2/20 月 朝刊
マレーシア - Wikipedia
マレーシア
- マレーシア
- مليسيا
Malaysia -
(国旗) (国章) - 国の標語:Bersekutu Bertambah Mutu
Unity Is Strength
(マレー語: 団結は力なり) - 国歌:ナガラク(我が国)
-
公用語 マレーシア語 注1、英語 首都 クアラルンプール 注2 最大の都市 クアラルンプール 通貨 リンギット (MYR) 時間帯 UTC +8(DST:なし) ISO 3166-1 MY / MYS ccTLD .my 国際電話番号 60 - 注1: 2007年よりマレー語 (Bahasa Melayu) からマレーシア語 (Bahasa Malaysia) に変更された。
注2: 連邦政府各庁舎および連邦裁判所はプトラジャヤへ移転。連邦議会議事堂は移転せず、法律上の首都はクアラルンプールのままである。
マレーシア(マレー語: مليسيا、英語: Malaysia)は、東南アジアのマレー半島南部とボルネオ島北部を領域とする連邦立憲君主制国家で、イギリス連邦加盟国である。タイ、インドネシア、ブルネイと陸上の国境線で接しており、シンガポール、フィリピンと海を隔てて近接する。ASEANの一員。
国名[編集]
正式名称は、ジャウィ文字: ڤرسكوتوان مليسيا、ラテン文字: Malaysia。(マレー語: [malajsiə])。
公式の英語表記は Malaysia([məˈlεɪʒə])。
国外での表記[編集]
日本語の表記はマレーシアあるいはマレイシアである。他にマレーシャ、マレイシヤなどの表記もある。また、連邦制国家であることに鑑みマレーシア連邦とされることもある。漢字による当て字では馬来西亜と表記し、馬と略す。 中国語表記は马来西亚(簡体字) / 馬來西亞(繁体字)。略称は大马(簡体字) / 大馬(繁体字)。
名称の由来[編集]
マレーシアとは「『ムラユ (Melayu)』の国」の意味だが、この「ムラユ」という言葉自体は、サンスクリット語で「山脈のある土地」を意味する「マラヤドヴィパ (Malayadvipa)」を語源としている[4]。古代インドの時代には、交易商たちがマレー半島を指すときに使う言葉であった。その後、7世紀の唐の僧侶の義浄による記録に現れるスマトラ島に存在したシュリーヴィジャヤ王国(3世紀 - 14世紀)の他称『ムラユ王国』として継承され、近代に入ってからフランス人の探検家ジュール・デュモン・デュルヴィルによってマレーシアという言葉が生み出される[5]。もっとも、当時は現在のマレーシアのみならず、東インド諸島全体を指し示していた。そのため、現在のフィリピンが独立する際、国名をマレーシアとする案もあったとされる[6]が、フィリピンよりも先にマラヤ連邦(現在のマレーシア)が先に自らをマレーシアと呼称するようになり、現在に至る。
歴史[編集]
- 13世紀 アラブ商人やインド商人と共にイスラム教が伝来し、仏教とヒンドゥー教の時代が終わった。
- 1400年 マラッカ王国成立
- 1511年 ポルトガル、マラッカを占領(ポルトガル領マラッカ、1511年 - 1641年)
- 1542年 マラッカからポルトガルの鉄砲が日本に伝来した。(鉄砲伝来)
- 1549年 イエズス会のフランシスコ・ザビエルがマラッカを出発し、日本到着。
- 1641年 オランダ、マラッカを占領(オランダ領マラッカ、1641年 - 1825年)
- 1777年 隣国シャム(現在のタイ)のソンクラー国主に福建省漳州府海澄県出身の華僑・呉譲が就任。以後、ソンクラー国を拠点としてシャム軍がパタニ王国、クダ・スルタン国への侵略の動きを見せ始める。
- 1786年 シャムの攻撃を恐れたクダ・スルタン国は、非常時におけるイギリスによる兵力援助の約束と引き換えに、イギリス東インド会社にペナン島を賃貸した。イギリス東インド会社は、中国やインドからの移民増加政策を行った。
- 1791年5月1日 シャムが隣国のパタニ王国(現在のタイ深南部三県)まで攻めて来たため、イギリスに派兵を要求したが断わられた。ここにクダ・スルタン国はフランシス・ライトに5年間騙されていた事が発覚した。クダ・スルタン国は10000人からなる大軍によるペナン島回復戦を計画したが、事前にフランシス・ライトに察知され、ペナンを取り返すどころか対岸の拠点セベラン・ペライを奪われてしまい、ペナンを正式にイギリスに明け渡した(ペナンの歴史)。
- 1795年 イギリス、マラッカを獲得。
- 1805年 トーマス・ラッフルズがペナンに派遣され、ペナンで積んだ経験が後のシンガポール建設の参考となった。
- 1819年 トーマス・ラッフルズがシンガポールの地政学上の重要性に着目、ジョホール王国の内紛に乗じてシンガポールを獲得した。
- 1821年 クダ・スルタン国はシャムに征服され、統治された。
- 1824年 イギリス・オランダ両国にて、マレー半島(マラッカ海峡)を中心とする地区の勢力範囲を定めた英蘭協約を締結(イギリスはスマトラ島西海岸のベンクーレン(ブンクル)とオランダのマラッカを交換し、ペナン・シンガポール・マラッカのマレー半島に英領植民地を得る。)
- 1826年 イギリスとシャムがバーニー条約を締結し、イギリス領マラッカ海峡植民地成立
- 1836年 フランシス・ライトの息子でペナン出身のウィリアム・ライトが南オーストラリアのアデレード建設を開始
- 1840年 ジェームズ・ブレマー率いる英国極東艦隊が海峡植民地シンガポールから阿片戦争へ出撃。ジェームズ・ブルックがサラワクの反乱の鎮圧に協力
- 1841年 サラワク王国がブルネイ・スルタン国から独立
- 1842年 ジェームズ・ブルックがサラワク王国の国主となる
- 1855年 イギリスとシャムが通商貿易に関するボーリング条約(不平等条約)を締結。
- 1874年 イギリス領マラヤ成立。錫鉱床の開発が進む。
- 1882年 阿片戦争で有名なランスロット・デントのデント商会のデント兄弟がイギリス北ボルネオ会社による北ボルネオ(スールー王国とブルネイ王国)の統治を開始
- 1888年7月 イギリス北ボルネオ会社により統治されるイギリス保護国北ボルネオが成立
- 1909年 英泰条約によってクダ・スルタン国はイギリスに移譲されイギリス領マラヤになる。Unfederated Malay States
- 1941年 日本軍がコタバル近郊に上陸(マレー作戦)。太平洋戦争の開戦。
- 1942年 日本軍がマラヤ全域を占領(日本占領時期のマレーシア)。
- 1946年 マラヤ連合と改称。サラワク王国がイギリス領サラワクになる。
- 1947年 マラヤ連邦、イギリス領植民地の集合体として結成
- 1948年 戦後、イギリスに返還されていたクダ州がマラヤ連邦に加入。Malayan Emergency(1948年 – 1960年)。
- 1957年 マラヤ連邦(初代国王トゥアンク・アブドゥル・ラーマン、初代首相トゥンク・アブドゥル・ラーマン)独立。
- 1962年 - 1966年 インドネシアとマレーシアの対立。
- 1963年 シンガポール、イギリス保護国北ボルネオ、イギリス領サラワクがマラヤ連邦と統合し、マレーシアが成立。
- 1965年 シンガポールがマレーシアから独立。
- 1968年 - 1989年 共産主義者の反乱。
- 1969年 5月10日、1969年総選挙実施。5月13日、マレーシア史上最悪の民族衝突であるマレー人と中国人の間の衝突5月13日事件が起きる。
- 1970年 7月緊急条例発布。9月、ラーマン首相辞任。第2代首相にアブドゥル・ラザク就任。
- 1974年 クアラルンプールを連邦の首都に定める。
- 1975年 ラザク首相、急死。フセイン・オン、首相に昇格。第3代首相に。
- 1981年 マハティール首相就任( - 2003年)
- 1984年 サバ州沖合のラブアン島が連邦直轄領になる。
- 1999年 首相官邸がクアラルンプール郊外の新行政都市プトラジャヤに移転。首都機能が2010年までに移転される。
- 2003年 アブドゥラ・ビン・アフマッド・バダウィ首相就任
- 2007年 国語表記を、マレー語からマレーシア語 (bahasa Malaysia) に定めた。
- 2008年2月13日、アブドラ首相は、連邦議会下院を解散すると発表した。憲法の規定により解散後60日以内に総選挙が行われる。同時にサラワク州を除く12州議会に解散するよう要請した。
- 2008年 3月の総選挙で国民戦線は3分の2議席を確保できなかった。
- 2009年 前年の総選挙で与党連合が歴史的敗北を喫し、アブドラ首相が責任をとって二期目の任期4年を残し辞任。4月3日、マレーシア与党連合・国民戦線の中核政党の統一マレー国民組織 (UMNO) の新総裁ナジブが第6代首相に就任した。
