@関西大学 100周年会館
13:30から
日本物理学会2015秋季大会 市民科学講演会
凄く、ためになりました。
・スマホ 9/2 バッテリー低下 交換 9/20にはなんとか安定化・・PCと同じリカバリー バッテリーの意味が分かり ホッ ほつ スマホ
蓄電池てわずか200年くらいの歴史 /ボルトから ・・キーワードは2V ・松下・三洋・ソニー
プラスマイナス 興味津々 ありがとう 石川教授
・エジプトはピラミッド・・壁画の修復・・・実に面白い取り合わせで愉しみました。
古代エジプト[編集]
「エジプトはナイルの賜物」という古代ギリシアの歴史家ヘロドトスの言葉で有名なように、エジプトは豊かなナイル川のデルタ(ナイル川デルタ)に支えられて古代エジプト文明を発展させてきた。以下の古代エジプトの時代区分はマネトの『アイギュプティカ(英語版)(エジプト史)』に従ったものである。エジプト人は紀元前3000年頃には早くも中央集権国家を形成し(エジプト初期王朝時代)、ピラミッドや王家の谷、ヒエログリフなどを通じて世界的によく知られている高度な文明を発達させた。
エジプト原始王朝時代(紀元前3500年 - 紀元前3100年)[編集]
上エジプトのネケン(英語版)(エジプト語:Nekhen[2])を中心とする王朝と、下エジプトのペル・ウアジェト(英語版)(エジプト語:Per-Wadjet)を中心とする王朝にまとまっていた。この時代から上エジプトに住む農民はフェラヒンと呼ばれ、後に移住したアシュラフ(英語版)やアラブ人と区別している。
エジプト初期王朝時代(紀元前3100年 - 紀元前2686年)[編集]
上エジプトのナルメル王が、下エジプトを征服して、上下エジプトを統一。エジプト第1王朝を開き、下エジプト南部の新首都は『Ineb Hedj(白い壁)』(後にメンフィス)と呼ばれた。エジプト王は、初期にはホルス名を用いていたが、第二の名前として上エジプトの守護女神ネクベト(エジプト語:Nekhbet)と下エジプトの守護女神ウアジェト(エジプト語:Wadjet)双方の化身であることを示すネブティ名(英語版)(二女神名)を加えた。
エジプト第2王朝のセト・ペルイブセンの治世に、王名がホルス名からセト名に切り替わり王権守護神が変更されたことを記録している。しかし、2代後のカセケムイ王からホルス名に戻っている。
エジプト古王国(紀元前2686年 - 紀元前2185年)[編集]
サナクトはカセケムイ王の娘を娶ってエジプト第3王朝を開いた。次のジョセル王の治世に、イムホテプが設計したジェゼル王のピラミッド(階段ピラミッド)が建設された。首都メンフィスには、メンフィスとその墓地遺跡・ギーザ・ダハシュールにこの時代の遺跡が多数残っている。
エジプト第4王朝のスネフェル王が屈折ピラミッド・赤いピラミッド・崩れピラミッド(英語版)を建設し、クフ王らがギザの大ピラミッドを建設した。この時代にはクフ王の船のような大型船の建造が始まっていた。クフ王の治世にプント国から黄金がもたらされた記録が残っており、Quseirから紅海貿易が行なわれていた。
エジプト第5王朝のウナス(英語版)王のピラミッドにピラミッド・テキスト(英語版)[3]と呼ばれるヒエログリフによる古エジプト語(英語版)の碑文が残された。この時代には、太陽神・ラー信仰が盛んで、その本拠地『イウヌ(エジプト語:ỉwnw[4])』の太陽神殿が有名である。
エジプト第6王朝の初期には王位の簒奪が相次いだが、ペピ1世(英語版)(メリラー・ペピ)の治世には宰相ウェニ(英語版)の下でアジア(パレスチナ地方)遠征やヌビア遠征を成功させ、上エジプトに運河を掘削して水上交通網を整備するなど比較的順調に統治した。ペピ2世の治世後半に「上エジプト長官」(ヘリー・テプ・アー)が上エジプトを手中に収め、中央集権体制が解体して州侯が自立勢力として割拠するエジプト第1中間期を迎えた。
エジプト第1中間期(紀元前2185年 - 紀元前2040年)[編集]
メンフィスを中心とする王朝(エジプト第7王朝・エジプト第8王朝)が弱体化すると、ヘウト・ネンネス(英語版)(エジプト語:Hwt-nen-nesu[5])を中心とする勢力(エジプト第9王朝・エジプト第10王朝)と、ワセト(エジプト語:Waset、現ルクソール)を中心とする勢力(エジプト第11王朝)が南北で対立した。この時代には、オシリス信仰が盛んで、アビュドスへの巡礼が知られている。
