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月岡芳年「新形三十六怪撰・皿やしき於菊乃霊」(1890)
皿屋敷(さらやしき)は、お菊という女性の亡霊が皿を数える怪談話の総称。
播州(現・兵庫県)姫路市が舞台の『播州皿屋敷』(ばんしゅう-)、江戸番町が舞台の『番町皿屋敷』(ばんちょう-、ばんまち-)が広く知られる。他に北は岩手県滝沢村・江刺市、南は鹿児島県南さつま市まで[1]日本各地において類似の話が残っている。
江戸時代にはこれらの話が浄瑠璃・歌舞伎の題材とされている。
皿屋敷の基本形 [編集]
江戸時代に書かれた皿屋敷関連の著作を総合すると、その基本形は以下のようなものである[2]。
- ある奉公娘が主人の秘蔵するひとそろいの皿のうち一枚を割ってしまう。あるいは、その娘に恨みを持つ何者かによって皿を隠される。
- 娘はその責任を問われて責め殺されるか、あるいは自ら命を絶つ。
- 夜になると娘の亡霊が現れ、皿を数える。
- 娘の祟りによって主家にいろいろな災いが起こり、衰亡してゆく。
皿屋敷伝説の発生 [編集]
皿屋敷の伝説がいつ、どこで発生したのか、江戸時代より多くの文筆家が「どこであるとも確定しがたい」としている。中山太郎は播州ではないと断言している[3]。一方橋本政次は『姫路城史』において太田垣家に起こった事件が原点ではないかとする。これは播磨国永良荘(現・兵庫県市川町)の永良竹叟が記した『竹叟夜話』(1577年(天正5年))にある事件で、以下のようなものである。
- 嘉吉の乱の後、小田垣主馬助[4]という山名家の家老が播磨国青山(現・姫路市青山)の館代をしていた頃、花野という脇妾を寵愛していた。ここに出入りしていた笠寺新右衛門という若い郷士が花野に恋文を送り続けていたが拒絶され続けていた。
- ある時、小田垣が山名家から拝領していた鮑貝の五つ杯の一つが見あたらないことに気づき、花野に問いただしてもただ不思議なことと答えるだけ、怒った彼は杯を返せと彼女を責め立てた。
- 実は笠寺がその一個を密かに隠していたのだが、彼は意趣返しに「杯が見つからなければ小田垣家も滅びる」と脅しながら花野を折檻し、ついには松の木にくくり上げて殺してしまった。その後、花野の怨念が毎夜仇をなしたという。やがてこの松は「首くくりの松」と呼ばれるようになった。
小田垣という名前は太田垣の名をはばかってのものと思われる。太田垣が山名持豊によって青山に配されたのは1441年(嘉吉元年)、その後1443年(嘉吉3年)には赤松教祐・則尚に攻められ但馬竹田城に逃れている。2年という短い期間であったが、妾を囲って政務に不熱心であったという。
この事件より130年の後に記された『竹叟夜話』ではあるが、これには以下で述べるような「播州皿屋敷実録」に相当するようなエピソードは記されていない[5]。
播州皿屋敷 [編集]
播州における皿屋敷伝説を代表するものとして『播州皿屋敷実録』が挙げられる。この筆者は明らかではない。
- 永正年間(つまり現在の姫路城が出来る前)、姫路城第9代城主小寺則職の家臣青山鉄山が主家乗っ取りを企てていたが、これを衣笠元信なる忠臣が察知、自分の妾だったお菊という女性を鉄山の家の女中にし鉄山の計略を探らせた。そして、元信は、青山が増位山の花見の席で則職を毒殺しようとしていることを突き止め、その花見の席に切り込み、則職を救出、家島に隠れさせ再起を図る。
- 乗っ取りに失敗した鉄山は家中に密告者がいたとにらみ、家来の町坪弾四朗に調査するように命令した。程なく弾四朗は密告者がお菊であったことを突き止めた。そこで、以前からお菊のことが好きだった弾四朗は妾になれと言い寄った。しかし、お菊は拒否した。その態度に立腹した弾四朗は、お菊が管理を委任されていた10枚揃えないと意味のない家宝の毒消しの皿のうちの一枚をわざと隠してお菊にその因縁を付け、とうとう責め殺して古井戸に死体を捨てた。
