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川柳:
江戸時代[編集]
江戸中期の俳諧の前句附点者だった柄井川柳が選んだ句の中から、呉陵軒可有が選出した『誹風柳多留』(はいふうやなぎだる、後に柳樽と称される)が刊行されて人気を博し、これ以降「川柳」という名前が定着した。この頃は、「うがち・おかしみ・かるみ」という3要素を主な特徴とし、人情の機微や心の動きを書いた句が多かった。
柄井川柳が没すると、その子孫が宗家として代々の名籍「川柳」を名のるようになった。『誹風柳多留』は刊行され続けたが、前句付けの興行を経て「柳多留」へ選句される二重の選考システムが失われ、次第に句会としての形式を強め、選者もベテラン作者が任意に行なうようになり、「柳多留」も句会の発表誌の性格を帯びるものになっていった。
一時は寛政の改革に伴う検閲により、政治批判、博打、好色など風紀を乱すとされた句が『誹風柳多留』から削除されるなどしたが、四世川柳が川柳を「俳風狂句」と銘した文化文政期になると、江戸町人文化を背景に一段と盛んとなった。『誹風柳多留』には、九州・平戸6万3千石の大名・松浦静山(柳号・松山、流水、柳水)や葛飾北斎(柳号・卍)、都々逸の創始者・都々逸坊扇歌、「偐紫田舎源氏」の作者・柳亭種彦(柳号・木卯)など、当時一流の文化人が前文や評者として名を連ね、狂句とはいえ風雅な文芸性を備えていた。
しかし、天保年間に入ると天保の改革の風俗取締りが厳しく、公職を兼務していた四世川柳は、やがて職務の障りになるとして川柳号を廃せられ、佃島の魚問屋・腥斎佃(水谷金蔵)に五世川柳を譲位、五世川柳は、狂句の存続のため「柳風式法」や「句案十体」という狂句界の規範を作り、内容も忠孝、仁義、報恩などの教化を主とするものに変えた。しかし五世の意に反し、それまでの狂句のもつ自由な表現はこの規範が枷となり内容的には没落し、表面的な言葉遊びに陥ってしまった。
『誹風柳多留』は幕末(1838年、天保9年)まで刊行され続け、延べ167編を数えた。この時代までの川柳を古川柳と呼ぶことがある。
明治期[編集]
明治30年(1897年)、新聞『日本』に入社した阪井久良伎が『旧派歌人十余家の自賛歌十首』を連載し始めた。この記事に反発した正岡子規は、それまで傾倒していた俳句から同じ『日本』紙面上に『歌よみに与ふる書』で短歌に軸足を移して写生道を目指した歌論を展開するに至り、今度はこれに触発されて川柳にも改革の意識が高まり始める。
阪井が川柳壇の選者を務め始めた明治36年(1903年)には『日本』に井上剣花坊が入社して共に選者となり、井上はさらに『日本』紙面に〈新題柳樽〉欄を与え、『國民新聞』『読売新聞』でも川柳選者を務め、新興川柳の普及に尽力した[2]。これらはそれまでの五世川柳から続く客観的な視点作風の柳風狂句に代わる「新興川柳」であった。川柳作家の内面や、プロレタリア思想、純詩的作風など多彩となった。
井上は明治38年(1905年)に柳樽寺派を結成して『大正川柳』を創刊したが、掲載された句が治安維持法違反とされて廃刊に追い込まれるなどした。
川柳家の台頭[編集]
戦中戦後にかけて登場した川上三太郎『川柳研究』、村田周魚『川柳きやり』、前田雀郎の『せんりう』、岸本水府『番傘』、麻生路郎『川柳雑誌』、椙元紋太『ふあうすと』の6社を川柳の多角化に貢献したものとして後に川柳六大家と呼ばれる。この頃には女流作家が多く登壇し情念表現も現れた。さらに後にも多くの作家が生まれ、川柳家として認知されている。
現在[編集]