- 2013年2月11日 ラハダトゥの対立。
- 2015年7月2日 国策投資会社1MDBからナジブ首相の個人口座へおよそ7億ドルが振り込まれた公文書記録をウォール・ストリート・ジャーナルが報じた。下旬、会社幹部が逮捕者を出す一方、内務省は経済紙に発禁命令を出した。
- 2015年10月11日 シンガポール金融管理局が、スイスのファルコン・プライベート・バンクとUBSのシンガポール支店、地場金融大手DBS銀行に対し、資金洗浄規制に違反したとして処分を下したと発表[7]。UBSとDBSは、1MDBの資金流用に関与した疑いで調査されていた。UBSは130万Sドル、DBSは100万Sドルの罰金を科された。
政治[編集]
元首[編集]
国家元首たる国王は13州の内9州にいるスルターン(首長)による互選で選出され(実質的には輪番制)任期は5年。世界でも珍しい、世襲ではなく選挙で選ばれ、かつ終身制ではない国王である。
行政[編集]
行政府の長は首相であり、国王は内閣の補佐を受けて行政を担当する。
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立法[編集]
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司法[編集]
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列柱社会[編集]
マレーシアは、人口の6割をマレー系、3割を華人系、1割をインド系が居住する国家である。居住の形態は、伝統的にはそれぞれのエスニシティが集団で居住する形式をとっていた経緯があり、また政治の支持基盤も民族毎であるという特色がある。
- 与党勢力(国民戦線 (Barisan Nasional))
- UMNO(マレー系)、MIC(インド系)、MCA(華人系)、グラカン(華人系など)
- 野党勢力(人民連盟 (Pakatan Rakyat))
- PAS(マレー系)、Keadilan(マレー系)、DAP(華人系など)
セグメントごとの支持基盤、エスニシティ間の対立を回避するために、国民戦線では、エスニシティのリーダー間の協調が図られている。先述の5月13日事件がその契機となった。
軍事[編集]
兵力は正規軍10万人(陸軍8万人、海軍1万2000人、空軍8000人)、他に予備役が4万1600人。予算は2003年に20億5300万ドル。
2003年より、マハティールの提唱で制定された「国民奉仕制度」が施行された。これは、「軍への兵士としての入隊」では無いために一般的な意味での徴兵制とは言えないが、国民の団結を図る目的で「抽選で選ばれた18歳の男女が国防省の管理下で6ヶ月間の共同生活を行う」という内容であり、強制的に国民へ課せられる義務である。
また、安全保障協定として、1971年にイギリス、オーストラリア、ニュージーランド、シンガポールと五ヵ国防衛取極め (the Five Power Defence Arrangements) を締結しており、各国軍との連携を図っている[8]。
国際関係[編集]
旧宗主国のイギリスや、日本、オーストラリアなどと貿易を通じて密接な関係を持つ他、隣国であるタイ王国やシンガポール、インドネシアなどのASEAN諸国とも密接な関係を持っている。近年は、中国・韓国との関係も強化している。また、イスラーム教国であることから中東諸国との結びつきが強い。なお、現在もイギリス連邦の一員である。
シンガポールとの関係[編集]
隣国で一時は同じ国であったシンガポールとは人種や領土、開発に関する問題、欧米諸国への姿勢などで度々衝突しており(軍事的なものではなく、あくまで外交上のものである)、地理的・心理的に密接ではあるが複雑な関係と言える(トゥンク・アブドゥル・ラーマンおよびリー・クアンユーの項参照)。しかし中国系住民同士の結婚は盛んである。また、マレーシアにとってシンガポールは、最大の輸出先でもあり、輸入元でも第2位となっており、経済的な結びつきも強い[9]。
中国との関係[編集]
マレーシアは東南アジア諸国としてはシンガポールに次いで華僑の割合が高く中国文化の影響が強いために中華圏扱いされる事があり、中華料理店がよく見られる。多くの中国系マレーシア人が芸能人として中国・香港・台湾・シンガポールなどの中華圏で活躍している。
近年経済台頭する中国に対し、マレーシアは国内に住む華僑住民とのつながりを生かして中国に接近している。ナジブ・ラザク首相は、就任から2ヶ月で中国を訪問し、1年後に訪日したのとは対照的であった。中国も留学生の誘致に積極的であり、マレーシアの大学内部に中国語を学ぶ「孔子学院」を中国政府の予算で設置、近く奨学金を設ける予定である。すでにマレーシア企業から社員向け中国語授業の依頼があり、これは中国とのビジネスのために、高い中国語能力を企業が求めているからである。中国の存在感が大きくなる一方、日本の存在感は相対的に薄くなっているとも言われる[10]。
マレーシアと中国は、伝統的な友好国である。中国は近年、東南アジア各国が自国領としている南シナ海の島などを中国領土と主張しており、東南アジア各国と軋轢を強めている。マレーシアも例外ではなく、中国はマレーシアの排他的経済水域にあるジェームズ礁を「最南端の領土」と主張しており、中国の地図上ではジェームズ礁は九段線の内側になっている。マレーシアは中国と経済的な関係を重視しているため、フィリピンなどと異なり、中国の行動に安全保障上の懸念を表明することはなかった。しかし、2013年3月には中国軍艦がジェームズ礁近海に入り、マレーシア側に威嚇発砲を実施、2014年1月には中国の揚陸艦1隻と駆逐艦2隻がジェームズ礁近辺で主権宣誓式を実施するなど、中国側は動きを強めており、マレーシア側も中国に対する反発を強めつつある[11][12]。
2014年3月から6月にかけて、ピュー研究所が実施した調査ではマレーシア人回答者の71%が中国を「好き」、「とても好き」と回答している。同じ調査で、日本は75%とやや上回り、アメリカ合衆国は51%である[13]。
日本との関係[編集]
対日関係については、「ルックイースト政策」を掲げたマハティール政権、それを継承したアブドラ政権の下で緊密な関係が維持されてきた。
マレーシアの大学には日本への留学生向けの日本語コースが設けられ、30年以上続けられている。奨学金は日本・マレーシア両政府が支給している。留学を終えて帰国した学生は、これまでマレーシア政府や企業の中枢に入り、国を率いてきた。しかし、近年は日本語コースの定員割れが起きており、毎年応募者が600人を上回っていたのが、2008年には200人に減少した。理由として、中国が経済的に台頭し、日本に対する関心が薄れ、学生の意欲と学力が低下したという見方もある[10]。
日本政府も中国の攻勢に対して、マレーシアの地方や各地の高校・大学生を対象にした日本語セミナーを開催、2003年に合意された日本・マレーシア国際工科院も2011年にようやくに開校し、マレーシアにいながら日本の電子工学や環境技術などを教えている[14]。
日本の占領[編集]
英領マレーは、現マレーシアの西半分であり、1942年2月15日に日本陸軍第二五軍が占領し以後約三年間を占領行政下においた[15]。
「マハティール以降」の外交[編集]
マハティール・ビン・モハマド時代、特に1990年代以降、同首相のユダヤ人に関する論評やパレスチナとの関係、イギリスやアメリカ、オーストラリアなどの白人主体のキリスト教国に対する挑発的発言からこれらの国との関係が悪化したが、2003年のマハティールの退任後は関係が回復しつつある。しかし国内でのマハティール路線はほぼ維持されている。
アブドラ・バダウィ政権では、イスラーム教国という特色を生かして、中東と東南アジアのビジネス・ハブを目指す戦略を掲げた(ハラル・ハブ政策)。実際にイランとの関係は良好であり。マレーシアはイラン人がビザ無しで訪れることのできる数少ない国であり、また、マレーシア人もイランにビザ無しで入国が可能となっている。さらに、パレスチナとの関係も良好であることから、しばしばイスラエルとは対立する構図になっている。このように、マレーシアは英連邦に所属しながらもいわゆる西側諸国とは一線を敷いた外交路線をとっており、現在でも引き続き継続している。
地理[編集]
マレー半島南部(国土の4割)とボルネオ島北部(同6割)を領土とする。マレー半島でタイと、ボルネオ島でインドネシア、ブルネイと接する。領海はシンガポール、フィリピン、ベトナムと接する。
- インドネシアとはボルネオ島で広く隣接する。ほぼ同じ言語の国であり、ともに最大の宗教がイスラムである(ただし、マレーシアではイスラムは国教となっているがインドネシアではそうではない)。なおボルネオ島はインドネシアではカリマンタン島と呼ばれている。
