観世流(かんぜ-りゅう)は能楽における能の流派の一。シテ方、小鼓方、大鼓方、太鼓方がある。
シテ方 [編集]
シテ方観世流は大和猿楽四座のひとつ結崎座に由来する能の流儀。流儀の名は流祖観阿弥の幼名(芸名とも)である「観世(丸)」に基く。二世世阿弥は能の大成者として名高い。現宗家は二十六世観世清和。能楽協会に登録された能楽師は2006年の時点で560名あまりにのぼり、五流最大の流勢を誇る。一時梅若家が梅若流として独立したこともあったが、現在は観世流に復帰している。
大流であるため、内部に芸風の差があるが、豊麗で洗練された味わいが特色とされる。謡はギンを出さず(産み字をつけない)、高音を利かせて、華やかに謡うのが特色で、型も圭角のすくない、まろやかなものを好む。戦後『三山』『求塚』『蝉丸』を復曲し、現行曲は210番。
歴史 [編集]
観阿弥・世阿弥 [編集]
流祖観阿弥清次(1333年〜1384年)は山田猿楽の美濃大夫に養子入りした何某の三男で[1]、結崎座の大夫(「棟梁の仕手」)となった。それまで式三番など神事猿楽を中心としていた結崎座を猿楽中心の座へと改め、中年以降は次第に猿楽の名手として大和以外でもその芸が認められるようになった。特に1374年ごろに行われた洛中今熊野の勧進能において足利義満に認められ[2]、以後貴顕の庇護のもと近畿を中心に流勢をのばした。
二世世阿弥元清(1363年?〜1443年)はその美貌によって幼時より足利義満・二条良基・佐々木道誉らの庇護を受け、和歌・連歌をはじめとする上流の教養を身につけて成長した。父観阿弥の没後は、観世座の新大夫として近江申楽の犬王らと人気を争い、それまで物まね中心であった猿楽能に田楽能における歌舞の要素を取りいれていわゆる歌舞能を完成させた。足利義持の代となると、義持の後援した田楽の名手増阿弥と人気を争う一方で、『高砂』『忠度』『清経』『西行桜』『井筒』『江口』『桜川』『蘆刈』『融』『砧』『恋重荷』などの能を新作し、『風姿花伝』『至花道』『花鏡』といった能楽論を執筆して、実演・実作・理論の諸方面で能楽の大成につとめた。
世阿弥は1422年ごろの出家と前後して、大夫を長男観世元雅(?〜1432年)に譲った。元雅は世阿弥が『夢跡一紙』で「子ながらもたぐひなき達人」と評したほどの名手で、『隅田川』『弱法師』『歌占』『盛久』など能作においても優れていた。しかし義持の没後、世阿弥の甥音阿弥(観世元重)を後援する足利義教が将軍に就任すると、仙洞御所での演能の中止(1429年)や醍醐寺清滝宮の楽頭職を音阿弥と交代させられるなどさまざまな圧迫が世阿弥・元雅親子に加えられ(国史大辞典)、1432年に元雅が客死した翌年には音阿弥が観世大夫を襲う(現在では音阿弥を三世とする)。晩年の世阿弥は『拾玉得花』を女婿金春禅竹に相伝し、聞書『申楽談義』を残すなどなお意欲的に活動したが、1434年、義教の命によって佐渡に配流され、ここに観世座は完全に音阿弥の掌握するところとなった。
音阿弥・信光・長俊 [編集]
観世大夫を襲って後、三世音阿弥元重(1398年〜1467年)は猿楽の第一人者として義教の寵愛を受け、「当道の名人」として世阿弥以上の世評を博したと考えられている[3]。前代には有力な競争相手であった田楽や近江猿楽がこの時代にはほとんど駆逐され、観世座が猿楽の筆頭として室町幕府に重用された背景には、音阿弥の活躍が大きく影響していたものと思われている[4]。音阿弥の後は四世又三郎政盛(音阿弥の子)、五世三郎之重(政盛の子)、六世四郎元広(之重の子)、七世左近元忠(法名宗節、元広の子)と四代にわたって幼少の大夫が続いたため、音阿弥の七男観世信光とその子観世長俊が後見として大きな役割を果した。大鼓方・脇の仕手として活躍した信光は、一方で『遊行柳』『紅葉狩』『船弁慶』など霊験や怨霊、怪奇を主題とした派手でわかりやすい能を書き、時流に迎えられた[5]。この傾向は同じく脇の仕手を勤めた子長俊にも受けつがれ、『正尊』『江野島』などより視覚に訴える平明な作が多く作られた。
江戸時代前期 [編集]
