パンパカ パン が なり出しました。
横山 ノック(よこやま ノック、本名 山田 勇(やまだ いさむ)、兵庫県神戸市生まれ。1932年1月30日 - 2007年5月3日)は、お笑いタレント、元参議院議員、元大阪府知事。愛称は「ピッカリくん」「タコ小僧」「明石のタコ」「ノック先生」。立川談志一門でもあり、「立川禿談次」という高座名も持つ。個人事務所のやまだ真企画に所属していた。トレードマークは、電電公社のマーク。
来歴 [編集]
神戸市立楠木高等小学校を卒業して米軍施設に勤務していた。
若手時代 [編集]
1955年に宝塚新芸座に入団すると共に秋田Aスケ・Bスケの2代目Bスケに弟子入りし、三田久として初舞台を踏む。その後、兄弟子のOスケ(のちの平和ラッパ・日佐丸の三代目平和日佐丸)と秋田Kスケの名で漫才コンビ「秋田Oスケ・Kスケ」を結成。京都新京極・富貴で初舞台。1958年に松竹芸能に移籍。[1]だが、Kスケに水面下で大宝芸能への移籍話が持ち上がり、松竹芸能に残留したOスケと袂を分かつことになる。このころの芸風はどたばた系のOスケがKスケをどつく「どつき漫才」であった。
「横山ノック」誕生 [編集]
大宝に移籍後しばらくは秋田Kスケの名で活動していたが、亭号を返上し、再び三田久の名で活動する。その後、友人であり「北野劇場」に出演していた縁もあり関西テレビプロデューサー・石田正治を介して彼の実父・横山エンタツに再入門、Oスケ・Kスケを逆様にしたKOつまりノックアウト(Knockout)に由来した横山ノックの名で漫才コンビ「横山ノック・アウト」を結成。だが、しばらくして解散した。
この頃に長女が誕生している。
1960年、小林龍太郎(後の上岡龍太郎)と小林が紹介した田川元祥&リズムワゴンボーイズのドラマー・轟盛次(漫才師、轟一蝶・美代子の一蝶の長男)を誘って漫画トリオを結成した。轟は横山フック、小林は横山パンチと名乗らせた。しゃべくりだけのトリオ漫才とニュース漫才は当時非常に斬新で話題となり、好評を博す。(後述)
漫画トリオ結成当初は吉本興業に所属していたが、後に個人事務所の京芸プロを設立し、東京新宿の松竹文化演芸場にも連続出演。同演芸場のレギュラーだった立川談志(当時・柳家小ゑん)と兄弟分になる。ちなみに吉本からの独立時に出された条件は「独立後も月に10日間は(吉本が運営する)花月の舞台に客演として出演し続けること」であったと言われ、当時としては珍しい円満退社であったとされている。
1963年、フックが離脱(事実上の解任)し白木みのるの付き人をしていた小島あきら(後の青芝フック)を2代目に迎え入れた。
漫画トリオ [編集]
ノックがボケ、フックとパンチがツッコミ。かつてトリオ漫才と言えばかしまし娘、フラワーショウ、ちゃっきり娘、三人奴、宮川左近ショウなどのように楽器を用いた音曲漫才であったが、ノックがトリオで正統漫才をやりたい、とこだわって編み出した。
ノックはツッコミのセンスも高く、フックやパンチに対しても、ツッコミの指導を行うなどした。
レツゴー三匹と並び称されるところがあるが、レツゴー三匹が正児とじゅんの正統漫才に長作が歌や合いの手を入れるのと違い、あくまでも3人がタイミングよくネタをまわし続け、休む人物が基本的に発生しない。
例)ノック「今日」パンチ「君(ノック)んとこ行ったけど」フック「おらなんだ」
ノックが米軍に勤務し、パンチがジャズ喫茶に出入りしていたことからテンポを重視する傾向があったものと思われる(フックが代替わりしたのも、初代がノックの理想のテンポについていけなかったからである)。また、ノックがコンビ別れを繰り返し、今のスタイルではだめだ、と考え、新しいスタイルを模索していたことも遠因である。
