9月も今日で最後。
パソコン君も、あっち・コッチをさわっていたら・・ご機嫌が。
9/23 水 の「水都大阪2009」も動き出しました。
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9月も今日で最後。
パソコン君も、あっち・コッチをさわっていたら・・ご機嫌が。
9/23 水 の「水都大阪2009」も動き出しました。
投稿情報: 09時11分 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
吹田市観光センター開所式が開催される前に、携帯で・・天道の竹内さん(瓦屋さん/今はどうか知りません)で、待っていると。
コース:JR吹田駅北口・・亀岡街道 散策 ・・モノレール宇野辺駅
↓
吹田市 から 東へ 東へ 摂津市 茨木市
1.遅かりし、倉之助(内蔵助・庫之輔・蔵之介?)。
・吹田市立博物館の常設展示室で、竹内さんの瓦を見かけました。
2.携帯して、今どこOさん・・吉志部神社の参道前あたり・・安全運転・・亀岡街道(吹田市 岸部)へ入る手前で・・ストップ・・うわー もう、こんなに進んでいる(大日本運送があったとこ/ホームセンター ロィヤルの北↓↓)
3.やっと、追いつきました。
吉志部神社の参道前・・一行は東へ進む、勿論 亀岡街道を。
4.岸部5丁目あたり
5. 吉志部神社の参道から東に 直線で300m
吹田市から摂津市へ千里丘六へ
6.摂津市市場池 道標
・後にして
・市場池の東端 亀岡街道 旅人の・・
7.吹田市 と 摂津市 の さかい 山田川をまたぎ 東に
8.進むこと150m 右折れ 左折れ 須佐之男命神社
9.とにかく 東へ 東へ 現在の大阪・京都・高槻線(通称 産業道路)に
千里丘下 信号を渡り 左折 20m 右折れ 10m 左折 10.へ続く
10.右は、JR貨物の引き込み線 またしても、東へ
・ この道 1方通行(東から西に)
11.ふたたび、産業道路へ そして 茨木市へ
12.癖が むらむら
12.あそこやな・・あっち、コッチわバチ・・追いかけたが、一行が見あたらない
雨もポツ・・雨宿り・・止みそうもない・・Oさんに 携帯 ・・最後まで、おつきあい出来なくごめんなさい・・あ~ ・・・
終着地は、モノレール宇野辺駅と聞いていた。
投稿情報: 20時50分 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
昨日・9/28・あルック吹田で町歩きをしていました。
今日の午前9時頃から・・吹田市立観光センターの開所式・・があることを知りました。
-場所:JR吹田駅前 さんくす3番館 2階(朝日町3番203号)-
雨をついて、行きました。
市長・市議会議長・商工会議所頭取のご挨拶等が・・・。
-重なり・・浜屋敷・・まち案内人による散策会「亀岡街道」・・をも、約束していたので・・-
・・・・・・吹田市のHPを見ると・・・・
平成21年10月1日にオープンする「吹田市立観光センター」のアルバイトを、
下記の内容で募集します。
勤務場所 | 吹田市立観光センター JR吹田駅前 さんくす3番館 2階(朝日町3番203号) |
---|---|
勤務時間 | ・午前9時から午後1時30分と午後1時から午後5時30分の二交代制(休憩無し) ・シフト制で週4~5日勤務(土日、祝日勤務あり) ・勤務日の変更は応相談。 |
休館日 | 年末年始(12月29日から1月3日)の6日間と月1回 |
業務内容 | インターネットや市街地図などを利用して、来場者や電話での問い合わせの方に、施設や観光コースの案内。 |
賃金など | ・日給 4,215円(ただし、雇用保険料は控除されます。) ・通勤補助 8,000円(1ヶ月)上限 |
募集人数 | 3名程度 |
面接 | 面接を行いますので、産業にぎわい創造室(観光担当)へ御連絡いただき、日程調整を行ってください。 面接当日に履歴書が必要となりますので、御持参ください |