七世観世宗節(1509年〜1583年)は十四歳で父を失った後、長俊の後見によって成長し、1571年ごろから徳川家康に伺候するようになった。先代元広・長俊の没後、やや退転していた流儀の勢いを旧日に服すべく、伝書・謡本・型付の書写を旺盛に行ったことでも知られ、後代にその名を冠する書物が多く伝わっている。子がないため、甥の左近元盛(八世)を養子とするが早世。元盛の子左近身愛(観世黒雪)が九世を襲った。
九世観世黒雪(1566年〜1626年)は、幼少より静岡で徳川家康に仕え、後に京都に進出して豊臣政権下で四座棟梁の一人として認められるものの、金春流を愛好した豊臣秀吉からは重用されなかった。1603年の江戸幕府開府とともに四座棟梁の筆頭として家康から重んじられるが、数年後、駿府を出奔して高野山で出家するという事件を引き起こす。後に帰参は認められるものの、十世左近重成に大夫職を譲り、事実上の蟄居状態が続いたと見られている[6]。1620年に元和卯月本と呼ばれる謡本百番の刊行を開始し、江戸時代における観世流隆盛の基盤を築いた人物として知られる。
近世期、観世流は幕府に抱えられる四座一流の筆頭とされ、幕末まで最大の流勢を誇った。宗家が十一世左近重清(重成の子)、十二世左門重賢(重清の子)、十三世織部重記(重清の甥)、十四世織部清親(重記の子)と相続する一方、黒雪の甥服部宗巴は座付のワキ方福王家に養子入して福王流五世を相続し、隠居後には京都に移って素謡教授を専門とし、以後同地に観世流の謡が広まる地歩を築いた[7]後に福王流七世福王盛信は信望なく、高弟の岩井・井上・林・薗・浅野のいわゆる京都五軒家が観世流に転ずるという事件を引き起こすが、以後幕末まで五軒家と禁裏能楽御用の片山九郎右衛門家が京都の観世流を主導し、いわゆる「京観世」と呼ばれる一派を成すことになった。
江戸時代後期 [編集]
十五世観世元章(1722年〜1774年)に至り、観世流は徳川家重・徳川家治二代にわたる能師範を独占し、他方で上記のような京都進出を完了するなど、その絶頂期を迎えた。元章はこれらの状況を受けて、弟織部清尚(後に十七世宗家)を別家して観世織部家を立て、四座の大夫に準ずる待遇を獲得させたほか、国学の素養を生かした小書を多く創作し、さらには世阿弥伝書に加註のうえ上梓するなど旺盛な活動を行った。なかでも1765年に刊行のはじまった「明和改正謡本」は、復曲を含む全二百十番組という公定の謡本としてはかつてない規模であり、田安宗武・賀茂真淵らの協力によって字句の改訂を加えるなどきわめて意欲的な内容であった。しかしこれらの改正は能楽師にとって全曲の覚えなおしを意味するもので評判が大変悪く[要出典]、元章の死後旧に復された。ただ「神歌」の詞章「どうどうたらり」を「とうとうたらり」と済んだ音にするなど、一部に元章が手を加えた跡が残される。
元章の後は、十六世三十郎章学(元章の子)、十七世織部清尚(元章の弟、分家初世)、十八世織部清充(清尚の子)、十九世織部清興(清充の弟、分家二世)、二十世左近清暢(清興の子)、二十一世左近清長(清暢の子)、二十二世三十郎清孝(清長の子)と相続し、清孝に至って明治維新を迎えた。
明治期 [編集]
江戸幕府瓦解後、清孝は将軍家に従って静岡に下る道を選び、東京の観世流は分家の観世紅雪(分家五世、十九世宗家清興の曾孫)と観世流のツレ筆頭とされた梅若家の初世梅若実が孤塁を守ることとなった。明治初年の衰微期を経て、1876年の岩倉具視邸天覧能以後、徐々に人気を回復しはじめた能楽界にあって梅若実は紅雪とともに観世流の普及につとめ、ついには玄人・素人の弟子に対して梅若の名によって流儀の免状を発行するに至った。しかし宝生九郎・櫻間伴馬とともに「明治の三名人」と称された梅若実の圧倒的な権威もあって、後に東京に戻った清孝には梅若家を抑える力はなかった。
梅若流の独立と復帰 [編集]
清孝の跡を襲った二十三世清廉には後嗣がなく、京都の片山家から養子に入った左近元滋が相続して二十四世宗家となった。このころになると宗家の権威も旧に復し、免状問題で二世梅若実に対して強硬な主張が行われるようになったが、交渉は難航。最終的に1921年、梅若実・梅若万三郎の兄弟及び分家六世観世華雪が独立して梅若流を創設するに至る。この動きは斯界に大きな衝撃を与え、三役(ワキ方・囃子方・狂言方)は宗家側を支持して、梅若流の演能に出演しないことを申し合わせたため、同流の活動はいきづまり、万三郎と華雪はいちはやく観世流に復帰。1954年には代替わりした梅若実も能楽協会の斡旋で観世流に復帰し、二十数年にして梅若流は消滅した。
