 1990年2月19日 - 1996年9月27日 |
田中 秀征(たなか しゅうせい、1940年9月30日 - )は、日本の政治家。福山大学経済学部客員教授。
衆議院議員(3期)、経済企画庁長官(第52代)、内閣総理大臣特別補佐(細川内閣)、新党さきがけ代表代行、学習院大学法学部特別客員教授等を歴任した。
1990年代前半の新党ブームの火付け役の一つ、新党さきがけの理論的指導者であった。
来歴[編集]
生い立ち[編集]
長野県更級郡篠ノ井町(現長野市篠ノ井)生まれ。 早稲田大学第4代総長の田中穂積は一族にあたるという[1]。長野県長野高等学校、東京大学文学部卒業。ウィンストン・チャーチル、吉田茂に関心を抱いていたことから西洋政治史を志し、東大在学中は林健太郎ゼミに所属し、歴史学を専攻した[2]。また東京大学駒場寮の第三十二期寮委員長を務めた[3]。その後北海道大学法学部に学士入学したが1年で中途退学する。
政界入り[編集]
北海道大学中退後は林健太郎の紹介で石田博英衆議院議員の秘書を務める[4]。田中はリベラルな保守政治家であった石橋湛山を「理想の政治家」に挙げており、石田は石橋内閣で内閣官房長官を務めていたことから、恩師の林健太郎が石田を紹介したという。1972年、第33回衆議院議員総選挙に旧長野県第1区(定数3)から無所属で出馬したが、最下位の得票数5位で落選した。以後第34・35・36回の各総選挙に立候補するも、落選を繰り返す。この間、一時的に新自由クラブに籍を置いていた時期があるが、党内の路線対立により離党した。
1983年の第37回衆議院議員総選挙では自民党の公認を受け、旧長野1区でトップ当選を果たした(当選同期に田中直紀・熊谷弘・二階俊博・額賀福志郎・野呂田芳成・衛藤征士郎・金子原二郎・尾身幸次・北川正恭・町村信孝・伊吹文明・自見庄三郎・大島理森・野呂昭彦・中川昭一・鈴木宗男・甘利明らがいる)。なお、この選挙において自民党は旧長野1区の3議席の独占を目論み、ベテランの小坂善太郎に加え新人の若林正俊、田中の3候補を擁立したが、新人の田中、若林がそれぞれ得票数1位、2位で当選した一方で最も得票数の少なかったベテランの小坂が日本社会党の清水勇の後塵を拝し、得票数4位で落選した。当選後、宏池会に入会、宮沢喜一に師事し、宮沢が執筆した「国連常設軍の創設と全面軍縮」の論文を手伝うなど側近としてて行動する[5][6]。1986年の第38回衆議院議員総選挙では、前回2位の若林がトップ当選し、約1千票差で社会党の清水が続いたが、3位に捲土重来を期した小坂善太郎が滑り込み、小坂の得票を約2千票下回った田中が落選した。
1990年の第39回衆議院議員総選挙では再び旧長野1区でトップ当選を果たし、4年ぶりに国政に復帰した。前回トップ当選の若林は得票数4位で落選し、奇しくも旧長野1区では、前回トップ当選した候補者が落選する構図が3回続いた(1983年に落選した小坂善太郎は、その前回の第36回衆議院議員総選挙ではトップ当選)。またこの総選挙では小坂善太郎が引退し、次男の小坂憲次が当選した。
自民党離党~新党さきがけ[編集]
リクルート事件をきっかけに、元滋賀県知事の武村正義や鳩山由紀夫ら政治改革を志向する中堅・若手議員でユートピア政治研究会を結成する。1992年8月に、この年の春に文藝春秋で新党樹立宣言をした細川護熙と週刊東洋経済で対談し意気投合、師事する宮沢喜一の内閣が終わったら行動を共にすると約束する[7]。1993年6月、宮澤改造内閣の不信任決議案の採決では反対票を投じたものの、自民党を離党。