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アンドラ
「アンゴラ」とは異なります。 |
- アンドラ公国
- Principat d'Andorra
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(国旗) (国章) - 国の標語:Virtus Unita Fortior (ラテン語: 団結は力なり)
- 国歌:アンドラの賛歌
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公用語 カタルーニャ語 首都 アンドラ・ラ・ベリャ 最大の都市 アンドラ・ラ・ベリャ 独立 1278年 通貨 ユーロ (€)(EUR)[1][2] 時間帯 UTC +1(DST:+2) ISO 3166-1 AD / AND ccTLD .ad 国際電話番号 376
アンドラ公国(アンドラこうこく、カタルーニャ語: Principat d'Andorra)、通称アンドラは、ピレネー山中にあり、フランスとスペインに挟まれた国家。フランス大統領とスペインのウルヘル司教を国家元首とするミニ国家である。首都はアンドラ・ラ・ベリャ。
目次
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国名[編集]
正式国名はカタルーニャ語で、Principat d'Andorra(プリンシパット・ダンドーラ)、通称、Andorra(アンドーラ)。
フランス語では、Principauté d'Andorre(プランシポテ・ダンドール)、通称、Andorre(アンドール)、スペイン語では、Principado de Andorra(プリンシパード・デ・アンドーラ)、通称、Andorra(アンドーラ)、英語では、Principality of Andorra(プリンシパリティ・オブ・アンドーラ)、通称、Andorra(アンドーラ)である。日本語での正式国名はアンドラ公国、通称はアンドラ、漢字表記は安道爾である。
国名はバスク語起源の語に由来すると推定されるが、詳細は不明である。
歴史[編集]
803年、フランク王国のシャルルマーニュがピレネー山脈中においたスペイン辺境領の一つ、ウルヘル伯領(英語版)を起源とする[1]。
1133年、ウルヘル伯はウルヘル司教にアンドラの宗主権を譲り渡した[1]。1096年、司教はカボー家(カタロニア語版)にアンドラの防衛を委ねる代わりに、代償としてアンドラの一部カボー谷の統治権を与えた[2]。カボー家の権利はカステルボー子爵(カタロニア語版)との婚姻によって移動し、1208年にはフォワ伯(英語版)家によって掌握された。フォワ伯家はアンドラ全体の統治権を狙い、司教と争うようになった。事態の解決のため、1278年に両者を対等の共同統治者とする宗主契約が結ばれた[3][1]。1419年には最初の議会が設置されている[1]。フォワ伯のガストン4世はナバラ女王のレオノールと婚姻し、以降フォワ伯位とアンドラの統治権にくわえてナバラ王を継承するようになった。フォワ伯の地位は女系を経てブルボン家に渡り、1589年にアンリ4世がナバラ王兼フランス王となったことでフランス王がアンドラの宗主権を受け継ぐことになる。1607年にはアンリ4世が、フランス王とウルヘル司教を共同大公とする勅令を出し、アンドラは公国となった[1]。
フランス革命が発生して1793年にルイ16世が処刑されると、フランス側の共同大公は存在しなくなった[2]。アンドラ側は革命政権を承認せず、フランス第一共和政政府もアンドラとの関係を絶った[2]。1794年、スペインとの間でピレネー戦争(英語版)を戦っていた共和政政府は、この機にアンドラを併合しようともくろんだ[2]。この時アンドラの代表がフランス軍の司令官のもとにおもむき、侵攻を断念するよう説得している。1806年、フランス皇帝に即位したナポレオン・ボナパルトとの間で両国関係は修復され、再びフランスの元首が共同大公につくことになった[2]。以降封建的な制度はそのまま受け継がれていくことになる。
