新芦屋古墳~被葬者の謎にせまる~ |
※新型コロナウイルス感染拡大防止のため、展示およびイベントを中止します。 会期/令和3年(2021年)4月24日(土曜)~5月30日(日曜) 開館時間/9時30分~17時15分 休館日/5月3日を除く月曜日、4月30日(金)、5月6日(木) 観覧料/ 大人200 円(160円)・高大生100 円(80円)・小中生50円(40円)。( )内は20名以上の団体割引料金。市内在住の65歳以上100 円。毎週土曜日は、市内の小中学生は無料(土曜日以外も「ぐるっとすいたカード」をもってくると無料) 展示主旨/ 新芦屋古墳は吹田市新芦屋上に所在する、7世紀初頭に築造された横穴式木室をもつ方墳です。この古墳は、昭和53年(1978年)に調査がおこなわれました。墳丘は失われていたものの、発掘調査により埋葬主体部が横穴式木室であることや、馬具一式が出土するなど、古墳の被葬者についてうかがい知ることができる貴重な資料がみつかりました。 また、横穴式木室という木でつくられた埋葬施設をもつ古墳は、全国でも類例は少なく、さらに、木室の埋葬施設に石棺を用いるのは新芦屋古墳の例、ただ1つとなります。 この少し変わった新芦屋古墳には、どのような人物が葬られたのでしょうか。新芦屋古墳出土資料を中心に北摂に分布する横穴式木室を紹介し、古墳に埋葬された被葬者について探ってみたいと思います。 ※新芦屋古墳展のバーチャル特別展示室も中止いたします。 交通案内 ●JR岸辺駅下車徒歩20分 ●JR吹田北口から 千里中央ゆきバス4系統「紫金山公園前」下車徒歩5分 ●JR吹田駅・阪急吹田駅から 千里中央ゆきバス4系統「紫金山公園前」下車徒歩5分 五月が丘南ゆきバス(循環)「五月が丘西」下車徒歩7分 桃山台駅前ゆきバス2、3系統「佐井寺北」下車徒歩10分 千里中央ゆきバス12系統「岸部」下車徒歩10分 ●北大阪急行千里中央駅・阪急山田駅から JR吹田ゆきバス4系統「紫金山公園前」下車徒歩5分 JR吹田ゆきバス12系統「岸部」下車徒歩10分 |
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新芦屋古墳
新芦屋古墳 | |
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説明板付近 |
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所在地 | 大阪府吹田市新芦屋上 |
位置 | 北緯34度48分6.43秒 東経135度33分5.18秒座標: 北緯34度48分6.43秒 東経135度33分5.18秒 |
形状 | 方墳 |
規模 | 一辺20m |
埋葬施設 | 横穴式木芯粘土室(横穴式木室) (内部に組合式家形石棺) |
出土品 | 馬具ほか副葬品多数 |
築造時期 | 7世紀前半 |
史跡 | なし |
有形文化財 | 馬具(大阪府指定文化財) |
特記事項 | 墳丘は非現存 |
地図 |
新芦屋古墳(しんあしやこふん)は、大阪府吹田市新芦屋上にあった古墳。形状は方墳。出土馬具は大阪府指定有形文化財に指定されている。現在では墳丘は失われている。
概要[編集]
大阪府北部、千里丘陵の南東縁に築造された古墳である。1978年(昭和53年)の宅地造成中に発見され、吹田市教育委員会により緊急発掘調査が実施されている[1]。
墳形は方形で、一辺約20メートルを測った[1]。主体部の埋葬施設は横穴式木芯粘土室(横穴式木室)で、内部に組合式家形石棺を据えた[2][3][1][4]。こうした埋葬施設は焼成を受ける例が知られるが、本古墳の場合に焼成は認められていない[2]。石棺の内外では、人骨のほか、副葬品として馬具一式のほか金環・銀環・鉄刀・玉類・須恵器・土師器が検出されている[1]。石棺前には須恵器等が2箇所に分かれて整然と置かれ葬送儀礼を示唆するほか、馬具は鉄地金銅張の豪華なものである点で注目される[1]。
この新芦屋古墳は、古墳時代終末期の7世紀前半頃の築造と推定される[1]。謎の多い横穴式木室を埋葬施設とする点で珍しく(木室墳は全国で約50基のみが知られる[4])、加えて内部に石棺を納める点では全国で唯一の例であるとして重要な古墳である[2][1]。また同種の木室墳には須恵器窯跡群との関連を指摘する説があるが、本古墳の場合にも近辺の窯跡群との関連が認められる[2]。
出土馬具は1991年(平成3年)に大阪府指定有形文化財に指定されている[5]。
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埋葬施設(復元)
吹田市立博物館展示。
1999年秋
このホームページの 青字 の部分の解説は、全て吹田市博物館発行の、「常設展示図説」「博物館だより」および、 その他の配布資料に基づいています。「話言葉」の表現のみ変えて、内容はそっくりそのまま転載しています。
ビデオによる遺跡・文化財紹介 於:吹田市博物館(一部)
吹田市博物館
我が家から博物館へは歩いて5,6分だ。名神高速の下を抜けて池の側を歩いていく。
下の写真左右は1ケ月ほどの期間がある。博物館の前の坂を上って吉志部神社の方へ向かう途中にある大きな木。今年は秋も短かった。
