【禅語】散る桜 残る桜も 散る桜
いつも衣の懐に手毬やおはじきを入れて、子どもらと無邪気に遊んでいたという良寛和尚。
「散る桜 残る桜も 散る桜」という禅語は、そんな良寛の辞世の句である。
今まさに命が燃え尽きようとしている時、たとえ命が長らえたところで、それもまた散りゆく命に変わりはないと言い切る良寛の心。
桜は咲いた瞬間から、やがて散りゆく運命を背負うのである。
仏教の創始者であるブッダは80歳で亡くなった。
旅の途中、チュンダという人物から施しを受けた供物を食べたことによる食中毒が原因であった。
それはキノコ料理だったとも、豚肉料理だったともいわれている。
極度の下痢と脱水症状に苦しみ、衰弱していくブッダの姿を見て、チュンダは責任を感じ泣き続けていたという。
しかし、そんなチュンダに、ブッダはこう言い聞かせた。
「チュンダよ。嘆く必要はない。
私は生まれたから死ぬのである。
あなたが施してくれた食事は、私が死ぬ数多ある要因のなかのわずか1つにすぎない。
私が死ぬ根本の原因は、私が生まれたことにあるのだ。
人は生まれた時点で必ず死ぬことが決まっている。
生まれたから、死ぬのである。
あなたの食事を食べなくても、私は他の要因を得て必ず死ぬ。
だから自分の食事が死の原因だなどと思って嘆かなくていいのだ。
あなたは貧しい身でありながら、精一杯の食事を施してくれた。
あなたは大きな功徳を積んだ……」
この言葉を聞いて、チュンダは一層涙を流したに違いない。
死に至る病を患い、余命を宣告されるのは、死を眼前に突きつけられることと同じであり、辛く厳しいことであるのは間違いない。
だが、余命というのであれば、人は生まれた時点で「寿命」という余命を宣告されて生きていることを忘れてはいけない。
誰もが、生きて、死ぬのである。
1年後の死は不幸で、10年後の死は幸福かといえば、そんなわけはないだろう。
ガンを患い医者から余命を宣告され、苦悩の日々を送っていた人がいた。
その人は当初、残りの人生を悲観することしかできなかったが、ある時、いまある命の尊さに深く感じ入り、これまでに味わったことのない幸福感を覚えたという。
「ガンを患うことがなければ、生きることの尊さも、命の尊さも知らずに人生を終えていたかもしれない。
命というものに意識を向けることなく死んでいたかもしれない。
だから今では、むしろ人生の最後にガンを患ったことを有り難いことだとさえ思っている」
そう述懐した。
幸福や不幸といった概念がいかにあやふやなものであるかを思い知らされる。
人は死ぬ。
必ず尽きる命を得たこの人生は、致死率100%の「寿命」という病にはじめから冒されている。
命があることと命が失われることは、まさにコインの裏表。
病に冒されたから死ぬのではない。
生きているから、死ぬのである。
良寛の残した辞世の句は、哀れで、はかない。
人間は死から逃れることはできないという諦観のようにも聞こえ、命を諦めた言葉にも受け取れる。
しかし、禅において「諦める」という言葉は、物事の真実を明らかにするという意味の「明らめる」という意味で用いられる。
必ず死ぬこの人生とは何なのか。
それを明らかにすることが「諦める」であり、諦観という言葉の真意なのだ。
「散る桜 残る桜も 散る桜」
桜は散る。
命は散る。
必ず散りゆくこの命とは何なのか。
人がその人生において本当に考え抜くべき問いを残してこの世を去った良寛の辞世の句に、潔さと美しさを感じるのは、私だけではないはずだ。
※良寛の辞世の句は「うらを見せ おもてを見せて 散るもみぢ」だとする説もある。