令和元年5月1日(水)-2019 5 皐月 May 己刻 神武紀元2679年 平成31年 昭和94年
大正108年 明治152年 イスラーム歴1440年
■■令和元年5月6日(月)
東日本大震災
5月6日 | 5月7日 | |
年初~ | 126 | 127 |
阪神・淡路大震災1995年(平成7年)1月17日に発生 | 8875 | 8876 |
東日本大震災2011年 (平成23年)3月11日に発生 | 2978 | 2979 |
熊本地震2016年 (平成28年)4月14日21時26分発生 | 1117 | 1118 |
鳥取県中部地震2016年 ( 平成28年)10月21日14時7分 | 927 | 928 |
大阪府北部地震2018年(平成30年)6月18日7時58分 | 322 | 323 |
北海道胆振東部地震 2018年(平成30年)9月6日3時7分 | 242 | 243 |
5/6 月 朝刊 議会の災害対策 道半ば 自治体700超 マニュアル定めず
今日は何の日?カレンダーhttp://today.hakodate.or.jp/
今日は何の日】5月6日
ゴムの日
◆立夏(二十四節気の一つ。初めて夏の気配が現れてくる)
▲第一回朝鮮通信使、徳川秀忠と会見(1607)
▲オランダ西インド会社がマンハッタン島買収(1626)
▲第4回万国博覧会にてパリのエッフェル塔公開。塔の名前は、設計と建築を
手がけたアレクサンドル・エッフェルに由来(1889)
▲安田講堂、建設へ(1921)
▲スターリンがソ連首相に就任(1941)
▲茨城県東海村、第一号原子炉完成(1957)
▲三浦雄一郎、チョモランマ滑降に成功(1970)
▲4歳馬ハイセーコーがNHK杯で一着。10連勝。支持率83%の大人気(1973)
▲富士通がワープロ「マイ・オアシス」を75万円で売出す(1982)
誕生:フロイト(精神病理学者1856) タゴール(詩人1861)
オーソン・ウェルズ(映画監督・俳優1915) 井上靖(作家1907)
コロンビア・トップ(1922) 白木みのる(1934) 林海峰(1942)
中野良子(女優1950) 荒木大輔(元プロ野球選手1964)
吉田美和[Dreams Come True](ミュージシャン1965)
高橋尚子(マラソンランナー1972)
誕生花:あらせいとう (Stock) 花言葉:永遠の美
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①大阪府民共済 06-6533-5566
②スーパー マルヤス
③Gakken 学研 0120-889-100
④張替本舗 千里万博店 0120-946-939
⑤イズミヤ千里丘店
⑥おたからや江坂駅前店
⑦平和堂建都店
⑧阪急交通社・トラピックス06-6366-2525
⑨吹田産業フェア
⑩ジャパネットたかた
⑪大丸梅田店 06-6343-1231
⑫/EON
⑬ライフ
⑭阪急OASIS吹田片山店06-6310-8961
今日は何日目?
霊亀 和銅8 715 9 2 代始(元正大皇即位)祥瑞(左京職より瑞亀の献上)
養老 霊亀3 717 11 17 祥瑞(美濃国より美泉)
715 年 9 月 2 日 から数えて 717 年 11 月 17 日 は、
807日
115週2日
26ヶ月15日
2年2ヶ月15日
日本の年号一覧
笠原英彦 著 歴代天皇総覧 天皇はどう継承されてたか 中公新書 1617 第一代神武天皇 5頁
▶層冨 そほ
▶ 新城戸岬 にいきとべ記紀にみる神武東征
大阪平野には、縄文期から古墳前期にかけて河内湖と呼ばれる湖があった。日向を船で出た神武軍は、難波岬を通ってこの河内湖に入り、草香邑(日下村)の白肩津に着いた。記紀が編纂された8世紀には、日下(くさか)は内陸部になっており船では着けない。このことから、古田武彦氏は、神武軍が草香に上陸したという記述は、後世の創作でできるものではなく、事実にもとづく記述であるとしている。確かにその通りであるが、だから「神武東征は史実である」とまではいえない。さらに、書紀には、大阪湾から撤退した神武軍が、名草邑に着き名草戸畔(なぐさとべ)を殺したと記されている。これに対応するように、この地の伝承では、名草戸畔(名草姫)は神武軍に殺されて八つ裂きにされ、地元の人が、頭を宇賀部神社、胴を杉尾神社、足を千種神社に葬ったとされている。また、熊野では暴風に遭って船が難破し、かろうじて、荒坂の津に着いた。二木島の伝承では、浦人たちが、難破した神武たちを助けたと伝えている。これらのことから、神武軍は大阪を撤退し、和歌山、熊野を通って奈良に入ったことは事実と考えてよい。ただし、記紀に記された戦いや、その後の動向から判断すると、東征と呼べるようなものではなかった。
「なみはや号」程度の準構造船でも20人前後しか乗れない。弥生時代後期の船はもっと小さく、神武軍が「東征」に使用した船は10人乗り程度と推定される。豪族でもない彼らが準備できる船は限られ、精々10~20隻程度ではないか。乗員は多くて200人程度であるが、日下での戦いや熊野灘の難破などて相当人数が減っており、奈良に辿り着いた時には、多くても100人程度であろう考えられる。熊野の高倉下は武甕雷神(たけみかずち)の剣以外では、東征に登場しないことから、神武軍に加わったとは考えられない。神武軍の重要な戦いには、久米歌が挿入されている。後から戦いを振り返って、その時の思いを歌に託したのだろう。その戦いの概要は次のようなものである。
▶和珥阪下 わにのさかもと
「和爾(ワニ)」氏という名の古代氏族があった。
奈良盆地の東北部を本拠とし山城、近江或いは敦賀、伊豆方面にまで勢力を
伸ばしていた。
天皇の后妃を出した、“外戚氏族”では蘇我氏、葛城氏がよく知られているが、
和爾氏の名も、応神・雄略・継体・欽明・敏達天皇等の時代にみられる。
和爾氏には春日、柿本、小野、檪井など16の系列氏族があるという。
著名な人物には、
小野妹子、柿本人麻呂、小野篁(たかむら)、小野道風などがいる。
始祖は孝明天皇の皇子、天足彦国押人(アメタラシヒコクニオシヒト)命という。
▶ 居勢祝 こせのはふり
そしてそれは多く先住民の系統に属するもので、神武天皇御東征の時に、大和の土人に猪祝いのはふり・居勢祝こせのはふりなどという土蜘蛛がいたとあるのもこれである。
▶殲滅せんめつ
[名](スル)すっかり滅ぼすこと。皆殺しにすること。「敵軍を殲滅する」
コメント
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