- 以来その井戸から夜な夜なお菊が皿を数える声が聞こえたという。
- やがて衣笠元信達小寺の家臣によって鉄山一味は討たれ、姫路城は無事、則職の元に返った。その後、則職はお菊の事を聞き、その死を哀れみ、十二所神社の中にお菊を「お菊大明神」として祀ったと言い伝えられている。その後300年程経って城下に奇妙な形をした虫が大量発生し、人々はお菊が虫になって帰ってきたと言っていたといわれる。
バリエーションとして以下のような物もある。
- お菊は衣笠元信なる忠臣の妾で、鉄山を討ったのは衣笠であったというもの。
- お菊は船瀬三平なる忠臣の妻で、お菊の呪いが鉄山を滅ぼしたというもの。
- お菊の最後の姿に似た「お菊虫」なる怪物によって鉄山が殺されたというもの。
これは小寺・青山の対立という史実を元に脚色された物と考えられている。しかし登場人物の没年や続柄などにおいて史実との矛盾が多く、『姫路城史』では好事家の戯作であると指摘している。
他にも、播州佐用郡の春名忠成による『西播怪談実記』(1754年(宝暦4年))や姫路同心町の福本勇次(村翁)編纂の『村翁夜話集』(天明年間)などに同様の話が記されている[5]。
姫路城の本丸下、「上山里」と呼ばれる一角に「お菊井戸」と呼ばれる井戸が現存する。
お菊虫の元になったのは1795年に大量発生したジャコウアゲハのサナギではないかと考えられている。サナギの外見が女性が後ろ手に縛り上げられた姿を連想させることによる。このことと、最初の姫路藩主池田氏の家紋が平家由来の揚羽蝶であることとにちなんで、姫路市では1989年にジャコウアゲハを市蝶として定めた[6][7]。また十二所神社では戦前に「お菊虫」と称してジャコウアゲハのサナギを箱に収めて土産物として売っていたことがあり、志賀直哉の『暗夜行路』にも主人公がお菊虫を買い求めるくだりがある。
番町皿屋敷 [編集]
江戸の「皿屋敷」ものとして最も人口に膾炙している[8]のが1758年(宝暦8年)の講釈士・馬場文耕の『皿屋敷弁疑録』が元となった『番町皿屋敷』である。
- 牛込御門内五番町にかつて「吉田屋敷」と呼ばれる屋敷があり、これが赤坂に移転して空き地になった跡に千姫の御殿が造られたという。それも空き地になった後、その一角に火付盗賊改・青山播磨守主膳の屋敷があった。ここに菊という下女が奉公していた。承応二年(1653年)正月二日、菊は主膳が大事にしていた皿十枚のうち1枚を割ってしまった。怒った奥方は菊を責めるが、主膳はそれでは手ぬるいと皿一枚の代わりにと菊の中指を切り落とし、手打ちにするといって一室に監禁してしまう。菊は縄付きのまま部屋を抜け出して裏の古井戸に身を投げた。まもなく夜ごとに井戸の底から「一つ……二つ……」と皿を数える女の声が屋敷中に響き渡り、身の毛もよだつ恐ろしさであった。やがて奥方の産んだ子供には右の中指が無かった。やがてこの事件は公儀の耳にも入り、主膳は所領を没収された。
- その後もなお屋敷内で皿数えの声が続くというので、公儀は小石川伝通院の了誉上人に鎮魂の読経を依頼した。ある夜、上人が読経しているところに皿を数える声が「八つ……九つ……」、そこですかさず上人は「十」と付け加えると、菊の亡霊は「あらうれしや」と言って消え失せたという。
しかしこの話、まず了誉上人は実在の人物ではあるものの1420年(応永27年)に没した人物、火付盗賊改が創設されたのは1662年(寛文2年)、千姫が姫路城主・本多忠刻と死別した後に移り住んだのは五番町から北東に離れた竹橋御殿、などと矛盾やこじつけがあまりに多い。しかしその筋立てのおもしろさ故か、「青山主膳とお菊の番町皿屋敷」というイメージが他でも取り入れられるようになった。
東京都内にはお菊の墓というものがいくつか見られる。現在東海道本線平塚駅近くにもお菊塚と刻まれた自然石の石碑がある。元々ここに彼女の墓が有ったが、戦後近隣の晴雲寺内に移動したという。これは「元文6年(1741年)、平塚宿の宿役人眞壁源右衛門の娘・菊が、奉公先の旗本青山主膳の屋敷で家宝の皿の紛失事件から手打ちにされ、長持に詰められて平塚に返されたのを弔ったもの」だという。[9]