博物館でもらえる「吹田市文化財MAP」。映画のポスターくらいの大きさなので持って歩くわけにはいかない。
吹田は、律令国家になってからの都造りに用いた瓦類を焼いた窯跡が多く残っているが、博物館にはその窯跡が二つ復元してある。
垂水遺跡
紀元前4世紀に始まる弥生時代は、本格的な稲作農耕と金属器使用の時代として捉えられる。吹田では弥生時代の遺跡は、現在の所
10ケ所が知られている。そのうち垂水神社の背後の丘陵上に位置する大規模な集落遺跡の垂水遺跡は、標高約55mにある「高地性集落」
で、弥生中期・後期の土器が多数出土している。
また銅鐸はムラでの祭祀に使われたと考えられ、近畿地方を中心に九州から東海に到る範囲に分布し、全国で400点以上出土している。
山田銅鐸は、淀川流域の銅鐸製造拠点集落と見られる茨木市東奈良遺跡の西の谷を入った丘陵斜面から出土しており、その関係が注目
されている。
<山田銅鐸> 弥生時代中期の外縁鈕式に分類される四区袈裟襷紋銅鐸で、全長45.6cm。銅身は帯状の格子紋で飾られ、鰭(ひれ)
には3対の耳が付いている。
新芦屋古墳
新芦屋上所在の新芦屋古墳は、一辺が約20mの方墳と推定され、出土遺物から7世紀前半に構築されたと考えられる。この古墳は、通常
見られる石室墳ではなく、全国的にも珍しい木室を主体部とした「木室墳」であり、そのなかでも、石棺をもつ唯一の古墳である。
石棺は凝灰岩製の組み合わせ式家型石棺で、横口式と推定される。さらに、棺の埋納状態を見ると、側部に多数の須恵器と鉄地金銅張
馬具を副葬したのち、棺を粘土で覆い、丸太を垂木状に置いた、特異なものである。
鉄地金銅張馬具は、石棺を覆っていた粘土内から良好な状態で出土した。鞍金具・十文字楕円形鏡板付轡(くつわ)・三葉紋楕円形
杏葉・六脚付雲珠・辻金具などがあり、鐙(あぶみ)以外の一式が揃っていた。
五反島遺跡
五反島遺跡は吹田市の南下水処理場の建設にともなって発掘・調査された。神崎川の古代堤防の跡が残っていた。 神崎川は、古代から幾時代にも渡って人々の生活の跡を残している。出土品の一部はどういうわけだか、この下水処理場(地下鉄 江坂駅)の一室に展示してある。 南吹田5丁目の神崎川右岸に位置する五反島遺跡は、弥生時代から室町時代にかけての複合遺跡で、南吹田下水処理場の拡張工事に ともない、昭和61年に大規模な発掘調査が行われた。そのうち、古墳時代の遺構には、幅約10mの河道とその南側の平坦な生活面があ り、土師器の甕や壺、高杯などの遺物が多数出土している。住居跡は確認されなかったが、5世紀を中心に河岸に集落が栄え、6世 紀から7世紀まで縮小されながらも存在したようである。出土土器の中には韓式土器も多くみられ、北から河内平野に入る門戸とな っていたこの地域が、朝鮮半島との交流の地でもあった事がうかがえる。
五反島遺跡では平安時代初期に再び遺物の出土量が増し、土師器・須恵器・施釉陶器・黒色陶器・土製竈などの土器類のほか、鉄鏃
・鎌・刀子・馬具・銅製の唐鏡(瑞花鳳凰麒麟狡猊紋鏡:下左)も出土した。これらの出土品は神祇祭祀に使われる用具に共通する
ものが多く、しかも川に投棄されたように出土していることから、川辺での祭祀に関連する遺物であろうと推定され、この地域性と
時代相からみて「八十嶋祭り」の可能性も想定できる。「延喜式」にはこの祭祀に使用された鏡や鏃・人形・鈴などの用具が記され、
五反島遺跡の祭祀資料にはそれと共通するものがあるのだ。
検出された堤防は、平安時代前期に川の合流地点に築かれた瀬割堤で、鎌倉時代まで機能していた。3列に整然と打った松杭に横木
を組み、枝木などをからめた構造で、杭には丸太杭や面取りをした角杭が使われていた。
吉志部神社
吉志部瓦窯跡
大阪「難波宮」の瓦の多くは、この岸辺(吉志部)で灼かれて運ばれたものである事が判明している。
江坂の五反島遺跡展示室へ向かう途中の道。大阪市内の御堂筋のように銀杏並木が色づいてきれいである。
私はこの道をかってに「吹田街道」とよんでいる。めったにないが、雪でも降れば「吹田街道ぅ、冬景色ぃいい。」
垂水南遺跡
地下鉄江坂駅を降りて東へ5,6分いくとマンションの前にこの看板だけが立っている。遺跡はもうマンションの駐車場の下である。
垂水南遺跡は、垂水町3丁目に展開する弥生時代から鎌倉時代にわたる低地の集落遺跡である。数十次におよぶ発掘調査によって、
古墳時代の住居跡・水田跡・溝、平安時代の水路・溝、鎌倉時代の整然と区画された畦畔などが検出された。特に古墳時代の集落
は、南北600m、東西300mの広い範囲に、竪穴式住居・高床式建物跡・井戸跡・土こう・矢板を持つ水田跡・水路などが展開してお
り、4.5世紀は繁栄した集落だった。垂水南遺跡では、ムラでの生産の様子を示す遺物が大量に出土している。大足・鋤先・機織具
などの木製品、金属器の製作を示す鞴の羽口・坩堝・鉱滓や未完成の玉類はその様子を具体的に示している。出土遺物の中には、
東海・北陸・中国地方、さらには朝鮮半島系の土器もあり、当時の広い交易圏を示している。
邪馬台国大研究・ホームページ /わが町の文化財/吹田市の文化財
コメント
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