第一次世界大戦に参戦したものの[要出典]、ヴェルサイユ条約の範囲外にあった。そのため、形式的にアンドラ公国は「第一次世界大戦を継続したまま、第二次世界大戦を迎える」という珍事が起こった[4]。この戦争状態は1950年代まで続いた[5]。1934年7月にはリトアニアの冒険家、ボリス・スコスヤレフ(英語版)がフランスの庇護下にあるアンドラ王を称して、ウルヘル司教に対して宣戦布告したが、まもなく国外追放される事件が起きている[2]。
スペイン内戦の時期には中立を守り、フランス軍が駐屯している[2]。第二次世界大戦では中立を守ったものの、スペイン軍が駐留している[2][1]。第二次世界大戦中にはスペインとヴィシー政権の密輸ルートとして利用されている。また1944年にはドイツ軍の部隊がアンドラに侵入しているが、1945年に退去するまで戦闘行為は発生しなかった[2]。
1993年3月、新憲法が国民投票により可決され、ウルヘル司教とフランス大統領を共同元首とする議会制民主主義を敷く独立国家となる事が決定された。フランスおよびスペインはこれを6月1日に承認し、正式に独立国家となった。同年7月、国際連合に加盟した[3]。
政治[編集]
国家元首である大公 princes d'Andorre は、スペインのウルヘル司教 Obispado de Urgell, évêques d'Urgell と、フォワ伯爵位 comte de Foix を法的に継承するフランス大統領 président de la république française と、の二頭制である。1993年の憲法で国民主権が明記され、大公の権限は、首相の任命等、大使の接受,法律・条約の認証等である[3]。大公らがアンドラに来訪することはほとんどなく、それぞれの代行者が来訪して、またはそれぞれの駐在代理官 représentant が委任を受けて、その権限を行使する。
アンドラの国会に当たる大評議会(カタルーニャ語: Consell General d'Andorra)は、一院制で、定数は28議席[6]、カタルーニャ語: Consell General de les Valls、渓谷総会とも呼ばれる。任期は4年で、14議席を全国区から選出し、残り14議席は7教区ごとに割り振られて各教区2議席ずつの定数となっている。行政府の長 Cap de Govern である首相は、議会によって選出される。保守・自由民主主義のアンドラ自由党と、社会民主主義の社会民主党による二大政党制だが、他にも小政党が存在する。
軍事・治安[編集]
敵対する国家も存在しない上、近年まで外交をスペインとフランスにゆだねていたこともあり、軍隊は持たず、国防に関してはフランス及びスペインに委託している[7]。240人規模の警察部隊 (アンドラ)(英語版)が存在し、国境警備や治安活動に当たっている。
国際関係[編集]
外交は1993年までは共同元首の権限であり、ウルヘル司教は外交組織を持っていなかったためフランスが代行していた[3]。独立以後はアンドラ政府自身で行うことになった。国際連合(1993年)および欧州評議会(1994年)に加盟。2013年現在、WTOに加盟申請中である。これに対して欧州連合(EU)や欧州自由貿易連合(EFTA)、万国郵便連合、生物多様性条約には加盟していない。
日本との関係[編集]
日本は1993年12月にアンドラを国家承認し、1995年10月に両国間の外交関係が築かれた[3]。アンドラにおける日本の代表部は、在フランス日本国大使館が兼轄している[3]。
日本人のアンドラへの渡航は、在スペイン及び在フランス日本人によるものを中心に年間数千人程度と見られている。
2005年(平成17年)1月20日、首相のマルク・フォルネ・モルネが湘南モノレールを視察。首相夫妻と外務大臣ら5人が、同社社長の前田克彦らとともに全区間を乗車した。同首相は積雪に強いこのモノレールに対し「アンドラ公国にぴったりの交通機関」と感想を述べた。アンドラは冬期5か月間は雪に閉ざされるため、降雪に強い交通手段として、このサフェージュ式モノレールに関心を寄せている。
