5月21日(土曜)午後1時~5時
“理想の郊外住宅地”池田を歩く
集合/阪急「池田」駅 改札口前
解散/阪急「石橋」駅
講師/高野弥和子氏(池田市立歴史民俗資料館 学芸員)
定員/20人(多数抽選)
申込締切/5月10日(火曜)必着
池田駅⇒室町 明治43年
池田室町として1910年(明治43年)に大阪の箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄)が開発した戸建タイプの分譲住宅地で、これは日本初の鉄道会社による宅地開発がなされたもの。古くからある呉服神社を中心にして、神社と軸線をずらした区画レイアウトを行っている。
郊外居住という観念の喧伝のため、「模範的郊外生活」という生活スタイルを提唱した。そのために、鉄道会社が購買部と呼ばれるマーケットや店舗商店、公園のほかに果樹園、さらには玉突台のある社交倶楽部まで中心街に設置している。
また居住者組織として電鉄関係者によって室町委員会を結成、後に室町会へと継承する。1950年に室町会は社団法人化、現在コミュニティ活動をおこないながら2005年には、「池田室町住民憲章」を制定。同地に住民憲章制定を記念し碑を建立している。
日本の郊外住宅地については、それまでには郊外別荘開発か、阪神電気鉄道による借地経営が行われていた。池田室町は、都心に勤務するサラリーマンが住まう住居地として整備するため、初めて割賦での販売を実施。こうした種類の住宅地開発としては日本最初の事例とされている。
呉織・漢織(クレハトリ・アヤハトリ)
池田には応神天皇のころ、大陸から呉織・漢織の2人の織り姫がこの地に渡り、織物や染色の技術を伝えたという伝説が残っています。
この伝承は、一般には、『日本書紀』応神(おうじん)天皇37年条に、阿知使主(あちのおみ)・都加使主(つかのおみ)を呉に遣わして縫工女(きぬぬいめ)を求め、呉の王から呉織・漢織らを与えられたという記述を題材にしたものだと考えられています。
※ 『日本書紀』 「巻第十 誉田天皇(ほむたのすめらみこと)応神天皇」「巻第十四 大泊瀬幼武天皇(おおはつせのわかたけのすめらみこと)雄略(ゆうりゃく)天皇」に、この縫工女招致に関する伝承が収められています。 『国史大辞典 4 き‐く』によると、「ただし、応神紀・雄略紀のこれらの織工女の記事は、同じ内容のものを分けて記したか、あるいは前者は後者の記事の混入ではないか、といわれる。」とあります。
※呉織は呉服、漢織は穴織とも書きます。「はとり」は機織の意です。(『国史大辞典 4 き‐く』p952 くれはとり・あやはとり)(『日本歴史大辞典 1 あ‐う』)
池田市内には、この機織伝承ゆかりの旧跡が各所に残されています。2人の織姫を乗せた船が着いたところが<唐船が淵>(新町~木部町、猪名川のカーブした辺り)、糸を染めた井戸が<染殿井>(満寿美町)、絹を干したのが<絹掛の松> (畑)、機を織ったのところが<星の宮>(建石町)、2人が葬られたとされる墓が<梅室・姫室>(槻木町~室町あたり)、そして呉織が祀られたのが<呉服神社>(室町)、漢織が祀られたのが<伊居太神社>(綾羽)とされています。
池田の市章はこの伝説を元にしています。外側の井桁は<染殿井>を、内側の糸巻きは織り姫たちが織物に使った糸巻きを表しています。
『池田市史 概説篇』には次のような記述があります。「呉織・漢織が池田に来て織物技術を伝えたとされていますが、日本書紀にはこのような記述はなく、この伝承がいつ、なぜ、どのようにして誕生したのか、はっきりしたことはわかっていません。」
この伝承がいつ頃できたか確定する史料はありませんが、元禄14年(1701)にできた『摂陽群談』や寛政10年(1798)刊行の『摂津名所図会』などに、この伝承に関する記述があることから、江戸時代前期までには現在伝えられているような姿になっていたと考えられます。呉織・漢織の伝承は、池田だけに伝えられたものではなく、例えば西宮市にも同様の伝承が残されていますが、池田のように完成度の高い伝承として現在まで伝わったものではありません。
