谷と沢はどうちがう?
-地名のひみつパート2 岩崎書店 国松氏・熊谷氏 P13-
山と山の間 谷・沢 東日本 沢がおおい 西日本 谷
沢と谷は何が違う? | ||
~谷状地名についての考察~ |
谷状の地形を表す地名の代表的なものとして「沢」と「谷」の2通りを挙げることができるが、この両者はどのように使い分けられているのだろうか。文字の意味からすると、谷に川が流れていると「沢」で、無ければ「谷」などと考えてしまいがちだが、そうではないらしい。雨が降ればどんな谷でも必ず川になる。普段水があるかないかということは、地名をつける際には気にしなかったようだ。
はたして両者で何が違うのだろうか。実は「沢」と「谷」では、現況の地形などにこれといった違いは無い。違うのは場所なのだ。場所といっても上流と下流のような狭い範囲の話ではない。なんと「沢」と「谷」の地名はそれぞれ、東日本と西日本とに分けられてしまうのだ。 にわかには信じがたいかもしれないが、「沢」と「谷」の地名分布を 図に表したものをご覧いただければ一目瞭然である。 この図は、 1/2.5万地形図に採用されている「沢」「谷」地名を県ごとに集計し、その比率によって色分けをしたものだが、北アルプスを境にして「沢」「谷」の比率がきれいに逆転していることがわかる。東日本では「○○沢」が圧倒的に多く、逆に西日本では「○○谷」ばかりになってしまうのだ。なぜこんなことになったのか。その理由についてはまだ不明な点も多いが、一説には縄文文化の影響を強く残す地域と弥生文化の影響が大きかった地域で地名に差が出たという考え方がある。 はじめに狩猟採集を生活基盤とする縄文文化は、落葉広葉樹林の多い東日本を中心に発達した。落葉広葉樹林にはドングリなどの木の実が多く、それが縄文人の主食になったことと、密林にはならないので、森に入っての猟(漁)がしやすかったことなどが大きな理由だ。 彼らは山中の谷状地形のことを「沢」と呼んでいた。それは、生活に深くかかわる身近なものとして、親しみを表す意味を持つ地名であった。 一方、その頃の西日本には照葉樹林(常緑広葉樹林)が広がっており、密林化して人を寄せ付けない場所が多く、そこに暮らす縄文人の数は東日本に比べはるかに少なかった。そのため「沢」地名もあまり多くは残されなかった。 時代は下って、その西日本に稲作とともに弥生人が渡来してくる。彼らは、照葉樹林を切り開いて耕地にしながら自分たちの生活圏を広げていった。そして西日本の縄文人は、徐々に弥生人と融合していくが、それを嫌う縄文人は次第に山奥へと追いやられていった。 弥生人は、山中の谷状地形のことを「谷」と呼んだ。彼らにとってみれば「谷」のあるような場所とは、密林の奥で、しかも自分たちが追い込んだ縄文人が潜んでいる場所でもあった。そのため「谷」という地名に対して、危険で近寄りがたいイメージを持つようになった。山の民となった縄文人は鬼や天狗の原型になったと考えられている。 弥生人はその後も勢力の拡大を続け、徐々に東へと進出して大和の地に拠点を構えることになる。いわゆる大和朝廷が産声を上げるわけだが、このとき東日本はまだ縄文人の勢力下にあった。弥生人は自分たちが築きつつある国家が安定するまでは東への進出を抑えたのかもしれない。一時飛騨山脈(北アルプス)を挟んで、両勢力は均衡を保つことになった。その間に西日本には「谷」地名が定着することになる。 やがて国力を整えた弥生人は、再び東征を開始する。しかし縄文人の本拠地である東日本へ勢力を拡大することは、西日本のときと比べはるかに難しかった。そのため弥生人は、東日本の縄文人に対し力によって同化を推し進めるのではなく、相手の体制をある程度保障し、友好関係を結ぶことによって勢力を延ばす道を選んだ。その結果東日本は、弥生文化を取り入れつつも縄文文化を色濃く残こすこととなった。「沢」地名が東日本に多いのはそのためである。 以上が、縄文から弥生へという日本文化の形成過程を追うなかで、「沢」「谷」地名の成り立ちを説明したものだ。 この説の正否についてはともかく、「沢」「谷」地名の成り立ちについて非常に合理的な説明がされているのではないかと思っている。 そこで、今回調べた「沢」「谷」地名の分布状況についても、上記の説に基づいて検証してみたいと思う。 まず地名の分布から読み取れる特徴的な事柄をまとめてみた。 ① 東日本では、沢地名が圧倒的に多いが、谷地名も少数ではあるが確認できる 県が多い。しかし西日本では、沢地名がほとんど確認できない。 ② 「沢」と「谷」を分ける境は、北アルプスの尾根に沿って引くことができるが、太平 洋側でははっきりしなくなる。(愛知県内で緩やかに変わっている?) ③ 北アルプスを挟んで隣接する4県については、東側の新潟県と長野県にも「谷」 地名が、西側の富山県と岐阜県でも「沢」地名が、それぞれある程度の数(他県と 比べて)で存在する。 ④ 関東地方の一部と山梨県は、「沢」地名優位ではあるが、「谷」地名も比較的多く 確認 することができる。(千葉県については、「谷」が100%になっているが、「沢」が 0箇所に対して「谷」が1箇所あるだけなので、むしろ0:0に限りなく近いといえる。) ⑤ 西日本では「沢」地名に対する「谷」地名の割合が100%になる県が多いが、「沢・ 谷」に分類される地名の総数に占める「谷」地名の割合がほぼ100%になるのは近 畿地方だけで、他の地方では、「○○渓」「○○峡」「○○又」などの地名も多くみら れる。特に山口県では、「○○浴」といった「浴(えき)」地名が「谷」地名の数を上回 っている。 ⑥ 「沢」地名との変わり目に隣接する3県(富山・岐阜・愛知)以外の西日本で「沢」地 名を確認できるのは、福井・鳥取・鹿児島の3県のみで、しかも3県とも「沢」地名は その県内の1市町村にしか存在しない。 以上の6項目について検証を行ってみたい。 ①の東日本にある「谷」地名については、縄文文化圏である東日本に入り、稲作などの弥生文化を伝えた弥生人が残したものではないかと考えることができる。逆に西日本では弥生文化に圧倒されて、「沢」地名はほとんど残らなかったものと思われる。 ②の太平洋側では東西の境目がはっきりしないことついては、弥生文化が東日本に本格的に進出する直前の段階で、一時北アルプスが文化流入に対する盾の役割をしたが、太平洋側にはそれが無かったので緩やかな交流が行われていたためだと思われる。 ③の北アルプスを挟んだ地名の混在については、長く文化の変わり目で隣り合っている間には多少の交流もあり、他の地方に比べ「沢」「谷」が多く混在する結果になったのではないだろうか。 ④の関東近辺に「谷」地名が比較的多いことについては、弥生人の東国進出の拠点がこのあたりに置かれたことで多くの弥生人が移り住んだためだと思われる。 ⑤⑥についてははっきりしないものの、あえて想像をたくましくするならば、 ⑤の西日本の「谷」「沢」以外の地名は、渡来人である弥生人の出身地の違いを反映していると考えてみたい。出自の異なる幾つかの集団の中から「沢」地名を使う集団が台頭したことにより、他の地名は広がらなかったのだ。 ⑥の西日本に少しだけある「沢」地名は、弥生人と同化せずに山中に潜んだ縄文人が残したものか、はたまた鎌倉時代に西国に補任された東国武士が故郷を懐かしんでつけたといったところだろうか。 以上、勉強不足もあり中途半端な検証になってしまった感もあるが、それでも現在の「沢」「谷」地名を縄文と弥生それぞれの文化に結びつけることを否定するような材料は見つからない。弥生文化が西から東へと伝わったことはほぼ間違いない事実で、そうした文化の伝播過程において、地名が何らかの影響を受けることは大いに起こり得ることといえよう。 筆者は東日本と西日本で異なるといわれる人々の気質や風習などの多くは、縄文と弥生の文化の違いに由来すると考えている。 もちろん実際には気候の違いなど他の要因も考慮しなければならないだろう。しかしながら、古代の歴史のうねりが現代の文化にも影響を与え、それを伝える地名が存在する。「沢」「谷」地名の分布状況は、そのことをある程度裏付けているとはいえないだろうか。 |
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脱帽・・・ 脱帽・・・ 脱帽・・・・。
地名の雑学
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⑥ 有名地名を拝借した新市名のいろいろ ... しかし,下段の地名のうち,2つか3つでも読むことができる人はかなりの地名通,5つ読めたらもう博士級である。常人ならばまず一つも読めないか,せめて読めても1つくらいなものだろう。15の都府県から選んだ超難読地名にさぁ挑戦!..... き(木/栃木県と千葉県),く(久/島根県と岐阜県),し(志/新潟県),そ(曽/長崎県),た(田/和歌山県),で(出/富山県),ね(根/千葉県),ほ(保/山梨県と岐阜県) ...
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