2011年1月9日にテレビ東京系列で放送された「あなたの街にもいる?189ヶ国愛すべきヘンな外国人」で首相が調査した結果によれば、在アンドラ邦人は4人、在日アンドラ人は1人であった。2013年3月時点では在アンドラの邦人は10人。
地方行政区分[編集]
詳細は「アンドラの地方行政区画」を参照
7つの教区(パロキア、parròquia)に区分される。
地理[編集]
国土面積は468km2であり、日本では金沢市の面積とほぼ等しい。
ピレネー山脈東部に位置し、スペインとフランスにはさまれた山がちの内陸国である。スペインのカタルーニャ州リェイダ県、フランスのミディ=ピレネー地域圏アリエージュ県とラングドック=ルシヨン地域圏ピレネー=オリアンタル県に接する。厳しい高低差があり、複数の谷が刻み込まれている[8]。山からは粘板岩が産出し、伝統的な家屋の屋根はこれで葺かれ、壁は自然石を用いて作られている[9]。
夏季は乾燥し、冬季の降雪が多い地中海性気候である。耕作地や住宅地の他はほとんどが針葉樹林であるが、標高2500m以上の地域では樹木が生育せず、草地や裸地となっている[10]。
最高峰はコマ・ペドローザ峰(2942m)、主な川はバリラ川。
経済[編集]
経済の中心は観光業である。独自通貨は持たず、EUには非加盟だがユーロを使うことができる。ユーロ導入前はスペインペセタとフランス・フランを使用していた。また、タックス・ヘイヴンの国家であり、消費税は存在しない。このため国家収入の大半は、EUからの輸入税である[3]。
商業[編集]
冬期のスキーやスノーボード、夏期のトレッキングやスパなどのレジャー産業が盛んで、タックス・ヘイヴンの上に成り立つ格安の宝石店、自動車パーツ店、免税店(ヨーロッパ全域のブランド品・タバコ・香水を扱う)でのショッピングを含めた観光業が基幹産業となっている。マドリウ=ペラフィタ=クラロ渓谷は世界遺産にも登録されている[6]。
スペインやフランスなどの周辺の国の人々の別荘も多く存在している。近隣の大都市であるスペイン・バルセロナからは、毎週末になると週末の観光を兼ねた買出し客が国境を超えて押し寄せることもあり、国境沿いの道路にはそれらの客を目的にした免税スーパーマーケットや免税ガソリンスタンドが軒を連ねる。
国土が広くなく、大きな産業も望めない為、外貨獲得の策として、フランスとスペインからの集客を高めようとし、課税によってフランスでは高価なカー用品、スペインでは高価なタバコとアルコール飲料を免税の低価格で販売するようになったという背景がある。
農業[編集]
農業には人口の4%が従事し、国土の2.1%が農地である。主な品目はタバコ、ジャガイモ、トウモロコシ、オリーブなどの他、牧畜も行われている。世界的な観光業の成立以前は農業が国の基盤だった。現在、世界市場で競争力を持っているのはタバコである。アンドラ産のタバコの葉は大変香りが強いため珍重されており、ブレンド用として輸出されている。
鉱業[編集]
第一次産業、第二次産業はいずれも規模が小さい。アンドラの鉱物資源は鉄鉱石と鉛、ミョウバン、石材、イオウを含んだ水である。300年以上に渡り、採鉱から鍛鉄まで小規模ながら一貫した「鉱業」が継続していた。現在でも鉄資源は枯渇していないが、製鉄業は成立していない。イオウを含んだ水は羊毛の洗浄に用いるためのものである。
工業[編集]
工業は、繊維業、紙巻きたばこ製造、家具製造業を中核とする。繊維業では、レス・エスカルデスの羊毛で織ったスカーフや毛布が著名である。アンドラの輸出額に占める工業製品の比率は90%に達する。内容は自動車、精密機械などで、いずれも軽微な加工に留まる。工業製品に分類される輸出金額は5700万ドル(2002年時点)である。
情報通信[編集]
テレビ局とラジオ局がある(RTVA)。郵便はフランスおよびスペインの郵便局が配達、アンドラ国内の送料は無料。街中に両国の郵政公社によるポストが設置されている[6]。インターネットの国別ドメインは.adである。
