今日<7/19>、 「すいはく」は「知の祭り」でした。
佐藤先生の司会で・・締め・・小山館長
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
シンポ・・知の祭り・・総合地球環境学研
↓→黒田和孝氏:佐藤洋一郎先生・・会場から神の声・・堪忍どすえ?!!
【19日】 座談会:千里をかける竹 ↓ ↑
「竹細工と暮らす、竹細工と生きる」 きょうちんの独善え・・
黒田和孝 (奇竹堂・黒田宗傳 茶ノ湯竹器師)
「竹の焼畑―森の再生と持続可能な農耕のかたち」
川野和昭 (鹿児島県立歴史資料センター黎明館 学芸課長)
コーディネーター:佐藤洋一郎 (総合地球環境学研究所 教授)
*各講師のテーマは変更になることもあります。
↑
http://www.doblog.com/weblog/myblog/60028
http://www.suita.ed.jp/hak/
7月19日 座談会:千里をかける竹
「竹細工と暮らす、竹細工と生きる」
茶の湯竹器師・奇竹堂 黒田和孝氏
「竹の焼畑-森の再生と持続可能な農耕のかたち-」
鹿児島県歴史資料センター黎明館学芸課長 川野和昭氏
コーディネーター
総合地球環境学研究所教授 佐藤洋一郎氏
写真の真中<携帯電話ぶらり>が
「竹の焼畑-森の再生と持続可能な農耕のかたち-」
鹿児島県歴史資料センター黎明館学芸課長 川野和昭氏
予定終了の時刻も、30分は延長・・講演終了後にパチリ・・エンドレスの知祭り
館長の乱入・・知は剣より強し・・知の祭り・・エドレス・・宿題
●館長の乱入とは・・気に応じ・・意気<イキ>の研究者の談・・場を躍動させ・広い視野に導いたり・・・四国は観音寺で学ばれ・・今・・「親鸞」?さんの心境とか・・・
---「すいは」は、明るく、楽しい・・知の遊園になりつつあります---
鹿児島県歴史資料センター黎明館学芸課長
川野和昭氏よりお見せ頂いた「竹籠」の一例
レジメ A4 5頁
「内なる鹿児島人に出会う
東南アジア山岳少数民族の旅
-比較民族学の可能性-
1.アジアとはどこなのか?
2.日本とはどこなのか?
3.鹿児島とはどこなのか?
↓
9.比較の文化指標としての民族
・・・今日も・・ドロに縄・・・きょうちゃんのお勉強・・夏休み/社会暇・・・・
■鹿児島県歴史資料センター黎明館
http://www.pref.kagoshima.jp/reimeikan/
鹿児島県歴史資料センター黎明館は,明治百年(昭和43年)を記念して,昭和58(1983)年に開館した人文系の総合博物館で,鹿児島の歴史,考古,民俗,美術・工芸を紹介しています。
黎明館の敷地は,江戸時代の鹿児島(鶴丸)城本丸跡で,現在でも濠,石垣,石橋など由緒あるものが残っており,これらは鹿児島県指定史跡になっています。
● 黎明館企画特別展 「天璋院篤姫展」
平成20年9月6日(土)~10月17日(金)
開催にあたって
激動の幕末、薩摩藩主島津家の一門に生まれ、第13代将軍徳川家定の御台所(正室)となった篤姫。夫の急死により天璋院と改称した後も江戸城大奥を束ねました。
篤姫が育った薩摩の風土・文化、大奥での華麗な生活、皇女和宮との関係、そして江戸開城に際しての徳川家存続を願う熱い想い・・・。
江戸城大奥や将軍にまつわる華麗な調度や衣装、彼女の人生に大きく影響する幕末の激動を伝える歴史資料等を通して、篤姫の波乱に満ちた生涯をたどります。
展示の構成
プロローグ 篤姫のふるさと薩摩
篤姫は天保6年,今和泉島津家に生まれた。本章では,今和泉島津家の由緒や当時の城下の様子を紹介する。また篤姫が十九歳まで過ごした薩摩の文化・風土を併せて紹介する。
第1章 御台所までの道のり
篤姫が将軍御台所となるまでの道程は平坦ではない。本章では篤姫の先例となった竹姫・茂姫入輿に始まり,輿入れに至るまでの島津斉彬の動向・思惑・政治的背景等を中心に紹介する。
第2章 婚礼~将軍家定と敬子~
安政3年,近衛忠熙の養女となり敬子と名を改めた篤姫は将軍家に嫁いだ。本章では、婚礼調度品を中心に、夫家定の手回り品、江戸城等を紹介する。また、篤姫が将軍継嗣問題にどのように関わったのかを残された書状等により紹介する。