昭和期 [編集]
一方二十四世観世元滋はきわめて政治的な手腕に優れ、梅若流問題をきっかけにかえって流儀の統一をはかり、流勢の伸張に意をつくした[要出典]。さらには家ごとに差の大きかった謡の統一をはかるべく、大成版謡本を企画・刊行した。
1950年代から60年代にかけては雅雪の子観世寿夫、観世栄夫、観世静夫を中心とする新世代の能楽師が、演能、技法論、異分野との競演などでめざましい活躍を見せ、特に寿夫は世阿弥の再来とまで評された[8]名手で、八代観世銕之丞(観世静夫)や九世片山九郎右衛門など、その影響を受けた能楽師は多い。元滋の没後は、子の元正が二十五世宗家を相続し、現宗家二十六世清和に至る。
流内の構成 [編集]
大流であるためにいくつもの名家があること、すべての玄人を宗家のもとで修行させる宝生流などとは異なり一定の家格を持つ家(職分家以上)に能楽師の養成を認めていることなどから、流儀のなかにいくつかの芸系があり、おのおの一派を成している。芸風から分類すると片山家、橋岡家そのほかの職分家が宗家に近く、一方で観世銕之亟家と観世喜之家は両梅若家に近い[要出典]。主要な家柄を以下に示す。
- 観世宗家
- 現当主は観世清和。シテ方のみならず、囃子方の観世流にもその権威は及ぶ。また現在不在となっている笛方森田流の宗家を預かる。
- 観世銕之丞家
- 現当主は九世観世銕之亟(妻は井上流家元の五世井上八千代)。銕仙会を主宰。流儀のなかでは「分家」として宗家に次ぐ特別な地位を占めている。明治期以降は梅若家と関係が深く、芸風にもその影響が見られる[要出典]。
- 観世喜之家
- 矢来観世家とも呼ばれる。現当主は四世観世喜之。九皐会を主宰(職分家)。観世銕之亟家の分家。初代が梅若家に養子に入っていたため、梅若系の芸風に拠る。「参考謡本」(能楽書林)という独自の謡本を発行する。
- 梅若家
- 梅若家の本家。現当主は五十六世梅若六郎。梅若会を主宰(職分家)。「梅若がかり」などと呼ばれる独自の芸風を持ち、華やかとされる観世流のなかでもいっそう華麗で巧緻な謡・型を特色とする。「創成版」(能楽書林)という独自の謡本を発行する。
- 梅若万三郎家
- 梅若家の分家。現当主は三世梅若万三郎。梅若研能会を主宰(職分家)。二世梅若実の兄万三郎が再興した家であるが、おなじ梅若がかりの芸風を受けつぎつつ、本家とは型や作法などに細かな違いがあるとされる[要出典]。
- 片山九郎右衛門家
- 幕末まで禁裏御用を勤め、京観世の中心とされる家。現当主は九世片山九郎右衛門。近年は京舞の井上流と関係が深く、三世以降の井上八千代はいずれも片山九郎右衛門の妻あるいは娘である。また片山九郎右衛門門下の観世流の能楽師と井上流の名取りが結婚している例もある[9]。現在は「片山家能楽・京舞保存財団」を設立運営。職分家。
- 橋岡家
- 橋岡會を主宰。現在の当主は9世となる橋岡久太郎。
能楽師養成の制度 [編集]
観世流シテ方の場合、玄人及びそれに準ずる者の職位として、宗家、分家、職分、準職分、師範、準師範の六段階がある。このうち師範以上が純粋な玄人として能楽協会に登録される。
宗家、分家(観世銕之亟家)は完全な世襲制である。職分・準職分についてもほぼそれを世襲する家(上記の観世喜之家、片山九郎右衛門家、両梅若家など流内の名家が職分家、それ以外で能を家業とする家が準職分家)が決まっている。玄人は通常、修行後に師範もしくは準職分の職位を与えられるが、たとえば職分家の子弟であれば師範からはじまり、時期を経て職分・準職分に昇ることになる。また職分家は独自に玄人を養成する特権を持つ。師範・準師範は原則として世襲ではない。
宗家と分家は自ら家の後継者を育成する権限を持つ。職分家の後継者は職分家もしくは宗家・分家などに5年間内弟子として入って修業することとなっている。ただしこの育成課程を終えた後もただちに職分にはなれず、準職分から始まって40歳を越えた後に審査を受け、職分となる。準職分家の子弟は職分家に5年間内弟子に入り、師匠から宗家への推薦を得て玄人となる。師範の場合は内弟子に入る必要はない。[10]
