@ 大阪 吹田市 千里市民センター 大ホール(千里ニュータウンプラザ2階 阪急千里線下車スグ)午後2時開演
講座は、レジメ A3*4枚(1~8頁)の順に
■ 德島 阿波 三好 文武両道において才気があふれており、鉄砲やキリスト教、茶の湯や連歌、
今日の参加者の方々と 堺市を「うろうろ」した事もあり。
■ 信長より20年早かった男 最初の"天下人" 三好長慶 歴史秘話ヒストリア-NHK 2019年06月19日 (水)に見ていた。
■ チラシを吹博で入手した時は、講座を愉しみにしていた。
■ 摂津峽/かじか莊 ・山城・・・地域をうろうろの体験
■ 飯盛山 今でも登城しんどさは・・・登れば別の世界が見えるばであることにはは違いない
飯盛山城 (飯盛城) : 戦国時代の河内摂津の覇者 三好長慶の居城
飯盛山城 (飯盛城) は室町時代に築かれた中世山城で、古くは「太平記」(南北朝合戦) でも登場する場所だが、最も有名なのは戦国時代に摂津河内一帯を支配した三好長慶の居城だった城としてだろう。三好長慶は飯盛山城を本拠とするとその絶大な権力で城を大幅に拡張、現在に残る巨大山城とした。しかし長慶の死後は勢力を伸ばしてきた織田信長の所領となり、その後 廃城となった。同じく三好長慶の居城だった芥川山城などと同じく、当時の石垣が一部残っている。山頂には四條畷/飯盛山付近で討死した南北朝期の武将 楠木正行 (楠木正成の息子) の銅像が建つ。近年 国史跡指定に向けた自治体の活動が行われており、一層の整備が期待される。なお呼称について、資料などでは「飯盛山城」と表記されることが多いものの、自治体では「飯盛城」と呼ぶようで、説明板等はほぼ「飯盛城」表記だった。当サイトでは馴染みの深い「飯盛山城」で統一する (今のところ)。
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はじめに 今年にかに注目浴びた三好長慶 / 先生 20年 研究
① 1/29 NHKEテレ ② 4/6テレビ東京
③ 信長より20年早かった男 最初の"天下人" 三好長慶 歴史秘話ヒストリア-NHK 2019年06月19日 ④9/16BS/TBS
1.どう評価されてきたか
①戦国時代末期から江戸時代初期 ②江戸時代前期 ③ヨーロッパ人の見た長慶 ④江戸時代後期 ⑤大正時代
■五畿内
『五畿内志』(ごきないし)、正式には『日本輿地通志畿内部』(にほんよちつうしきないぶ)とは、江戸時代の享保年間に編纂された畿内5か国の地誌、すなわち『河内志』『和泉志』『摂津志』『山城志』『大和志』を指す。
■ 戦国時代 応仁1467年~慶長1615年 / 148年間16個の元号
■天下人
もともと「天下」とは、世界の全体を指す抽象概念であり、古代中国の思想概念だったものが、日本でも古代から用いられるようになった。「天下」という言葉は、蘇我馬子が草創した法興寺の塔の露盤銘で、推古天皇4年(596年)に使用されていることが確認されている。また、天皇という名称の前身にあたるものとして治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)などが存在する。
「天下人」という言葉がいつ頃出来上がって、誰が使い始めたかは定かではないが、江戸時代初期の元和7年(1621年)より書かれた『川角太閤記』が初めてといわれており、この頃にはすでに普及・定着しつつあったことがわかる。
■下剋上 三好長慶 細川晴元 1548年 天文17年
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2.越水城主時代 ~阪神間の掌握~ 天文8年1539年 越水城主へ 18歳
1522生-43年間-1564死去
▶天文 てんもん てんぶん 1532~1555年 23年2カ月 天皇 後奈良天皇
出典:周易 理由 災異改元・天文学のこと 疫病の流行を理由ににする改元だが、
戦乱の停止を望む将軍・足利義晴からの申し入れがったという
『易経』の「仰以観於天文、俯以察於地理」
越水城(こしみずじょう)は摂津武庫郡(兵庫県西宮市)にあった日本の城。現在は西宮市立大社小学校に案内看板・石碑が建っている
3.芥川山城主時代 天文22年 1553年 芥川山城 三好山 摂津峽 在京せず京都を支配
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①芥川山城主へ ②大阪湾の掌握 ③相論の裁許 ④倒幕の萌芽
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4.飯盛山城主時代 ~両管領家を超える版図~
■ 飯盛山城(いいもりやまじょう): は、大阪府大東市及び四條畷市にある日本の城跡。標高315.9mの飯盛山に築かれた日本の城(山城)である。2017年(平成29年)4月6日、「続日本100名城」(160番)に選定された。別名「飯盛城」[1]。
■管領 : 将軍を補佐し内外の政務を統轄する室町幕府の職名。最初,執事と称されていたが,正平 17=貞治1 (1362) 年斯波義将が任命されたときから管領となった。その後再び執事と呼ばれたこともあったが,3代将軍足利義満のときに管領職がおかれ,足利氏の一族,斯波,細川,畠山の3氏が交代で就任したのでこの3氏を三管領 (→三管四職 ) といった。管領が出軍などの理由でその任務を遂行できない場合は,臨時に管領代がおかれた。室町幕府の政務の実権は管領にあったが,応仁の乱以後は名目化し,欠職した場合もあった。
① 領国拡大
② 飯盛城主へ
③ 義輝との蜜月と終焉
おわりに
長慶を見習いながら、信長は倒幕・統一を推進
これで ↑ ↑ 信長より20年早かった男 最初の"天下人" 三好長慶 歴史秘話ヒストリア-NHK 2019年06月19日 (水)に見ていた。
戦国天下人・三好長慶をNHK大河ドラマに!