池田市に伝わる織姫伝説の複雑な由来を整理してみました。 ( 日本史 ) - カメラとビデオを棒にくっつけて - Yahoo!ブログ
~池田市に伝わる織姫伝説の複雑な由来を整理してみました。~
サブタイトル:オヤジブログは自由だ!遠出編
大阪府池田市には、織姫伝説という分かり易そうな伝説があります。ところが調べてみるとその由来は思いのほか複雑でした。なので幾つかのページ内容を合わせて、なるべく分かり易く整理してみました。
現代の池田市の織姫伝説とは「応神天皇のころ、大陸から呉織(くれはとり)・漢織(あやはとり)の2人の織り姫がこの地に渡り、織物や染色の技術を伝えた。」という伝説で、呉織・穴織(あやは)=漢織が糸を染めた染殿(そめどの)井、染糸を掛けて干した絹掛松などの伝説が残っています。
(注釈:絹掛の松は五月山のどこかに有りますが、所在はわかっていません。)
そしてこの伝承は単なる地域の伝承ではなく、日本書紀の記述にもあり、しかも不可思議なことに、雄略紀と応神紀の2つの時代に同様の記述が見られるそうです。
1:秦から漢王朝 2:魏から晋王朝・・・大きめで緩い服装 3:北朝のフォーマルな装い
「秦王朝から現代までの中国の女性ファッションの変遷が簡単に分かるスレ」海外の反応より呉服や漢織の織姫はこんな感じで渡来したのでしょうか? この織姫伝説は、古代の日本で言うなら摂津国の豊嶋郡(てしまぐん:現在の伊丹市、池田市が含まれる)に残る伝承で、古代日本の摂津豊嶋に由来するもので、水運に適した猪名川を中心とする地域です。
摂津国の豊嶋郡を示す地図
注釈:『郡』という地域のくくりは、7世紀の律令国の時から存在
いつの頃からか、摂津国豊嶋郡と武庫郡にクレハトリ・アヤハトリ(呉の機織:くれのはたおり・漢の機織:あやのはたおり)伝承なるものが根付いています。
この織姫伝説(漢氏の伝承)を『日本書紀』からみると、現在の池田市(古代の摂津国豊嶋郡)に伝わる呉織・漢織伝説は、同じ摂津国の武庫郡に始まるようです。
【呉織・漢織(くれはとり・あやはとり)伝説(略称織姫伝説)】
第15代応神天皇の時代だった306年春二月に阿知使主(あものおみ)・都加使主(へかのおみ)が縫工女を求めて高句麗に渡り、呉に到(いた)り呉の国王がら工女・兄媛・弟媛・呉織(くれはとり)・穴(漢)織(あやはとり)ら四名の織姫を賜り、
310年春二月の条文には、津の国の武庫津(西宮)に到着します。
ここまでは『日本書紀』にある武庫郡での記述内容
ここからは豊嶋郡に伝わる伝承(つまり日本書記の記述でありません。)
呉織・穴(漢)織の二名は武庫川から猪名川を上り、唐船ヶ淵(現在の池田市新町)に上陸、人々に機織の技術を伝え、その死後呉織(くれはとり)は呉服(くれは)神社に、漢織(あやはとり)は穴織(あやはの)神社に祀られたという。
以上の『日本書紀』の記述や伝承では、織姫伝説は第15代応神天皇の時代の出来事として伝えられています。
ところが『日本書紀』には同様の記述が雄略天皇時代にもあります。
ここからは『日本書紀』にある雄略天皇時代の豊嶋郡の記述内容 470年?(雄略十四年正月)、「身狭村主背(おさのすぐりあね:身狭村主青(注釈3を参照)とも。と桧隈民使博徳らは呉国の使と共に呉の才技(織姫:注釈1を参照)の漢織(あやはとり)、呉織(くれはとり)、及び衣縫(縫姫)の兄媛・弟媛らと共に呉からの帰朝し、住吉津(住吉区)に到着します。
その後一行は、磯歯津路(しはつみち:住吉区から東住吉区にかけての路。注釈2を参照)を通り、呉坂(住吉区喜連(きれ:注釈4を参照)と名付ける。三月に呉人たちは桧隈野(飛鳥:注釈5を参照)に着く。衣縫(縫姫)の兄媛は大三輪神社に奉り、弟媛は漢衣縫部(あやきぬぬいべ)となります。