- シンガポールとはジョホールバルの南からコーズウェイ(土手道)で、またジョホール州西部からはセカンドリンクと呼ばれる大橋で結ばれており経済的なつながりが強いが、政治的には衝突することが多い。
- ブルネイとはボルネオ島のサラワク州で国境を接し、同じ言語、宗教の国である。なおブルネイには飛地があり、マレーシアとの国境線は2本ある。
- フィリピンとは海域で接している。フィリピン諸島とボルネオ島の間に連なるスールー諸島にかつては王国が存在した。
一般的にはマレー半島の部分が「半島マレーシア(地区)」(Semenanjung Malaysia)、ボルネオ島の部分は「東マレーシア(地区)」(Malaysia Timur) と呼ばれる。また、マレー半島とボルネオ島間の往来は、マレーシア国民であってもパスポートを必要とする。マレー半島部分は南北740km、東西320kmで、ティティワンサ山脈が走る。ボルネオ島のキナバル国立公園にはUNESCO世界遺産に登録され、マレーシア最高峰のキナバル山(標高4,095m)が聳える。
熱帯気候だが海に囲まれるため気温は余り高くなく、湿度は1年を通じて高い。4月から10月の南西モンスーンと11月から3月の北東モンスーンの影響で年間降水量は2,500mmに達する。
地方行政区分[編集]
13の州と3つの連邦直轄領から構成される[16]。
- 主要都市町村
経済[編集]
IMFによると、マレーシアの2013年のGDPは3,124億ドルであり、一人当たりの名目GDPは10,548米ドルである。日本、シンガポール、香港などには遠く及ばないものの、一人当たりのGDPが10,000ドル以上という数値は、アジアの熱帯地域の中では珍しく高い方であり[1]、東ヨーロッパのルーマニアやクロアチア等と同水準である。
イギリス植民地時代からのゴムのプランテーションや錫の採掘、天然ガスの掘削など、特定の農作物や鉱物の生産が盛んであるが、マハティール・ビン・モハマド首相の指導の下、従来の農作物や鉱産物の輸出、観光業に依存した体質からの脱却を果たし、2020年に先進国入りするとの目標「ワワサン(マレー語でvisionの意)2020」を掲げた。
多くの東南アジア諸国が欧米列強の植民地支配の影響のため発展が遅れ、社会主義での失敗や工業化が進まない中で、マレーシアは約170年間植民地支配されていたにも関わらず日本を手本に工業化と経済成長を達成した事で、シンガポールと共に『東南アジアの優等生』と呼ばれている。しかし民族間での貧富の格差も大きいなど課題もある。
このように中進国クラスの経済力を持つがゆえに、マレーシアでは人件費が中国やタイと比べて高く、日本企業の進出は頭打ちの状態が続いていた。しかし尖閣諸島問題や歴史認識問題で鋭く日本と対立する中国でも経済成長によって人件費が高騰しており、タイでは洪水やサイクロンなどの自然災害や長く続く政情不安が懸念されている中、近年ではマレーシアに注目が集まっている。
工業化の成功[編集]
マハティール首相時代に様々な分野において国産化を推進する政策を打ち出した。なかでも国産車 (National Car) については、日本の三菱自動車の技術を導入した自動車メーカー「プロトン」(その後三菱との資本提携を解消し、ドイツのフォルクスワーゲン社と包括提携交渉を進めるも、個別案件での協力関係を模索することとなり、一方で再び三菱との技術提携を進めている)や、同じく日本のダイハツ工業の技術を導入した小型車メーカーのプロドゥアを設立し、政府の手厚い保護もあって国内シェアの約6割を両社で占めている。また、アジアやヨーロッパ諸国への輸出も行われている。
他にもルノーやデルコンピュータなどの外国企業の工場の誘致、港湾の整備、空港や鉄道などの各種交通インフラの充実など、主にインフラ整備と重工業の充実を中心とした経済政策を積極的に行い、一定の成果を結んでいる。
IT先進国政策[編集]
特に近年は、アジアにおけるIT先進国となるべく、ITインフラの整備や国内企業への支援などをはじめとする様々な経済政策を推し進めて来ており、インフラ整備が高く評価されてアメリカのデルコンピュータのアジアにおける生産拠点としての位置を確保した他、地元の関連産業が次々誕生するなど一定の成果を結んでいる。
その代表的なものとして、首都クアラルンプール周辺に建設された最新のITインフラが整備された総合開発地域マルチメディア・スーパーコリドーの建設が挙げられる。このマルチメディア・スーパーコリドーには、中核となるハイテク工業団地「サイバージャヤ」と、首相官邸や各省庁舎が立ち並ぶ行政都市「プトラジャヤ」、クアラルンプールの新しい空の玄関となるクアラルンプール国際空港、さらには同空港敷地内にF1マレーシアGPも開催されるセパン・インターナショナル・サーキットなどが建設された。
また、クアラルンプール市内では、20世紀までの高層建築としては世界で最も高いビル・ペトロナスツインタワーの建設などが行われた他、あわせて各種インフラの強化が行われた。
天然資源[編集]
マレーシアの鉱業はスズ鉱の採掘が中核となっている。イギリス領マラヤ時代に欧州資本が参入した。2002年時点の採掘量は4215トンであり、世界シェア8位 (1.7%) を占める。主な鉱山は、クダ州、ヌグリ・スンビラン州に点在する。
スズ以外の鉱物資源としては、金鉱(サラワク州、パハン州)、鉄鉱、ボーキサイト鉱(ジョホール州)、などが有力である。有機鉱物資源では、石炭、原油、天然ガスを産し、石炭以外は世界シェアの1%を超える。いずれもブルネイ・ダルサラーム国に近いサラワク州北部の浅海から産出する。日本が輸入する天然ガスの約20%はマレーシア産である。
リゾート開発[編集]
古くから世界的に有名であったペナン島などのほかに、近年ではボルネオ島やランカウイ島のリゾート開発などが行われている。これらの開発は、かねてからの主要産業の1つであった観光産業の振興にも貢献しており、政府観光局や航空会社との協力関係をもとに各国からの観光客の誘致に国を挙げて取り組んでいる。
リゾート地には、以下のものがある。
- ペナン島
- ランカウイ島
- ティオマン島
- パンコール島
- レダン島
- ボルネオ島(コタキナバル近郊ほか)
- キャメロンハイランド(キャメロン高原)
- ゲンティンハイランド(雲頂高原)
民族間の経済格差[編集]
マレーシアは人種別に一人当たりのGDPが異なる。2012年の統計の民族別の世帯平均月収は、華人が6,366リンギ、インド系が5,233リンギ、マレー系が4,457リンギだった[18]。華人が最も豊かなのは、マレーシア経済において支配的な立場にあるためだが、ペトロナスやプロトンといった政府系企業においては、ブミプトラ政策の影響でマレー系が独占的な立場[19]を有する。ただし、縁故採用の常態化といった問題から、すべてのマレー系住民が同政策の恩恵を受けているわけではない。結果として、マレー系コミュニティにおける経済格差は他民族と比較して極端に大きく、経済格差の規模は東南アジア最大である[20]。
都市部と農村部の経済格差問題もあり、マレーシア国内で月収が1,000リンギ以下の世帯が全体の8.6%にあたる49万8,800世帯に上っているという[21][22]。政府は、2013年より最低賃金制度を導入し、低所得者層の収入の増加を図ろうとしている[23]。
マレーシアで有力な経済人は華人系が圧倒的に多く、個人総資産額の上位の大半が華人系で占められている[24]。代表例としては、製糖事業で財を成したケリーグループを率いるロバート・クオック(郭鶴年)やパーム油(マレーシアの主要輸出品)関連事業を手掛けるIOIグループの最高責任者リー・シンチェン、シンガポールに拠点を持つ不動産業大手ホンリョングループ総帥クェック・レンチャンが挙げられる。また、華人系実業家の多くは、シンガポールや香港と関係が深く[25]、マレーシア政府との結び付きが弱いことに特徴がある。マレーシア企業でありながら拠点が国外(シンガポールや香港など)にあったり、事業の主要な収益源が海外である場合も少なくない。
一方、マレー系実業家の多くは政府と癒着関係にあり、官製企業の主要役職を務めていることが多い。例えば、プロトン社長のサイド・ザイナル・アビディンやペトロナスCEOにして原油輸出に関する国営企業AETの会長を務めるシャムスル・アズハル・アッバスなどである。
インド系は概して貧しい傾向にあるが、通信大手マクシス・コミュニケーションズの買収に成功した投資家にして国内第2位の富豪であるアナンダ・クリシュナンのような例外も存在する。また、印僑の父とポルトガル系マレー人(マラッカの少数民族)の母を持つトニー・フェルナンデス(エアアジア代表)のような人物も存在する。
交通[編集]
鉄道[編集]