ネタ自身もその影響が濃く、洋楽や米軍式行進なども取り入れていた。ニュースネタもそのノックの提唱した「新しいスタイル」の一環である。ネタはまず、パンチが左手、フックが右手を斜め上に差し出し、(3人で)「パンパカパーン、パンパンパ、パンパカパン」「今週のハイライト」というブリッジを言って始まる。なおこのブリッジのパンパカパーン、パンパンパ、パンパカパン」はフックがバンドマンだったころに気に入っていた曲の一節だった。「ハイライト」は吸っていたタバコの銘柄からきている。このニュースネタ収集のため各種のニュースに触れていった結果、ノックは政治家への転身を考えるようになる。尚このネタは旧うめだ花月に近所にあった喫茶店「アメリカン」で3人で考えた。
当時のノックはすでに禿げ上がっていたが、後頭部からヘアピンを使ってナポレオン1世のようなピンカールを付けていた。ところがある時、海外公演があり飛行機に乗ることになったため、探知機に引っかからないようヘアピンを外しピンカールかつらを付けることになった。帰国後、それを忘れていたパンチが「ええかげんにせぇ!」といつものように突っ込むとピンカールが観客めがけて飛んでいき、観客が「ギャー」と驚いたことがある。
「エロダコ」伝説 [編集]
若くして頭部の禿げ上がっていたノックは、フックの口バイオリンでの伴奏に乗ったパンチの口上で「タコ」として認知された。これに生来の「女性好き」などのエピソードが加わって一部で「エロダコ」と呼ばれることとなる。以下はそのなかで伝説とされた話である。
- 米軍施設で働いていたときに初めて性行為を経験した。相手は米軍の女性将校で、襲われた。
- 陰嚢(もしくは陰茎)が非常に大きく、風呂場で少ししゃがむと床に着いた。また、清掃係が、(床にあったため、ゴミと勘違いして)ごみばさみでつまんだ。
- 旅館の2階にある女湯を窓の外から覗こうとして、両手でパイプにしがみつき壁伝いにぶら下がりながら女湯の前まで行ったものの、そのパイプは女湯に繋がっている熱湯を通すためのものであった。このため、熱湯が流れるたびにパイプが熱を帯びて熱がるも、手を離すと1階の庭に落下してしまうので熱くてもパイプから手を離すに離せず、あたおたしている姿を芸人仲間に笑われながら目撃されていたという逸話がある。
漫画トリオ解散・参議院議員に [編集]
1968年に漫画トリオを解散し、参議院議員選挙全国区に無所属で立候補し当選。以後は参議院議員としては分かりやすい政治の広報として、また、タレント業も継続し、『ノックは無用!』などのトボケ司会、上方漫才での大御所「先生」の称号を得るようになりながらも、相変わらず(後輩芸人からも)激しい突っ込みにさらされる親しみやすさで人気を博した。歌手としても 1976年にレコード『ガンバレ! たこやきちゃん』を発売、関西を中心にヒットした。参議院議員は全国区2回(1968年・1977年)、大阪選挙区で2回(1983年・1989年)の当選を重ねた(1974年は全国区立候補も落選)。院内では第二院クラブ、民社党・国民連合に属した。
参議院議員辞職、大阪府知事へ [編集]
1995年に参議院議員を辞職した後、政党に頼らない「無党派」であることを旗印にし、大阪府知事に当選する[2]。当初は知事就任後もそれまで出演していたレギュラー番組に復帰するなどタレント活動を続けるつもりであったが、公務が多忙なことや、タレント活動を並行して行うことに府民から反発があったこともあり、ほんの一部を除いてタレント活動を封印し、大阪府の赤字解消を目標に掲げて施策を行った。一期目就任当初は議会のほとんどが野党というオール野党状態ではあったが、同年8月30日には当時不良債権が大幅に膨らんで事実上死に体であった木津信用組合に対して業務停止命令を発し、また行政改革への積極的な取り組みなど、一定の実績は積み上げていった。元々の芸人としての知名度と愛着の持たれるキャラクターから府民の人気は高く、加えてAPEC首脳会議の成功など実績も評価されたことで、1999年の二期目選挙では自民党など主要政党が対立候補の擁立を見送らざるを得ない状況[3]となり、235万票という大阪新記録の得票によって事実上の信任投票となる形で当選した。芸能人としての人気と名声の獲得、学歴のハンディを乗り越えての首長という公職への就任、このときが横山の人生にとって絶頂期であった。
