(4)「テクノロジーとアートが育む人のつながり」(実演と解説)
関西大学社会学部教授 与謝野 有紀(社会的信頼システム創生センター長)
関西大学URA 角谷 賢二(シニア研究企画アドバイザー)
↓↑の 現物 8m*27cm 壇上におき 放映 解説 時間なく パラ パラ
拡大されると くっきり さすが 日立!! 毎日放送さんも・・・
「浪花及澱川沿岸名勝図巻」 紙本淡彩 1巻 延亨2年(1745年) 関西大学図書館所蔵
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%B2%A1%E6%98%A5%E5%8D%9C
大岡春卜
大岡春卜(おおおか しゅんぼく、延宝8年(1680年) – 宝暦13年6月19日(1763年7月29日))は、江戸時代中期の大坂で活躍した狩野派の絵師。ライバルとも言える橘守国と共に、近世大坂画壇初期を代表する絵師。法眼位に叙せられる。
諱は愛翼、愛董。春卜をはじめ雀叱、一翁、翠松などの諸号がある。本姓は藤原で、高平春卜と名乗る時期もあった。
経歴[編集]
大坂に生まれる。師は不明だが、狩野派を学んだ。マンネリ化し停滞気味の狩野派をよそに大胆な構図と個性豊かな筆致で作品を画き、高い評価を得た。絵画の普及に努め、『画本手鑑』などの絵手本や画論を、同じ大坂の絵師・橘守国と競うように刊行した。また冊子の挿し絵を得意とし、庶民からも人気を博した。朝廷に厚遇され、享保2年(1717年)頃に法橋[1]、享保20年(1735年)法眼を与えられている。
幼少期の木村蒹葭堂に、画の手ほどきをしたことで知られる。また伊藤若冲は、春教と号していた初期に春卜の絵本から学んでおり、春卜の弟子だったとも言われる。彼ら以外にも多くの門人を育て大岡派の祖となった。最晩年まで健康と体力に恵まれていたらしく、妙心寺霊雲院、同衡梅院、高野山清浄院などに襖絵を描いている。享年84。菩提寺は、大阪天王寺区下寺町の光明寺。墓碑銘には、漢学者・岡白駒による長文の撰文が刻まれており、春卜の伝記をある程度知ることができる。
朝鮮通信使との交歓[編集]
寛延元年(1748年)、春卜は朝鮮通信使の画員 李聖麟(号 蘇斎)と邂逅している。聖麟は将軍との謁見を果たしその帰路に大坂に立ち寄っていたところだった。はじめて春卜にあった聖麟であったが、手を握り膝をなでながらその出会いをおおいに喜んだ。その場には多くの好事家が集っており筆を執りあっての画会となっていた。春卜は野馬、山水、梅、芦雁図などを、聖麟は梅月、福禄寿図などを即興で描き、互いの画を交換して長く保持しあうことを誓い合った。このときを記念して、漢詩、和歌、俳諧などを集めた『桑韓画会家彪集』が翌年に刊行されている。
- 又いつか 何かたのまん こまの人に 逢もよはいも まれのちぎりを 法眼春卜一翁
門弟[編集]
- 江阿弥(大岡春信)
- 大川春川 養子
- 大川春耕斎
- 須賀蘭林斎
作品[編集]
法橋期[編集]
- 「四季草木図」 紙本着彩 1巻 享保14年(1729年) 伊丹市立博物館 所蔵 上島鬼貫賛 伊丹市指定文化財
- 「本興寺障壁画 尼崎市・本興寺所蔵
- 「梅に牧牛図」 紙本金地著色 六曲一双 大阪天満宮所蔵
- 「四季風俗図」 紙本著色 六曲一双 大阪市立美術館所蔵
法眼期[編集]
時期不明[編集]
刊行物[編集]
- 『和漢名筆 画本手鑑』全6巻 享保5年(1720年)
- 『画巧潜覧』全6巻 1740年
- 『明朝紫硯』1746年
- 『画史会要』1750年
- 『新刻画品』1761年
関連文献[編集]
脚注[編集]
出典[編集]
- 財団法人柿衞文庫 伊丹市立美術館編集・発行 『鬼貫と春卜』展図録、1996年4月
- 李元植 『朝鮮通信使の研究』 思文閣出版、1997年、316-318頁 ISBN 4784208631。
- 中村真一郎 『木村蒹葭堂のサロン』 新潮社、2000年、42-52頁 ISBN 4103155213。
- 田中敏雄 「大岡春卜筆「秋色山水図」について」(PDF)『芸術』 33号、大阪芸術大学、2010年12月、pp.69-76(後に『近世日本絵画の研究』(作品社、2013年3月)に収録、pp.456-467。ISBN 978-4-86182-412-8)。
関連項目[編集]
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