マレー鉄道がタイ国境(西線。東線は国境付近まで)からシンガポール(マレー鉄道のシンガポール国内区間はマレーシアの権益)まで縦断している他、クアラルンプール周辺では高架電車や近郊通勤列車、モノレールが整備されている。
マレーシアではペナンとバターワースを結ぶリニアモーターカーの建設プロジェクトがあり、クアラルンプールとクアンタン、クアラルンプールとジョホールバルを結ぶ時速350キロの高速鉄道建設プロジェクトも検討されており、マレーシアの鉄道は近代化し高速化もする見込みである[26]。
自動車[編集]
イギリスの植民地時代から道路が整備されていたが、特に近年は都市部を中心に道路の整備が進んでおり、高速道路網の整備は非常に進んでいる。市街地では国産車・プロトンを使ったタクシーやバス路線網が発達しているが、一部整備状態の悪い車両もあり、またタクシーにおいては不当請求が常態化するなどの問題もある。
航空[編集]
国内の主要都市は、「ナショナルフラッグ・キャリア」のマレーシア航空や格安航空会社のエアアジアなどの航空会社により結ばれている他、これらの航空会社が諸外国との間を結んでいる。
特に東南アジアのハブ空港の1つとして1996年に完成したクアラルンプール国際空港は、ヨーロッパとオーストラリアとの間を結ぶ「カンガルー・ルート」の中継地の1つとして利用されている。
国民[編集]
多民族国家・民族構成[編集]
三つの主要民族と地域の歴史が複雑に入り混じって並存するマレーシアは、民族構成が極めて複雑な国の一つであり、多民族国家である。単純な人口比では、マレー系(約65%)、華人系(約24%)、インド系(印僑)(約8%)の順で多い。
マレー系の中には、サラワク州のイバン族、ビダユ族、サバ州のカダザン族、西マレーシアのオラン・アスリ (orang asli) などの先住民も含まれ、各民族がそれぞれの文化、風習、宗教を生かしたまま暮らしている。マレー半島北部(タイ深南部の国境周辺)では、かつてパタニ王国が存在したことから、同地域にはタイ系住民のコミュニティが存在する。ただし、これらの住民は「タイ王国に出自を持つマレー人」といった存在であり、一種の政治難民である(cf. パタニ連合解放組織)。もっとも、隣国同士だけに一般的な人的交流も盛んであり、主な大都市に存在するタイ系コミュニティは上記の歴史的経緯と特に関係はない。
他にも、先住民ではない少数民族として民族間における混血グループが複数存在し、華人系の混血(主に華人系とマレー系)(ババ・ニョニャ)やインド系とマレー系の混血(チッティ)、旧宗主国などのヨーロッパ系移民とアジア系の混血(ユーラシアン)が少数民族集団(マイノリティグループ)を形成している。
華僑系住民[編集]
華人系やインド系がそれぞれ「華僑」や「印僑」と称されることも多いが、その大半がイギリス統治下において奴隷的な立場で連れられてきた賃金労働者の子孫(cf. 苦力)[27]である。また、華僑としての出自を持つ華人系の多くは、シンガポールを拠点に貿易業を営んでいた者や清朝崩壊(あるいは中国国民党の追放)後の政治難民が多い(cf. 浙江財閥)。事実、華人系マレーシア人の多くが話す中国語は、広東語や福建語、客家語、潮州語(まれに上海語)といった南方系方言であり、中国本土で一般的に使われる普通話(北方系方言)とは異なる。但し多くの華人系の子女は中華系の学校に就学し、北京語(華語、Mandarinと呼称される)を学ぶので、北京語をベースとした普通話との意思疎通は可能である。一方、プラナカン(海峡華人)のように中国語がまったく話せない華人系住民も少なくなく、また中国語での会話はできるが漢字が読めない華人系は多数存在する。
ちなみに、かつてマラッカ海峡を拠点とした海賊(後期倭寇)の末裔もいるとされるが、統計的に言えば「華人系」のカテゴリに吸収される。
華人系には極少数であるがイスラム教徒もいる[28]。
プラナカン(海峡華人)[編集]
華人系の中には英語のみを母語とする家系が存在する。これら英語話者の華人系住民は、英国統治下の時代に「英国人」として海峡植民地(ペナン、マラッカ、シンガポール)において支配階層(英籍海峡華人公会[29])を形成していた華僑の末裔であり、出稼ぎ労働者として移り住んだグループ(トトックと呼ばれる[30])と区別してプラナカン(海峡/英語派華人[31])と呼ばれる[32]。その多くが旧宗主国に忠誠を誓ったため、故郷(中国本土)との関係が希薄となった。現在でも本土との関わり合いはほとんどなく、逆にシンガポールやインドネシアに住む華人グループとの結び付きが深い。例えば、シンガポールの人民行動党は、独立以前のシンガポール周辺地域におけるプラナカン系の民族政党という出自を持ち、現在でもマレーシアの華人系政党(民主行動党)と友好関係にある[33]。ちなみに、シンガポールの初代首相リー・クアンユーは、プラナカンの代表的な人物である。
プラナカンとマレー人や英国人などの他の民族との混血のことをババ(男)・ニョニャ(女)と呼ぶ。いずれも華人系であり、混血化が起きてからかなり経つ場合もあるため、プラナカンとババ・ニョニャの区別は曖昧[34]なこともある。
インド系住民[編集]
「印僑」とも呼ばれることのあるインド系は南インド出身者(タミール人)が多く、マレーシアにおけるインド文化もタミール人の風習を色濃く受け継いでいる。ただし、かつてはアーリア系の北インド出身者も少なくなく、高い社会的地位を享受していた[35]。しかし、70年代を通してマレー系の地位が飛躍的に向上したことから、富裕層であった北インド出身者の帰国が相次ぎ、結果として貧困層が多い南インド系が主流となったといわれる[36]。
現在はサイバージャヤといった地域でIT系の技術者として働くために本土から移民してきた新世代も増えつつある。ごく小規模だが、パンジャーブ人(シク教徒)のコミュニティも存在し、弁護士・会計士などの職業についているものも多い。
タミール系移民がイスラムに改宗した「ママック(あるいはママッ)」と呼ばれる民族グループもある。ママックは「ママック・ギャング」で知られる通り、インド系に横たわる貧困問題を背景としてマフィア化が進んでいる[37]。「ママック」は蔑称とされることもある[38]。
なお、マハティール元首相は母親がマレー系、父親がインド南部のケララ州からの移民であり、「マレー系」であるのか「インド系」であるのか出自問題が議論されたこともある。
混血系住民[編集]
ユーラシアンとは「ヨーロッパ (Euro-) とアジア (Asian)」を意味する少数民族のことであり、旧宗主国からやって来たヨーロッパ人とマレー人あるいはアジア系移民との混血系を指す。
他に、ポルトガル系とマレー系の混血をクリスタンと呼称し、オランダ系あるいは英国系との混血のみをユーラシアンとする考え方もある[39]。これらユーラシアン系の大半はマラッカおよびペナン周辺に居住区を構えている。
また、華人系とインド系の結婚もみられ、両民族間で生まれた子どもをチンディアン[40]と呼ぶ。
民族対立[編集]
マレーシア史上最大の民族対立事件である5月13日事件以降、華人系とマレー系の対立構造が鮮明となった。
マレー系の保守政治家の一部が「他民族が居座っている」または「間借り人である」といった趣旨の差別発言することがあるが[41][42]、マレーシア建国時(憲法上「マレーシアの日」と呼ぶ[43])の協定(1957年制定マレーシア憲法第3章[44])において、マレー半島およびボルネオ島の該当地域で生まれたすべての居住者に国民となる権利が認められているため、正確な理解とは言えない。この発言にも見られるように、マレーシアは多民族社会とはいえ、その内情は必ずしも平和的なものではなく、民族間の関係は常に一定の緊張をはらんだものとなっている。
実際、各民族の居住地域は明らかな偏りがあり、例えば華人系はジョホール・バルやクチン、ペナン(ジョージタウン)、イポー、コタ・キナバルといった都市部に集団で居住していることが多く、インド系は半島南部やボルネオ島西部の農村部、あるいは大都市圏のスラム化した地域に多い。唯一、最大都市クアラルンプールのみが国全体の民族比率に準じているが、生活習慣の違いといった理由から、民族間の交流はあまり盛んではない。
2008年には、住民を起訴なしで無期限拘束できる国内治安法に対する大規模な反対集会が開かれ、翌年にも同様のデモが行われた[45][46]。
言語[編集]
公用語の名称は「マレー語」か「マレーシア語」であるかの議論が今も続いている。広義の「マレー語」はインドネシア語などを含む場合があるため、政府が「マレーシアの国語としてのマレー語」を「マレーシア語(Bahasa Malaysia バハサ・マレーシア)」と呼ぶことを定め、この呼称が2007年より正式に使われているとの説を採る一部の学者に対して、憲法第152条の明記やら大学教育機関での名称を考慮して飽くまでも「国語はマレー語(bahasa Melayu)である」とする多数の学者がマレーシア国内外に存在する。