三好長慶 (1522年生~1564年没)は、戦国大名・細川晴元の重臣である三好元長の嫡男として現在の徳島県三好市で生まれ、阿波・讃岐・淡路を本拠に時代の風雲児となり、畿内の山城・摂津・和泉・河内・大和・東播磨・丹波・丹後までを制覇する戦国天下人として「将軍を推載しない環大阪湾の三好政権」を形成しました。
通説では、松永久秀とのセットで戦国下剋上の悪者とされてきましたが、新しい「中近世移行期」の時期区分による研究によって、その存在が今高く再評価されています。
文武両道において才気があふれており、鉄砲やキリスト教、茶の湯や連歌、石垣白壁の築城などは、三好時代から展開されたもので、織田信長や豊臣秀吉の絢爛豪華な安土桃山文化の母体となった天文文化の形成という大きな足跡を遺しています。
戦国三好一族が拠点とした地域は、徳島県下一円をはじめ、その支配下にあった京畿内の各地(堺市、大東市、四条畷市、高槻市など)にも歴史的な拠点が存在し、現時点においても歴史的研究・調査に加え、各種講演会活動やイベントなどが数多く開催されています。(京都大学総合博物館所蔵)
徳島県三好市【三好長慶まつり】の様子 毎年11月に三好市で開催され、武者行列等で盛り上がります。
戦国時代、織田信長に先駆けた天下人、三好長慶をNHK大河ドラマに!
三好長慶の魅力ある人生を、広く国民の方々に知ってもらうとともに、徳島また大阪の観光、さらには地域経済の活性化にもつながるように「NHK大河ドラマ誘致推進協議会~戦国時代、織田信長に先駆けた天下人三好長慶をNHK大河ドラマに~」が設立されました。
協議会設立発起団体一覧(50音順)
(公財)阿波人形浄瑠璃振興会、四国旅客鉄道(株)徳島企画部、全日本空輸(株)徳島支店、(一社)徳島経済同友会、(一社)徳島青年会議所、(一財)徳島県観光協会、徳島県経営者協会、(一社)徳島県建設業協会、徳島県個人タクシー協同組合、徳島県市長会、徳島県商工会議所連合会、徳島県商工会連合会、徳島県社交飲食生活衛生同業組合、徳島県タクシー協会、徳島県中小企業団体中央会、徳島県町村会、徳島県農業協同組合中央会、(一社)徳島県バス協会、(一財)徳島県婦人団体連合会、(公社)徳島県物産協会、徳島県旅客船協会、徳島県旅館ホテル生活衛生同業組合、(協)徳島県旅行業協会、(公財)とくしま産業振興機構、(一社)徳島新聞社、(一社)鳴門市うずしお観光協会、日本航空(株)徳島支店、(一社)日本旅館協会徳島県支部、(一社)美馬観光ビューロー、(一社)三好市観光協会、三好長慶会、牟岐町観光協会
署名活動のご案内
より多くの皆さまにご理解とご協力をいただくために、協議会事務局では署名活動を展開しております。
ぜひ皆さまのお力をお貸しください!
詳しくは下記の案内リーフレットをご参照ください。
戦国時代、織田信長に先駆けた天下人三好長慶をNHK大河ドラマに [PDFファイル/8.55MB]
三好 長慶(みよし ながよし)
戦国大名 | 戦国武将 | 三好氏
(1522年3月10日 - 1564年8月10日 病死:享年43歳)
戦国時代の武将。畿内・阿波国の戦国大名。室町幕府の摂津守護代、相伴衆。
長慶の肖像は大徳寺の聚光院にあるが他の戦国武将のように不敵さ、鋭さ、泥臭さが欠けており、学問があり風流も解すといった教養人の印象が強い。
長慶は大変寛大とされているが、一方で決断力あるいは非情さに欠けてむしろ甘いとさえ思えるほどであり、それが勢力圏でたびたび敵の復活を許し長慶没後の4年後に上洛して強固な支配圏を畿内に築き上げた織田信長との差にもなっている。
朝廷との関係を重んじてたびたび連歌会を開くなど、豊かな文化人であった。長慶の教養人の面のみを論う人もいたが、それに対し「歌連歌ぬるきものぞと言うものの梓弓矢も取りたるもなし」と見事な和歌で反論している。
三好 長慶の名言・格言
コメント
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