第3章 江戸城大奥
婚礼からわずか1年半,家定が死去し,敬子は落飾して天璋院と号した。天璋院は若き将軍家茂の養母として,また大奥の総取締まりとして,引き続き重責を担うこととなる。本章では,天璋院の装束・手回り品を中心に和宮所用の品も展示し,大奥での暮らしを紹介する。
第4章 幕府瓦解 ~徳川家存続への思い~
慶応4年,戊辰戦争が始まる。自らの実家である薩摩藩が主力となった軍勢が江戸へ進撃するという悲劇的状況の中,天璋院は徳川家存続のため一貫して毅然とした態度をとる。本章ではそこへ至るまでの最幕末の政情を紹介し,天璋院の動向を明らかにする。
エピローグ 明治の天璋院
江戸城を出た天璋院であったが,家名存続の願いは通じ,田安亀之助(徳川家達)が徳川宗家を相続した。天璋院は幼い家達の養育に力を注ぎ,徳川家の行く末に確かな道筋を築いた。本章では,江戸開城から明治16年の逝去までの天璋院の姿をたどり,彼女が一命を賭して願った徳川家の存続・発展の過程を概観する。
鹿児島県歴史資料センター黎明館
電話番号 : 099-222-5100 FAX : 099-222-5143
メールアドレス : [email protected]
・・・・・・・・・・・・まとめ・・・・・・・・・・
竹は勿論・・
今日も・・ドロに縄・・・きょうちゃんのお勉強・・夏休み/社会暇は続けたい
今回7/18~7/19
五名の先生・・ありがとうございました
柏木先生(富士竹類植物園)・佐々木先生(福島県立博物館)・黒田 (京都 茶ノ湯竹器師)先生・川野先生(鹿児島県歴史資料センター黎明館)・佐藤先生(総合地球環境学研究所 教授)
カンチョー・・明日<7/20>は、そうめん流し100食 無料 11:30分・・しっかり、
頂きに・・トンネルアート パート3の「お子達」も参加する予定とか・・ご寄付ありがとう。
やはり、「こぼら」さん・・爪の垢下さい。
http://www.doblog.com/weblog/myblog/60028
千里ニュータウン展&万博展をした吹田市立博物館を小山修三館長と盛り上げるブログ
千里をかける竹 -シンポ報告(その2)
[ 20:03 ] [ 竹をたずねて ] [ スライドショウ ]
7月19日(土)午後2時~、地球研佐藤プロジェクト主催のシンポジウム「千里をかける竹」2日目がありました。
最初に登場されたのは、茶ノ湯竹器師の黒田和孝さんです。黒田さんがあつかう竹の9割以上は、マダケ(利休さんの頃には、まだモウソウチクはなかった)。その竹を材として準備する工程のことなど、竹をあつかう人ならではの興味深い話をしていただきました。 次に登場されたのは、鹿児島県立歴史資料センター黎明館(ここも先日のブルータスに登場)の川野和昭さん、昨日の佐々木長生さんとともに民具の企画展示をしています。お互いの地方の民具を比較すると「北は木の民具、南は竹の民具」という特徴がわかるそうです。
川野さんは、民博で鹿児島とそっくりのラオスのカゴをみてから、ラオスに通いはじめました。今日は、休閑期も半栽培地として利用サイクルにふくまれているという「竹の焼畑」についてお話しいただました。
フロア中央には、東・南アジア農耕文化史がご専門で、第14回南方熊楠賞をうけられた元民博館長のS先生が陣取っておられ、鋭い質問がバシバシ飛んでいました。カンチョーも今日はガクシャの顔・・・昨日の雰囲気とはうってかわって、ぴりっとした研究会となりました。(こぼら)
[ 更新日時:2008/07/19 21:04 ]
この記事のURL: http://www.doblog.com/weblog/myblog/60028/2623821#2623821
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写真も「こぼら」さん・・「竹」と「こぼら」さんの爪を混ぜて・・名文につとめます
佐藤先生の司会で・・締め・・小山館長
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シンポ・・知の祭り・・総合地球環境学研
↓→黒田和孝氏:佐藤洋一郎先生・・会場から神の声・・堪忍どすえ?!!
