朝日新聞 朝刊 下段
しつもん ドラえもん3733
古代(こだい)の日本(にほん)で最大(さいだい)の市場(いちば)とされる「海柘榴市(つばいち)」はどこにあったのかな。
■ 古代とくれば 奈良かな
回答を見ると ▼ 桜井市 そうめんは貰うは あの日 あの時が 読みがえる
つばいち 海 柘 榴 市
海柘榴市は「つばきち」または「つばいち」と読み、奈良県桜井市の三輪山の南西に所在して開かれた古代の市である。『日本書紀』と『万葉集』にいくたびも登場して、大きな政治的事件やあるいは歌垣の舞台となり、古代の市としてはもっともよく知られた名前かもしれない。 ●八十の衢の海柘榴市 万葉集には海柘榴市の歌垣の歌として3首が載る。 海柘榴市の八十の衢に立ち平し結びし紐を解かまく惜しも(2963) 紫は灰さすものぞ海柘榴市の八十の衢に逢へる子や誰れ(3115) たらちねの母が呼ぶ名を申さめど道行く人を誰れと知りてか(3116) 「八十の衢」とは、多数の道が合流した地点をさす。八十の衢である海柘榴市は、物品を交換したり商う市が立ち、男女が出会う歌垣が開かれた他に、さらに刑場となったり、駅家などの役所が置かれ、外国の使節を歓迎する儀式も行われた。 人が集うばかりでなく、言霊や精霊が行き交う非日常的区間であり、祭祀も執り行われたという。このような場所には聖なる樹木が植えられ、地名となった海柘榴もシンボリックな意味が込められたという説もある。 海柘榴市があった所は、大和高原に水源を持つ大和川(初瀬川)が初瀬谷を下って奈良盆地に流れ出る地点である。大和川は、奈良盆地を潤す最大の河川であり、灌漑とともに近世以前には水運にも利用されていた。古代にあっては、大和と河内、摂津を結ぶ重要な交通ルートであり、難波津に上陸した外国の賓客やヤマト政権の要人が河船を利用して三輪山を仰ぐ宮との間を往来しただろう。海柘榴市は難波津の内港として、大和と大陸を結ぶ海のルートの終着点にして起点でもあった。 陸のルートにしても、盆地の南北と東西を貫く基幹街道が十字に交錯する地点であった。7世紀始めの推古朝には河内と明日香を結ぶ直線の大道、横大路が設けられるが、それは海柘榴市を通る東西の街道をなぞるコースであったし、東を向けば初瀬谷を抜けて伊勢、さらに東国へ通じる主要ルートがその延長上にあった。 南北には上つ道となった街道が早くから開かれ、石上や春日などの盆地東部の要地を結び、さらには山城や近江へ至るルートとつながった。南へ向かえば、山田道となって明日香へ入る。その先には巨勢道が伸び、さらに紀ノ川沿いの紀路が続いた。 海柘榴市が正史にいくたびも登場することになったのは、もちろんヤマト政権の王宮が何代にもわたって周辺に置かれたからである。実在が確実視される最初の天皇、崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきのみつかきのみや)は、志紀御県坐神社付近に比定されるので、まさに海柘榴市があった場所である。欽明天皇の磯城嶋金刺宮(しきしまのかなさしのみや)も海柘榴市の所在地に重なる。 |
大和川の川面、対岸は金屋の集落、背後に三輪山が控える。海石榴市があったのはこの付近である。 大和川の堤防に建つ飾り馬のモニュメント。裴世清を迎えた75匹の馬はこのような飾りをつけていたのだろうか。 |