「俳句」が口語を取り入れ、川柳の詩的表現を求める者が文語に近づくなど、表現の表面上では俳句と川柳の差がほとんどなくなってきたという部分もある。現在、川柳界は一般社団法人全日本川柳協会のもと、大会、句会を中心とする娯楽的世界に変貌しつつある。新興川柳が獲得してきた本来の作者表現を表出する川柳作品はごく一部の川柳誌が追求しているのみで、明治柳風狂句期の句会至上主義と似てきたことは皮肉なことである。
しかし一方で「サラリーマン川柳」からブームとなった一般公募による川柳は、投稿者も若年世代から老人まで幅広く、一流の川柳家を選者とした公募川柳作品では、単なる「語呂合わせ川柳」と呼ばれる域を越えて、新しい表現分野になりつつある。これらは作者の個人名とは離れたペンネームを始めとする無名性の高い作風であり、この点は初代川柳期の無名性の川柳と似たものがある。この背景にあるのは、「大衆」の〈共感〉が作品評価のベースになっていることであり、阪井久良伎が明治中興期に定義づけた「川柳は横の詩」への回帰ともいえる。
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 復本一郎 『俳句と川柳 「笑い」と「切れ」の考え方、たのしみ方』 講談社〈講談社現代新書〉、1999年 ISBN 9784061494787(のち『俳句と川柳』 講談社〈講談社学術文庫〉、2014年 ISBN 9784062922463)
関連項目[編集]
俳句:俳句(はいく)とは、五・七・五の十七音から成る日本語の定型詩である。世界最短の定型詩とされる。十七文字(じゅうしちもじ)、十七音(じゅうしちおん)、十七語(じゅうしちご)とも呼ばれる。俳句を詠む(作る)人を俳人と呼ぶ。
短歌:
短歌は記紀歌謡や『万葉集』初期の作品にはすでに見られるもので、古今を通じ広く行われ、長歌や旋頭歌が詠まれることがなくなるにつれて、和歌といえば短歌をさすようになった。五・七・五・七・七の五句体(31モーラ)の詩形は、その時代に盛んであった長い詩形との関連で呼び名が変わった。奈良時代には長歌に対して短歌、平安時代以降は漢詩に対して和歌、明治時代後半からは新体詩に対して再び短歌と呼ばれて現在に至っている。狂歌とは文体を同にするが、定義では全く異なるものである。
和歌と近代以降の短歌は、その韻文としてのかたちは基本的には変わらぬものであるが、和歌はその中で使われたいわゆる序詞や縁語、また歌枕といった修辞を重要視し、のちのちまでそれらを伝えて詠まれたのに対し、近代以降の短歌ではそういったものは原則として否定されている。すなわち前代からの和歌とは違う思想に基づいて作歌されているということである。
短歌の歴史[編集]
近代以前[編集]
短歌は上で触れたように近代以前は和歌と呼ばれることが多く、その和歌を詠む上で手本とされたのは『古今和歌集』をはじめとする勅撰和歌集に採られた和歌であった。『万葉集』に関しては全く取り上げないということではなかったが、歌人のあいだでは勅撰和歌集が重要視された。近世後期になると京都で和歌革新の動きが起こり、香川景樹らの桂園派が登場した。桂園派は明治時代初期まで歌壇に重きをなしたが、これも『古今和歌集』の歌風の流れを汲む一派であった。上代から明治以前の和歌の歴史については、和歌の歴史の項参照。
明治・大正[編集]
明治時代初期の歌壇は前代に引き続き、桂園派を主とする御歌所派が中心となって貴族的・伝統的な文化人たちが担っていたが、和歌改良を志す人々はその題詠による作歌・風雅な趣向を批判し、自由と個性を求める近代短歌を開いた。浅香社が結成され、主観を重視する浪漫的な短歌を目指し、与謝野鉄幹らを輩出した。明治33年(1900年)、鉄幹は『明星』を創刊し、与謝野晶子を擁して浪漫主義短歌の全盛時代を築いた。明治40年代には『明星』から出た耽美派の北原白秋、自然主義的な若山牧水、社会主義的傾向を示した石川啄木らの個性が開花した。