投稿情報: 18時05分 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
投稿情報: 17時25分 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
千里竹の会たより( 平 成 2 1 年 1 0 月 1 日 号 N O . 6 5 )
「10月度の活動予定」
日(曜)開始時間場 所備 考
1 (木)13:30千里東町公園 ①竹林整備
2 (金)13:00東丘CR 夢志クラブ
3 (土)13:30①千里第7緑地竹林整備
8:00北千里高校竹炭焼き
5 (月)13:30②桃山公園 竹林整備
7 (水)13:00北千里高校竹酢液ボトル詰め
8 (木)13:30千里東町公園 ②竹林整備
10(土)13:30千里東町公園③竹林整備(第2土曜日)
ごみ収集13:30③千里第7緑地竹林整備
12(月)11:30④桃山公園竹林整備「ここらで一服!!昼食&ビール」
15(木)13:30千里東町公園 ④竹林整備
16(金)13:00東丘CR夢志クラブ
17(土)13:30⑤千里第7緑地竹林整備
13:00北千里高校竹炭窯出し・竹材窯入れ
19(月)13:30⑥桃山公園 竹林整備
22(木)13:30千里東町公園 ⑤竹林整備
13:30こぼれび通り特別竹細工教室
16:00東丘CR10月度幹事会
24(土)13:30⑦千里第7緑地竹林整備
13:30千里東町公園 ⑥竹林整備(第4土曜日)ごみ収集
28(月)13:30⑧桃山公園 竹林整備
29(木)13:30千里東町公園 ⑦竹林整備「幹事会報告」
◆ 10/12(月)の竹林整備(桃山公園)の開始時間について
11:30 ~ 12:30・・・竹林整備
12:30 ~・・・「ここらで一服!! 昼食&ビール」
竹林整備を11:30より行います、その後現地で昼食&ビールの予定です。
昼食&ビールのみの参加も、歓迎します。( * 雨天の時は中止です )
◆竹林整備作業時の注意
竹林整備作業時は、危険防止のため「 帽子、 手袋、 長袖シャツ 」
を守って下さい。最近、この取り決めを守らないで活動されている方がお
られます。
怪我、事故のないように作業を進めて下さい。
発行元 : 千里竹の会代表幹事 :木村凡之 (06-6387-7037)
[email protected]
連絡調整幹事 : 永良邦彦 (0 6-6831-0845)
[email protected]
事務担当幹事 : 秋田隆久 (06-6835-1556)
[email protected]
投稿情報: 14時11分 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
TVの聞きかじり・・・現地に出かけてないので曖昧ですが、横浜博海港150周年でも多くの「竹材」が・・・水都大阪2009も「竹材」が。
■会期
・横浜開港150周年 4月28日から9月27日 終了 716万6300人
・水都大阪2009 8月22日から10月12日 開催中
さて、さて・・・・。
水都大阪2009中之島の様子を動画にしてみました。
投稿情報: 08時12分 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
参加者5名:TEOOOさん
集合:10時 阪急吹田駅-コース太黒 ↓ 未探索-
3Km コース:阪急吹田駅→
↑やはり、時間帯が時間帯 乗客マバラ
↓駅の右(西)50m吹田市役所 本庁
①文化会館→
2階へ行く階段(1階 正面玄関へ 右) ↓ 万博 カナダ政府より/壁面に・・気をつけて見ないと、ついつい見落とし。
まだまだ、多くあるが・・豊嶋郡条理制の東限水路跡(文化会館を建設前の発掘調査?昭和60年3月)
②地下道→ 上を阪急電車が南北に走る/歩道
吹田の渡し /キーワード:神崎川 亀岡街道 水上交通 /表示 吹田市役所に向かい右
歩道 右(泉殿宮に向かい /東へ) の掲示