エジプト中王国(紀元前2040年 - 紀元前1782年)[編集]
エジプト第11王朝のメンチュヘテプ2世(英語版)は治世21年(紀元前2040)頃、ヘウト・ネンネス(英語版)を陥落させてエジプトを再統一し、ワセトが首都となった。この時、エジプト神話における太陽神・ラーとワセトの守護神・アメンを習合(一体化)した「アメン・ラー」を神とする宗教が誕生した。エジプト第12王朝の時代にはファイユームの干拓工事や、エジプト古王国時代に第6王朝の重臣ウェニ(英語版)によって作られた運河の改修工事を行い、食糧生産の増加や物流が改善された。
エジプト第2中間期(紀元前1782年 - 紀元前1570年)[編集]
エジプト第15王朝・エジプト第16王朝はヒクソス[6]と呼ばれる異民族による下エジプトを中心とした王朝である。ヒクソス時代には対外貿易が活発化し、クレタ島のミノア文明の遺物などが見つかっている。ヒクソスはシリアのウガリット神話の英雄神・バアル神とセト神を習合(一体化)したセト神を信仰していた。
ワセトのエジプト第17王朝のイアフメス1世がエジプトを再統一し、以後をエジプト第18王朝と呼ぶ。
エジプト新王国(紀元前1570年 - 紀元前1070年)[編集]
エジプト第18王朝ではハトシェプスト女王との共同統治の後、トトメス3世はメギドの戦いでカナンのカデシュ王と戦い、勝利した。アメンホテプ4世はトトメス3世の時代に強大となったアメン神官団と対立して、アマルナ革命と呼ばれるアテン神の宗教によるアメン信仰の排除を推進し、アケトアテンへ遷都した。この時期にヒッタイト帝国のシュッピルリウマ1世はシリア南部に進出し、アムル王国(英語版)のアジル(英語版)に宗主権を認めさせた。エジプトは外交(アマルナ文書)によってミタンニと同盟し、ヒッタイトの南下に対抗した。ツタンカーメンの時代には宰相アイと将軍ホルエムヘブが政治的実権を握り、下エジプトのメンフィスに遷都した。ホルエムヘブ王の主導でシリア南部は回復された。
『旧約聖書』「出エジプト記」の時代はエジプト第18王朝と考えられている。モーゼを育てたのがハトシェプストであるとする説があるが、モーゼの出エジプトがエジプト第19王朝のラムセス2世の時代であれば、時代が離れ過ぎているため諸説ある。いずれにせよ、この集団が後にイスラエル王国を建国したと考えられている。
エジプト第19王朝の時代には、紀元前1274年にカデシュの戦いでラムセス2世がヒッタイト帝国のムワタリと戦ったが、ヒッタイト帝国のパレスチナへの南下を許すことになり、戦略的には勝利を収めるに至らなかったと見られている。
メルエンプタハの時代になると前1200年のカタストロフによる動乱期[7]に入り、紀元前1180年にヒッタイト帝国が滅亡した。
エジプト第20王朝の末頃、ワセトを中心とするアメン神官団がアメン大司祭国家を作り、上エジプトを支配した。
エジプト第3中間期(紀元前1069年 - 紀元前664年)[編集]
下エジプトに首都タニスを中心とするエジプト第21王朝が成立すると、上エジプトのアメン大司祭国家と協力関係が築かれた。
紀元前1021年にはイスラエル王国、紀元前930年にはユダ王国が建国された。紀元前925年にシェションク1世(英語版)はen:Sack of Jerusalem (10th century BC)でユダ王国を属国にし、次いでイスラエル王国に侵攻し、メギドに至とヤロブアム1世はギレアド(現ヨルダン)へ逃亡した。 紀元前853年のカルカルの戦いでは、エジプト第22王朝はシリア連合軍(ダマスカス、イスラエル王国、ハマテ)に援軍を派遣し、アッシリア軍の撃退に成功した。シェションク3世(英語版)の治世に、アメン司祭ハルシエセ(英語版)[8]のもとテーベ周辺が事実上独立し、紀元前818年には下エジプトのタレム(英語版)(英: Taremu)ではエジプト第23王朝が独立した。紀元前727年に下エジプトのサイスでエジプト第24王朝が独立した。