強制わいせつ事件 [編集]
しかし、選挙活動の際に運動員をしていた女子大学生から、「選挙運動中に下着の中に手をいれられた挙げ句に性器を触られ、当日性交をするために自分の所へ訪れよと命令された」として、強制わいせつとセクハラ行為で民事訴訟を起こされた。それに対して横山は「事実無根」と完全否定し、女子大学生を虚偽告訴容疑で逆告訴した。上坂冬子や曾野綾子などの一部保守系文化人は女子大学生側に対し、「胡散臭い」「なぜその場で声をあげなかったのか」と批判した[4]。裁判開始後、横山は「公務の時間を奪われたくない」という理由で、答弁回避を選択。その一方、法廷外での記者会見や府議会では女子大学生を非難する発言を繰り返したことで批判を浴び、辞職を求めるデモも起きた。
1999年12月13日、大阪地方裁判所は、「原告が、風邪で高熱もあり容易に抵抗できなかった状況下で、被告により自己の腹部から足下を覆うように体に毛布を掛けられた上、約30分間にわたり、被告の右手をズボンや下着の中に差し入れられたり、指で陰部を直接弄ばれたというものであり、右行為態様は執拗かつ悪質である。また、わいせつ行為に及ぶ経過をみると、被告はわざわざ毛布1枚を持って車両を乗り換えるなどわいせつ行為の計画性も窺われるし、わいせつ行為後も、被告は、自らの行為を反省するどころか、原告に対して海外ブランド品を交付することにより事を解決しようとするなど、原告の人格を蔑視する態度を取っている」(カギ括弧内は判決文の引用)として猥褻行為を認定した他、横山の逆告訴や法廷外での発言を名誉毀損であると認定し、横山に女子大学生に対して1100万円(セクハラ訴訟としては過去最高額)の支払いを命じた。その後民事とは別に、12月21日には大阪地方検察庁から強制わいせつ罪で在宅起訴され、知事を辞職した。2000年3月に開かれた刑事裁判の公判では、現場に居合わせた運転手、SPが証人として出廷を求められた。横山は一転して強制わいせつ罪の事実を認め、女子大学生に謝罪した。なお、在宅起訴時、横山は病院に入院し、心臓手術を受けている。刑事裁判の間、次の大阪府知事候補予想として西川きよしと上岡龍太郎が挙がった。それに対し、西川はすぐに否定したが、上岡は各新聞媒体の記者にギャグで立候補の意思を表明するといった出来事があった。
有罪判決・芸能界追放・芸能活動自粛 [編集]
2000年8月、強制わいせつ罪により懲役1年6か月・執行猶予3年の有罪判決を受けた。その後、横山は控訴せず判決が確定した。これにより知事としての高額の退職金の受給資格、そして将来の叙勲・栄典など、それまでの人生で築き上げてきた地位と名誉のすべて失うことになる。
判決を受け、当時吉本興業社長だった林裕章は「二度とあの方には協力しない」とコメントし、横山との協力関係を解消した。また松竹芸能やNHK、在阪民放(準キー局)各局も一様に「協力する意向はない」との考えを示し、マスメディア(TV・週刊誌など)から強い非難を受けた。太田房江知事(当時)は「自ら犯したことをしっかり反省し、信頼回復には尚一層の努力をするべきである」とのコメントを行った。このような状況で横山は事実上、芸能界から追放処分となり、TVから姿を消すこととなった。
執行猶予満了後、晩年、そして最期 [編集]