(注釈1:才技(織姫)の漢織(あやはおとり)・呉織(くれはおり)は、飛鳥衣縫部・伊勢衣縫(『和名抄』に伊勢国壱志郡に呉部郷がみえる)の祖だそうです。)
(注釈2:地名の「磯歯津路」などは『万葉集』(九九九番)からも確認出来る、また「呉坂」は現在の平野区杭全町付近で、即ち、住吉津→美章園→平野→斑鳩と通って明日香に入ったのであろうと、豊嶋郡の「織姫伝承」について-クレハトリ・アヤハトリ(漢氏 ...は推察しています。)
(注釈3:身狭村主青(おさのすぐりあお)は、阿知使主(あものおみ)の子孫、そして阿知使主(あものおみ)は、応神天皇時代の漢人系渡来人で、東漢氏(倭漢氏とも)の祖と言われる。現在の大和高市郡明日香村に土着した。)
(注釈4:大阪市 平野区 喜連・瓜破コース(約5.8キロメートル)によれば、大阪市住吉区と平野区に存在する『喜連(きれ)』という地名の由来は、1798年(寛政10年)刊行の「古事記伝」に「河内の堺なり、昔は河内に属して、万葉に河内国伎人郷とある處なるを、久礼を訛って喜連と云うなり」と記され、かつては伎人郷とよばれ河内の国に属していた。のちに久禮と語られ、中世室町時代ごろから喜連とよばれるようになった。また、古き時代、呉の国から来た機織の技術者、呉織・穴織等の呉人が、この地に住みついたので、「くれ郷」となり、それがなまって「きれ」になったという説もある。
現在使われている『喜連』の文字は、地名を漢字で表す際、美しい・喜ばしい意味を持つ字を使う習慣から用いられたと言われているそうです。 更に、平野区には喜連瓜破という地名がありますが、『瓜破(うりわり)』という地名の由来は、大化年間(645~649年)道昭法師が当地の庵で祈念の最中、天から光明のさしたご神体が降ってきたので、瓜を割(破)ってお供えしたことから瓜破と呼ぶようになったという説と弘法大師が高野山へ登る途中、この地を通り、水を所望したところ、住民が瓜を割(破)ってさしだしたことからこの名がついたという説があるが、定かではない。いずれにせよ、昔から瓜(西瓜)の産地であったことが、地名に由来しているといわれているそうです。)
(注釈5:檜隈野の原景に思いをはせる - Bell Home Pageによれば、奈良県高市郡の檜隈あたりに広がる丘陵地帯は、かって檜隈野と呼ばれた。檜隈野の地形は・・・・東西および南北方向にかなり傾斜しているのがわかる。・・・・「ヒノクマ」と呼んだのは、おそらく最初の入植者たちであろう。ちなみに、「ヒノクマ」とは、紀ノ川河口付近で祀られていた農業神(もともとは現地の溝を守る農業神)である。渡来人たちはおそらく紀ノ川の河口付近からこの地に移り住んだと思われる。その頃には、曽我川に沿うて古瀬に抜け、御所から来た道と五条で合して橋本から吉野川・紀ノ川を下れば、河口に出られる道がすでに存在していた。 ・・・・渡来人たちの日本列島への移住は、朝鮮半島の政情と密接に関連している。西暦400年前後は、半島の北半分を領土としていた高句麗の南下政策によって、戦乱は半島南部にまで及んだ。この時期、戦乱を避けて多くの渡来人たちが列島各地に移り住んだ。近畿地方では、河内平野などに住み着いた。大阪市東南部から東大阪市、八尾市あたりにかけて河内低地に、5世紀代の韓式土器が出土する遺跡が群集しているのがその証だそうです。) 【なぜ応神紀と雄略紀に同じ織姫伝承があるのか?】
『日本書紀』にある雄略天皇時代の豊嶋郡の記述内容は身狭村主青と桧隈民使博徳の呉からの帰朝記事であるが、地名の「磯歯津路(しはつみち)などは『万葉集』(九九九番)からも確認出来る、また「呉坂」は現在の平野区杭全(くまた)町付近で、即ち、住吉津→美章園→平野→斑鳩と通って明日香に入ったと推察しています。
