南海七道駅で、NPO法人堺観光ボランテイア協会 脇阪昌一様から
①河口慧海の生誕~偉業・・
②今日のコース③堺の言われ/平安時代、この地が摂津・河内・和泉の3国の境に位置しているところから「さかい」と呼ばれるようになりました。
④ボランティア観光協会の会員の概要・・・
最初の見学地(鉄砲鍛冶屋敷)に向け・・薫主堂http://www.kunsyudou.jp/・・-北旅籠町の町家-紀州街道・・
大阪と和歌山を結ぶ主要街道
江戸時代には紀州藩や岸和田藩の参勤交代の道筋として利用された。
明治18年内務省告示「国道表」にいう國道二十九号路線(起点は東京、終点は和歌山)
明治36年大阪府誌における起点は、「大阪市東区高麗橋通字堺筋國道第二十六号路線より起り」とある。経由地は「西成郡今宮村、勝間村、粉濱村、安立町、堺市、泉北郡湊村、濱寺村、高石村、大津村、忠岡村、泉南郡北掃守村、岸和田町、同濱町、貝塚町、佐野村、北近義村、北菜中通村、田尻村、南中通村、雄信達村、西鳥取村、同郡東鳥取村大字山中紀泉國界より和歌山県海草村、和歌山市」
綾ノ町駅(大阪府堺市堺区にある阪堺電気軌道阪堺線の停留場) http://www.youtube.com/watch?v=kqn7Ez0bzVE...
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を経て「山口家住宅<江戸時代前記の町家 S41重文指定>に至る前
●戦火を免れた町屋をみる・・・・
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地名の由来が知りたいんだけど?
この文章は、1999年10月号から2000年4月号まで「広報さかい」に毎月シリーズ連載したものに、若干の加筆・修正をしたものです。
堺区編
古代に仁徳天皇陵をはじめとする百舌鳥古墳群が築造されるとともに、中世に海外交易の要衝として経済的、文化的に栄え、東洋のベニスとうたわれるなど、歴史的に名高い地域です。また、環濠都市の名残をとどめる、土居川や内川、社寺など豊富な文化的遺産を有しています。
北半町(きたはんちょう)・南半町(みなみはんちょう)
旧市の南北端に位置する両町は、「元和の町割り」の際に、縦幅が他の町と比べ小さくなったことに由来するといわれています。
北旅籠町(きたはたごちょう)・南旅篭町(みなみはたごちょう)
堺の町の南北の入り口にあたる当地に、旅人宿、旅籠(はたご)があったことに由来するといわれています。
桜之町(さくらのちょう)
戦国期から見える町名で、桜の木がたくさん植わっていたことに由来するといわれています。
綾之町(あやのちょう)・錦之町(にしきのちょう)
応仁の乱の兵火を逃れて、京都から優れた技術を持った織物師達が堺に移り住み、この地で「綾織り 」、「錦織り」を始めたことに由来するといわれています。
柳之町(やなぎのちょう)
昔から堺を代表する木である、柳がたくさん植わっていました。
九間町(くけんちょう)
奈良時代、弘法大師が唐より帰国し、この地に九間四面の堂、今の「九間堂」を建立し布教したことに由来するといわれています。
神明町(しんめいちょう)
奈良時代初め創建といわれる、神明神社(菅原神社に合祀)が当地にあったことに由来するといわれています。
宿屋町(しゅくやちょう)
旅人の宿場町で、宿屋が多かったことに由来するといわれています。
材木町(ざいもくちょう)
戦国期から見える町名で、材木商の集住地であったことに由来するといわれています。
車之町(くるまのちょう)
戦国期から見える町名で、「車屋本」で知られる有名な能楽者、車屋道晰(どうせき)がこの地に住んでいたことに由来するといわれています。
櫛屋町(くしやちょう)
堺名物、和泉櫛を扱う櫛問屋が多かったことに由来するといわれています。
戎之町(えびすのちょう)
戦国期から見える町名で、当地にあった戎神社に由来するといわれています。
熊野町(くまのちょう)
もとは湯屋町(ゆやちょう)といい、湯屋(風呂屋)が多く並んでいたことに由来するといわれています。また一説に、菅原天神の境内で塩風呂を炊きだし、一 般の人達に施したことに由来するともいわれています。明治5年に当地にあった、熊野神社にちなみ「熊野」に改字し、読みも次第に「くまの」に変わりました が、小学校などに「ゆや」の読みが残っています。
市之町(いちのちょう)
戦国期から見える町名で、摂津と和泉の国境であった大小路筋に面する当地は、堺の町の中心地で、いろいろな「市」が開かれたことに由来するといわれています。
甲斐町(かいのちょう)
戦国期から見える町名で、神功皇后がこの地に「甲(かぶと)」を納めまつったことに由来するといわれています。
大町(おおちょう)
富裕者が多く住み、身代の「大なる町」というところから名づけられたといわれています。
宿院町(しゅくいんちょう)
室町期から見える町名で、当地にある、住吉大社の頓宮(お旅所)を宿院といったことに由来するといわれています。また一説に、昔、このあたりは寺社が多く、宿坊(宿院)がたくさんあったことに由来するともいわれています。
中之町(なかのちょう)
戦国期から見える町名で、昔の堺の町は、大小路筋を境に北荘と南荘に行政区域が分かれていて、当地は南荘の中央に位置したことに由来するといわれています。
少林寺町(しょうりんじちょう)・寺地町(てらじちょう)
少林寺があること、また、寺地町はかつて少林寺の寺地(境内地)であったことに由来するといわれています。
新在家町(しんざいけちょう)
南荘にあった本在家町に対し、ニュータウンという意味で名づけられたといわれています
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