1967年まで公用語であった英語は、現在は準公用語として広く使用され、マレーシア語とともに各民族間の共通語の役割を担っている。
- マレー人はマレー語を母語にしているが、東マレーシアのサバ州・サラワク州ではイバン語、ビダユ語、カダザン語などを母語とする先住民もいる。またマレー半島でも東海岸では、少ないながらもアスル語(先住民オラン・アスリの諸言語)話者も存在する。マレー語は固有の文字を持たなかったため、アラビア文字を改良したジャウィ文字が使用されていた。現在ではローマ字表記が用いられているが、ジャウィ文字もごく一部で使用されている。一部のマレー系民族主義者のグループから道路標識などを全面的にジャウィ文字にすべき、などといった主張もされることもあり、中華系からの反発を呼んでいる。
- 華人は、かつて中国南部から移ってきた人びとが多く、広東語、福建語(閩南語)、潮州語、客家語潮州語などの地方語が母語になっているが、中国語の学校教育は北京語に近い普通話で行われているのでこれが共通語になっている。漢字は繁体字も簡体字も使用されているが、学校教育では簡体字、商店や商品包装では繁体字が主に使用されている。
- インド系住民は多くがタミル語を母語としている。
英語を母語とするマレー人、華人、インド人も多く、また中国地方語の種類も多く、世界でも有数のマルチリンガルが多い環境となっている。
近年、華人以外も中国語教育が盛んで、少なくともホテルや観光地、ビジネスでは中国語だけで事足りるほどであり、これは同じく華人の多い隣国タイとは大きな違いである。ただし、中国語がかなり話せても漢字は殆ど書けないという人も多い。
宗教[編集]
イスラム教が国教であり、マレー系を中心に広く信仰されている。中国系は仏教、インド系はヒンドゥー教徒が多い。また、イギリス植民地時代の影響でキリスト教徒もいる。東アジアの非イスラム教国に住むムスリム(イスラム教徒)は、一般にマレーシアの見解に従うことが多い。
なお、マレーシア政府は先住民族を原則としてムスリムとして扱い、イスラム以外の信仰を認めていない(ブミプトラ政策の影響)。しかし、実際には無宗教であったり、伝統宗教(アニミズム)やキリスト教を信仰する先住民も存在する。
イスラム教徒と婚姻関係を結んだ場合、イスラム法の関係で非ムスリムも必ずイスラムへ改宗し、イスラム風の名前を名乗らなければならないため、ムスリムであることが法的義務とされるマレー系住民と結婚する他民族は少ない[47]。ただし、オラン・アスリと呼ばれる先住少数民族は、登録上はマレー人とされるが必ずしももムスリムではない[48]こともあり、特にサラワクでは華人系との婚姻が珍しくない。
近年では、非イスラム関連の出版物において神を「アラー」と表記できるかどうかが国民的な議論[49]を呼び、政府がその使用を禁じたことから、キリスト教の司祭(カトリック関連雑誌の編集者)が政府を相手取って裁判を起こす事態にまで発展した[50]。結果として、クアラルンプール高等裁判所が政府の見解を退けたが、これに国内のムスリム勢力が反発、カトリック教会を襲撃する事件が相次いだ[51][52][53]。また、今度はその報復と見られるモスクに対する嫌がらせが続発しており[54][55][56]、宗教間における対立も激しさを増している。
教育[編集]
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マレーシアの公用語はマレーシア語であるが、タミル語と中国語、英語も教授言語となっている。小中学校では、民族別にマレーシア語、中国語、タミル語が教える学校によって異なって使用されており、いずれの学校でもマレーシア語と英語が必修科目になっている。
教育制度はかつてイギリスの植民地であったことからイギリスとよく似ている。教育制度は小学校6年(primary school、またはSekolah Rendah Kebangsaan・Standard 1~6)、中等学校3年と高等学校2年(secondary school、またはSekolah Menengah Kebangsaan・Form 1~5)、大学進学課程2年(Lower 6とUpper 6)、大学3年~6年。マレーシア教育省は学問修了の国家的な試験を実施しており、小学校修了時はUPSR、中等学校Form 3でPMR、高等学校Form 5でSPM、その後の高等教育過程学年のLower 6にてSTPM、Upper 6にてSTTPMなどの試験を受ける。複雑なのは、マレー系の小学校を修了しUPSRを受験したものは、試験の結果に関わらずそのまま中等学校のForm 1に進級できるのだが、中国系またはインド系の小学校の修了試験でマレー語の科目で成績が悪い場合はForm 1に進級することはできず、1年の予備学年 (Peralihan/Remove Class) を履修してからでなければ、Form 1には進級できない。Form 5終了時のSPM試験の成績優秀者は、新聞の全国版に大々的に発表される。
公立の中国語学校は小学校までしかないので、卒業後は一般の(マレー語主体の)公立学校や、私立学校に進むことになる。公立の学校の中には、数は少ないが中国語を課外授業として選択できる学校や、正規の授業として中国語を取り入れている学校(華中と呼ばれる)もある。現在、華中は人気があるため、UPSRの結果がよくなければ入学も困難である。
中国系の私立学校は独立中学校 (Chinese Independent High School) と呼ばれ、マレー風の名前の付く私立学校の5年間のKBSMとは別の6年間の中国語を主体とした教育を行っており、そこに通う子供たちはSPM PMRの中国語版とも言える「独立中学統一試験」を受けることになる。この試験は台湾や日本やアメリカなどマレーシア以外の国で高校の卒業資格として認められるため、卒業後は台湾を初めとする海外の大学に留学する子供の割合が多い。
華僑には教育熱心な家庭が多く、シンガポールに隣接するジョホールバルでは、より高度な教育を受けさせるために、子弟をシンガポールに越境通学させる家庭もある(朝夕にはシンガポールに通う学生のための通学バスや、学生専用の税関レーンまで存在する)。
主な高等教育機関としては、マラヤ大学(1949年設立)、マレーシア国民大学(1970年設立)、マレーシア工科大学(1975年設立)、マレーシア科学大学(マレーシアサインズ大学)(1969年設立)などが挙げられる。
文化[編集]
食文化[編集]
イスラム国家ではあるが、華人や外国人は飲酒も可能、豚肉も食べたりと非常に食の自由度が高い(マレー系はムスリムであり、酒や豚肉を口にしない)。特に中華系移民の間から発祥したマレーシアでしか味わえない食べ物もある。中でも肉骨茶(バクテー)は人気が高い。南国なのでフルーツは非常に多彩であるが、多くが国外からの輸入である。マレーシアの食料自給率は高いとはいえない。有名なドリアンは最もポピュラーな果物の一つであり、屋台などでも容易に購入できる。
マレー料理の代表として、ココナッツミルクで炊いたご飯に油で揚げたにぼし・ピーナッツ、ゆで玉子・きゅうりを乗せ辛いソースを添えたナシレマッがあげられる。
インド系料理の代表として、ロティやトサイという米粉や小麦粉をクレープ状に焼いたものに、カレー風味のソースをつけて食べる朝食がある。
マレーシア人は良く魚を食べており、魚介類消費量は1人当たり年56.5キロと日本より多い。一方で、マレーシアの漁獲高は年を追うごとに減り続けており、世界自然保護基金はこのままだとマレーシアの水産資源は2048年に枯渇するとしている[57]。
音楽[編集]
西欧の現代音楽シーンとは係わり合いがなさそうに思えるが、21世紀以降、タズル・イザン・タジュッディン、キー・ヨン・チョン、アエノン・ジャエン・ルー、ジィ・アーヴィなどの新世代は海外で積極的に評価され、国際的にトップレベルの水準に達していることで知られる。
世界遺産[編集]
マレーシア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が2件、自然遺産が2件存在する。
祝祭日[編集]
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 正月 | Tahun Baru | |
旧暦1月1日・1月2日 | 旧正月 | Tahun Baru Cina | |
ヒジュラ暦第3月12日 | ムハンマド誕生日 | Maulidur Rasul | |
5月1日 | メーデー | Hari Pekerja | |
5月の満月 | 釈迦誕生日 | Hari Wesak | |
6月第1土曜日 | 国王誕生日 | Hari Keputeraan Agong | |