エジプトの混乱期の紀元前747年にヌビアのヌビア人(英語版)ピアンキ(英語版)王によるエジプト第25王朝が開かれた。紀元前722年に強勢となったアッシリアにイスラエル王国が攻滅ぼされた(イスラエルの失われた10支族)。紀元前702年、バビロニア(バビロン第10王朝)のメロダク・バルアダン2世が、キシュの戦いでアッシリアのセンナケリブ王に破れ、エラム王国に逃亡。紀元前694年に、エラム王国がバビロニアの反乱を支援し、アッシリアのアッシュール・ナディン・シュミ王子を捕縛し、再びバビロニアを独立させた。しかし、センナケリブ王のアッシリア軍によるハルールの戦い(英語版)でバビロニアが敗北し、エラム王国の干渉は失敗した。紀元前681年にセンナケリブが暗殺され、アッシリアで王位継承をめぐる内戦が勃発。紀元前671年、タハルカ(英語版)王がユダ王国のヒゼキヤ王と同盟すると、アッシリアのエサルハドン王がエジプトに侵攻した。敗れたタハルカはヌビアへ追われた。
エジプト末期王朝時代(紀元前664年 - 紀元前525年)[編集]
紀元前664年、アッシュールバニパルの遠征によって第25王朝が滅亡し、アッシリアの庇護の下でエジプト第26王朝の時代になった。この後、アッシリアは急速に弱体化した。メディア王国が強勢となり、紀元前625年に新バビロニアが建国されると、メディアと新バビロニアは同盟を結んでアッシリアを攻撃し、紀元前612年にアッシリアが滅亡した。紀元前609年のメギドの戦いでユダ王国(ヨシヤ)をエジプトの属国にした。紀元前605年のカルケミシュの戦い(英語版)で新バビロニアに破れ、旧宗主国アッシリアを支援するネコ2世のシリア政策は完全に挫折した。
紀元前597年、ユダ王国が新バビロニアのネブカドネザル2世に敗れた。ユダ王国のゼデキヤは、エジプト第26王朝のアプリエス(英語版)と結んでバビロニアに対抗しようと試みたが、紀元前586年にユダ王国が新バビロニアに敗れ滅亡した(バビロン捕囚)。新バビロニアで神官が台頭し、政治が不安定になると、紀元前539年にアケメネス朝ペルシアのキュロス2世によって新バビロニアも滅亡した。
アケメネス朝(紀元前525年 - 紀元前332年)[編集]
紀元前525年にエジプトのプサメティコス3世(英語版)も、アケメネス朝ペルシア帝国のカンビュセス2世にペルシウムの戦い(英語版)で征服され、古代オリエント世界は統一された(en:Twenty-seventh Dynasty of Egypt)。
404年にペロポネソス戦争が終結すると、402年に混乱を突いて独立し、ペルシアによる支配が終わった。独立期間(en:Twenty-eighth Dynasty of Egypt、en:Twenty-ninth Dynasty of Egypt、エジプト第30王朝)が続いたが、342年にペルシアのアルタクセルクセス3世が最後のファラオ・ネクタネボ2世(英語版)を破り、エジプトに再びサトラップを置いた(en:Thirty-first Dynasty of Egypt)。
グレコ・ローマン期[編集]
アルゲアス・プトレマイオス朝(紀元前332年 - 紀元前30年)[編集]
イッソスの戦いの後、紀元前332年にはマケドニア王国のアレクサンドロス大王によってエジプトは征服された(アルゲアス朝)。紀元前323年のアレクサンドロス大王の死後、ディアドコイ戦争を経て、紀元前305年にギリシア系のプトレマイオス朝が成立し、ヘレニズム文化の中心のひとつとして栄えた。この時期には、6度にわたるシリア戦争(英語版)が行なわれたが、多数のギリシャ人が入植した。ロゼッタ・ストーンには古代ギリシャ語でもプトレマイオス5世の事跡が記録されていることが知られている。
ローマ帝国期(紀元前30年 - 395年)[編集]
プトレマイオス朝は紀元前30年に滅ぼされ、エジプトはローマ帝国の属州となる。ローマ帝国の統治下ではキリスト教が広まり、コプト教会が生まれた。当初、エジプト属州は皇帝直轄領として、豊かな穀物生産でその繁栄を支えた。
皇帝ネロ(54年-68年)の治世にen:Tax resistanceのユダヤ戦争でエルサレム攻囲戦の結果、ユダヤ人がアレクサンドリアに移住した。
皇帝ハドリアヌス(117年-138年)の治世にエジプト属州でキトス戦争(英語版)、ユダヤ属州で再びバル・コクバの乱が起こった結果、ユダヤ的なものの根絶を目指し、ペリシテ人の名前からとって属州「シリア・パレスティナ」と名付けた。
皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(161年-180年)の治世でも、増税へのen:Tax resistanceを目的にしたブコリック戦争(英語版)と呼ばれる反乱が起こり、エジプト属州の地域経済に大打撃を与えた。これ以後も増税と反乱を繰り返し、帝国は財政破綻へ向かっていった。