尼崎のお菊伝説 [編集]
青山播磨守の家臣・喜多玄蕃の屋敷に奉公していたお菊が、食事の中に針が混じっていたことを理由に折檻され井戸へ投げ込まれた。その後お菊の最後の姿に似た虫が大量に現れ、玄蕃の家を呪い滅ぼしたという。
戯曲『番町皿屋敷』 [編集]
岡本綺堂による1916年(大正5年)作の戯曲。怪談ではなく悲恋物語の形を取る。
旗本青山播磨と腰元は相思相愛の仲であったが身分の違いから叶わない。やがて播磨に縁談が持ち込まれる。彼の愛情を試そうとしたお菊は青山家の家宝の皿を一枚割るが、播磨はお菊を不問に付す。ところが周りの者が、お菊がわざと皿を割った瞬間を目撃していた。これを知った播磨は、自分がそんなに信じられないのかと激怒、お菊を斬ってしまう。そして播磨の心が荒れるのに合わせるかのように、青山家もまた荒れ果ててゆくのだった。
1963年(昭和38年)に大映で市川雷蔵、藤由紀子主演で『手討』が製作された。ただしすぐお菊の後を追う形で、青山播磨も切腹に向かう所で終わる、より悲恋物語の性格が強い作品である。ビデオ、DVDになっている。
落語の『皿屋敷』 [編集]
落語の中に皿屋敷を題材にした話がある。題名は『お菊の皿』、またはそのままの『皿屋敷』。
町内の若者達が番町皿屋敷へお菊の幽霊見物に出かける。出かける前に隠居からお菊の皿を数える声を九枚まで聞くと死んでしまうから六枚ぐらいで逃げ出せと教えられる。若者達は隠居の教えを守り、六枚まで聞いたところで皿屋敷から逃げ出してきたが、お菊があまりにもいい女だったので若者達は翌日も懲りずに皿屋敷へ出かけていく。数日もすると人々に噂が伝わり、見物人は百人にまで膨れ上がった。 それだけ人が増えると六枚目で逃げるにも逃げられず、九枚まで数える声をまで聞いてしまう。しかし聞いた者は死なず、よく聞くとお菊が九枚以降も皿を数え続けている。お菊は十八枚まで数えると「これでおしまい」と言って井戸の中に入ろうとするので見物人の一人が「お菊の皿は九枚と決まっているだろう。何故十八枚も数えるんだ」と訊くと、お菊は「明日はお休みだから明日の分まで数えた」。
より古典的なところでは、旅の僧がお菊に「なんまいだー」と唱えると、お菊が「どう勘定しても、九枚でございます」と返す、という駄洒落落ちのものもある[10]。
脚注 [編集]
- ^ 「皿屋敷伝説分布図」『日本の皿屋敷伝説』pp.26 - 27。ここでは南さつま市は合併前の坊津町として記されている。
- ^ 『日本の皿屋敷伝説』p.22。
- ^ 中山『紅皿塚から皿屋敷へ』、1933年。
- ^ 『姫路城史』では太田垣主殿佐、『播磨鏡』では大田垣主殿佐。(『日本の皿屋敷伝説』p.111)
- ^ a b 「播州姫路の皿屋敷伝説」『日本の皿屋敷伝説』pp.100 - 115。
- ^ 『ジャコウアゲハ(お菊虫)と播州皿屋敷の民俗文化誌』p.24。
- ^ 姫路市ホームページ「姫路市 | 姫路の雑学」。
- ^ 『日本の皿屋敷伝説』、p.87。
- ^ 「江戸の皿屋敷伝説」『日本の皿屋敷伝説』pp.81 - 94。
- ^ 『古典落語大系 第八巻』p.153。
出典・参考文献 [編集]
- 江國滋ほか(編)「皿屋敷」『古典落語大系 第八巻 上方編』三一書房、1989年、pp.145 - 153。
- 伊藤篤『日本の皿屋敷伝説』海鳥社、2001年。ISBN 4-87415-402-6。
- 相坂耕作(著)、赤松の郷昆虫文化館(編)『ジャコウアゲハ(お菊虫)と播州皿屋敷の民俗文化誌』姫路市[市蝶]制定20周年記念、姫路城下町街づくり協議会、2009年。
外部リンク [編集]