8月31日 | 国家記念日 | Hari Kebangsaan | |
9月16日 | マレーシア・デイ | Hari Malaysia | 2010年から施行 |
ヒジュラ暦第10月1日・2日 | イスラム断食明け | Hari Raya Puasa (Eid Al-Fitr) | |
ヒンドゥー暦6月 | ディーパバリ | Deepavali | |
ヒジュラ暦第12月10日 | メッカ巡礼祭(犠牲祭) | Hari Raya Haji (Eid Al-Adha) | |
ヒジュラ暦第1月1日 | イスラム新年 | Awal Muharam (Maal Hijrah) | |
12月25日 | キリスト誕生日 | Christmas |
上記祝日以外に、州毎にスルタンの誕生日を祝う祝日、タイプーサム(ヒンドゥー教の祭日。州による)、2月1日は連邦領記念日(連邦領のみ)が、地域に応じた祝日となっている。祝日が日曜に重なるものは、翌日が振替休日となる。
脚注[編集]
- ^ a b c d e “World Economic Outlook Database, April 2014” (英語). IMF (2014年4月). 2014年10月4日閲覧。
- ^ 英国の規程法データベース: 連邦マラヤ独立法1957年の (c. 60)
- ^ 国連条約第10760, 契約は、グレートブリテン及び北部アイルランド、マラヤ連邦、北ボルネオ、サラワク、シンガポールのイギリスの間、マレーシアに関連する
- ^ Himansu Bhusan Sarkar (1970). Some contributions of India to the ancient civilisation of Indonesia and Malaysia. Calcutta: Punthi Pustak. p. 8.
- ^ D'Urville, Jules-Sébastien-César Dumont; Isabel Ollivier, Antoine de Biran, and Geoffrey Clark. "On the Islands of the Great Ocean". The Journal of Pacific History (Taylor & Francis, Ltd.) 38 (2). http://www.jstor.org/stable/25169637.
- ^ Sakai, Manako. Reviving Malay Connections in Southeast Asia.
- ^ NNA ASIA 金融管理庁、資金洗浄問題で3行を処分 2016/10/12
- ^ 平成25年防衛白書 第I部 わが国を取り巻く安全保障環境 第5節 東南アジア
- ^ “マレーシア1月の輸出、前年同月比で12.2%の増加…前月比2.7%減”. Response.. (2014年3月7日). http://response.jp/article/2014/03/07/218716.html 2014年3月8日閲覧。
- ^ a b NHKBS1「きょうの世界」2010年4月19日放送回より
- ^ Stuart Grudgings (2014年3月1日). “焦点:南シナ海で狭まる「中国包囲網」、友好国マレーシアも態度硬化”. Reuters. http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYEA2000020140301 2014年1月28日閲覧。
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- ^ Shannon TEOH (2014年9月12日). “魚の声を聞くマレーシア伝統漁、風前のともしび”. AFPBB News. http://www.afpbb.com/articles/-/3025836 2014年9月13日閲覧。
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 政府
- 日本政府
- 日本外務省 - マレーシア (日本語)
- 在マレーシア日本国大使館 (日本語)
- 観光
- マレーシア観光省 (英語)
- マレーシア政府観光局 (日本語)
- 東マレーシア・ボルネオ・サバ州政府観光局・オフィシャルブログ (日本語)
- その他
- JETRO - マレーシア (日本語)
- 日本アセアンセンター - マレーシア (日本語)
- マレーシア - Open Directory Project(英語)
- マレーシアのウィキメディア地図(英語)
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座標: 北緯3度08分 東経101度42分 / 北緯3.133度 東経101.700度 / 3.133; 101.700 (マレーシア)
クアラルンプール - Wikipedia
クアラルンプール(英語: Kuala Lumpur)は、マレーシアの首都で、東南アジア有数の世界都市に数えられる。マレー半島南部の丘陵地帯にある。一般的にKLと略して称される。
概要[編集]
クアラルンプールはマレーシア語で「泥が合流する場所」という意味があり、市中心部にある代表的なモスク「ジャメ・モスク」の付近で、ゴンバック川とクラン川が合流していることが基になっている。正式には連邦領クアラルンプール(Wilayah Persekutuan Kuala Lumpur)と称し、中国語では吉隆坡(北京語読みは「ジーロンポー、拼音: 」、広東語読みは「ガッルンポ―、Gat1lung4po1」)と記される。
多民族が平和的に共存するマレーシアの首都らしく、多彩な文化が混ざり合ったことがかもし出す賑やかな雰囲気が特徴である。近年は高速道路や市内鉄道、モノレールなどのインフラ開発が進み、豊かな緑の中に高層ビルが立ち並ぶ東南アジア有数の近代都市となった。また、東南アジアの大都市には珍しく、市街地が清潔で治安がいいことも特徴である。
日本の民間研究所が2016年に発表した「世界の都市総合力ランキング」では、世界32位と評価されており、東南アジアではシンガポールに次ぐ2位である[1]。また、アメリカのシンクタンクが2016年に発表した世界都市ランキングでは、世界49位と評価されており、東南アジアではシンガポール、バンコクに次ぐ3位である[2]。
連邦政府機能を市東南郊外の新行政都市プトラジャヤ(Putrajaya)へ移す計画が進行中。
歴史[編集]
クアラルンプールは中国人の移民者によって、スズの採掘拠点として1857年に開発された。彼らはクラン川とゴンバック川の合流点に落ちつき、そこをクアラルンプール、すなわち「泥(lumpur)が合流する場所(kuala)」と呼んだ。
イギリスに支配された1873~1957年のうちに、スズとゴム産出の中心として発展し、1874年にイギリスの政治介入をスルタンに了承させる内容のパンコール条約を締結。1896年にはイギリスによって統合された、イギリス保護下のマレー連合州の首都となった。都市計画や建物の多くはリヴァプール市長の息子であった若手設計家アーサー・ベニソン・ヒューバック(en)によってミナレットやドーム天井などのモスクの建築様式を基にした案が採用された。
第二次世界大戦中の1942年1月に、マレー一帯を支配するイギリス軍が日本軍によって制圧される「クアラルンプールの戦い」によって、クアラルンプールは日本の統治下に入ったが、1945年8月の終戦によって再びイギリス統治になった。
1957年8月31日、マラヤ連邦がイギリスから独立してクアラルンプールはその首都となり、1963年にマレーシア連邦が結成されてからも同国の首都の座を維持した。1974年、スランゴール州から分離してマレーシアの直轄地域となる。その後もマレーシアは順調に成長を続けていたものの、1997年にタイから始まったアジア通貨危機で大打撃を被った。これは第二次世界大戦以来、右肩上がりの成長を続けていたマレーシアが初めて体験する大きな試練だった。翌年1998年は、クアラルンプールがアジアでは初のコモンウェルスゲームズの開催都市となった。
1995年プトラジャヤの開発計画と、連邦政府の同地域への移転が閣議決定された[3]。
連邦政府機能移転計画[編集]
クアラルンプールに連邦行政機関が点在し、また市内が慢性的な交通渋滞に見舞われており。市内は特に悪化の傾向にある。このため政府は行政機能の非効率性を解決するために、マルチメディア・スーパーコリドー計画の一環としてクアラルンプール郊外のプトラジャヤにITを基盤とした行政都市を建設し、連邦政府機能を移転する計画を決定した。プトラジャヤの開発は1995年に着手された。