4世紀には、ギリシア文字を基にしたコプト文字が使われ出し、神聖文字や民衆文字は使われなくなった。
ビザンチン帝国期(380年 - 642年)[編集]
ローマ帝国の分割後は東ローマ帝国に属した。
Sassanid conquest of Egypt(618年–621年)でササン朝ペルシャが勝利し、629年までその支配下にあった。同629年、エルサレムなどでキリスト教に改宗しないユダヤ人に対する虐殺事件、Massacres of the Jewsが起こり、ユダヤ人がエジプトに脱出した[9][10][11]。
エジプトのイスラム化[編集]
イスラム帝国期(639年 - 1250年)[編集]
639年から始まったイスラム軍(正統カリフ)の将軍アムル・イブン・アル=アースによる侵攻(Muslim conquest of Egypt)は、646年にニキウの戦い(英語版)で征服され終結した。
その後、ウマイヤ朝およびアッバース朝の一部となった。アッバース朝の支配が衰えると、そのエジプト総督から自立したトゥールーン朝・イフシード朝の短い支配を経て、969年に現在のチュニジアで興ったファーティマ朝によって征服された。
1154年、en:Crusader invasions of Egypt(1154年-1169年)で、十字軍国家のエルサレム王国がファーティマ朝エジプトへ侵攻した。
これ以来、アイユーブ朝、マムルーク朝とエジプトを本拠地としてシリア地方まで版図に組み入れたイスラム王朝が500年以上に渡って続く。
マムルーク朝(1250年 - 1517年)[編集]
第7回十字軍(1248年-1254年)では、カペー朝フランス王国のルイ9世の軍が1249年にエジプトに侵攻した。この時、アイユーブ朝のスルタン・サーリフが急死すると、シャジャル・アッ=ドゥッル夫人率いるマムルーク軍団が十字軍を撃退し、その後のクーデターでバフリー・マムルーク朝(1250年-1382年)の女性スルタンに即位した。
モンゴル帝国はオゴデイ後継者問題で混乱した後、フレグがフレグの西征を開始した。1258年にアッバース朝を滅ぼしたが、1260年に再び大ハーン・モンケの朴報が届き、フレグはモンゴルへ帰還した。キト・ブカは1万の留守部隊を預けられてシリアに駐屯していたが、アイン・ジャールートの戦いでムザッファル・クトゥズが大軍を率いてシリア奪還した。
マムルーク朝のもとで中央アジアやカフカスなどアラブ世界の外からやってきたマムルーク(奴隷軍人)による支配体制が確立し、250年間続いた。
1324年頃、マリ帝国のマンサ・ムーサ王がメッカ巡礼(英語版)の途上でナースィル・ムハンマドの元に立ち寄り、大量の金の贈り物をしたことでカイロの金の相場が下落したと伝えられている。そのためか、晩年のムハンマドは奢侈に走って財政を傾かせ、マムルークの力が強大になった。
バルクークがクーデターによってサーリフ・ハーッジーを廃し、ブルジー・マムルーク朝(1382年-1517年)を開いた。
オスマン帝国期(1517 - 1805)[編集]
1517年にマルジュ・ダービクの戦いで、オスマン帝国のセリム1世はマムルーク朝を滅ぼしてエジプトを属州としたが、マムルーク支配は温存された。
1798年、フランスのナポレオン・ボナパルトがエジプト遠征を行なった。この時、紀元前196年に書かれたロゼッタ・ストーンが港湾都市ロゼッタで発見され、1801年にイギリス軍の手に渡った。石碑に神聖文字と民衆文字で書かれた古代エジプト語は、1822年、ジャン=フランソワ・シャンポリオンによって対応する古代ギリシア語から解読され、古代エジプトの文学や文化を理解する道が開けた。
近代エジプト[編集]
ムハンマド・アリーの近代化(1805年 - 1882年)[編集]
ナポレオンのエジプト遠征を契機として、エジプトは近代国家形成の時代へと突入していった。エジプト遠征にともなう混乱を収拾して権力を掌握した軍人ムハンマド・アリー(オスマン帝国が派遣したアルバニア人部隊の隊長)は、1805年にエジプト総督の地位をオスマン帝国に認めさせると、豪族化していた各地のマムルークを打倒して集権化を進めた。その上で、富国強兵、殖産興業を通じたエジプトの近代化を目指した。また、1822年に導入された徴兵制では、宗教の別なく均質な国民として徴兵を行った。こうした政策は、エジプトにおける国民創出、国民国家形成の試みとも解釈できる。また、近代化の財源には、列強からの借款でなくナイル川での商品作物栽培で得られた利益をあてることとして、列強の経済的従属に陥らないよう気を配った。