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『ローマの休日』(ローマのきゅうじつ、原題:英: Roman Holiday)は、1953年製作のアメリカ映画。
1953年度のアカデミー賞において、主役の新人オードリー・ヘプバーンがアカデミー最優秀主演女優賞を、脚本のイアン・マクレラン・ハンターが最優秀脚本賞を、衣装のイデス・ヘッドが最優秀衣裳デザイン賞をそれぞれ受賞した。
アカデミー賞選考委員会は1993年にドルトン・トランボへ最優秀脚本賞を贈呈しているが、本人が亡くなっていたため未亡人が代わりに受賞した。
評価 [編集]
監督のワイラーと脚本のトランボは男女の出会いと別れという月並みなテーマを、フレームに映る全ての事実の積み上げと互いの細かい感情のやり取りから普遍的なお伽話にまで昇華させた。
原題の"Roman Holiday"とは、ローマ帝国時代、一般の休日に奴隷の剣闘士を戦わせる見世物を市民たちが楽しんだことから「他人を苦しめ楽しむ」[2]「面白いスキャンダル」といった意味がある。したがって、設定そのものを表すのと併せてダブル・ミーニングとなっているとする説がある[3]。
1987年にはアメリカでリメイク版のTV映画『新・ローマの休日』がキャサリン・オクセンバーグをヒロインにして公開された。日本でも映画製作50周年を記念した2003年にデジタル・ニューマスター版のスペシャルDVDが販売され、生命保険会社のテレビCMでも放送された。
製作背景 [編集]
1950年代初期、アメリカ本国では「赤狩り」と呼ばれる共産主義者排斥運動が行われた。映画産業はハリウッド・テンと呼ばれた人物たちがパージされ、本作の脚本家であるダルトン・トランボもその一人だった。このため友人の脚本家イアン・ハンター名儀で参加をしていた(映画製作50周年を記念したデジタル・ニューマスター版(2003年)ではトランボの名前がクレジットされた)。
そのため当時のアメリカの俳優や監督は、国内の監視を逃れて外国での撮影を好む傾向があった。人件費が安く済む点ヨーロッパの文化はアメリカの観客も受容しやすかった点なども海外ロケの要因にある。イタリア側も映画産業に対し協力的であった。これは観光産業が目的で、本作で紹介される名所はスペイン広場、パンテオン、コロッセオ、真実の口など枚挙に暇がない。またヨーロッパの工業製品としてスクーターのベスパ、小型車のフィアットを登場させている。
何より大きな影響を持ったのは、ファッションモードが世界へ発信された点にある。繊維産業により外貨を稼ぎたかった欧米のメッセージは大きな反響を呼び、ヘプバーンも「ヘプバーンと言えばジバンシィ」とされるほど、映画のみならずファッション革命のヒロインに成長していく。日本でもヘプバーン・サンダルなどの名前が残っている。
製作途中にはテロが頻繁に起こっていた。また撮影中のローマは猛暑であったため、メイクが流れ落ち、頻繁にメイクアップをしていた。
ストーリー [編集]
王女と新聞記者との切ない1日の恋を描いている。トレビの泉や真実の口など、永遠の都・ローマの名だたる観光スポットを登場させていることでも有名である。
- あらすじ
- ヨーロッパきっての古い歴史と伝統を持つ某国の王女アンは、ヨーロッパ各国を表敬訪問中である。最後の滞在国であるイタリアのローマで、過密なスケジュール、疲労感と自由のない生活への不満により、ついにアンはヒステリーを起こしてしまう。その夜、密かに城を抜けだした王女は、直前に打たれていた鎮静剤のせいで無防備にも路傍のベンチでうとうとしはじめる。そこに通りかかったのが、アメリカ人新聞記者のジョー・ブラッドレーだった。見かねて介抱するうち、いつの間にか王女はジョーのアパートまでついて来てしまう。