1999年に首相オフィスと首相府の移転が行われ、2000年以降各省の移転が順次始まる。計画では国防省、連邦議会など一部を除くほとんどの連邦政府機能が2010年までに移転する予定。しかし2011年初頭も計画は継続中。
なお、連邦政府の移転が完了した後も、マレーシアの首都はクアラルンプールのまま[3]。
地理[編集]
気候[編集]
典型的な熱帯雨林気候で、年間を通して降水量が多い常夏の気候である。4月前後と11月前後が特に降水量が多いが、主に夕立として降り、終日降る日は多くない。
[隠す]Subang Jaya (Approximation 8 km distance from Kuala Lumpur City Centre)の気候 | |||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
月 | 1月 | 2月 | 3月 | 4月 | 5月 | 6月 | 7月 | 8月 | 9月 | 10月 | 11月 | 12月 | 年 |
最高気温記録 °C (°F) | 36 (97) |
37 (99) |
37 (99) |
36 (97) |
36 (97) |
36 (97) |
36 (97) |
36 (97) |
35 (95) |
35 (95) |
35 (95) |
35 (95) |
37 (99) |
平均最高気温 °C (°F) | 32.1 (89.8) |
32.9 (91.2) |
33.2 (91.8) |
33.1 (91.6) |
32.9 (91.2) |
32.7 (90.9) |
32.3 (90.1) |
32.1 (89.8) |
32.1 (89.8) |
32.1 (89.8) |
31.6 (88.9) |
31.5 (88.7) |
32.4 (90.3) |
平均最低気温 °C (°F) | 22.5 (72.5) |
22.8 (73) |
23.2 (73.8) |
23.7 (74.7) |
23.9 (75) |
23.6 (74.5) |
23.2 (73.8) |
23.1 (73.6) |
23.2 (73.8) |
23.2 (73.8) |
23.2 (73.8) |
22.9 (73.2) |
23.2 (73.8) |
最低気温記録 °C (°F) | 18 (64) |
20 (68) |
20 (68) |
21 (70) |
21 (70) |
20 (68) |
19 (66) |
20 (68) |
20 (68) |
21 (70) |
21 (70) |
19 (66) |
18 (64) |
雨量 mm (inch) | 169.5 (6.673) |
165.4 (6.512) |
240.9 (9.484) |
259.2 (10.205) |
204.4 (8.047) |
125.3 (4.933) |
127.2 (5.008) |
155.7 (6.13) |
192.8 (7.591) |
253.1 (9.965) |
287.8 (11.331) |
245.7 (9.673) |
2,427 (95.551) |
平均降雨日数 (≥ 1.0 mm) | 11 | 12 | 14 | 16 | 13 | 9 | 10 | 11 | 13 | 16 | 18 | 15 | 158 |
% 湿度 | 79 | 79 | 78 | 80 | 82 | 80 | 79 | 79 | 80 | 81 | 82 | 79 | 80 |
平均月間日照時間 | 186.0 | 194.9 | 207.7 | 198.0 | 207.7 | 195.0 | 201.5 | 189.1 | 165.0 | 170.5 | 153.0 | 161.2 | 2,229.6 |
出典 1: World Meteorological Organization (normals 1971-2000),[5] Hong Kong Observatory (sun only 1961-1990)[6] | |||||||||||||
出典 2: BBC Weather (records)[7] |
マルチメディア・スーパーコリドー[編集]
マハティール・ビン・モハマド前首相の指導の下でクアラルンプール南部周辺に建設された、最新のITインフラが整備された総合開発地域が、「マルチメディア・スーパーコリドー」である。その中核となるのは、「サイバージャヤ」と呼ばれるハイテク工業団地と、新行政都市「プトラジャヤ」、クアラルンプール国際空港等で、F1・マレーシアGPが行われるセパンサーキットもこの地域内にある。
教育[編集]
- 国立マレーシア大学(Universiti Kebangsaan Malaysia)
- マラヤ大学
- 国際医科大学(IMU)
- マレーシア工科大学
- クアラルンプール大学
- マレーシア放送大学
- ワワサン放送大学
- クアラルンプール日本人学校
観光[編集]
KLCC地区[編集]
- ペトロナスツインタワー・・・最寄り駅はKLCC駅
- 大人はRM80、小人はRM30で中間にあるタワーを結ぶ歩道橋に登ることができる。登上人数に制限があるため朝8時から整理券が配られる。
- 各階にトイレもあり、清掃も非常に行き届いた、きれいな巨大ショッピングモール
- 伊勢丹、紀伊國屋、ペトロナス・ギャラリー、フード・コート等の他ブランドショップ、レストランなどが入っている。
- KLCC公園(Kuala Lumper City Center Park)
- スリアKLCCの隣にある高層ビルに囲まれた公園でツインタワーの目の前には大きな噴水がある。広大な敷地には約1900種のマレーシア原生林が植林されており、園内を1周する遊歩道は1.4kmに及ぶ。
ブキッ・ビンタン地区[編集]
- 若者で賑わうクアラルンプール随一の繁華街であり、ホテル、巨大ショッピングセンター、レストランなどが集中している。
- 目抜き通りであるブキッ・ビンタン通りには、Starhill Gallery、Fahrenheit、BB Plaza、Lot 10、Sungei Wang Plaza、Pavilionなどの巨大ショッピングセンターが立ち並んでいる。インビ駅の近くには、クアラルンプールの秋葉原と呼ばれるPlaza Low Yatやテーマパーク、ホテル、ショッピングセンターを兼ね備えたベルジャヤ・タイムズ・スクエアもある。都会的な雰囲気のブキッ・ビンタン通りの北西側には、50軒以上の中華屋台が立ち並ぶアロー通りがあり、通り1本隔てるだけで雰囲気が大きく異なる。
- また、片言の日本語で客引きをするマッサージ店も多数あり、足裏、全身、オイルの他、最近はドクターフィッシュを導入している店が多い。料金は1時間1500円程度。
KLセントラル駅周辺[編集]
- チャイナタウンは夕方から夜にかけて海賊版DVD、偽ブランド品等が露天にて販売されている。
- セントラル・マーケット・・・最寄り駅はパサール・セニ駅など
- 2階建てで、各階には土産物店が軒を連ね、2階にはフードコートがある。
- 英国植民地時代の1910年に建てられた、ムーア建築の面影を残す歴史的建造物で観光名所にもなっている。
- 現在も駅舎として利用されているが、KTMコミューターが停車するのみ。
- KLIAエクスプレスの発着駅となる近代的なデザインの新駅で、クアラルンプールの交通の要所になっている。
- ヒルトン・クアラルンプールとホテル・メリディアンが併設されている。
- マスジッド・ネガラ(国立モスク)
- マレーシアの国教であるイスラム教の総本山的建物。
- 1956年に建設され、高さ73mの光塔がそびえたっている。
- 礼拝堂にはイスラム教徒以外入れない。
ブキッ・ナナス駅周辺[編集]
- 1996年に完成した高さ421mの通信タワーであり、地上276mの展望台からクアラ・ルンプール市街を一望することができる。
- すぐ近くのペトロナスツインタワーとともに、クアラルンプールのランドマークとなっている。
- また、タワーが建っている"ブキッナナス"とは標高94mの丘を意味しており、すぐ近くのペトロナスツインタワーより実際には高く見える。
- KLタワーのある高台の麓から無料リムジンが出ており、夜まで展望台に登ることが出来る。
- 無料で日本語で説明される機械を借りることが出来る。
- 入場料は大人:RM38, 子供:RM28(2010年9月現在)
ムルデカ・スクエア周辺[編集]
ムルデカ・スクエア周辺には、19世紀後半~20世紀初頭にかけて造られた歴史的・文化的な建物が集まっている。最寄り駅はマスジット・ジャメ駅。
- ムルデカ・スクエア(独立広場)
- ムルデカ・スクエアは1957年8月31日に独立が宣言された歴史的な場所であり、独立記念日の式典が毎年ここで行われている。