他の天皇では、垂仁と景行が宮を置いた巻向は三輪山の北西であり、海柘榴市とは至近距離である。雄略、仁賢、武烈は初瀬谷に宮を置いた。磐余(いわれ)は桜井市の南西部で香具山の東方の地域とされる。ここには、履中、清寧、継体、用明、舒明が宮を営んだ。崇峻は桜井市南の倉橋に宮を移した。推古以後は明日香が王宮の指定地となるが、明日香から山田道が通じる海柘榴市のにぎわいはそう変わらなかっただろう。 4世紀から7世紀までの400年間、海柘榴市はヤマト政権のお膝元にあって、いわば全国区レベルの市であり、人が集う巷であった。 ●歴史的事件の舞台 『日本書紀』に海柘榴市が登場するのは、5世紀末から7世紀初頭にかけてである。 最初に登場するのは武烈天皇即位前記である。武烈が皇太子であったとき、物部麁鹿火(もののべのあらかひ)の娘影媛に懸想した。遣いをやって求婚すると、影媛は「海柘榴市の巷でお待ちしています」と返答した。武烈が海柘榴市で影媛に会ったところ、平群鮪(へぐりのしび)が割って入った。2人の男は歌をやりとりして応酬するが、武烈は影姫と鮪がすでに恋仲であることを知る。 その後、武烈は大伴金村を送って鮪を殺す。このとき、影媛が恋人の死を痛んで歌った「石の上 布留を過ぎて 薦枕、高橋過ぎ 物多に 大宅過ぎ 春日 春日を過ぎ 妻隠る 小佐保を過ぎ…」という地名を詠みこんだ歌によっても、この挿話は知られる。 権勢を振るった鮪の父平群真鳥も倒される。権力をめぐる争いが色恋沙汰に託して語られるのであるが、海柘榴市の歌垣に場面を設定することで劇的な効果を盛り上げているようだ。もちろんフィックションであろう。 次に登場するのは敏達(585)14年3月条である。 これも史上名高い仏法迫害事件のひとこまの舞台として出てくる。天然痘が流行し、死者が多くでる。物部守屋と中臣勝海が奏上して、蘇我馬子が仏法を擁護するせいだと訴える。天皇がこれを認めると、守屋は馬子が建てた仏塔・仏殿を破壊し、仏像を難波江に捨てる。尼僧を捕らえて法衣を奪い、海柘榴市の亭(駅家)で鞭叩きの刑に処す。 交通の要である海柘榴市にはすでに6世紀後半にして公的な駅家施設が設けられていたのだろう。そこには馬屋があってたくさんの馬が飼われていただろう。これは、後で取り上げる推古紀の記事と結びつく。 海柘榴市で刑罰を加えたのは、もちろん耳目をひくためである。平城京や平安京の東西市でも刑が実行されたが、その起源がさかのぼることを証す史実として興味深い。 みたび海柘榴市が登場するのは、用明元年(586)5月条である。 皇位を狙う穴穂部皇子が、殯宮にある敏達天皇の皇后炊屋姫(かしきやひめ=後の推古天皇)を犯そうとする。三輪君逆(みわのきみさかふ)がこれを防ぐ。恨んだ皇子は物部守屋を派遣して逆を襲うが、逆は三輪山に隠れる。その後、後宮すなわち炊屋姫皇后の別業の海柘榴市宮に逃げ込む。しかし、密告があって、結局斬られる。 海柘榴市に皇后の離宮があった。交通の便が良かったからか。神奈備の三輪山に抱かれ、大和川の清流に臨む地であったからか。海柘榴市という随一の巷を控えていたからか。あるいはこれらすべてが理由だろうか。 |
大和川堤防に建つ「仏教伝来之地」石碑。磯城嶋金刺宮に宮を置いた欽明天皇の治世に仏教は伝来した。 三輪恵比寿神社の初えびす。毎年、2月5日から7日までたつ。露店が並んで参拝客で賑わう。 |