そして応神紀と雄略紀に同じような記述が見られる理由として、
「応神二十年秋九月に、倭漢直(やまとのあやのあたい)の祖:阿知使主、その子都加使主( つかのおみ )、並びに己が(おのれの:自身の)党類(ともがら:仲間)十七県を率いて来帰(まうけ)り」と見え、現在、池田市や西宮市に「クレハトリ・アヤハトリ」として継承されています。
つまり織姫伝承はこの短い応神紀の文章にかかっているですが、それは、八世紀に入って倭漢(東漢)氏が繁栄したことで、雄略紀の出来事が応神紀に投影されたもの。
阿知主が後漢の霊帝(れいてい)とか、前漢の後裔(こうえい)だとされ、坂上氏によって形づくられた伝承だったことが、倭漢(東漢)氏の宗家だと名乗る坂上苅田麻呂によって745年に記された記述から見てとれるそうです。
以上のように、池田市に伝わる織姫伝説の由来は複雑で、不明な点も多いのです。
呉織・漢織は古代に中国から渡来した綾織の技術者。呉織は呉服、漢織は穴織とも書きます。「はとり」は機織の意味です。
また、『池田市史 概説篇』には次のような記述があります。「呉織・漢織が池田に来て織物技術を伝えたとされていますが、日本書紀にはこのような記述はなく、この伝承がいつ、なぜ、どのようにして誕生したのか、はっきりしたことはわかっていません。」と。
ところで、池田市に伝わる織姫伝説には、多くの疑問点があるようです。
【豊嶋郡における織姫伝承の疑問点】
豊嶋郡の「織姫伝承」について-クレハトリ・アヤハトリ(漢氏 ...では、池田市に伝わる織姫伝説に対して多くの疑問点を提示しています。
1.応神紀・雄略紀の織工女渡来記事に豊嶋郡の地名がみられない。
(一言:織姫の墓と伝わる塚は、伝説の中の時代よりづっと後に作られたものだということですね。)
4.豊嶋郡の古墳から、紡錘車などの出土がなく、桑畑などの伝承もない、麻田の地名も古くには浅 ゅう)があって (現在は消滅)、紡錘車が出土、近くには「桑原」の地名が残っている。
(一言:豊嶋郡には織物に関係する確かな証がみつからす、逆に高槻市宮之川原(古代の摂津国嶋上郡)には織物に関係する史跡や地名が存在した。織姫が土着したのは豊島郡ではなく、嶋上郡ではないかと言っているのでしょう。)
5.穴織神社(秦ノ上社・伊居太神社)も、呉服神社(秦ノ下社)も延喜式内社ではなく、創起の時代は 下がる。
(一言:延長5年(927年)にまとめられた全国の神社一覧である延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)によって指定された延喜式内社ではない織姫伝説ゆかりの神社は、伝説の中の時代よりずっと後の時代のものだということですね。)
6.『穴織宮拾要記』には、古代には神社の前まで海であったと書かれているが、弥生時代の田能遺 跡(尼崎市)や、宮ノ前遺跡(池田市・伊丹市)からは人間の生活がみられる。
(一言:穴織宮とは現在の伊居太神社(正式名は穴織宮伊居太神社)ですが、その由緒を記した『穴織宮拾要記』の記述が正しくないことから、穴織宮、ひいては織姫伝説自体に虚偽があるということでしょう。) 【摂津国に織姫伝説が伝えられる背景】
以前にもご紹介しているように、古代の摂津国は大阪府北中部の大半と兵庫県南東部が含まれる地域でした。
旧大和川は現在の富田林市を流れる石川との合流付近から西北に流れ、幾筋もの支川に分かれて淀川へ注いでいましが、川の流れで運ばれた土砂が河底にたまり、まわりの田畑よりも河底が高い天井川となっていたため、何度も洪水に見舞われました。
摂津という国の名の『摂』は「治める」、津は「港」、直訳すれば「港湾局」という意味になり、
摂津国は古代より人による整備・開発が特に進んだ施設を有する国として、弥生ー古墳ー飛鳥・奈良時代に渡って繁栄しました。そうした摂津国の繁栄の象徴として、ある意味あいまいな織姫伝説として現代にまで伝えられてきたのでしょう。