- 翌朝になって彼女の素性に気づいたジョーは、王女の秘密のローマ体験という大スクープをモノにしようと、職業を偽り、友人のカメラマンであるアーヴィングの助けを得て、どうにか王女を連れ歩くことに成功する。アンはまず美容院で髪の毛を短くし、スペイン広場でジェラートを食べ、ジョーとベスパに二人乗りしてローマ市内を廻り、真実の口を訪れ、サンタンジェロ城前のテヴェレ川でのダンスパーティーに参加して…。その様子をアーヴィングが次々にスクープ写真を撮っていくうち、永遠の都・ローマで自由と休日を活き活きと満喫するアン王女とジョーの距離は次第に近づいていくのだった。
キャスト [編集]
オードリー・ヘプバーン「ローマの休日」(1953)
- 日本語吹き替え版
この他、アン王女:池田昌子、ジョー・ブラッドレー:城達也、アーヴィング:村越伊知郎のバージョンもある(放送年・放送局は不明確)。
オードリーの起用 [編集]
「ローマの休日」 (1953)に際し、スクリーンテストを受けるオードリー
最初にヒロイン候補に挙がっていたのはエリザベス・テイラーであった。しかし、監督のフランク・キャプラが高額の製作費を要求したため、スタジオはキャプラを降板させ、代わりにウィリアム・ワイラーに白羽の矢が立った。ワイラーは主役を自由にキャスティングできることを条件に、監督を引き受けた。当時、オードリー・ヘプバーンは映画界では無名に近い存在で、体型も女優としては痩せすぎと思われたが、丁度、ブロードウェイで上演されていた『ジジ』の主役を務めており、その演技を見たワイラーがヒロインに抜擢することを決めた。グレゴリー・ペックも彼女の才能を認め、新人であるにもかかわらず自分と同等のクレジットを与えることに同意した。
ペックとワイラーは新人ヘプバーンの女優としての力量を引き出すために腐心した。真実の口のシーンの撮影では、二人は一計を案じ、本番で真実の口に手を突っ込んだペックは、本当に手を噛みちぎられたように演じた。ヘプバーンは驚きのあまり、本気で叫び声を上げ、素のリアクションを見せた。この自然な演技は、二人を十分満足させるものであり、1テイクでOKがでた。
映画に登場した名所 [編集]
バルベリーニ宮殿
(クアットロ・ファンターネ通りに面した門)
著作権問題 [編集]
本作は作品中(オープニングタイトル、エンドロールなど)に著作権表記がなかったため、公開当時のアメリカ合衆国の法律(方式主義)により権利放棄とみなされ、パブリックドメインとなった(シャレードと同じ理由。このため、ウィキコモンズに高解像度のスクリーンショットが収録されている)。また日本においては、1953年の作品は2003年(平成15年)をもって著作権の保護期間が終了したものと考えられたことから、2004年(平成16年)以降、幾つかの会社から格安DVDとしてリリースされた。パラマウント社は日本では著作権が存続しているとして販売差し止めと損害賠償を求めて争っていたが、2007年(平成19年)12月18日、最高裁により著作権は消滅しているとの確定判決が下された。この判決により、今後日本でもこの映画はパブリックドメインとして扱われることになる。詳細は1953年問題を参照。
備考 [編集]
イギリスの女王エリザベス2世の妹マーガレット王女に関して、王女と民間人との恋の主人公として「ローマの休日」公開前に話題となったが、この恋は成就しなかった。そのため「ローマの休日」はこのことをモデルにしたのではと思われているところもあるが、この映画のプロデューサであったパラマウント社のライルズは明確に否定している。ただし、映画のプロモーションとしてこの事件が功を奏したことは否定していない。
関連作品 [編集]
- ドラマ
- 漫画
- 「ローマの休日」水野英子(1963年(昭和38年)発表のコミカライズ作品。祥伝社より単行本発売)
- 舞台作品
- ミュージカル「ローマの休日」初演:1998年10月1日~10月28日・青山劇場ほか、演出:山田和也、アン王女:大地真央 ジョー・ブラッドレー:山口祐一郎ほか