『日本書紀』の最後に海柘榴市が見えるのは、推古16年(608)8月癸卯(3日)条である。前年の7月、小野妹子が遣隋使として派遣された。歳明けて4月に妹子は隋の使節裴世清を伴い帰国。6月に難波に到着、朝廷は大歓待した。そして、8月3日、裴世清一行は海柘榴市に上陸、飾騎(かざりうま)75匹をもって迎えた。海柘榴市の駅家に馬が集められ準備されたのだろう。 4月に筑紫に着いてから入京するまで実に4カ月近くかかっている。これは、隋の使節を歓待するための準備に充てられたのだろう。難波では飾船30艘を繰り出し、新しい館を造って泊まらせている。宮でのセレモニーは、皇子・諸王、諸臣は金の髻花(うず)を頭にさし、冠と同じ色の衣服を着用して臨んだという。大陸に出現した大帝国と国交を結ぼうとする、当時の日本人の意気込みと緊張が伝わってきそうだ。 ●それ以後の海柘榴市 平城京遷都以降は海柘榴市もローカルなひとつの市に過ぎなくなったと思われる。しかし、平安時代に入り、もう一度、中央の脚光を浴びるチャンスが巡ってくる。平安京の貴族のあいだで長谷寺への観音巡礼が流行するようになると、海柘榴市はその宿場となる。『枕草子』『蜻蛉日記』『源氏物語』にもその名が現れる。 現在、海柘榴市をわずかに偲べるのは、JR三輪駅に近い三輪恵比寿神社で毎年2月に立つ初えびすにおいてである。大和川の堤防は整備され、河原には陶器の飾り馬が並ぶ。「仏教伝来之地」の大きな石碑も建つ。欽明朝に百済から仏教が伝来したという故実による。川底は浅く、難波から舟が上ってこられたというのも夢のようだ。ただ濃い緑で覆われた三輪山だけは、眺めも変わらず、往古のままにあるのだろう。 |
大和川の河原を会場に開かれる、現代版海石榴市。市民参加の屋台や発表会、イベントなど町おこしも兼ねる。 ●海石榴市の所在地マップ |
日本最古(にほんさいこ)の歌集(かしゅう)・万葉集(まんようしゅう)にも登場(とうじょう)する。市場は、場所(ばしょ)を表(あらわ)す場合(ばあい)「いちば」、商品(しょうひん)の売買(ばいばい)など経済的(けいざいてき)な働(はたら)きを表(あらわ)す場合(ばあい)「しじょう」と読(よ)むことが多(おお)いよ。
[一] (刺) 細い物で物を貫く。比喩的にも用いる。
① 先の鋭くとがった物を突き入れる。突き通す。また、刃物で突いて殺傷する。
※古事記(712)中・歌謡「水たまる 依網(よさみ)の池の 堰(ゐぐひ)打ちが 佐斯(サシ)ける知らに」
※読本・椿説弓張月(1807‐11)後「つと走りかかりつつ、妖怪をぐさと刺(サス)」
② 針を突き入れて縫う。
※万葉(8C後)一六・三八八五「韓国の 虎といふ神を 生け取りに 八頭(やつ)取り持ち来 その皮を 畳に刺(さし)」
※源氏(1001‐14頃)若菜下「高麗の青地の錦の、端さしたるしとねに」
③ (螫) 虫などが、皮膚にくいついたり、針を突き入れたりする。
※大智度論天安二年点(858)二「昔一国王有りて、毒蛇に齧(ササ)れたりき」
※俳諧・ひさご(1690)「花咲けば芳野あたりを欠廻(かけまはり)〈曲水〉 虻にささるる春の山中〈珍碩〉」
④ 糸、ひも、針金、串(くし)などで、貫き通す。
※源氏(1001‐14頃)浮舟「おどろきて御ひもさし給ふ」
⑤ 舟を動かすために、棹(さお)を水底に突きたてる。また、棹や櫓(ろ)を使って舟を進める。
※万葉(8C後)一八・四〇六一「堀江より水脈(みを)引きしつつ御船左須(サス)賤男(しづを)のともは川の瀬申せ」
※太平記(14C後)一七「貞国大に忿(いかっ)て、人の指(サス)櫓を引奪て、逆櫓に立」
⑥ もちざおで、鳥やトンボなどを捕える。
※日葡辞書(1603‐04)「トリヲ sasu(サス)」
※いさなとり(1891)〈幸田露伴〉二九「我等蜻蛉(とんぼ)さして遊びし頃より大の仲好し」
⑦ 針で入れ墨をする。