一方、正岡子規は明治31年(1898年)に『歌よみに与ふる書』を発表。万葉への回帰と写生による短歌を提唱して根岸短歌会を起こし、伊藤左千夫・長塚節らを育てた。根岸短歌会の機関紙として明治41年(1908年)に創刊された『アララギ』からは、独自の歌風を確立してアララギ派を主導した島木赤彦や、自我を見つめて生命感ほとばしる歌を詠んだ斎藤茂吉が出た。『アララギ』は赤彦が編集を担当した大正期に歌壇主流と言っていい発展を遂げるが、よりストイックな歌風を特色とするその美学と結社的束縛は一部で反発を招き、大正13年(1924年)に古泉千樫、釈迢空、石原純が新雑誌『日光』の創刊に参加して『アララギ』を離脱するなど、『アララギ』の分裂を生み出す。茂吉は「写生」に「生を写す」と言う解釈をほどこし、大正15年(1926年)島木赤彦の没後は『アララギ』の編集を担い、中心人物として昭和初期にかけて活躍する。
昭和[編集]
昭和短歌の前奏曲として、大正12年(1923年)、歌誌『日光』が、『アララギ』を脱退した古泉千樫、釈迢空、石原純や、北原白秋、前田夕暮、吉植庄亮らによって創刊された。短歌結社ではなくゆるやかなサロン的結合による雑誌であったが、おのずから反アララギ的色彩を帯び、アララギ系―反アララギ系という座標軸はここから始まったといってよい。リアリズムに近い立場に立ちながら、窪田空穂、松村英一らは、『アララギ』には批判的であり、英一やその門人である山本友一は土屋文明系の渋谷嘉次と論争を行い、文明に代表される『アララギ』の作風のぎこちなさを批判する。
明治から試みられていた口語・自由律や、石川啄木にまでさかのぼれるプロレタリア短歌の運動が起こったのも昭和に入ってからである。前者は前田夕暮の「詩歌」を中心に一大勢力となり、後者はプロレタリア文学の一環としての存在を主張するようになる。
口語派は夕暮の一門あげての定型復帰により、香川進、前田透といった歌人が文語定型を排除しない方向に転じたことで、力を減じていった。
プロレタリア派は、当初、文学理論が先行し、短歌を短詩に解消するべきだという意見が有力になったり、あるいは三十一音を大幅にはみ出す作品が出たりして、国家による弾圧以前にも問題を抱えていた。
昭和3年(1928年)、新興歌人連盟が発足。口語派、シュールレアリスム派、プロレタリア派、生活派が連合して歌壇の革新に努める。前川佐美雄、坪野哲久、筏井嘉一らにより、後に新風十人でその美学を示した。昭和10年(1935年)、北原白秋が『多磨』を創刊。宮柊二(『コスモス』)、木俣修(『形成』)といった戦後結社につながる歌人がここから輩出する。
歌壇の一大勢力に成長した『アララギ』では、斎藤茂吉の指導を受けた佐藤佐太郎(『歩道』創刊)・山口茂吉、土屋文明の指導を受けた五味保義、近藤芳美(『未來』創刊)、高安国世(『塔』創刊)、相澤正、樋口賢治、落合京太郎、吉田正俊、柴生田稔らが育つ。
戦後[編集]
日本の敗戦から、桑原武夫『第二芸術論』など短歌否定論が大反響を呼んだが、短歌否定論に対抗し、戦後歌壇を樹立する目的の下に、昭和22年(1947年)新歌人集団という運動体が結成された。近藤芳美や宮柊二などは戦後歌壇の大きな存在となるとともに、現代短歌の基盤を作っていった。
昭和23年(1948年)には、日本歌人クラブが、斎藤茂吉・土屋文明・釈迢空・尾上柴舟・佐佐木信綱・窪田空穂・土岐善麿・前田夕暮を始めとする183名の発起人、太田靑丘・渡辺順三・近藤芳美・佐藤佐太郎・木俣修・宮柊二・香川進ら当時の中堅歌人らによって結成され、歌壇最大の超結社団体として、現在に至るまで活発な活動を続けている。
昭和24年(1949年)には中井英夫が『短歌研究』を創刊し、葛原妙子・中城ふみ子・塚本邦雄・寺山修司ら多くの新人を見い出した。