2003年夏、執行猶予の期間が満了し、芸能活動の再開を模索した。テレビについては同年10月にKBS京都のテレビ番組『とっぴもナイト』にゲストで出演してもらうという話があったが、各種メディアからのバッシングや視聴者からの反感が大きかったため、放送が見送られることとなった。その合間に、立川談志の独演会に月亭可朝と共に楽屋を訪ね、談志から出演を打診されたものの、結局断っている。その後、2006年2月18日にバラエティ専門チャンネル・EXエンタテイメントの『ぜんタネ』(司会は上岡龍太郎の弟子のぜんじろう)にゲストで出演、久しぶりに公の場に姿を見せた。また、7月にはラジオ関西の番組にゲスト出演、9月には生國魂神社の「彦八まつり」に参加、観客の前で漫談を披露した。しかしながら、テレビ出演は『ぜんタネ』、舞台は「彦八まつり」が最後となった。
2007年2月に中咽頭ガンを患っている事が判明し、弟子たちにもガンに侵されている事を告げた。そして、「横山と言う名前を(後世に)残したい」と言い、復帰に向ける意気込みも見せていたが、2007年5月3日7時15分、中咽頭ガンのため兵庫県西宮市の病院で死去した。75歳没。堀江しのぶが他界した当時、葬式で「ガンが憎い」と、娘のように慕っていた彼女の夭折を嘆いていた横山であったが、その横山もまたガンにかかり力尽きた。当時の太田房江大阪府知事は「突然の訃報に大変驚いている。知事在任中には行財政改革の推進などに力を尽くされ、府政の十年にわたる改革の礎をつくられた。今はただご冥福をお祈りする」と横山の知事時代の功績を称えるコメントを行った。ただ、大阪府は横山に対して強制わいせつ罪の有罪確定により退職金の分割返納を命じており、横山自身は1期目の退職金を完済していなかったため、遺族に約3年分の残額の返納を要求する姿勢を見せた。2007年6月7日から後輩芸人など有志によって「横山ノックを天国へ送る会」が大阪のリーガロイヤルホテルで開催された。発起人の一人である上岡龍太郎は「横山パンチ」名義でお別れの会に出席し、壇上で「ノックさん、あなたは僕の太陽でした。さようなら」と遺影に向かって涙声で別れを告げた。大村崑は無名時代からの付き合い(秘話)を明かした。司会は『ノックは無用!』で横山の選挙期間中に代理司会を務めた桑原征平が務めた。また、息子の一貴の長男(横山の孫、当時8歳)が「横山タコ」という名義で「タコチュ」というギャグを披露した。
公的場面での通名(芸名)使用について [編集]
- 国会議員は行政機関の一員ではないため通名使用が認められている。しかし、当時の参議院では本名使用に限っていたので、「山田勇」名義であった。都道府県知事は行政機関の一員であるため、公文書等では責任明確化の観点から通名の使用は認められない。このため対外的に法的効果を有する文書等には本名の山田勇が用いられた。これは山田の後任の太田房江(本名は齊藤房江)も同じであり、大阪府では2008年に橋下徹が知事に就任するまで13年にわたり、公務において本名と通名を使い分ける知事が続くこととなった。また、全国知事会ウェブサイト上の歴代大阪府知事一覧の名義は横山ノックではなく、本名の山田勇で紹介されている。
エピソード [編集]
- 住居は我孫子町、沢ノ町、西宮北口、千里津雲台、桃山台、芦屋に構えていた。桃山台の時は豪邸だった。
- 麻雀が好きだったが決して強いわけではなかった。
- 進駐軍で働いていた経験からか、英語が堪能だった。 しかし、カタカナは苦手だったという。
- 島田紳助と板東英二が株式投資の相談をしていた時、通りがかりだったノックは「養命酒、いけるぞー!!」と発言した。早速、板東と紳助は養命酒製造株式会社の株式を購入したが、養命酒の株価は下落して、結果的に投資は失敗した。後日、紳助が「養命酒(の株を買ったが失敗したので)でエライ目(酷い目)にあいましたよ、養命酒(の株)はいいと教えてくれたのはどこの誰ですか?」とノックに言ったが、ノックは「身体に一番いいんだ!」と返答した。ノックは、ただ「薬味酒の養命酒が健康に良い」と言ったつもりだった。