③泉殿宮→ キーワード/泉殿霊泉跡 伏流水 アサヒビール 神楽獅子
④吹田街道→ ↓参道 この右が吹田街道
⑤アサビール吹田工場→
西ノ庄 防災セフティーロード /知ってはいたが、再確認出来ました。
ー玉林寺→ カマキリがお出迎え
松ぽっくり に びっくり。
保護樹林 クスノキが確か3本。
いろんな瓦
⑦平和祈念資料館→⑧片山神社→
⑨片山公園→笹
見納めか この景観 吹田市市民会館 右 ワケは・・・。
一山越えて、公園内 ↓市立中央図書館
⑩大阪ハリストス正教会→
⑪大林組花壇寮(吹田市都市景観賞受賞)→
⑫垂水上池公園→
⑬上(かみ)の川跡→
⑭糸田が輪川・上の川改修記念碑→
⑮糸田橋の石柱→
阪急豊津駅
・・・・お昼・・・・
メイシアターにて4人。
散会 14時頃
曇天を楽しく歩き、探索しました。
・・・・・関係者の皆さん・・・・色々と勉強中です・・・。
こんなことを感じました-キーワードのみ 等-。
①格子天井②防災セーフティーロード
③パロス
パロス島(Paros, ギリシア語: Πάρος, イタリア語:Paro)は、エーゲ海の中央に浮かぶギリシャの島。キクラデス諸島の1つで、ナクソス島の西、海峡を挟んで約8kmのところにある。本土のピレウス(アテネ)からは南東約100kmの位置にある。現在のパロス島はヨーロッパの旅行者にとって有名なホットスポットの1つである。パロスの自治体は沖合の多くの無人島を含み、その広さは196.308 km²にも及ぶ。最も近い自治体は南西にあるアンティパロス島である。パロス島は美しい白大理石のでも知られ、磁器やマーブルに世界中で使われるパリアン(Parian)という言葉を生んだ
④垂水上池公園-たるみうわいけこうえん-
⑤神崎川
摂津市の一津屋で淀川から分岐し、大阪市東淀川区相川で安威川と、淀川区加島付近で猪名川と合流して、西淀川区で左門殿川・中島川・西島川と分かれた後大阪湾へと流れ込む。
⑥安威川
京都府亀岡市の竜ヶ尾山を水源とし、吹田市南高浜/大阪市東淀川区相川で神崎川に合流する。
⑦相川
⑧亀岡街道 http://myippo.com/kaidou/kameoka/kameoka.htm
HPで、あっち、こっち見ましたが ↑ 一番・・脱帽です 。
⑨⑩⑪⑫⑬⑭⑮⑯⑰⑱⑲⑳。
投稿情報: 20時15分 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
投稿情報: 07時42分 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
昼の千里ニュータウン商業祭で、夜にあるであろうと知った「のう」に行きました。
-正式には、すいた市民薪能-http://www.city.suita.osaka.jp/home/soshiki/div-shiminbunka/bunka/oshirase/_35119.html
第143回吹田市民劇場
吹田市制施行70周年記念プレ事業
すいた市民薪能を開催します!
日時 平成21年9月27日(日) 開演 午後6時30分 (開場 午後5時30分) 雨天中止
費用 無料
場所 千里南公園特設ステージ(詳細は開催チラシにある地図を参照してください)
ダウンロードはこちら↓
チラシダウンロード(PDFファイル; 178KB)
幽玄な舞台で第1部は、市民グループの能・狂言を、第2部はプロの能楽師による能をお楽しみください。
第1部 吹田市謡曲連合会
吹田市狂言グループ
第2部 観世流能「清経」
観世流シテ方 味方玄 ほか
昼に見たとき・・、何かありそう・・近くにいる人に聞くと・・夜 6時30分~ 広場では、「おのう」があると聞きました。
少し遅れて、行った時には、狂言の様子・・「しびれ・?× ○」と言う声が・・・・。
それにしても、多くの人
司会者から、狂言「しびれ」等々 と 次の 狂言 「うさぎ」の説明。
「うさぎ」の講演前
ウサギ 拍手 喝采・・・
「たきびのう」に先立ち、市長・議長による「点火式」 と ご挨拶(趣旨・「演目/平家きょつね」等)↓
