ニライカナイで逢いましょう ~ひめゆり学徒隊秘抄録~
古典芸能が伝える平和へのメッセージ
太閤紀の方で 龍泉寺を知りました
史跡散策 中村公園周辺
秀吉清正記念館がある中村公園周辺には、秀吉・清正の生誕地碑、豊国神社、妙行寺、常泉寺など、多くの史跡があります。記念館を出発しての歴史散歩にお出かけください。
以下の説明は、上の地図内の番号に対応しています。
1.豊国神社(とよくにじんじゃ)
豊臣秀吉を祭神とする神社。中村区の有志が発案し、当時の県令(県知事)・国貞廉平(くにさだれんぺい)の尽力を得て、明治18年(1885)に創祀された。
2.豊公誕生地之碑(ほうこうたんじょうちのひ)
明治16年(1883)、国貞廉平が木製の標柱を建て、明治44年(1911)に県知事深野一三(いちぞう)が石で立て直したもの。
3.日吉丸(ひよしまる)となかまたち
昭和58年(1983)に設置された、日吉丸を中心とした5人の子どもたちの群像。秀吉のわんぱく盛りのころをイメージして、石黒鏘二(しょうじ)、品川譲ら当地で活躍した造形作家により制作された。
4.小出秀政宅跡(こいでひでまさたくあと)
小出秀政(1540年から1604年)は尾張中村に生まれ、秀吉の家臣となった。妻は大政所(おおまんどころ、秀吉の母)の妹で、秀吉より3歳年下だが、伯父に当たる。和泉岸和田三万石の城主となり、秀吉の死後は、秀頼(秀吉の二男)の補佐役を務めた。
5.妙行寺(みょうぎょうじ)
もとは真言宗であったが、日蓮宗に改宗した古刹(こさつ)。名古屋城天守普請にあたった加藤清正が、天守完成後普請小屋を移築し本堂としたという。熊本・本妙寺からおくられた日遙上人(にちようしょうにん)作の清正尊像が、清正公(せいしょうこう)堂にまつられている。清正の銅像や生誕地碑もある。
6.常泉寺(じょうせんじ)
慶長3年(1598)に秀吉が没した後、太閤屋敷跡に円住院日誦上人を開山として清正が建てたと伝えられる日蓮宗の寺院。境内には、「秀吉手植のヒイラギ」や秀吉銅像などがある。秀吉の生誕地は、ここから南へ約800メートルの、中村区中村中町という説もある。
7.木下長嘯子宅跡(きのしたちょうしょうしたくあと)
木下長嘯子(1569年から1649年)は名を勝俊といい、高台院(秀吉の正室)の甥に当たる。秀吉に仕え、若狭小浜城主となったが、関ヶ原の戦いで失脚した。その後は京都・東山に隠棲(いんせい)し、当代一の歌人として名を残した。
8.八幡社(はちまんしゃ)
加藤清正は、永禄5年(1562)、秀吉生地の近隣で生まれた。秀吉に仕えて武功をあげ、各所に八幡社を勧請した。本社は、清正必勝祈願の社と伝えられる。ただし清正がこの地から出陣したことはない。清正は自らの故郷に3か所の神社を創建したと伝わるので、その一つである可能性はある。
9.中村公園参道(なかむらこうえんさんどう)
正式名は「中村参道緑道」。「参道」と通称される。昭和63年に国土交通大臣選定の「手づくり郷土賞」を受賞した。毎月9のつく日は”九の市(くのいち)”が行われ、多くの露店が出てにぎわう。
10.大鳥居(おおとりい)
大正10年(1921)に愛知郡中村が名古屋市に併合されたのを記念し、昭和4年(1929)に建てられた鉄筋コンクリート製の大鳥居。高さ24メートルを超え、名古屋の新名所となった。
11.秀吉清正記念館(ひでよしきよまさきねんかん)
秀吉、清正の生きた時代や、尾張の戦国武将の姿などを、絵画、工芸、文書などの資料やビデオ映像などで紹介する資料館。名古屋市博物館の分館。
中村公園文化プラザ2階 入館無料
参考文献:横地 清『中村区の歴史』、同『中村区歴史会話』、浅井正明『中村公園』
このページの作成担当
教育委員会事務局 秀吉清正記念館
電話番号: 052-411-0035
ファックス番号: 052-411-9987
電子メールアドレス: [email protected]
郵便番号:453-0053
住所:名古屋市中村区中村町茶ノ木25
長浜城(ながはまじょう)は、滋賀県長浜市公園町にある羽柴秀吉(豊臣秀吉)が築城した日本の城跡。
沿革[編集]
1573年(天正元年)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際に当時今浜(いまはま)と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し長浜に改名した。小谷城で使われていた資材や、あらかじめ、竹生島に密かに隠されていた材木などを見つけ出し、それらを使用し築城を開始した。
同3・4年頃完成し入城。湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した。そのため、現在でも城下町には当時の面影や名残がある。秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下町経営の基礎を醸成した所でもある。
1582年(天正10年)の本能寺の変後、清洲会議で長浜の支配権を獲得したのは柴田勝家であった。勝家の甥の柴田勝豊が長浜城の守将として入城するが、同年末には勝家と対立した秀吉に攻められ、勝豊は城ごと降伏した。1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い後は、山内一豊が入り、6年間在城した。1586年1月18日(天正13年11月29日)には天正地震により城が全壊し、一豊の一人娘である与祢らが死亡した。
1606年(慶長11年)に内藤信成・信正が城主になるが(長浜藩)、大坂の陣後の1615年(元和元年)に内藤氏は摂津高槻に移封され、長浜城は廃城になった。資材の大半は彦根城の築城に流用された。彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられている。その他、長浜市内にある大通寺の台所門は長浜城の大手門を移したものと伝えられ、今でも矢尻の跡を見ることができる。同市内にある知善院の表門は、長浜城の搦手門を移したものと伝えられている。
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