- 中田ダイマル・ラケットのテレビ出演を見ていた時、「さすがにダイラケ先生も衰えたなあ」とノックが失言した途端に、弟子である横山やすしが激怒し、「誰や!今ダイラケ先生が衰えたなあと言うたんは?お前か!このハゲ!ダイラケ先生の悪口言う奴は許さんぞ!ボケ!」と暴言を吐かれた事があり、巷間でも語り継がれた。
出演番組 [編集]
関係する人物 [編集]
かつての相方 [編集]
- 秋田Oスケ 解散後、平和ラッパ(2代目)とコンビを結んで平和日佐丸(3代目)に改名。「ラッパ・日佐丸」の全盛期を築くが、ギャラの配分を巡って紛糾し、コンビを解消。のち、美人漫才師であった夫人とコンビを組むが、夫人が不倫の末駆け落ちして失踪しそのまま心中。これにショックを受け自殺した。1966年以降の演芸ブームに登場した「ラッパ・日佐丸」の日佐丸は4代目である。
- 横山アウト 東住吉区出身。巨漢でスポーツマンだったという。コンビを組む前は東映で仕出しをしていたともいわれる。解散後、少し吉本新喜劇にいたが、後に千日前・千日劇場の「センニチコメディ」に出演。コメディアンに転身する。千日劇場閉鎖後は梅田トップホットシアターに出演。「コマ新喜劇」の常連となるが、同演芸場閉鎖と共に引退。息子は東京のコメディアン、田中章(プリンプリン)。
- 横山フック(初代) 解任後、そのまま引退。EXテレビでの漫画トリオの元メンバーたちのトークによる回想企画で1度きりの出演をしている。
- 横山フック(二代目) 解散後青芝フックと改名し、青芝キックと漫才コンビを結成(青芝フック・キック)。現在はコンビを解消し、テレビ司会者など単独で活動。※
- 横山パンチ のちの上岡龍太郎(上岡龍太郎の項を参照の事)※
- 横山ひとり
※青芝と上岡はノックの弟子と思われがちであるが、実際は師弟関係ではなく、漫画トリオ結成の時からの仲間である。
弟子 [編集]
- 死去に際しては「師匠より先に死ぬのは弟子として一番ダメなこと」と嘆き、告別式では「君の芸はとっくに僕を追い越していたよ。やすきよの漫才は漫画トリオをとっくに追い越していたよ。僕が死んだ時は一緒にネタ合わせして漫才をやろう」と弔辞を読んだ。また、2人目の妻、啓子夫人の仲人となったのもノックである。
- 正式な弟子ではないがのりおが松竹芸能所属のころ、営業や余興に帯同していた時期もあった。ノックの後継者として漫画トリオのメンバー入りさせる案もあった。
- 一番弟子の『横山やすし』に続き、1960年、二番弟子として岡本八(現在、コミックバンド・バラクーダのリーダーの岡本圭司)が加わり、横山やすしと10代の漫才コンビを結成するも、ネタ稽古に終わり、実現しなかったが、正式な弟子である。
孫弟子 [編集]
曾孫弟子 [編集]
- 横山まさみ
- 横山アッチ
- 横山ともや・たきや(たかしの弟子)
- 福助(たかし・ひろしの弟子であったが、当時の低迷していた1988年頃にたかし・ひろしが面倒見切れなくなりレツゴー三匹の所に預けられた。)
親交のあった人物 [編集]
脚注 [編集]
- ^ また、この年に結婚もしている
- ^ 同日、参院議員時代から付き合いのあった青島幸男が、同じく無党派を掲げて東京都知事に当選した。
- ^ この時の対立候補は共産党推薦の候補(鰺坂真)のみで一騎打ちとなり、互いの名字・愛称から「アジとタコの戦い」と言われた。
- ^ 毎日新聞1999年11月7日掲載「時の風」
出典 [編集]
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
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チョツト のぞいて見ました。