・・・すいた市民劇場・能は通常は神社・仏閣 ところが、野外劇場で・850前の幽玄の世界を・・・続いて、司会者による解説で・・・演技中は撮影禁止・・・・
- ↓ 点灯式の様子-↓↓ 市長 挨拶の様子 -
「能」が、はじまって5分位・・・携帯ビカ・・途中まで・・・あ~残念。
・・・・凊経・・・
平 清経(たいら の きよつね、長寛元年(1163年) - 寿永2年3月10日(1183年4月4日))は、平重盛の三男。母は藤原家成の娘・経子。妻は藤原成親の娘。正四位下左近衛権中将。横笛の名手として聞こえた。
治承4年(1180年)、以仁王の挙兵の際には園城寺攻撃に参加する。寿永2年(1183年)に平家一門が都落ちした後は、次第に悲観的な考えに取り付かれ、大宰府を元家人である緒方惟義に追い落とされたことをきっかけとして、豊前国柳浦にて入水自殺した。享年21。『平家物語』「六道之沙汰」の段で建礼門院による述懐に、清経の死が平家一門の「心憂きことのはじめ」として語られている。
清経が入水したのは現在の大分県宇佐市柳ヶ浦地区・駅館川沖合といわれており、これにちなんで駅館川河口付近に小松塚と呼ばれる五輪塔および慰霊碑が建てられている(「小松」の名は清経の父・重盛が小松殿と通称されたことに由来する)。また、小松塚のたもとにある橋(駅館川河口に最も近い)も小松橋と名付けられている。
観世流(かんぜ-りゅう)は能楽における能の流派の一。シテ方、小鼓方、大鼓方、太鼓方がある。
目次[非表示] |
シテ方観世流は大和猿楽四座のひとつ結崎座に由来する能の流儀。流儀の名は流祖観阿弥の幼名(芸名とも)である「観世(丸)」に基く。二世世阿弥は能の大成者として名高い。現宗家は二十六世観世清和。能楽協会に登録された能楽師は2006年の時点で560名あまりにのぼり、五流最大の流勢を誇る。一時梅若家が梅若流として独立したこともあったが、現在は観世流に復帰している。
大流であるため、内部に芸風の差があるが、豊麗で洗練された味わいが特色とされる。謡はギンを出さず(産み字をつけない)、高音を利かせて、華やかに謡うのが特色で、型も圭角のすくない、まろやかなものを好む。戦後『三山』『求塚』『蝉丸』を復曲し、現行曲は210番。
流祖観阿弥清次(1333年〜1384年)は山田猿楽の美濃大夫に養子入りした何某の三男で[1]、結崎座の大夫(「棟梁の仕手」)となった。それまで式三番など神事猿楽を中心としていた結崎座を猿楽中心の座へと改め、中年以降は次第に猿楽の名手として大和以外でもその芸が認められるようになった。特に1374年ごろに行われた洛中今熊野の勧進能において足利義満に認められ[2]、以後貴顕の庇護のもと近畿を中心に流勢をのばした。
二世世阿弥元清(1363年?〜1443年)はその美貌によって幼時より足利義満・二条良基・佐々木道誉らの庇護を受け、和歌・連歌をはじめとする上流の教養を身につけて成長した。父観阿弥の没後は、観世座の新大夫として近江申楽の犬王らと人気を争い、それまで物まね中心であった猿楽能に田楽能における歌舞の要素を取りいれていわゆる歌舞能を完成させた。足利義持の代となると、義持の後援した田楽の名手増阿弥と人気を争う一方で、『高砂』『忠度』『清経』『西行桜』『井筒』『江口』『桜川』『蘆刈』『融』『砧』『恋重荷』などの能を新作し、『風姿花伝』『至花道』『花鏡』といった能楽論を執筆して、実演・実作・理論の諸方面で能楽の大成につとめた。
世阿弥は1422年ごろの出家と前後して、大夫を長男観世元雅(?〜1432年)に譲った。元雅は世阿弥が『夢跡一紙』で「子ながらもたぐひなき達人」と評したほどの名手で、『隅田川』『弱法師』『歌占』『盛久』など能作においても優れていた。しかし義持の没後、世阿弥の甥音阿弥(観世元重)を後援する足利義教が将軍に就任すると、仙洞御所での演能の中止(1429年)や醍醐寺清滝宮の楽頭職を音阿弥と交代させられるなどさまざまな圧迫が世阿弥・元雅親子に加えられ(国史大辞典)、1432年に元雅が客死した翌年には音阿弥が観世大夫を襲う(現在では音阿弥を三世とする)。晩年の世阿弥は『拾玉得花』を女婿金春禅竹に相伝し、聞書『申楽談義』を残すなどなお意欲的に活動したが、1434年、義教の命によって佐渡に配流され、ここに観世座は完全に音阿弥の掌握するところとなった。
