昔の暮らし学校 -吹田市立博物館 - 教材 / 参加すると思い出すことば「目が潰れる わかる人」
9時30分 集合 大阪 吹田市 江坂 豊津第2小学校北 参加者15名 いい汗かきました。
3000人の子どもたちの手にかかり、脱穀して くくれるのが楽しみです。
脱穀粒粒辛苦 (りゅうりゅうしんく)
乾燥させた稲の穂先から籾を落とす作業が脱穀 (だっこく) です。稲扱き (いねこき) とも言います。「丁寧」と「能率」という矛盾する二つの要求を満たすために、さまざまな工夫がこらされてきました。
近世前期には竹製の扱き箸 (こきはし) が使われていました。竹を箸のようにした道具で、一日に扱く籾の量は男性が12束、女性が9束ぐらいだったそうです。
千歯扱きは元禄年間に発明された画期的な農具です。最初は麦を脱穀するための竹製の歯でしたが、やがて鉄の扱き歯に改良され、稲の脱穀用として普及しました。鉄の歯の隙間に稲の穂先を入れて、引き抜くと籾だけが落ちます。籾が付いたままの小さな穂先が多く出るので、さらに唐棹 (からさお) で何度も叩いて籾を分離します。粒々辛苦と言って、一粒一粒が苦労して育てたものです。一粒も無駄にはしません。
その後、足踏脱穀機、動力脱穀機と発達します。1時間当たりの作業能率は千歯扱きで約45把、足踏脱穀機で約250把~300把、動力脱穀機では600把以上と伝えられています。
伝統農具の紹介
約7cmぐらいの2本の竹の管を藁などでつないだものです。右手に二本の管を握り、短い方に親指、長い方に人差し指をあて、穂を1本ずつ挟んで籾をもぎ取ります。
写真提供:芳賀ライブラリー
木や竹の棹先に取りつけた棒や板を回転させて、麦や稲を打って脱穀します。からさ・くるりとも呼ばれていました。千歯扱きで脱穀しきれなかったものを脱穀します。
長さ58mm・高さ2255mm・奥行き135mm
2本の竹棒の一端を藁などで結び、その間に穂先を挟んで籾を扱き落とします。扱き竹とも言いました。割り竹を用いる場合と丸竹のままの場合があったようです。もう少し長いものを二人で用いる方法があって、大コハシと呼ばれていました。能率は高いがやや荒っぽい方法だったようです。
長さ484mm・高さ36mm・奥行き35mmm
たくさんの歯を並べ、穀物を歯と歯の隙間に挟んで引いて脱穀する農具です。歯が多くあるから千歯扱き、千把扱く事ができるので千把扱きと呼ぶなどの説があります。歯の数は実際は19本、23本、25本で奇数が一般的です。
歯の間隔は、約2~3mmです。江戸時代は歯の断面は長方形でしたが、明治時代には台形となります。その後、半円形、三角形と改良されます。隙間に稲が詰まらないように工夫を重ねました。また、歯の並べ方を湾曲形にして、稲束を扇状に広げ、扱手 (こきて) からそれぞれの歯が等距離となるようにしました。
千歯扱きの産地では釘を生産していた例が多く、鉄歯作りは釘作りの技術が元になったものと考えられています。千歯鍛冶は全国各地を訪れて修理をしました。また、商人と組んで「直しと行商」のスタイルを作りました。こうした行商により日本中の村々に千歯扱きが行き渡るようになりました。大正時代に回転式の足踏脱穀機が出現するまでの約200年間、広く愛用されました。
長さ727mm・高さ655mm・奥行き1055mm
直径約40~60cmの円筒型の扱胴 (こきどう) に逆V字型の針金を付けたもので、踏み板を踏むとクランクによって回転します。稲穂を一把持ち、穂先を扱胴に当てて、回しながら脱穀します。一度にたくさん入れると稲穂がからまり、引き込まれそうになります。その後、全体の型や扱き歯などが改良されて、大正時代に急速に普及しました。稲を当てる位置によって上扱式と下扱式が、扱く人数によって一人扱きと二人扱きがありました。
長さ684mm・高さ660mm・奥行き739mm
農工用石油発動機
足踏み式がやがて石油発動機に変わり、動力脱穀機となりました。石油発動機のプーリーに掛けたベルトで脱穀機を回転させます。扱手は稲穂を両手に持ち、穂先を当てて脱穀します。扱き落とされた後の藁くずは、送風機により選別されます。昭和初期から普及し始め、昭和40年頃まで使用されました。高価なために、共同購入することが多かったようです。
その後の改良により、扱口に供給された扱束は扱室に自動的に送り込まれて脱穀され、空束は機外に放出されるようになりました。さらに、走行装置を付けた自走自脱式に改良され、続いて昭和40年代の初めに刈り取り装置を結合させて、ここに自脱形コンバインの基本型が完成しました。
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