年金個人情報 サィバー攻撃され 個人ドローン 長江430人 $125円(炎)
6/2 火 夕刊
6/3 水 朝刊
しょうしょ
これはおもしろいと思った。1991年、作家の高橋源一郎さんが本紙で文芸時評を始めた時だ。斬新だった。例えば「擬音の多用は下品とされるが、上品がなんぼのもんじゃい」。破格な文章に魅了された▼文芸時評なのに新聞の社説も取り上げた。本紙の社説をまとめて読み、その印象を「悩める人」と書いた。「あらゆることを悩んでしまうので、一つのことを深く悩む時間がなくなってしまうきらいがあることも心配だ」。痛かった▼その高橋さんが今度は論壇時評を手がけ、いま5年目である。これまでの分を最近、『ぼくらの民主主義なんだぜ』として出版した。自在な書きぶりは変わらない▼現代美術の展覧会を見に行って「ぶっ飛んだぜ!」。と思えば、重い心身障害を持つ赤ちゃんを抱いて「天使」を感じ取る。論壇の枠を超え、幅広い題材を低い目線から見つめる姿勢が共感を誘う▼民主主義とは何か。高橋さんは繰り返し問う。一つの答えは「意見が通らなかった少数派が、それでも、『ありがとう』ということのできるシステム」だ。意見の違う他人と、それでも「一緒にやってゆくこと」だ。今の日本政治に民主主義はあるのかと考えさせられる▼思えば文芸時評の最終回の題は「威張るな!」だった。互いの溝は越えられなくても、自分の立場を相手が理解してくれることはありうる。ただし、その相手に対して威張るな――。これはまさに民主主義の一つの要諦(ようてい)ではないか。高橋さんは実に一貫している。
高橋 源一郎(たかはし げんいちろう、1951年1月1日 - )は、日本の小説家、文学者、文芸評論家。明治学院大学教授。出身は広島県尾道市。日本テレビ放送番組審議会委員。
古今東西の名作からマンガ・テレビといったマスカルチャーまでを引用し、パロディやパスティーシュを駆使するシニカルな手法と相反する抒情的な作風である。日本を代表するアヴァン・ポップ文学の担い手として注目される。競馬評論家としても活動している
広島県尾道市の母の実家に生まれる。1歳まで大阪の帝塚山の父の実家にておもに祖母の手で育てられた[1]。実家は尾道駅近くで自転車屋を営んでおり、新藤兼人が店員として働いていたことがあるという[2]。尾道市立土堂小学校在学時に自転車屋が廃業。また父の経営していた鉄工所が倒産。1959年、東京の大泉学園に移り住む。練馬区立大泉東小学校に入学するも、尾道に戻り土堂小学校に転校しなおす[3]。1960年、東京の千歳船橋に移り住む。世田谷区立船橋小学校に転校。1963年4月、麻布中学校に入学。1964年1月、私立灘中に転入。このころ鮎川信夫、谷川雁、鈴木志郎康等の現代詩を読み、感銘を受ける。同級生の竹信悦夫から多大な影響を受けた[注 1]。1966年4月、灘高校に入学。高校時代より無党派のデモに参加[注 2]。
1969年、東京大学を受験する予定だったが、東大入試の中止により京都大学を受験して失敗、二期校である横浜国立大学経済学部に入学した。しかし大学紛争中のストライキでほとんど授業が行われず、活動家として街頭デモなどに参加する日々を送る[4]。同年11月、学生運動に加わって凶器準備集合罪で逮捕される。1970年2月、起訴され8月まで東京拘置所で過ごす[3]。その体験が原因で一種の失語症となり、書くことや読むことが思うようにいかなくなる[5]。