観世大夫を襲って後、三世音阿弥元重(1398年〜1467年)は猿楽の第一人者として義教の寵愛を受け、「当道の名人」として世阿弥以上の世評を博したと考えられている[3]。前代には有力な競争相手であった田楽や近江猿楽がこの時代にはほとんど駆逐され、観世座が猿楽の筆頭として室町幕府に重用された背景には、音阿弥の活躍が大きく影響していたものと思われている[4]。音阿弥の後は四世又三郎政盛(音阿弥の子)、五世三郎之重(政盛の子)、六世四郎元広(之重の子)、七世左近元忠(法名宗節、元広の子)と四代にわたって幼少の大夫が続いたため、音阿弥の七男観世信光とその子観世長俊が後見として大きな役割を果した。大鼓方・脇の仕手として活躍した信光は、一方で『遊行柳』『紅葉狩』『船弁慶』など霊験や怨霊、怪奇を主題とした派手でわかりやすい能を書き、時流に迎えられた[5]。この傾向は同じく脇の仕手を勤めた子長俊にも受けつがれ、『正尊』『江野島』などより視覚に訴える平明な作が多く作られた。
七世観世宗節(1509年〜1583年)は十四歳で父を失った後、長俊の後見によって成長し、1571年ごろから徳川家康に伺候するようになった。先代元広・長俊の没後、やや退転していた流儀の勢いを旧日に服すべく、伝書・謡本・型付の書写を旺盛に行ったことでも知られ、後代にその名を冠する書物が多く伝わっている。子がないため、甥の左近元盛(八世)を養子とするが早世。元盛の子左近身愛(観世黒雪)が九世を襲った。
九世観世黒雪(1566年〜1626年)は、幼少より静岡で徳川家康に仕え、後に京都に進出して豊臣政権下で四座棟梁の一人として認められるものの、金春流を愛好した豊臣秀吉からは重用されなかった。1603年の江戸幕府開府とともに四座棟梁の筆頭として家康から重んじられるが、数年後、駿府を出奔して高野山で出家するという事件を引き起こす。後に帰参は認められるものの、十世左近重成に大夫職を譲り、事実上の蟄居状態が続いたと見られている[6]。1620年に元和卯月本と呼ばれる謡本百番の刊行を開始し、江戸時代における観世流隆盛の基盤を築いた人物として知られる。
近世期、観世流は幕府に抱えられる四座一流の筆頭とされ、幕末まで最大の流勢を誇った。宗家が十一世左近重清(重成の子)、十二世左門重賢(重清の子)、十三世織部重記(重清の甥)、十四世織部清親(重記の子)と相続する一方、黒雪の甥服部宗巴は座付のワキ方福王家に養子入して福王流五世を相続し、隠居後には京都に移って素謡教授を専門とし、以後同地に観世流の謡が広まる地歩を築いた[7]後に福王流七世福王盛信は信望なく、高弟の岩井・井上・林・薗・浅野のいわゆる京都五軒家が観世流に転ずるという事件を引き起こすが、以後幕末まで五軒家と禁裏能楽御用の片山九郎右衛門家が京都の観世流を主導し、いわゆる「京観世」と呼ばれる一派を成すことになった。
十五世観世元章(1722年〜1774年)に至り、観世流は徳川家重・徳川家治二代にわたる能師範を独占し、他方で上記のような京都進出を完了するなど、その絶頂期を迎えた。元章はこれらの状況を受けて、弟織部清尚(後に十七世宗家)を別家して観世織部家を立て、四座の大夫に準ずる待遇を獲得させたほか、国学の素養を生かした小書を多く創作し、さらには世阿弥伝書に加註のうえ上梓するなど旺盛な活動を行った。なかでも1765年に刊行のはじまった「明和改正謡本」は、復曲を含む全二百十番組という公定の謡本としてはかつてない規模であり、田安宗武・賀茂真淵らの協力によって字句の改訂を加えるなどきわめて意欲的な内容であった。しかしこれらの改正は能楽師にとって全曲の覚えなおしを意味するもので評判が大変悪く[要出典]、元章の死後旧に復された。ただ「神歌」の詞章「どうどうたらり」を「とうとうたらり」と済んだ音にするなど、一部に元章が手を加えた跡が残される。
