昭和33年(1958)年6月 第3回東京アジア大会(19ヶ国)
郷里の先輩が金メダル
明日(11/7)は、「なにしょなら・・・おえんがな~・・・愛の檄・鞭」に、会える
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日本代表選手が結団式 広州アジア大会 /2010年11月6日
アジア大会の日本代表選手団結団式が6日、都内で行われ、選手、関係者664人が出席した。尖閣諸島問題で日中間が揺れる中、中国・広州での大会開催となるが、旗手を務める女子バドミントンの潮田玲子(日本ユニシス)は「スポーツでいい方向に友好関係を築くためにも大事な大会になる」と話した。また、競泳男子の北島康介(日本コカ・コーラ)は「スポーツで国と国の問題をとっぱらって、アジアのレベルが上がることが大切」と熱く語った。
アジア競技大会
アジア競技大会(あじあきょうぎたいかい、Asian GamesまたはAsiad)は、第二次世界大戦後、インドの提唱により始められた、アジアの国々のための総合競技大会。アジアオリンピック評議会(OCA)が主催するため、“アジア版オリンピック”とも言われている。略称で「アジア大会」と呼ばれることもある。
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概要と歴史 [編集]
基本的に、オリンピックと同様のスポーツが行われるが、ソフトテニス(軟式テニス)、囲碁、シャンチー(中国象棋)、カバディ、セパ・タクロー、空手道などのような、アジアの地域性を反映したオリンピックにはない独特の競技も行われている。
1913年から1934年まで、日本、フィリピン、中国の3カ国で行われていた極東選手権競技大会(The Far eastern Championship games)、1934年にインドのニューデリーで開催された西アジア競技大会が源流とされる。
第二次世界大戦の終結後、1947年にロンドンでアジア13カ国の会合がありアジアの総合競技会の開催で一致、さらに1948年7月のロンドンオリンピックにおいてインド、フィリピン、朝鮮(分裂前)、中華民国、セイロン、ビルマが再度、アジアの総合競技大会をインドのニューデリーで開催することを決議。1949年2月にアジア競技連盟(AGF)が創立された。この開催決議はインド選出のIOC委員であったソンディ(Guru Dutt Sondhi)が主導したと言われる。
AGF設立時にはインド、アフガニスタン、ビルマ、パキスタン、フィリピンが加盟し、1950年に第1回大会を開催する予定であったが施設の整備、用具の調達が間に合わず、翌年の1951年にインドのニューデリー市で第1回が開催された。以降、基本的に夏季オリンピックの中間年に開催している。
1958年5月に開催された第3回大会は東京オリンピック招致活動の最中の東京で行われ、大会に先立つ5月にはIOC総会が東京で開かれ、国際大会の開催能力をIOCに対して示す貴重な機会となった。
しかし、第4回大会以降はしばしば世界的な政治問題に影響された。1962年8月にインドネシア・ジャカルタで開催された第4回大会にはインドネシア政府がスカルノ大統領の親中国、親イスラム諸国の意向により、台湾とイスラエルの参加を拒否。IOC、国際陸上競技連盟(IAAF)、国際ウエイトリフティング連盟(IWF)は第4回アジア大会は正式競技大会としては認めないと表明、日本選手団は中止されたウェイトリフティング競技以外は参加したが、津島寿一日本体育協会会長が責任を負い辞任するなどの事態となった。翌1963年にIOCがインドネシアの資格停止(オリンピック出場停止)を決議、これに対抗しアラブ諸国12ヶ国が東京オリンピックボイコットを示唆、同年11月にはインドネシアはIOCに対抗し新興国競技大会(GANEFO)を開催するなど東京オリンピックを前にして国際スポーツ界の分裂の火種となってしまった[1]。