昭和31年(1956年)には歌人の職能的性格を持つ団体として「現代歌人協会」が、生方たつゑ・扇畑忠雄・尾上柴舟・香川進・鹿児島寿蔵・木俣修・窪田空穂・近藤芳美・佐佐木信綱・佐藤佐太郎・柴生田稔・土屋文明・坪野哲久・土岐善麿・松村英一・會津八一・宮柊二・山口茂吉・山本友一など62名の発起人により結成された。
昭和30年代になると前衛短歌運動が起こった。現代短歌は前衛短歌から始まったとも言われる。前衛短歌運動は、塚本邦雄の衝撃的な表現から始まり、「短歌研究」編集長中井英夫の賛同を得、岡井隆・寺山修司といった同志を獲得し、歌壇全体に影響を及ぼした。前衛短歌は、比喩の導入、句またがり、記号の利用といった技法上の特徴が数多くあるが、作品の主人公と作者が異なる、虚構を詠っている点が最大の特徴である。この表現方法は明治期の西洋化で失われたが、古典ではよく見られた形式であるため、短歌のルネッサンスと言われる。
昭和30年代半ばには、前衛短歌は社会的影響力を持ち始めたため敬遠する出版会の動きがあったことと、方法意識が出尽くしたことから停滞した。そこで登場したのが安保闘争に参加した若者、西の清原日出夫、東の岸上大作であった。
安保闘争後、前衛短歌が行き詰まりを見せ、新たな表現方法への移行も出来なかったこともあり、短歌は目標や思想を喪失していった。歌壇は孤立化し、内部(歌人)と外部(新聞短歌・セミナー短歌)の棲み分けが始まった。そのような中、三島由紀夫に定家の再来と言われてデビューした春日井建が、時代性や社会性の意識は見られない絶対なる美的表現を追求した。
昭和40年代初め、前衛短歌の停滞後初めて本格的に近代短歌に向き合う動きが出てきた。自然派の前登志夫、古典派の馬場あき子・山中智恵子などである。他にも、自らの表現形式を持って短歌を作る歌人が活躍し始めた。「男歌」の佐佐木幸綱、「ただごと歌」の奥村晃作、実験的な歌風の高瀬一誌、戦後の青年像を示した夭折歌人の小野茂樹などである。昭和50年代には、村木道彦・小池光・阿木津英など、風俗・実生活を繊細に描写する歌人が現れた。
昭和60年代には、都市文化を基調としたヴィジュアルな表現が登場する。坂井修一や、新古典派と呼ばれる紀野恵・水原紫苑などが平成のニューウェーブの先駆けとなる。俵万智『サラダ記念日』がミリオンセラーを記録、短歌はそれまでの硬いイメージから開放され、コピー言語のように読まれるようになった。
平成[編集]
平成に入って最大の衝撃は、正岡子規以来の写生を受け継ぐ『アララギ』の終刊(平成9年(1997年)12月)とアララギ派の分裂であろう。時を同じくして加藤治郎・荻原裕幸・穂村弘らニューウェーブと呼ばれる歌人が登場した。『サラダ記念日』(俵万智)で決定的に大衆化した短歌の状況に困惑する旧来の歌人をよそに、イメージと感性で歌い上げる彼らの表現は斬新だった。それまでの短歌は個人的内容であっても、普遍性や生への問いかけがあった。しかしバブル経済の表層的文化で育った口語性と都会性、脱私性により、前衛短歌以来の近代短歌からの脱出が図られたのである。
現在はインターネットの普及も影響して、枡野浩一・高杉碧など歌壇に全く属さない歌人も登場している。
昭和末期から東洋大学現代学生百人一首という短歌を使用したコンテストが開催されている。現在では全国各地の学校がこのイベントへ参加しており、短歌を通じた教育ならびに現代の学生が短歌を詠むことで現代人の感性を知ろうというひとつの試みとなっている。
短歌の技法[編集]
定形の文字数、句数による制約[編集]
短歌の定形は、31文字(みそひともじ)、5句であるが、それを守る方法と変化を付けることによって表現の幅を広げようとする方法とがある。歌のどの部分を強調するかに対して各種の慣用的呼び方がある。
- 句切れ
- 初句切れ