元章の後は、十六世三十郎章学(元章の子)、十七世織部清尚(元章の弟、分家初世)、十八世織部清充(清尚の子)、十九世織部清興(清充の弟、分家二世)、二十世左近清暢(清興の子)、二十一世左近清長(清暢の子)、二十二世三十郎清孝(清長の子)と相続し、清孝に至って明治維新を迎えた。
江戸幕府瓦解後、清孝は将軍家に従って静岡に下る道を選び、東京の観世流は分家の観世紅雪(分家五世、十九世宗家清興の曾孫)と観世流のツレ筆頭とされた梅若家の初世梅若実が孤塁を守ることとなった。明治初年の衰微期を経て、1876年の岩倉具視邸天覧能以後、徐々に人気を回復しはじめた能楽界にあって梅若実は紅雪とともに観世流の普及につとめ、ついには玄人・素人の弟子に対して梅若の名によって流儀の免状を発行するに至った。しかし宝生九郎・櫻間伴馬とともに「明治の三名人」と称された梅若実の圧倒的な権威もあって、後に東京に戻った清孝には梅若家を抑える力はなかった。
清孝の跡を襲った二十三世清廉には後嗣がなく、京都の片山家から養子に入った左近元滋が相続して二十四世宗家となった。このころになると宗家の権威も旧に復し、免状問題で二世梅若実に対して強硬な主張が行われるようになったが、交渉は難航。最終的に1921年、梅若実・梅若万三郎の兄弟及び分家六世観世華雪が独立して梅若流を創設するに至る。この動きは斯界に大きな衝撃を与え、三役(ワキ方・囃子方・狂言方)は宗家側を支持して、梅若流の演能に出演しないことを申し合わせたため、同流の活動はいきづまり、万三郎と華雪はいちはやく観世流に復帰。1954年には代替わりした梅若実も能楽協会の斡旋で観世流に復帰し、二十数年にして梅若流は消滅した。
一方二十四世観世元滋はきわめて政治的な手腕に優れ、梅若流問題をきっかけにかえって流儀の統一をはかり、流勢の伸張に意をつくした[要出典]。さらには家ごとに差の大きかった謡の統一をはかるべく、大成版謡本を企画・刊行した。
1950年代から60年代にかけては雅雪の子観世寿夫、観世栄夫、観世静夫を中心とする新世代の能楽師が、演能、技法論、異分野との競演などでめざましい活躍を見せ、特に寿夫は世阿弥の再来とまで評された[8]名手で、八代観世銕之丞(観世静夫)や九世片山九郎右衛門など、その影響を受けた能楽師は多い。元滋の没後は、子の元正が二十五世宗家を相続し、現宗家二十六世清和に至る。
大流であるためにいくつもの名家があること、すべての玄人を宗家のもとで修行させる宝生流などとは異なり一定の家格を持つ家(職分家以上)に能楽師の養成を認めていることなどから、流儀のなかにいくつかの芸系があり、おのおの一派を成している。芸風から分類すると片山家、橋岡家そのほかの職分家が宗家に近く、一方で観世銕之亟家と観世喜之家は両梅若家に近い[要出典]。主要な家柄を以下に示す。
観世流シテ方の場合、玄人及びそれに準ずる者の職位として、宗家、分家、職分、準職分、師範、準師範の六段階がある。このうち師範以上が純粋な玄人として能楽協会に登録される。
宗家、分家(観世銕之亟家)は完全な世襲制である。職分・準職分についてもほぼそれを世襲する家(上記の観世喜之家、片山九郎右衛門家、両梅若家など流内の名家が職分家、それ以外で能を家業とする家が準職分家)が決まっている。玄人は通常、修行後に師範もしくは準職分の職位を与えられるが、たとえば職分家の子弟であれば師範からはじまり、時期を経て職分・準職分に昇ることになる。また職分家は独自に玄人を養成する特権を持つ。師範・準師範は原則として世襲ではない。
宗家と分家は自ら家の後継者を育成する権限を持つ。職分家の後継者は職分家もしくは宗家・分家などに5年間内弟子として入って修業することとなっている。ただしこの育成課程を終えた後もただちに職分にはなれず、準職分から始まって40歳を越えた後に審査を受け、職分となる。準職分家の子弟は職分家に5年間内弟子に入り、師匠から宗家への推薦を得て玄人となる。師範の場合は内弟子に入る必要はない。[10]