【織姫伝説と関係性が真実として認められる確実性が高い神社の伝承】
津門呉羽町、津門綾羽町の地名が存在する。
2.『日本書記』の応神紀には、津門・武庫の地名がみられ、津門の首(かしら・おさ)が武庫の津を管理していた。 3.『梁塵秘抄』(後白河法皇遺稿)によると、「廣田より、戸田へ渡る船もがな、浜のみたけへ事付も せむ」とあって、武庫の津から廣田神社(式内社)までは船で往来していた事が判る。
3.『住吉神社神代記』に、武庫川と、猪名川の女神が一人の男神を巡って争う話があり、その中に 「両河一つに流れ合いて海に注ぐ」とあって、武庫の津から武庫川を経て猪名川に入り豊嶋郡に
行けると暗示しているが、この話は神戸市灘区にある西求女塚古墳と、東求女塚古墳の戦士が
求塚墓(菟原処女墓)を巡る話で、『万葉集』や、謡曲の「求塚」に物事を借りて言い表された話で
あって、両川の合流はあり得ない。
(一言:つまり古代より存在が確かな住吉神社に伝わる『住吉神社神代記』の記述が虚偽で、武庫川と猪名川がつながっていたことがない以上、豊嶋郡に伝わる伝承にある「呉織・穴(漢)織の二名は武庫川から猪名川を上り・・・」などということはありえないということかな? それにしても、住吉神社にまで菟原処女伝説につながる伝説があるなんて。後日また新たなページに記す必要がありますね。)
【豊嶋郡に織姫伝承が広く知れ渡る原因となったもの】 1.平安中期以後に坂上正任(さかのうえまさとう)が豊嶋郡に進出し、自身の祖先伝承から応神紀
の織工女渡来記事に結びつけて、地名を「呉(くれ)庭(は)」と名付けて、呉庭荘と称した事によると
する説。
2.室町時代になると武士社会から、庶民に至るまで「猿楽」(能楽・謡曲)が広がり、世阿弥作と云わ 士乙女」「浦里」などの文から海のそばが舞台であると考えられる。
広く読まれたのも一因と考えられる。その他江戸時代の『摂陽群談』『摂津名所図絵』などに取り
上げられて読まれた事にもよる。
【呉織 漢織伝説をモデルにした能:呉羽】(室町時代より演じられる)
時の帝に仕える臣下が、摂津の国住吉に参詣し、更に浦伝いに西宮に向かおうとして呉服の里を通りかかったところ、一人は機を織り、一人は糸を引いている二人の女があります。その様は常に里人とも見えないので不審に思って尋ねると、応神天皇の御代に、立派な御衣を織りそめた呉服織、あやはどりという二人の女で、今まためでたき御代を迎えて、再びここに現れ来たのだと答えます。そしてここを呉服の里と呼ぶのも、我等がこの所に住んでいた故であるといい、更に綾織の由来を説き、応神天皇の御代に、呉国の勅使が、綾女糸女の二人を伴れて日本に渡り哀龍の御衣を織って帝に奉った事などを語り、夜明けを待つようにといって姿を消します。やがて臣下が松陰に旅寝して奇特を待っているところに呉服の霊が現れ出で、めでたき君の御代を寿ぎ、綾を織り、舞を舞って帝に捧げ、喜びをなして終わります。
本曲の舞台呉服の里とは現在の大阪府池田市である。
日本書紀には応神天皇のころ、呉の国から織物の技術を伝えるため呉織(くれはとり)、穴織(あやはとり)らの縫工姫(きぬぬひめ)が摂津の国、武庫の津に着いたという記述がある。池田市に伝わる織姫伝説では、この後二人が猪名川を上がって猪名の港(唐船が渕)に着き、同地に織物の技術を伝えたとされている。呉織は139歳まで生き、その遺体を納めたとされる姫宮の跡が現在の呉服神社であるという。 (一言:呉織 漢織伝説=織姫伝説という美しい響きの伝説ですが、その主人公である姫が139歳まで生きたと聞くと、ちょっと怖いイメージとなってしまいますね。伝説ですから、死ぬまで絶世の美人だったという設定なのでしょうか?)
呉服神社
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