新党さきがけの結党に参加し、武村正義代表の下で党代表代行に就任、「日本国憲法の尊重」「侵略戦争の反省と政治的軍事大国路線を目指さない平和への貢献」「地球環境への貢献」「わが国の文化と伝統の拠り所である皇室の尊重」「質実国家」を政治理念として草案する[8]。同年7月の第40回衆議院議員総選挙では、旧長野1区で3度目のトップ当選を果たした。自民党が過半数を割り込んだため、細川率いる日本新党と新党さきがけは新政権樹立のキャスティングボードを握ることとなった。田中は、「自民党政権」か「非自民政権」のどちらにつくか注目される中、思想信条の違う政党の連立政権は臨時・緊急の事態にしか通用しない、経済対策など懸案事項を遅らせている政治改革を早期に処理する「特命政権」として、院内会派「さきがけ日本新党」が「政治改革政権の提唱」という第三の選択肢を打ち出す。7月23日に細川が提唱文を読み上げると、各党の対応が明確になり、新生党代表幹事・小沢一郎の動きとは別に、細川内閣樹立の理論的構築を行った[9]。同年8月に発足した細川内閣では武村が内閣官房長官、鳩山が内閣官房副長官に就任。田中も内閣総理大臣特別補佐に起用され、細川が所信表明演説で用いたキャッチフレーズ「質実国家」を発案した。政権樹立後の8月17日に軽井沢で宮沢喜一と細川護熙の会談を仲介している[10]。1994年1月、政治改革四法の成立を見届けた後、内閣総理大臣特別補佐を辞任。これは細川政権樹立時の「特命政権論」の立場によるもので、細川に対し、政治改革が一応の成立を見た段階での内閣総辞職を勧めていた。同年4月、細川内閣の総辞職に伴い、新党さきがけは非自民連立政権を離脱し、羽田内閣では閣外協力に転じた。
1996年1月、自社さ連立政権の第1次橋本内閣で経済企画庁長官に任命され、初入閣を果たした。しかし同年10月、小選挙区比例代表並立制導入後初めて実施された第41回衆議院議員総選挙では、現職閣僚ながら長野1区で新進党の小坂憲次に敗れ、落選した。この総選挙に際しては、連立与党内での候補者調整が不調に終わり、長野1区から新党さきがけの田中、自民党の若林正俊が出馬し、票の分裂を引き起こした(田中、若林の票の合計は小坂の得票を上回る)。
落選後[編集]
落選により経済企画庁長官を退任。その後、武村との意見の対立から新党さきがけを離党し、その後は同党唯一の党友。1998年の第18回参議院議員通常選挙では、東京都選挙区から出馬した中村敦夫(無所属・新党さきがけ推薦)の当選に尽力。なお中村は1995年の第17回参議院議員通常選挙に新党さきがけ公認で出馬したが、次点で落選していた。学習院大学法学部政治学科特別客員教授や福山大学経済学部客員教授を務める傍ら、1999年9月からNPO法人「田中秀征の民権塾」を主宰する。2014年の東京都知事選挙では、小泉純一郎と共に脱原発を掲げて立候補した元首相の細川護煕を支援したが、細川は舛添要一らに敗れ、落選した。
人物[編集]
- 落選後もメディアへの露出や、全国各地での講演で官僚主導の「官権」から国民主導の「民権」への転換を訴え続けている。
- 元高知県知事の橋本大二郎(橋本龍太郎の異母弟)や衆議院議員の江田憲司の2人に助言を行っている[11]。江田がみんなの党結党に参加してからは自身も入党し、みんなの党を支援。同党の松田公太や新党さきがけ結党時のメンバーであった井出正一の甥・井出庸生を熱心に指導していたが[12][13]、江田、井出は2013年12月にみんなの党を離党し、結いの党を結成した。
- リベラルの論客と言われるが、本人は「左翼が人を攻撃する時の口調に何とも言えぬ品のなさを感じ、一方でワンマンと言われながらも、吉田茂の態度に保守政治家としての筋と品位を感じていたので、左翼にはならなかった。」と記している。また、わが国の文化と伝統の拠り所であるとして皇室を尊重しているとし、チャーチルがイギリス王室に対する第一級の忠誠心を持っていたことを高く評価している。[14]
