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中央図書館の名称について
2020年1月31日
ページ番号:491260
市民の声
「辰巳商会 中央図書館」では意味を持たない。「辰巳商会 大阪市立中央図書館」に変更すべきではないか。ネーミングライツの一環で、大阪市立中央図書館が上記名称に変更されました。ネーミングライツの是非は別として、そもそも中央区になく、西区にあるのに中央図書館なのは、大阪市立図書館の中央図書館であるからです。単に中央図書館では、中央区にある島之内図書館のことになってしまいます。よって、ネーミングライツをするのであれば、「辰巳商会 大阪市立中央図書館」もしくは「辰巳商会 大阪市中央図書館」でないと意味が通らないと思います。変更を要請します。
市の考え方
ネーミングライツパートナー企業募集の取り組みにつきましては、本市の厳しい財政状況に鑑み、民間企業との協働により市の新たな財源を確保し、市民サービスの向上を図ることを目的として、市が所有する施設及び市が実施するイベント等に、法人名、商品名、ブランド名等を冠した愛称を命名していただけるよう、平成28年度から一斉に募集を行っております。
大阪市立中央図書館については、今年度、株式会社辰巳商会より応募をいただき、愛称や法人の財務状況等を「大阪市公共施設等ネーミングライツパートナー審査委員会」による審査を経て、大阪市長が優先交渉権者として決定しました。その後、優先交渉権者と協議のうえ、令和元年9月にネーミングライツ協定を締結し、令和元年10月1日から2年間、愛称として「辰巳商会中央図書館」を使用することとなりました。
ネーミングライツ事業は、対象施設等に対して、あくまで「愛称」として法人名等を冠することとしており、そのことによって図書館の正式名称が変更されたかのような誤った認識を持たれないよう、大阪市立図書館ホームページおよび大阪市立中央図書館内の掲示等において、「ネーミングライツパートナー事業により、愛称として辰巳商会中央図書館を使用しています。」との主旨の周知徹底を図っており、今後もご利用いただく市民の皆様方にご理解いただけるよう努めてまいります。
なお、新たな歳入につきましては、市民サービスの向上や施設の管理運営に役立て、さらなる施設の魅力向上を図ってまいりたいと考えておりますので、ご理解ご協力のほどお願い致します。
担当部署(電話番号)
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■ 大阪市 中央図書館のまわり
木村蒹葭堂 石碑 大阪公文書館
木村蒹葭堂
木村 蒹葭堂(きむら けんかどう、元文元年11月28日(1736年12月29日) - 享和2年1月25日(1802年2月27日))は、江戸時代中期の日本の文人・文人画家・本草学者・蔵書家・コレクター。大坂北堀江瓶橋北詰の造り酒屋と仕舞多屋(しもたや、家賃と酒株の貸付)を兼ねる商家の長子として生まれる。名は孔龔(孔恭)、幼名は太吉郎(多吉郎)、字を世粛、号は蒹葭堂の他に、巽斎(遜斎)、通称は坪井屋(壺井屋)吉右衛門。
蒹葭とは葦のことであり、「蒹葭堂」とはもともとは彼の書斎のことである。庭に井戸を掘ったときに葦が出て来たことを愛でてそのように名付けたもので、後にこの書斎の名をもって彼を呼ぶようになった。
生涯[編集]
蒹葭堂は生まれつき病弱で手がかかる子どもであったので父より草木を植えて心を癒すことを許され、やがて植物や物産への興味に繋がっていく。極めて早熟であり、10代はじめから漢詩や書画の手ほどきを受け、その才能は周囲の大人たちを驚かせた。15歳のとき父を亡くす。家業を継いでからも学芸に励んだ。21歳のとき示子(森氏)と結婚。23歳のとき、後の混沌詩社の前身となる詩文結社蒹葭堂会を主催し、定例会を8年続けた。31歳のとき京都丸山の也阿弥で催された物産会の品評執事を三浦迂斎や木内石亭と務めた。33歳、長女生まれる。
近年「浪速の知の巨人」と称され評価が高いが、事実・本草学・文学・物産学に通じ、黄檗禅に精通し、出版に携わり、オランダ語を得意とし、ラテン語を解し、書画・煎茶・篆刻を嗜むなど極めて博学多才の人であった。また書画・骨董・書籍・地図・鉱物標本・動植物標本・器物などの大コレクターとしても当時から有名であり、その知識や収蔵品を求めて諸国から様々な文化人が彼の元に訪れた。人々の往来を記録した『蒹葭堂日記』には延べ9万人の来訪者が著されている。漢詩人・作家・学者・医者・本草学者・絵師・大名等など幅広い交友が生まれ、個人としては最大の知のネットワーカーとなり、当時の一大文化サロンの主となった。
