千載の古き都、京都の地は、東を望めば三十六峯、・・・・・
東山の範囲[編集]
北は比叡山(京都市左京区、滋賀県大津市)から南は稲荷山(京都市伏見区)までとするのが一般的である。狭義には、比叡山を含めず山中越の南の如意ヶ嶽(大文字山)(京都市左京区)から南を指す向きもある。
「東山」とは一つの山系の名ではなく、京都の中心部から見て東に見える山を指す。したがって、他の山と鹿ヶ谷で隔てられている吉田山が含まれる一方、比叡山の北に連なる比良山系の山は含まれない。
「東山」の呼称は古くは平安時代にも用いられたことがあるが、一般的になったのは室町時代以降である。
主な山[編集]
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北から順に記す。なお一つの山が複数の名をもつことがある。また一つの山名が場合により異なる山を指すこともある。
- 比叡山
- 御生山
- 赤山
- 修学院山
- 葉山
- 一乗寺山
- 茶山
- 瓜生山
- 北白川山
- 月待山
- 如意ヶ嶽(大文字山) – 多くの文献で東山の主峰であるとされる[1]。現在は通常、主峰如意ヶ嶽と、その西方の支峰・大文字山は厳密には別の山の扱いである。中世より両山の混同または同一視は多く見られており、現在もそれは続いている。
- 吉田山
- 紫雲山
- 善気山
- 椿ヶ峰
- 若王子山
- 南禅寺山
- 大日山
- 神明山
- 粟田山
- 華頂山(花頂山、花鳥山、知恩院山)
- 円山
円山町、円山公園の地名がある - 長楽寺山
- 双林寺山
- 東大谷山
- 高台寺山
- 霊山(霊鷲山) – 戦国時代に足利義輝が建設した東山霊山城があった。霊山町の地名がある。
- 鳥辺山 – 豊臣秀吉が埋葬され、豊国廟が存在する。
- 清水山
- 清閑寺山
- 阿弥陀ヶ峰
- 今熊野山
- 泉山
- 恵日山
- 光明峰
- 稲荷山
東山三十六峰[編集]
東山の山々を総称して、「東山三十六峰」(ひがしやまさんじゅうろっぽう)とも呼ばれる。言葉の成立当初は、具体的に三十六の峰を擁するという意味ではなく、なだらかに連なる東山の山々を洛中から見て、おおよそ三十六ほどは連なっていようかと例えられたものであろう。
江戸時代後期の学者であり、東山の景観を好んだことで知られる頼山陽が、自らを「三十六峯外史」と号していたことからも、江戸時代頃には「三十六峰」の考えが知られていたものと推測される。江戸時代末期の「花洛名勝圖會」では、「東山三十六峰」の言葉を見ることができ、これが「東山三十六峰」という言葉を記した、現存する史料としては最古のものとされる。この「花洛名勝圖會」には、「どの山々を指して三十六の峰と言っているのかは明らかではない」といった記述があり、「三十六峰」が具体的にどの山々を指しているのかまでは特定されていなかったようだ。
前述の通り、江戸時代以前には、「三十六峰」は具体的には特定されていなかったと考えられるが、近代以降、「三十六峰」を具体的に特定しようという試みも行われている。1936年の大阪営林局「東山国有林風致計画」においては、「東山三十六峰」の山名が具体的に記述されているが、これが、三十六の山名を羅列した史料としては、ほぼ最古のものであるとされる。しかし、ここで名前の挙げられている山名は、江戸時代前期に記された「雍州府志」における「山川門」の記述を踏襲したものにすぎず、実状にそぐわないものも少なくなかった。その後、1956年の京都新聞において、「三十六峰」を具体的に特定した記事が連載されることとなった。以降に刊行された書籍などでは、この連載記事により選定された「三十六峰」をもって「東山三十六峰」とすることが多い。「東山国有林風致計画」の選定、京都新聞の連載記事による選定では、両者で一部異なった山の名前が挙げられており、また、現在では「山」と呼ぶに値する頂の確認できないものもある。
「東山三十六峰」という呼称を使う場合、山科盆地からは確認できるが、京都市街地から頂を確認することが難しい花山、六条山といった山は三十六の峰に含まれないことに留意。
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