【19日】 座談会:千里をかける竹 ↓ ↑
「竹細工と暮らす、竹細工と生きる」 きょうちんの独善え・・
黒田和孝 (奇竹堂・黒田宗傳 茶ノ湯竹器師)
「竹の焼畑―森の再生と持続可能な農耕のかたち」
川野和昭 (鹿児島県立歴史資料センター黎明館 学芸課長)
コーディネーター:佐藤洋一郎 (総合地球環境学研究所 教授)
*各講師のテーマは変更になることもあります。
↑
http://www.doblog.com/weblog/myblog/60028
http://www.suita.ed.jp/hak/
7月19日 座談会:千里をかける竹
「竹細工と暮らす、竹細工と生きる」
茶の湯竹器師・奇竹堂 黒田和孝氏
「竹の焼畑-森の再生と持続可能な農耕のかたち-」
鹿児島県歴史資料センター黎明館学芸課長 川野和昭氏
コーディネーター
総合地球環境学研究所教授 佐藤洋一郎氏
写真の真中<携帯電話ぶらり>が
「竹の焼畑-森の再生と持続可能な農耕のかたち-」
鹿児島県歴史資料センター黎明館学芸課長 川野和昭氏
予定終了の時刻も、30分は延長・・講演終了後にパチリ・・エンドレスの知祭り
館長の乱入・・知は剣より強し・・知の祭り・・エドレス・・宿題
●館長の乱入とは・・気に応じ・・意気<イキ>の研究者の談・・場を躍動させ・広い視野に導いたり・・・四国は観音寺で学ばれ・・今・・「親鸞」?さんの心境とか・・・
---「すいは」は、明るく、楽しい・・知の遊園になりつつあります---
鹿児島県歴史資料センター黎明館学芸課長
川野和昭氏よりお見せ頂いた「竹籠」の一例
レジメ A4 5頁
「内なる鹿児島人に出会う
東南アジア山岳少数民族の旅
-比較民族学の可能性-
1.アジアとはどこなのか?
2.日本とはどこなのか?
3.鹿児島とはどこなのか?
↓
9.比較の文化指標としての民族
・・・今日も・・ドロに縄・・・きょうちゃんのお勉強・・夏休み/社会暇・・・・
■鹿児島県歴史資料センター黎明館
http://www.pref.kagoshima.jp/reimeikan/
鹿児島県歴史資料センター黎明館は,明治百年(昭和43年)を記念して,昭和58(1983)年に開館した人文系の総合博物館で,鹿児島の歴史,考古,民俗,美術・工芸を紹介しています。
黎明館の敷地は,江戸時代の鹿児島(鶴丸)城本丸跡で,現在でも濠,石垣,石橋など由緒あるものが残っており,これらは鹿児島県指定史跡になっています。
● 黎明館企画特別展 「天璋院篤姫展」
平成20年9月6日(土)~10月17日(金)
開催にあたって
激動の幕末、薩摩藩主島津家の一門に生まれ、第13代将軍徳川家定の御台所(正室)となった篤姫。夫の急死により天璋院と改称した後も江戸城大奥を束ねました。
篤姫が育った薩摩の風土・文化、大奥での華麗な生活、皇女和宮との関係、そして江戸開城に際しての徳川家存続を願う熱い想い・・・。
江戸城大奥や将軍にまつわる華麗な調度や衣装、彼女の人生に大きく影響する幕末の激動を伝える歴史資料等を通して、篤姫の波乱に満ちた生涯をたどります。
展示の構成
プロローグ 篤姫のふるさと薩摩
篤姫は天保6年,今和泉島津家に生まれた。本章では,今和泉島津家の由緒や当時の城下の様子を紹介する。また篤姫が十九歳まで過ごした薩摩の文化・風土を併せて紹介する。
第1章 御台所までの道のり
篤姫が将軍御台所となるまでの道程は平坦ではない。本章では篤姫の先例となった竹姫・茂姫入輿に始まり,輿入れに至るまでの島津斉彬の動向・思惑・政治的背景等を中心に紹介する。
第2章 婚礼~将軍家定と敬子~
安政3年,近衛忠熙の養女となり敬子と名を改めた篤姫は将軍家に嫁いだ。本章では、婚礼調度品を中心に、夫家定の手回り品、江戸城等を紹介する。また、篤姫が将軍継嗣問題にどのように関わったのかを残された書状等により紹介する。
第3章 江戸城大奥