※俳諧・風俗文選犬註解(1848)二「風俗は婦人生涯眉を刺す」
⑧ 心や鼻、舌などを強く刺激する。
※黒い眼と茶色の目(1914)〈徳富蘆花〉五「叔母さんが〈略〉云った言葉は、敬二の胸を刺(サ)した」
※蓼喰ふ虫(1928‐29)〈谷崎潤一郎〉七「葉巻の匂ひと大蒜(にんにく)の匂ひとが、むっと鼻を刺すばかりに交ってゐた」
⑨ 鋭い皮肉などを意地悪く言う。風刺する。
※読本・春雨物語(1808)海賊「筆、人を刺す。又人にささるるれども、相共に血を不見(みず)」
⑩ 野球で、塁に入ろうとする走者をアウトにする。
※最近野球術(1905)〈橋戸信〉内野篇「遊撃手は常に二塁に入りて一塁よりの走者を、此所に刺さんとす」
[二] (挿) ある物を他の物の中にはさみ入れる。
① 刀剣などを帯の間に入れる。
※枕(10C終)八七「衣二ゆひとらせて、縁に投げいだしたるを〈略〉腰にさしてみなまかでぬ」
※徒然草(1331頃)二二五「白き水干に、鞘巻(さうまき)をささせ」
② 花や櫛などを頭髪の間に入れる。
※古事記(712)中・歌謡「命の 全(また)けむ人は 畳薦(たたみこも) 平郡(へぐり)の山の 熊白檮(くまかし)が葉を 髻華(うず)に佐勢(サセ) その子」
③ 木や花を、土や器などに入れこむ。さし木、または、さし花をする。
※万葉(8C後)一四・三四九二「小山田の池の堤に左須(サス)楊(やなぎ)成りも成らずも汝(な)と二人はも」
※枕(10C終)四「おもしろくさきたる桜をながく折りて、おほきなる瓶にさしたるこそをかしけれ」
④ 物の中にはめこむ。物の間に入れこむ。
※枕(10C終)二三「御草子に夾算(けふさん)さしておほとのごもりぬるも」
[三] (注・点) ある物の中に他の物を加え入れる。
① ある物に他の物を入れ混ぜる。また、付け添える。
※万葉(8C後)一二・三一〇一「紫は灰指(さす)ものそ海石榴市(つばきち)の八十のちまたに逢へる児や誰」
※徒然草(1331頃)二一三「浄衣をきて、手にて炭をさされければ」
② ある物に液体をそそぎ入れる。
※咄本・昨日は今日の物語(1614‐24頃)上「此貝は目の薬ぢゃと申が、目がしらにさし候か、目じりにさすか」
※それから(1909)〈夏目漱石〉二「今しがた鉄瓶に水を注(サ)して仕舞ったので」
③ さかずきなどに酒を入れて人に勧める。
※伊勢物語(10C前)八二「歌よみてさかづきはさせ」
※雪中梅(1886)〈末広鉄腸〉下「竹村は猪口を国野に献(サ)しながら」
④ ある物に色を付け加える。いろどる。また、(顔に)赤みや熱を加える。
※太平記(14C後)三四「面には朱を差たるが如く」
⑤ しるし、朱点などをつけ加える。
⑥ 火をともす。また、火をつける。
※万葉(8C後)一七・四〇二三「婦負川(めひがは)の早き瀬ごとに篝(かがり)佐之(サシ)八十伴の男は鵜川立ちけり」
⑦ 灸(きゅう)をすえる。
[四] (鎖) ((一)から) 門、戸口、錠、栓などをしめる。また、店などを閉める。
※書紀(720)神代上(兼方本訓)「乃ち、天の石窟(いはや)に入りまして、磐戸を閉着(サシ)つ」
※徒然草(1331頃)一二一「走る獣は檻にこめ、くさりをさされ」
※文明開化(1873‐74)〈加藤祐一〉二「隣の見世(みせ)がさしてあるので」
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
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