1831年からのエジプト・トルコ戦争で、エジプトをオスマン帝国から半ば独立させることに成功し、アルバニア系ムハンマド・アリー家による世襲政権を打ち立てた(ムハンマド・アリー朝)。
スエズ運河とエジプトの従属[編集]
しかし、当時の世界に勢力を広げたヨーロッパ列強はエジプトの独立を認めず、またムハンマド・アリー朝の急速な近代化政策による社会矛盾は結局、エジプトを列強に経済的に従属させることになった。1869年にエジプトはフランスとともにスエズ運河を開通させるが、その財政負担はエジプトの経済的自立に決定的な打撃を与え、イギリスの進出を招いた。1881年にアフメド・ウラービーが中心となって起きた反英運動・ウラービー革命もイギリスによって鎮圧され、エジプトは事実上の保護国となる(正式には1914年)。
現代(1882年 - 現在)[編集]
エジプトの民族運動と独立[編集]
1914年には、第一次世界大戦によってイギリスがエジプトの名目上の宗主国であるオスマン帝国と開戦したため、エジプトはオスマン帝国の宗主権から切り離された。その結果、大戦後の1922年2月28日にエジプト王国が成立し、翌年イギリスはその独立を認めたが、その後もイギリスの間接的な支配体制は続いた。1940年、イタリアのエジプト侵攻。
第二次世界大戦後のエジプト[編集]
エジプト王国は立憲君主制をひいて議会を設置し、緩やかな近代化を目指すが、第二次世界大戦前後からパレスチナ問題の深刻化や、1948年から1949年のパレスチナ戦争(第一次中東戦争)でイスラエルに敗北、経済状況の悪化、ムスリム同胞団など政治のイスラム化(イスラム主義)を唱える社会勢力の台頭によって次第に動揺していった。この状況を受けて1952年、自由将校団がクーデターを起こしてムハンマド・アリー朝を打倒(エジプト革命(英語版))、1953年に共和制へと移行し、エジプト共和国が成立した。
1956年、第2代大統領に就任したガマール・アブドゥン=ナーセル(ナセル)のもとでエジプトは冷戦下での中立外交と汎アラブ主義(アラブ民族主義)を柱とする独自の政策を進め、第三世界・アラブ諸国の雄として台頭する。同年にエジプトはスエズ運河国有化(英: Nationalisation of the Suez Canal)を断行し、これによって勃発した第二次中東戦争(スエズ戦争)で政治的に勝利を収めた。1958年にはシリアと連合してアラブ連合共和国を成立させた(1961年に解消)。1962年から始まった北イエメン内戦では、ソビエト連邦と共に共和派を支援し、王党派を支援するサウジアラビアやヨルダンと対立した。 しかし、1967年の第三次中東戦争(6日戦争)は惨敗に終わり、これによってナーセルの権威は求心力を失った。エジプトは1971年まで「アラブ連合共和国」と称し続けたが、その後エジプト・アラブ共和国と改称した。
1970年に急死したナーセルの後任となったアンワル・アッ=サーダート(サダト)は、社会主義的経済政策の転換、イスラエルとの融和など、ナーセル体制の切り替えを進めた。しかし政治的自由化によってイスラム主義がかえって勢力を伸張させて体制に対する抵抗が激化し、サーダート自身も1981年にイスラム過激派のジハード団によって暗殺された。
かわって副大統領から大統領に昇格したホスニー・ムバーラクは、対米協調外交を進める一方、イスラム主義運動を厳しく弾圧して国内外の安定化をはかるなど、開発独裁的な政権を長きにわたり維持したが、しかし同じく長期政権を維持してきたチュニジアのベン=アリー大統領はジャスミン革命で政権を失い、それに呼応したエジプト革命は30年続いたムバーラク政権を崩壊させた(アラブの春)。軍による暫定的な統治の後にムスリム同胞団のムハンマド・ムルシーが自由選挙を経て2012年7月に大統領に就任した。同国初の文民大統領であったが、次第に強権的な姿勢が目立つようになったほか、イスラム化を推し進めたことが反発を呼び、各地で反政府デモが起こった[12]。2013年7月3日、軍はムルシーの大統領権限を剥奪し、暫定政権を樹立させた(2013年エジプトクーデター)。
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