- 身近に接した首相では、師事した宮沢喜一元首相の判断力と細川護熙、小泉純一郎両首相の決断力を高く評価している[15]。
また、経済企画庁長官時代に普天間基地返還問題に関して橋本龍太郎首相が、「戦中も戦後もわれわれのために大きな苦難を担ってくれた沖縄の人たちに、できる限りのことをするのは当然だ。」と発言したことに身震いするような感動を受け、橋本への人物感を改めたという[16]。
- 官僚主導の政治から行政改革を進め、民権を進めたいという考えを聴いて菅直人を評価し、実際にさきがけにも誘ったが、菅が首相就任後の行動と権力志向をみて、自分は人物を見る目がなかった、自己嫌悪に陥っていると述べ、厳しく批判した[17]。
- 家族は妻、5女。
出演番組[編集]
- サンデーモーニング(TBS) コメンテーター(原則、隔週出演)
- FNNスーパーニュースアンカー(関西テレビ)コメンテーター(不定期)
著書[編集]
- 『さきがけと政権交代』東洋経済新報社 1994
- 『時代を視る』ダイヤモンド社 1995
- 『田中秀征の論跡』近代文芸社 1995
- 『日本の連立政治』岩波ブックレット 1997
- 『民権と官権 行革論集』ダイヤモンド社 1997
- 『舵を切れ 質実国家への展望』朝日新聞社 1999 のち文庫
- 『梅の花咲く 決断の人・高杉晋作』講談社 2001 のち文庫
- 『田中秀征のことば』五明紀春編 近代文芸社 2001
- 『田中秀征との対話』ロッキング・オン 2002
- 『日本リベラルと石橋湛山 いま政治が必要としていること』講談社選書メチエ 2004年
- 『判断力と決断力 リーダーの資質を問う』2006年 ダイヤモンド社
- 『落日の戦後体制 新しい時代の突破口をひらく』太陽 くま文庫 2010
共著[編集]
- 『異議あり!!日本の「常任理事国入り」』実学百論 河辺一郎,高野孟共著 第三書館 1994
- 『さきがけの志』武村正義共著 東洋経済新報社 1995
- 『この日本はどうなる』錦織淳共著 近代文芸社 1997
- 『どうする日本の政治』石川真澄,山口二郎共著 岩波ブックレット 2000
- 『お願いしますよ、小泉さん!』吉永みち子共著 アミューズブックス 2002
脚注[編集]
- ^ 田中秀征「日本リベラルと石橋湛山」(講談社選書)P8
- ^ 田中秀征「判断力と決断力」第6章 危機を救ったチャーチルとドゴールの決断
- ^ 駒場寮の歴史
- ^ 田中秀征「日本リベラルと石橋湛山」P9
- ^ 私が見た宮沢喜一さんと保守本流政治 2007年7月17日
- ^ 田中秀征「日本リベラルと石橋湛山」P6
- ^ 田中秀征「判断力と決断力」第4章 細川内閣を生んだ決断
- ^ 田中秀征「判断力と決断力」第4章 細川内閣を生んだ決断
- ^ 田中秀征「判断力と決断力」第4章 細川内閣を生んだ決断
- ^ 田中秀征の一筆啓上 第36回「宮沢先生の思い出 前代未聞 倒閣した細川内閣に引き継ぎ」 2007年7月2日
- ^ 朝日新聞 2008年5月5日
- ^ 松田公太オフィシャルブログ 2011年7月16日
- ^ 井出ようせいブログ 2012年12月3日
- ^ 「田中秀征の論跡」チャーチルのことP31 (近代文芸社)
- ^ 田中秀征「判断力と決断力」まえがき
- ^ 2015年4月20日中日新聞
- ^ 週刊現代2010年12月4日号「田中秀征 菅さん、あなたに総理は無理だった」