【詳報】不発弾処理に成功「安全化宣言」 大阪のキャンパス
大阪城にほど近い、大阪公立大学森之宮キャンパスの建設予定地(大阪市城東区)で見つかった不発弾1個について、自衛隊による撤去作業が6日、始まりました。作業では、半径約300メートル以内を警戒区域として道路を通行止めに。区域内の住民約2200世帯、約3750人に避難を呼びかけます。現地の動きをリアルタイムでお伝えします。
11:05
不発弾処理隊長「スムーズに終了」
現地では陸上自衛隊の生田博和・不発弾処理隊長が報道陣に対し、不発弾から信管を除去した作業手順などについて説明した。
不発弾は米国製2千ポンド普通爆弾(1トン爆弾)で、長さ1・8メートル、直径0・6メートル。現地では、陸自中部方面後方支援隊第103不発弾処理隊(桂駐屯地)の「不発弾処理のスペシャリスト」の4人が作業した。作業開始から完了まで30分程度で終わったことについて、生田隊長は「色んなものと比較してスムーズに終わった」と述べた。理由について、信管が弾頭に一つだけだった点と、信管のついていたねじ山に大きな変形がなかった点を挙げた。
説明後、不発弾はトラックで現場から運び出され、桂駐屯地に向かった。
10:38
対策本部長が「安全化宣言」
不発弾の処理現場に対策本部長が到着。陸上自衛隊の説明を受けて、爆発の恐れがないことを確認したことから、「安全化宣言」を出した。
10:24
「信管除去が成功」現地対策本部に連絡
対策本部に陸上自衛隊から「現地から信管離脱成功の連絡」と報告があった。対策本部長の大東辰起・城東区長らがこれから警戒区域内に向かい、安全を確認する。安全が確認されれば、「安全化宣言」を出し、住民の避難や交通規制を解除する予定だ。
10:05
現地に繰り返し指示 自衛隊
対策本部では、陸上自衛隊の不発弾処理隊長が、現地と連絡をつなぎっぱなしにしながら、「8分の1回転まわせ」、「8分の3回転よし」「信管の状況確認」などと随時指示を出しながら、慎重に作業を進めていた。
09:55
信管除去スタート
現地対策本部の大東辰起本部長(城東区長)は住民避難が完了したとして、不発弾の信管除去を開始すると指示した。
09:40
信管除去まもなく開始
現地対策本部に陸上自衛隊から報告があり、不発弾の弾頭にある信管の除去作業をまもなく開始する。予定では午前10時開始だったが、住民の避難がスムーズにいったため、前倒しになった。昼過ぎごろまでに完了する見込みという。
08:40
周辺の住民ら一時避難所の小学校に
不発弾処理の現場から半径300メートルの警戒区域外の大阪市立中浜小学校に設けられた一時避難所には午前8時40分ごろ、住民ら約10人が避難していた。受付では検温と消毒が行われ、避難した住民らは体育館などで過ごしていた。
飼い猫と避難してきた女性(68)は「こっちに引っ越してきて約25年になるけれど、避難所に来たのは初めて」と話す。区役所からは避難案内のチラシが3回ほど届いたという。「安全に処理されると思うけれど、やっぱり終わるまでは心配ですね」と話した。
一時避難所はこのほかにも、大阪市城東区の市立森之宮小学校にも設けられている。
08:00
現地対策本部を設置 避難呼びかけ
大阪市城東区で見つかった不発弾の処理にあたって、市は処理現場から東に500メートルほど離れた「東部方面管理事務所」に現地対策本部を設置した。本部長は大東辰起・城東区長、副本部長は大阪府警の城東署長と、市消防局の城東消防署長が務める。
現場で不発弾の信管除去に取り組むのは、陸上自衛隊の中部方面後方支援隊第103不発弾処理隊(桂駐屯地)。対策本部には警察や自衛隊、区役所などの関係者ら約50人が集まり、避難計画に基づいて処理隊と連絡を取り始めた。
午前8時ちょうどには、大東本部長が「避難誘導を開始してください」と指示。現場から半径300メートル以内の警戒区域に住む住民への避難の呼びかけがスタートした。
一時避難所が、大阪市城東区の市立森之宮小学校と市立中浜小学校に設けられた。
相次ぐ不発弾の発見 背景には
大阪市によると、不発弾は米国製の1トン爆弾(長さ1・8メートル、直径0・6メートル)。今年9月、金属片などを見つける探査の一環で地下5メートルの場所から発見された。信管が残っており、陸上自衛隊が周りに土囊(どのう)を積んだ上で、信管を取り除いて別の場所に運ぶ予定だ。
現場周辺では不発弾の発見が相次いでいる。
2000年に市住宅供給公社の賃貸住宅建設現場から、10年に市営地下鉄(当時)の森之宮検車場や文化財発掘現場から、不発弾が相次いで見つかった。
原因はこの場所にかつて「東洋一の兵器工場」といわれた陸軍の「大阪砲兵工廠(こうしょう)」があり、戦時中は米軍の空襲の標的となったからだ。今回の不発弾も太平洋戦争中に米軍が投下したものとみられている。
大阪砲兵工廠は1870(明治3)年にできた軍事工場。戦争のたびに規模が大きくなり、高射砲や戦車砲の開発・生産拠点だった。太平洋戦争末期には約200の施設があり、6万人が作業に従事したとされる。
「大阪国際平和センター」(ピースおおさか)によると、終戦直前の1945年8月14日には、約140機の米軍の爆撃機B29などが大阪砲兵工廠を主な標的とし、約700トンの爆弾を投下したという。
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