- 二句切れ
- 三句切れ
- 四句切れ
- 無句切れ(句切れなしとも言う)
- 句割れ
- 句跨り
- 破調
- 字余り
- 字足らず
使用する表記[編集]
文語による短歌は歴史的仮名遣(旧仮名遣)によって書かれることが原則であるが、日常生活で口語が用いられている現在は各種の表記法が混在している。
修辞技法[編集]
近代以降の短歌においては、韻文全般に用いられる技法の中から効果があるとされるものが選択的に用いられている。
短歌の分類[編集]
近代以降の短歌は自然に触れ、生活の場で、また社会の流れの中にあって、人間の心の在り様を表現したものであり、すべてが抒情であるとも言える。しかし、短歌の世界では対象の捉え方を、叙景歌(自然の風景等を詠んだ歌)、叙事歌(事実をありのままに述べた歌)、抒情歌(感情、感動を述べ表した歌)という分け方をしてきた。便宜上直接的に短歌の対象となった事柄を捉えて、何々詠という呼び方をしている。
代表的なものを次に掲げることにする。これら以外に何々詠と付けられた分類も見かける。また、今後、さまざまな呼び方がされる新たな分野が登場してくる可能性はある。
種類 | 内容 |
---|---|
自然詠 | 山川草木、花鳥風月などの自然を主体に詠んだ歌 |
季節詠 | 春夏秋冬、すなわち四季を詠んだ歌。広くは自然詠に含まれる |
動物詠 | 動物を詠んだ歌 |
植物詠 | 植物を詠んだ歌 |
愛国詠 | 国の末永い平和や繁栄を祈る歌 |
人事詠 | 人間社会の出来事、人間関係、または個人個人のことを詠んだ歌 |
生活詠 | 生活の実感を詠い人の在り方に迫ろうとする歌 |
官能詠 | 肉体的快感、特に性的感覚を通して得られる快さを詠んだ歌 |
職場詠・職業詠 | 職場や職業を詠んだ歌 |
境涯詠 | 自分の人生を振り返って詠んだ歌 |
病床詠 | 病床にあって詠んだ歌 |
家族詠 | 家族という集団を意識しながらその構成員を詠んだ歌 |
相聞歌 | 男女の間の恋愛感情を詠んだ歌 |
挽歌・鎮魂歌 | 死者を弔い、死を悲しむ歌 |
旅行詠 | 旅行途上で接した風物に寄せて感慨を詠んだ歌 |
山岳詠 | 登山体験を詠んだ歌 |
海外詠 | 海外での長期滞在、居住、永住等の体験を詠んだ歌。戦前からの移民等の歌も含む |
社会詠 | 人の生活する場である社会と社会に対する批判等を含む認識を詠んだ歌 |
時事詠 | 時事問題を詠んだ歌。社会詠の一種である |
時局詠 | 現在の時局に題材を得た歌。広くは社会詠に含まれる |
安保詠・学園闘争詠 | 60年安保闘争・1970年前後の学園紛争を詠んだ歌 |
震災詠 | 関東大震災や阪神・淡路大震災を詠んだ歌 |
戦争詠 | 戦争に直接参加した兵士たちが前線で詠んだ歌 |
戦時詠 | 戦時下の社会と人間を詠んだ歌。戦争詠とは異なる |
農民詠 | 「農民文学運動」に端を発し、農村に関して詠んだ歌 |
思想詠 | 哲学、思想、主義、主張に基づき人間と社会を詠んだ歌 |
都市詠 | 人間社会の縮図である都市の社会状況、人間の在り方を詠んだ歌 |
参考文献[編集]
- 『近代短歌を学ぶ人のために』-安森敏隆・上田博編(1998年5月、世界思想社)ISBN 978-4790707059
- 『短歌講座第1巻 歌史歌體篇』-(1931年、改造社)
関連項目[編集]
- 歌人一覧
- 口語短歌
- 夜はぷちぷちケータイ短歌(NHK第一ラジオの番組)
- NHK短歌(NHK教育テレビの番組)
- 歌壇
- アララギ
- 結社
- 琉歌
- サダキチ・ハートマン - Tanka and Haika: Japanese Rhythms (1916) を著し、北米に短歌を紹介した最初期の人物。
- 短歌雑誌→専門雑誌#短歌総合誌