小鼓方 [編集]
小鼓方観世流(一名・観世新九郎流)は観世座座付の小鼓方。
観世信光の孫・観世彦左衛門豊次(1525年〜1585年)が宮増弥左衛門親賢(1482年〜1556年)の弟子となって流儀を興した。宮増は大和猿楽の各座で鼓方を担当していた一族で、流儀の伝承では、初世宮増信朝、二世美濃権守吉久を加上し、親賢を流儀の三世、豊次を四世として扱っている。
代々「新九郎」を名乗り、江戸時代は観世座小鼓方筆頭として活躍したが、十四世新九郎豊成の没後、子の豊好が家芸を継がず、一時家元を預かった門弟湯浅平次(十五世)も早くに没し、家元が空位となる。維新後、姓を「宮増」に改めた家元家に石浦通宏(十六世)が養子入りして再興し、子の宮増純三(十七世・当代)が後を襲った。近年、家元家ではふたたび姓を「観世」に服し、純三が「観世豊純」を、子の新一郎が「新九郎」を名乗っている。近年の名手としては、宮増純三の実兄・敷村鉄男が名高い。
能楽協会に登録された役者は、2006年の時点で4人。全員が東京在で、流勢はかならずしも盛んではない。ただし三ツ地の五拍目の掛け声を欠き、甲の音を多用するなど、譜の面で独自色のつよい流儀である。
大鼓方 [編集]
大鼓方観世流(旧名・宝生錬三郎派)は初め観世流座付、後に宝生座座付の大鼓方。
流祖は小鼓方観世流三世・又次郎重次の長男・勝次郎重政(~1631年)。後に小鼓方観世流四世を継いだ弟の新九郎豊勝との「道成寺」共演の記録も残っている。後、二世彦三郎元貞、三世庄次郎一貞と続くが、一貞に後継がなく一度中断した。
1683年、宝生流を好んだ徳川綱吉に小鼓方観世流六世・新九郎豊重が宝生大夫相手の道成寺を断り、追放される事件が起こった。翌年、宝生座付として復帰したが、その際、姓も宝生と改めさせられた。その後、観世流小鼓と合う大鼓が宝生座にいなかったためか、1694年、豊重の三男・弥三郎重堅が宝生座大鼓方として新規に召抱えられ、宝生姓で観世流大鼓が復活した。
後に観世流小鼓家は観世座に復帰が許され、姓も観世に戻したが、大鼓家は宝生座にとどまり、以後幕末まで宝生姓であった。流勢はあまりふるわず、維新時の家元・八世錬三郎恭寛は維新後の動静が分からない。豊後竹田出身の加藤八百作(~1919年)がその芸系を継承したが、その後継である守家金十郎父子のみが、昭和に活動した玄人であった。
戦後は「大鼓方宝生錬三郎派」とされてきたが、守家金十郎らの運動により、1986年に本来の流儀名である観世流として認められた。現在は金十郎の孫・守家由訓が宗家代理をつとめる。能楽協会に登録された役者は2009年の時点で2人。
太鼓方 [編集]
太鼓方観世流(一名・観世左吉流)は観世座座付の太鼓方。
シテ方観世流三世音阿弥の子・観世与四郎吉国(1440年〜1493年)が、金春流太鼓方の流祖金春豊氏の弟子となって流儀を興した。その後、芸系は二世檜垣本吉久、三世檜垣本国忠を経て、名手・四世似我与左衛門国広(?〜1580年)が相続し、各種の伝書を残すなど大いに活躍した。
五世与五郎急逝の後は、師家金春重家が家元を預かり(六世)、その長男・左吉重次(七世)が養子入して流儀を再興した。重次は当時名手として有名で、それまで弟子に持たせて打っていた太鼓を置くための台(左吉台と呼ばれる)を考案するなど、太鼓技法に多くの改良を加えた[要出典]。江戸時代は観世座の座付として過ごし、代々名人を輩出したが、特に十五世観世元規は明治期を代表する太鼓方として名高い[要出典]。
現家元は十六世観世元信。東京を主たる地盤にし、能楽協会に登録された役者は、2006年の時点で16人。金春流に比べると、撥の扱いが直線的で、手組も地味であり、古風を存すると言われる[誰?]。
所属の能楽師数 [編集]
2005年の能楽協会名簿における観世流所属の能楽師の数は以下の通り。
京舞井上流との関係 [編集]
観世流は京舞井上流と関係が深く、片山九郎右衛門家や観世銕之丞家が歴代の井上八千代と縁戚関係にある(詳細は井上八千代の項を参照のこと)。