空飛ぶ魔法の絨毯は実在した? 紀元前には国王の軍隊が全部乗れるサイズのものもあったという説が…!

■空飛ぶ魔法の絨毯は実在した!?

 今から8年前、ある記事がきっかけとなり、「魔法の絨毯」は単なる架空のモノではなく、かつては実在したのではないかと代替科学の世界で話題となった。その反響は現在でも余韻を残しており、柔軟な思考を持った研究家たちはその可能性を否定していないようである。

 魔法の絨毯とは、読者もご存じのように、『千夜一夜物語』において登場する空飛ぶ絨毯である。『千夜一夜物語』は8世紀頃に中世ペルシャ語からアラビア語に訳された、インド説話の影響の強い一大説話集とされる。その物語の柱はこうである。

【その他の画像はこちら→http://tocana.jp/2016/06/post_10048.html】

●『千夜一夜物語』あらすじ

 シャフリヤール王は妻の不貞を見て女性不信となり、国の若い女性と一夜を過ごしては次々と殺していた。それを止めさせたいと考えた大臣の娘シェヘラザードは、自ら王の元に嫁ぐことにした。シェヘラザードは毎夜、王に興味深い物語を語り、佳境に入った所で「続きはまた明日」と言って話を打ち切った。王は続きの話を聞きたいがために二百数十夜に渡ってシェヘラザードを生かし続け、ついに殺すのを止めさせるというものである。

『千夜一夜物語』には、冒険商人たちをモデルにした架空の人物から、アッバース朝のカリフであるハールーン・アッ=ラシードや、その妃のズバイダのような実在の人物までが登場し、中世のイスラム世界が生き生きと描き出されている。

■『千夜一夜物語』の謎の写本とは?

 長い歴史の中で様々な人々が物語に手を加えてきたため、その原型は正確に分からないが、一般的には、ガラン写本の校訂版(1984年)が最良のものと評価されている。というのも、写本には異形が存在し、そのいくらかは偽物だとみなされているからである。これは聖書における状況と似ており、例えば、偽典とされる文書類を含む死海写本は、人類の行く末の予言等、他の写本には見られない記述を含み、極めて貴重なものだが、受け継がれてきた教義との整合性の問題もあるためか、なかなか受け入れられずにきた。

 実は近年、『千夜一夜物語』においても死海写本のように論争を呼ぶ写本が見つかっており、偽物とみなす専門家も多い中、年代分析等が進められているとオーストラリアのライター、アザール・アビディ氏が記事として報告したのである。

 アビディ氏によると、フランス人探検家のアンリ・バック氏がイラン北部アラムートの古城の地下室で保存状態の良好な古代の巻物を発見した。後日、それを調べてみると、13世紀初期にユダヤ人学者アイザック・ベン・シェリラによって書かれた『千夜一夜物語』の写本だったことが分かったというのだ。

■魔法の絨毯は抹殺されてきた?

 シェリラ写本は『千夜一夜物語』内容の他、極めて興味深い記述で溢れており、特に魔法の絨毯に関わる個所は注目に値した。

 紀元前300年頃に建設されながらも、火災や略奪によって5世紀には完全に破壊された学問の殿堂「アレクサンドリア図書館」には、驚くべきことに利用者のために空飛ぶ絨毯が大量に在庫されていたという。建物の天井は非常に高く、時に利用者たちは空飛ぶ絨毯を利用して、空中に滞空しながら巻物を閲覧していたというのだ。

 当時、イスラムの支配者たちは空飛ぶ絨毯のことを悪魔に呪われた珍妙な仕掛けだと考えていたという。そして、その存在は否定され、その技術は秘匿され、制作者たちは迫害され、魔法の絨毯に関わるあらゆる証拠は隠滅されることになったという。

 シェリラの記録で最も古い出来事は紀元前977年のことだった。アラビア半島南部のシバ国の女王(シバの女王)の就任式において、王族の錬金術師が地上から数フィートの高さで滞空できる小さな茶色の絨毯をデモンストレーションした。そして、後年、シバの女王はソロモン王に特別な空飛ぶ絨毯を贈ったという。それは愛の印で、金と銀の刺繍が施された緑色の絹織地に宝石がちりばめられ、サイズは国王の軍隊がすべて乗れるぐらい大きかったという。

 ところが、当時ソロモン王はエルサレムに建設される神殿のことにばかり心を奪われており、それを自分の廷臣らにあげてしまった。それを知ったシバの女王は深く傷つき、絨毯職人らを解雇し、二度と空飛ぶ絨毯を作らせることはなかった。そのため、職人らはあてもなくさまよい、長いこと居を構えることができなかったが、最終的に紀元前934年にメソポタミアのバグダッド近くに留まることとなったという。

■闇に葬られた「空飛ぶ魔法の絨毯」

 その後も空飛ぶ絨毯はイスラム世界において脚光を浴びることはなかった。というのも、物事の道理に対する冒涜であると熱心な聖職者らが非難しただけでなく、たくさんの馬やラクダを所有する有力者たちも輸送手段として空飛ぶ絨毯の普及を望まなかったからだった。そんなプロパガンダの結果、馬やラクダの市場価値は上昇し、イスラムの中流階級は8世紀中頃までには空飛ぶ絨毯を避けるようになっていたという。

 また、ある時、王族を怒らせるような、空飛ぶ絨毯を利用した逃亡事件が発生した。それにより、空飛ぶ絨毯を扱う商人らは捕えられ、絨毯職人らは殺された。

 このようにして、空飛ぶ絨毯はその優れた性能にもかかわらず、有力者らに嫌われた。そして、職人らは逃げ出し、8世紀にアフガニスタンに移住後、芸術的な模様の絨毯を作り出すようになったという。

 一方、空飛ぶ絨毯を使ってヨーロッパに渡った職人らも居て、のちに彼らの技術は女性による秘密結社、すなわち、魔女によって採用された。因みに、シェリラによると、魔女のトレードマークである箒には男根崇拝という象徴的な意味があり、それは男性の仲間を欠いて発展してきたことによるという。

■チンギス・カンが空飛ぶ絨毯を抹殺か?

 空飛ぶ絨毯は、最終的にモンゴル帝国の初代皇帝チンギス・カン(1162-1227)によって永久に抹殺されたという。カンは中央アジアに侵攻し、人々を虐殺し、高価な品々を略奪したが、略奪品の中に空飛ぶ絨毯を見つけた。捕えられた職人の一人がそれらは大草原の馬よりも機敏に動く仕掛けになっていると話したところ、騎馬民族としてカンはすぐにその男の首をはねた。そして、カンは国中の空飛ぶ絨毯を押収する命令を下し、最終的に数千枚もの空飛ぶ絨毯がすべて焼かれてしまったという。だが、焼かれることのなかった空飛ぶ絨毯もわずかにあった。カンは自分が死を迎える時には、最も美しい空飛ぶ絨毯で天界へと飛んで行けるよう、取っておいた絨毯とともに埋葬するように命じていたのだ。

 こうして、13世紀後期まで一部の上流階級に販売されてきた魔法の絨毯は、完全に地上から姿を消したのだった。