交通[編集]
国内の交通は自動車とバス、オートバイが一般的である。スペインとフランスとの間は幹線道路で結ばれており、特にバルセロナとの間には、高速道路が一部完成していることから交通量も多い。空港、港、鉄道はない。ヘリポートは存在する。
国民[編集]
国籍はスペインが37.4%、アンドラが35.7%、ポルトガルが13.0%、フランスが6.6%、その他が7.3%である(2004年時点の公式統計)。
言語[編集]
言語は公用語がカタルーニャ語である。その他、スペイン語、フランス語、ポルトガル語などが使われている。
宗教[編集]
国民のほぼ大半がカトリック教会の信者である。
文化[編集]
世界遺産[編集]
詳細は「アンドラの世界遺産」を参照
ユネスコ世界遺産の文化遺産としてマドリウ=ペラフィタ=クラロ渓谷が登録されている。
祝祭日[編集]
日付 | 日本語表記 | 現地語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元日 | ||
1月6日 | 公現祭 | ||
3月14日 | 憲法の日 | ||
移動祝日 | 聖木曜日 | ||
移動祝日 | 聖金曜日 | ||
移動祝日 | 復活の月曜日 | 復活祭の翌日 | |
5月1日 | メーデー | ||
移動祝日 | 主の昇天 | 復活祭(イースター)の40日後 | |
移動祝日 | 聖霊降臨祭 | 復活祭(イースター)の50日後 | |
移動祝日 | 聖霊降臨祭後の月曜日 | 聖霊降臨祭の翌日 | |
6月24日 | 洗礼者ヨハネの祝日 | ||
8月第一土曜日 | アンドラ・ラ・ベリャの日 | ||
8月15日 | 聖母の被昇天 | ||
9月8日 | 国家の日 | ||
11月1日 | 諸聖人の日 | ||
11月4日 | 聖チャールズの日 | ||
12月8日 | 無原罪の聖マリアの祝日 | ||
12月24日 | クリスマスイブ | ||
12月25日 | クリスマス | ||
12月26日 | ボクシング・デー | ||
12月31日 | 大晦日 |
スポーツ[編集]
詳細は「アンドラのスポーツ」を参照
スキーをはじめとしたウィンタースポーツのほか、自転車競技などもさかん。2010年の3月1日から7日まで、山岳スキーの世界選手権が開催される。
脚注[編集]
[ヘルプ] |
- ^ a b c d e f Andorra profile -BBCによるアンドラのプロフィール
- ^ a b c d e f g h i History of the Principality of Andorra-andorramania.com
- ^ a b c d e f g アンドラ基礎データ | 外務省 -外務省
- ^ 参考:技術上の問題で戦争状態が延びてしまった戦争のリスト(英語版))
- ^ From Tiny Andorra to the U.N. Center Stage - New York Timese-ニューヨーク・タイムズ2006年9月22日
- ^ a b c 映画のロケ地としても注目! 山深い小国が抱える不思議 - exciteニュース、2011年6月25日
- ^ CIAワールドファクトブック(英語)
- ^ 石川輝海 2011, pp. 21.
- ^ 石川輝海 2011, pp. 21-23.
- ^ 石川輝海 2011, pp. 23.
参考文献[編集]
- 石川輝海「ピレネー山脈東部の地質学的および地球環境学的研究」(2011年)
外部リンク[編集]
ウィキメディア・コモンズには、アンドラに関連するメディアおよびカテゴリがあります。 |
- 政府
- 日本政府
- 日本外務省 - アンドラ (日本語)
- 在アンドラ日本国大使館 - 在フランス日本大使館のサイトの一部 (日本語)
- 観光
- アンドラ政府観光局 (カタロニア語)(英語)
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