小鼓方観世流(一名・観世新九郎流)は観世座座付の小鼓方。
観世信光の孫・観世彦左衛門豊次(1525年〜1585年)が宮増弥左衛門親賢(1482年〜1556年)の弟子となって流儀を興した。宮増は大和猿楽の各座で鼓方を担当していた一族で、流儀の伝承では、初世宮増信朝、二世美濃権守吉久を加上し、親賢を流儀の三世、豊次を四世として扱っている。
代々「新九郎」を名乗り、江戸時代は観世座小鼓方筆頭として活躍したが、十四世新九郎豊成の没後、子の豊好が家芸を継がず、一時家元を預かった門弟湯浅平次(十五世)も早くに没し、家元が空位となる。維新後、姓を「宮増」に改めた家元家に石浦通宏(十六世)が養子入りして再興し、子の宮増純三(十七世・当代)が後を襲った。近年、家元家ではふたたび姓を「観世」に服し、純三が「観世豊純」を、子の新一郎が「新九郎」を名乗っている。近年の名手としては、宮増純三の実兄・敷村鉄男が名高い。
能楽協会に登録された役者は、2006年の時点で4人。全員が東京在で、流勢はかならずしも盛んではない。ただし三ツ地の五拍目の掛け声を欠き、甲の音を多用するなど、譜の面で独自色のつよい流儀である。
大鼓方観世流(旧名・宝生錬三郎派)は初め観世流座付、後に宝生座座付の大鼓方。
流祖は小鼓方観世流三世・又次郎重次の長男・勝次郎重政(~1631年)。後に小鼓方観世流四世を継いだ弟の新九郎豊勝との「道成寺」共演の記録も残っている。後、二世彦三郎元貞、三世庄次郎一貞と続くが、一貞に後継がなく一度中断した。
1683年、宝生流を好んだ徳川綱吉に小鼓方観世流六世・新九郎豊重が宝生大夫相手の道成寺を断り、追放される事件が起こった。翌年、宝生座付として復帰したが、その際、姓も宝生と改めさせられた。その後、観世流小鼓と合う大鼓が宝生座にいなかったためか、1694年、豊重の三男・弥三郎重堅が宝生座大鼓方として新規に召抱えられ、宝生姓で観世流大鼓が復活した。
後に観世流小鼓家は観世座に復帰が許され、姓も観世に戻したが、大鼓家は宝生座にとどまり、以後幕末まで宝生姓であった。流勢はあまりふるわず、維新時の家元・八世錬三郎恭寛は維新後の動静が分からない。豊後竹田出身の加藤八百作(~1919年)がその芸系を継承したが、その後継である守家金十郎父子のみが、昭和に活動した玄人であった。
戦後は「大鼓方宝生錬三郎派」とされてきたが、守家金十郎らの運動により、1986年に本来の流儀名である観世流として認められた。現在は金十郎の孫・守家由訓が宗家代理をつとめる。能楽協会に登録された役者は2009年の時点で2人。
太鼓方観世流(一名・観世左吉流)は観世座座付の太鼓方。
シテ方観世流三世音阿弥の子・観世与四郎吉国(1440年〜1493年)が、金春流太鼓方の流祖金春豊氏の弟子となって流儀を興した。その後、芸系は二世檜垣本吉久、三世檜垣本国忠を経て、名手・四世似我与左衛門国広(?〜1580年)が相続し、各種の伝書を残すなど大いに活躍した。
五世与五郎急逝の後は、師家金春重家が家元を預かり(六世)、その長男・左吉重次(七世)が養子入して流儀を再興した。重次は当時名手として有名で、それまで弟子に持たせて打っていた太鼓を置くための台(左吉台と呼ばれる)を考案するなど、太鼓技法に多くの改良を加えた[要出典]。江戸時代は観世座の座付として過ごし、代々名人を輩出したが、特に十五世観世元規は明治期を代表する太鼓方として名高い[要出典]。
現家元は十六世観世元信。東京を主たる地盤にし、能楽協会に登録された役者は、2006年の時点で16人。金春流に比べると、撥の扱いが直線的で、手組も地味であり、古風を存すると言われる[誰?]。
2005年の能楽協会名簿における観世流所属の能楽師の数は以下の通り。
観世流は京舞井上流と関係が深く、片山九郎右衛門家や観世銕之丞家が歴代の井上八千代と縁戚関係にある(詳細は井上八千代の項を参照のこと)。
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