婚礼からわずか1年半,家定が死去し,敬子は落飾して天璋院と号した。天璋院は若き将軍家茂の養母として,また大奥の総取締まりとして,引き続き重責を担うこととなる。本章では,天璋院の装束・手回り品を中心に和宮所用の品も展示し,大奥での暮らしを紹介する。
第4章 幕府瓦解 ~徳川家存続への思い~
慶応4年,戊辰戦争が始まる。自らの実家である薩摩藩が主力となった軍勢が江戸へ進撃するという悲劇的状況の中,天璋院は徳川家存続のため一貫して毅然とした態度をとる。本章ではそこへ至るまでの最幕末の政情を紹介し,天璋院の動向を明らかにする。
エピローグ 明治の天璋院
江戸城を出た天璋院であったが,家名存続の願いは通じ,田安亀之助(徳川家達)が徳川宗家を相続した。天璋院は幼い家達の養育に力を注ぎ,徳川家の行く末に確かな道筋を築いた。本章では,江戸開城から明治16年の逝去までの天璋院の姿をたどり,彼女が一命を賭して願った徳川家の存続・発展の過程を概観する。
鹿児島県歴史資料センター黎明館
電話番号 : 099-222-5100 FAX : 099-222-5143
メールアドレス : [email protected]
・・・・・・・・・・・・まとめ・・・・・・・・・・
竹は勿論・・
今日も・・ドロに縄・・・きょうちゃんのお勉強・・夏休み/社会暇は続けたい
今回7/18~7/19
五名の先生・・ありがとうございました
柏木先生(富士竹類植物園)・佐々木先生(福島県立博物館)・黒田 (京都 茶ノ湯竹器師)先生・川野先生(鹿児島県歴史資料センター黎明館)・佐藤先生(総合地球環境学研究所 教授)
カンチョー・・明日<7/20>は、そうめん流し100食 無料 11:30分・・しっかり、
頂きに・・トンネルアート パート3の「お子達」も参加する予定とか・・ご寄付ありがとう。
やはり、「こぼら」さん・・爪の垢下さい。
http://www.doblog.com/weblog/myblog/60028
千里ニュータウン展&万博展をした吹田市立博物館を小山修三館長と盛り上げるブログ
千里をかける竹 -シンポ報告(その2)
[ 20:03 ] [ 竹をたずねて ] [ スライドショウ ]
7月19日(土)午後2時~、地球研佐藤プロジェクト主催のシンポジウム「千里をかける竹」2日目がありました。
最初に登場されたのは、茶ノ湯竹器師の黒田和孝さんです。黒田さんがあつかう竹の9割以上は、マダケ(利休さんの頃には、まだモウソウチクはなかった)。その竹を材として準備する工程のことなど、竹をあつかう人ならではの興味深い話をしていただきました。 次に登場されたのは、鹿児島県立歴史資料センター黎明館(ここも先日のブルータスに登場)の川野和昭さん、昨日の佐々木長生さんとともに民具の企画展示をしています。お互いの地方の民具を比較すると「北は木の民具、南は竹の民具」という特徴がわかるそうです。
川野さんは、民博で鹿児島とそっくりのラオスのカゴをみてから、ラオスに通いはじめました。今日は、休閑期も半栽培地として利用サイクルにふくまれているという「竹の焼畑」についてお話しいただました。
フロア中央には、東・南アジア農耕文化史がご専門で、第14回南方熊楠賞をうけられた元民博館長のS先生が陣取っておられ、鋭い質問がバシバシ飛んでいました。カンチョーも今日はガクシャの顔・・・昨日の雰囲気とはうってかわって、ぴりっとした研究会となりました。(こぼら)
[ 更新日時:2008/07/19 21:04 ]
この記事のURL: http://www.doblog.com/weblog/myblog/60028/2623821#2623821
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写真も「こぼら」さん・・「竹」と「こぼら」さんの爪を混ぜて・・名文につとめます
きょうちゃんさん、なんで本文と写真を変えたん?わたしは、きのうのきょうちゃんさんのブログままでよかった、いや、その方がおもしろかったと思います。
投稿情報: こぼら | 2008年7 月20日 (日曜日) 08時47分