- なお「ムルデカ」とはマレー語で独立を意味する。
- マスジッド・ジャメ(ジャメモスク)
- マスジッド・ジャメは、クアラルンプールの発祥の地であるクラン川とゴンバック川の合流地点に建っており、1909年に建てられた市内最古のモスクである。
- クアラ・ルンプールが大英帝国によって植民地支配されていた時代からある建物。
郊外[編集]
- 毎春F1グランプリが開かれるサーキット。クアラルンプール国際空港の近く。
- マレーシアの行政の中心。
- 高原にあるホテルでカジノを楽しむことができる。クアラルンプールから約1時間。
- スルタン・サラディン・アブドゥル・アジズ・モスク(ブルー・モスク)
- 近郊の街シャー・アラムにある、青色の美しいモスク。
交通[編集]
鉄道[編集]
市内は市内電車(LRT)やモノレールなどで縦横に結ばれており、英語とマレー語の表記があるため外国人でも気軽に利用できる。中心となる駅はクアラルンプール・セントラル駅で、KTM各路線、KLモノレール、KLIAエクスプレス、KLIAトランジットの発着駅となっている。明るく開放的な雰囲気で、案内板には日本語も併記されている。 KTM Commuterの2路線が交わるマスジット・ジャメ駅やペトロナスツインタワーの最寄り駅であるKLCC駅も、市内の主要駅である。
バス[編集]
市内では、バスの路線網やタクシーを使って安価な移動が可能である。バス運行会社、Rapid KL(ラピドKL)は市内電車(LRT)やモノレールなども運行している。
市外からクアラルンプールに発着する長距離バスの多くは、2010年ころまでチャイナタウンの近くにあるプドゥラヤ・バスターミナルに発着していた。
2011年初頭には、クアラルンプール郊外のBandar Tasik Selatanに新たにバスターミナルが建設され、マラッカ・ジョホールバル・シンガポール向けなどクアラルンプール以南方面発着便はこの新設されたバスターミナルを使用している。(T.B.S.バンダー・タシック・スラタン・バスターミナル<Terminal Bersepadu Selatan Bandar Tasik Selatan (TBS-BTS)>
長い間使用されていたプドゥラヤ・バスターミナルは、2010年から大改装され、2011年4月頃に再オープンした。しかし、クアラルンプール以南は上記TBS-BTSからの発着となり、新プドゥラヤは主にアロースター、イポー、ペナンなどマレー半島の北部主要都市および、クアラルンプール近郊区間(ゲンティンハイランド、スレンバンも近郊エリアに含む)、クアラルンプール国際空港(メインターミナル経由、LCCターミナル行き)方面も運行されている。
航空[編集]
市の郊外には、マレーシアの空の玄関であるクアラルンプール国際空港 (KLIA) が存在する。同空港からは日本の東京(成田空港)や大阪(関西空港)、北海道(新千歳空港)へ直行便が運航されている他、各地の空港とのチャーター便が運航されることも多い。日本の他、アジア地域では香港、バンコク、シンガポール、ベトナムなどへの直行便が運行されており、マレーシア航空や日本航空といった航空会社に加え、エアアジアのような格安航空会社も就航している。2010年9月21日には、エアアジアが羽田空港に第4滑走路がオープンするのを機に、クアラルンプール-羽田間を12月9日から週3便運航すると発表し、キャンペーンとして、エコノミーシートの一部を片道5000円で販売した。ただし、エアアジアは別ターミナルのLCCT (Low Cost Career Terminal) からの発着となるので、マレーシア航空や他のメインターミナル使用の航空会社との乗り継ぎにはある程度時間を必要とする。
空港とクアラルンプール市内を結ぶ交通手段としてはKLIAエクスプレスがあり、市内のKLセントラル駅から空港までをノンストップで28分間で結んでいる。駅構内にはマレー語、英語、日本語の案内看板が設置されている。旧LCCターミナルにはエアポートエクスプレスは乗り入れていなかったが、2014年5月のKLIA2(新LCCターミナル)開業に伴い、停車するようになった。その他、タクシーを利用することもできる。
また、市の南西に位置するスバン空港からは一部の国内路線が出ている。
宿泊[編集]
世界各国のホテルチェーンの高級ホテルが市内のブキッ・ビンタンやKLCC周辺に集中するほか、ゴールデントライアングルと呼ばれる地域などに点在する。なお、観光客とビジネス客誘致のために宿泊料金はアジアの主要都市の中でもかなり格安に抑えられているため、観光客の支出が少ない都市の上位にランクされる例がある。高級ホテルは全館禁煙の例も少なくなく、各国から訪れるイスラム教徒の宿泊客が多いため、朝食などに豚肉を使わない配慮がされている。
主なホテル[編集]
- シャングリ・ラ・クアラルンプール
- マンダリン・オリエンタル・クアラルンプール
- メリディアン・クアラルンプール
- ヒルトン・クアラルンプール
- インターコンチネンタル・クアラルンプール(旧ニッコー・クアラルンプール)
- リッツカールトン・クアラルンプール
- J.W.マリオット
- ミレニアム・クアラルンプール(旧ザ・リージェント)
- シェラトン・インペリアル・クアラルンプール
- コンコルド
- プリンスホテル&レジデンス・クアラルンプール
姉妹都市[編集]
- マシュハド、イラン (2006年10月)[8]
- イスファハン、イラン[9]
- カサブランカ、モロッコ[10]
- マラッカ、マレーシア (1989年4月5日)[10]
- 大阪、日本[10]
- アンカラ、 トルコ[11]
- デリー、インド[12]
脚注[編集]
- ^ 世界の都市総合力ランキング(GPCI) 2016 森記念財団都市戦略研究所 2016年11月2日閲覧。
- ^ Global Cities 2016 AT Kearney 2016年11月2日閲覧。
- ^ a b マレーシアの首都機能移転 国土交通省
- ^ Demographia: World Urban Areas & Population Projections
- ^ “World Weather Information Service - Kuala Lumpur”. World Meteorological Organization. 2013年1月13日閲覧。
- ^ “Climatological Information for Kuala Lumpur, Malaysia”. Hong Kong Observatory. 2013年1月13日閲覧。
- ^ “Average Conditions: Kuala Lumpur”. BBC. 2013年1月13日閲覧。
- ^ “Mashad-Kuala Lumpur Become Sister cities”. FARS News Agency. (2006年10月14日). http://kuala-lumpur-news.newslib.com/story/453-3234431/ 2007年12月4日閲覧。
- ^ “Sisterhoods”. Isfahan Islamic Council (2005年). 2007年12月4日閲覧。
- ^ a b c Kuala Lumpur fact file, Asian-Pacific City Summit. Retrieved on November 3, 2007.
- ^ Lam, Edwin Chong Wai (2006年6月24日). “Kuala Lumpur: the Scent of a City”. Chessbase News. http://www.chessbase.com/newsdetail.asp?newsid=3201 2007年12月4日閲覧。
- ^ Delhi to London, it’s a sister act The Times of India. Retrieved on August 30, 2008
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 行政
- クアラルンプール市公式サイト (英語)
- 日本政府
- 在マレーシア日本国大使館 (日本語)
- 観光
- クアラルンプール観光局 (英語)
- マレーシア政府観光局 - クアラルンプール (日本語)
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座標: 北緯3度8分0秒 東経101度42分0秒 / 北緯3.13333度 東経101.70000度 / 3.13333; 101.70000
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