寛政2年(1790年)55歳のとき、密告により酒造統制に違反(醸造石高の超過)とされてしまう。酒造の実務を任されていた支配人 宮崎屋の過失もしくは冤罪であるか判然としないが、寛政の改革の中で大坂商人の勢力を抑えようとする幕府側の弾圧事件とみるべきだろう[1]。蒹葭堂は直接の罪は免れたが監督不行き届きであるとされ町年寄役を罷免されるという屈辱的な罰を受ける。伊勢長島城主増山雪斎を頼り、家名再興のため大坂を一旦離れ伊勢長島川尻村に転居。二年の後に帰坂し、船場呉服町で文具商を営んだ。その後、稼業は栄え以前にも増して蒹葭堂は隆盛となった。
享和2年(1802年)歿す。享年67。天王寺区の大応寺に眠る。
彼の死後、膨大な蔵書は幕命により大部分は昌平坂学問所に納められたが、帝室博物館書目に昌平坂学問所の蔵書印が押された蒹葭堂蔵書の一部が確認できるため、いくつかの過程を経て一部散逸してしまったことははっきりしている。昌平坂学問所に納められた大部分は、現在内閣文庫に引き継がれている。
谷文晁による『木村蒹葭堂像』(重文)は彼の死後2ヶ月経過した享和2年3月25日に描かれた。
第二次大戦前、大阪市によって屋敷の跡地に「蒹葭堂址」碑が建立されたが戦災で亡失。昭和35年(1960年)、大阪市の史跡顕彰事業により顕彰碑として「木村蒹葭堂邸跡」碑が跡地近くの大阪市立中央図書館の南東角地に建てられた[2][3][4]。
師[編集]
- 大岡春卜(日本画:狩野派)5歳 - 6歳のころ
- 柳沢淇園(南画・粉本の模写)8歳
- 片山北海(漢学・漢詩・儒学)11歳
- 津島桂庵(本草学)12歳
- 鶴亭(黄檗山禅僧、南画:花鳥画)12歳
- 池大雅(南画)13歳
- 小野蘭山(本草学・植物学)50歳
交友 ・訪問客[編集]
作品[編集]
著書[編集]
- 『沈氏画塵』
- 『山海名産図会』
- 『本草植物図彙』
- 『一角纂考』
- 『蒹葭堂雑録』暁鐘成撰
- 『日本随筆大成 第一期第14巻』吉川弘文館、1993年、新装版2007年
- 『蒹葭堂日記』
- 『佐渡州物産』
- 『木村蒹葭堂全集』全8巻、藝華書院、2015年9月より刊
関連書籍[編集]
- 『浄貞五百介図』平賀源内 写(序文を書く)
- 『煎茶訣』清葉集 撰 (叙文を書く)
- 『桃源図』仇英(跋文を書く)
- 『雲根志』木内石亭(仮名序を書く)
- 『蒹葭堂記』 趙陶斎・中井竹山・加藤宇万枝
- 『蒹葭堂雑録』 五巻 鶏鳴舎 暁晴翁
- 『先人旧交書牘 木村蒹葭堂来翰集』混沌会・木村蒹葭堂顕彰会編(和泉書院、2004年)
脚注[編集]
- ^ 中村(2000)p.494
- ^ “江戸時代の有名な町人学者、木村蒹葭堂(きむらけんかどう)の屋敷が西区のどこにあったか”. 大阪市立図書館. 2018年3月11日閲覧。
- ^ 大阪市立図書館のFAQによれば、実際の屋敷跡は現在の「西区北堀江4丁目5」にあたる。
- ^ 有坂道子「木村蒹葭堂のネットワークに見る知の交流 (PDF) 」 『CEL』第117巻、2017年11月、 34頁。
参考文献[編集]
- 中村真一郎『木村蒹葭堂のサロン』新潮社、2000年。ISBN 4103155213。解説瀬木慎一
- 水田紀久 『水の中央に在り—木村蒹葭堂研究』 岩波書店、2002年。ISBN 4000022024
- 大阪歴史博物館編 『木村蒹葭堂—なにわ知の巨人 特別展没後200年記念』 思文閣出版、2003年
- 瀧川義一・佐藤卓彌編 『木村蒹葭堂資料集 校訂と解説(一)』 蒼土舎、1988年 ISBN 4-88564-123-3
外部リンク[編集]
- 木村蒹葭堂 貝石標本(大阪市立自然史博物館)
- 蔵書印の世界 木村蒹葭堂(国立国会図書館「蔵書印の世界」)
- 図書館ものがたりその2「木村蒹葭堂関連展覧会の歴史」(大阪府立中之島図書館)
- 「木村蒹葭堂研究資料-近・現代刊行物-」(大阪府立中之島図書館)
- ウィキメディア・コモンズには、木村蒹葭堂に関するカテゴリがあります。
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