1972年夏、土木作業のアルバイトを始め、鉄工所や化学工場、土建会社などを10年ほど転々とした。この頃に競馬に興味を持つようになる。1977年3月、横浜国立大学を除籍。1979年より失語症のリハビリテーションとして小説を書きはじめる。1980年、『すばらしい日本の戦争』を第24回群像新人文学賞に応募。翌年1981年、最終選考まで残るものの、瀬戸内寂聴を除く全選考委員から酷評され落選。このときに担当した編集者に勧められて長編小説の執筆を開始し、『さようなら、ギャングたち』を群像新人長編小説賞へ応募、優秀作と評価される。この『さようなら、ギャングたち』は蓮實重彦や吉本隆明などからの絶賛を受けた。1982年10月、同作品の単行本が出版される。
1984年8月『虹の彼方に(オーヴァー・ザ・レインボウ)』を出版。1985年1月、『すばらしい日本の戦争』に手を加えた『ジョン・レノン対火星人』を出版。『さようなら、ギャングたち』と合わせて3部作とした。1987年、ジェイ・マキナニーの『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』を翻訳、ベストセラーとなった。1988年、『優雅で感傷的な日本野球』により第1回三島由紀夫賞を受賞。高橋、小林恭二、佐伯一麦、島田雅彦、松浦理英子、山田詠美、吉本ばなな、井口時男、中沢新一、朝吹亮二、岩森道子、高瀬千図という候補総勢12人、小説・評論・詩歌の三方にわたる大混戦となったなか、選考委員の大江健三郎と江藤淳の2票を獲得して受賞した。この時の賞金100万円は全額、日本ダービーにつぎ込み、一瞬にして使い果たした[注 3]。
1990年の『惑星P-13の秘密』以降は1997年の『ゴーストバスターズ』まで小説の発表がなく、エッセイ、時評などを中心に執筆した。1991年、湾岸戦争への自衛隊派遣に抗議し、柄谷行人、中上健次、津島佑子、田中康夫らとともに声明を発表した。
1997年より『群像』に『日本文学盛衰史』の連載を開始し、2001年に刊行。近代文学が成立していく過程での明治期の文学者たちの苦悩を、テレクラやアダルトビデオといった現代風俗のなかに再現し、翌年伊藤整文学賞を受賞した。この作品は賛否がかまびすしく、同賞の受賞は津島佑子の強い推薦によるものである。『日本文学盛衰史』以降は『官能小説家』『君が代は千代に八千代に』『ミヤザワケンジ・グレーテスト・ヒッツ』と、それまでに比して小説の発表が増えている。2005年、明治学院大学国際学部教授に就任。
2012年、『さよならクリストファー・ロビン』により谷崎潤一郎賞を受賞。現在は野間文芸賞、すばる文学賞、中原中也賞、文藝賞、萩原朔太郎賞選考委員。
小林多喜二の『蟹工船』が2008年に再脚光を浴びたのは、同年1月9日に毎日新聞東京本社版の朝刊文化面に掲載された、高橋と雨宮処凛との対談がきっかけになったといわれる[6][7]。
先祖は米沢藩(山形県)の家老だったという[8]。
競馬評論家としての活動[編集]
競馬好きが高じて、1988年にサンケイスポーツ東京本社版の競馬面で予想コラム「こんなにはずれちゃダメかしら」を連載開始。2010年現在も連載継続中で、実に20年以上に渡る長期連載となっており、過去に書籍化されたことがある。
1990年代よりテレビの競馬関連の番組にも進出。『スポーツうるぐす』(日本テレビ)では、司会の江川卓と予想対決を繰り広げたほか、『ドリーム競馬 KOKURA』(テレビ西日本制作分)ではゲストとして度々出演。盟友だった佐藤征一アナウンサーが定年の関係もあって番組の表から遠ざかった後は、コメンテーター的司会として毎回出演するようになった。この2つの番組によって、高橋は「競馬好き作家」としてすっかり有名になった。
なお、レギュラーとして出演していた『DREAM競馬』については、2007年2月11日の放送を最後に藤城真木子ともども降板したが、それから半年後の8月12日の放送は、同年で唯一BSフジにおいて全国放送されることもあり、この日限りながら復活出演となった(降板時はTNCローカル放送だったため、TNC以外の視聴者には降板挨拶がなされなかった)。