- 演劇「ローマの休日」2010年4月27日~5月9日・天王洲銀河劇場(東京)・2010年5月12日~16日・梅田芸術劇場シアター・ドラマシティ、脚本・演出:マキノノゾミ 脚本:鈴木哲也、ジョー・ブラドリー:吉田栄作 アン王女:朝海ひかる アーヴィング:小倉久寛
- 戯曲
- 楽曲
- 「跳べ模型ヒコーキ」 渡辺美里 (1989年(平成元年)7月1日 - 歌詞の中に「ローマの休日」と出演した女優の「オードリー・ヘプバーン」の名前が出てくる)
脚注 [編集]
- ^ a b c “Roman Holiday (1953) - Box office / business” (英語). IMDb. 2011年5月18日閲覧。
- ^ “千葉大学言語教育センター公開講座「生徒がこんな質問をしてきたら」 (PDF)”. 千葉大学 (2006年8月26日). 2009年7月23日閲覧。
- ^ 呉智英 『ロゴスの名はロゴス』 双葉社、2001年。ISBN 4-575-71199-3。
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
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ウィリアム・ワイラー監督作品
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1920年代
The Crook Buster (1925年) - The Gunless Bad Man (1926年) - Ridin' for Love (1926年) - The Fire Barrier (1926年) - Don't Shoot (1926年) - The Pinnacle Rider (1926年) - Martin of the Mounted (1926年) - 稲妻の男 (1926年) - 戦友のために (1926年) - The Two Fister (1927年) - Kelcy Gets His Man (1927年) - Tenderfoot Courage (1927年) - The Silent Partner (1927年) - 新時代 (1927年) - Shooting Straight (1927年) - Galloping Justice (1927年) - The Haunted Homestead (1927年) - 名馬と名騎士 (1927年) - The Lone Star (1927年) - The Home Trail (1927年) - Gun Justice (1927年) - The Phantom Outlaw (1927年) - The Square Shooter (1927年) - The Horse Trader (1927年) - Daze of the West (1927年) - The Border Cavalier (1927年) - Desert Dust (1927年) - Thunder Riders (1928年) - 君を尋ねて三千里 (1928年) - 仮の塒 (1929年) - 恋のからくり (1929年)
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1930年代
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1940年代
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1950年代
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1960年代
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1970年代
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